夫の愛人の狙いって何だと思います?
「これはひどい」
あたくしは町に一歩足を踏み入れた瞬間、立ち込める瘴気に顔をしかめた。
ここはクレシ―伯爵領の中心部に位置する町で、王都からは少し離れているが交易の要とされる土地のひとつだ。
町は酒屋、飯屋、宿屋などで賑わっているものの、そこを流れる空気がどうにも重い。
我が国は魔族と何年も戦争しているのだが、この町のすぐ近くにも魔族の巣穴があるのだろう。瘴気がそこから町まで流れてきているとしか思えない。
肺に空気を吸い込むと、体全体がどんよりと重くなる。
町を覆う空の雲も厚く、住民に聞いてみても、もう何日も陽の光を浴びていないと言う。
「状況は思ったよりひっ迫しているな。早く伯爵家の屋敷に向かわねば」
あたくしは町はずれにある、広大な敷地の中にあるクレシー伯爵家の屋敷へと向かった。
そこでは伯爵令息マルセルがあたくしを待ち構えていた。彼は王都の貴族街にいる両親から一時的に領地を任されている。
「遅いぞ! ギルドに依頼を出してから何日経ったと思っているんだ」
マルセルは不機嫌さを隠さずに言った。
「お待たせいたしました。ギルドから派遣されました、薬師のウルランと申します」
マルセルはいかにもいけすかない奴だったが、あたくしは深々と頭を下げた。仕事をするからにはキッチリとやる。
「ここに来るまでに町を通って参りましたが……思ったよりも瘴気が濃いですね。植物は枯れ、町を流れる水路の水も濁っています。空気の重さは言わずもがな。これはさっそく清めなくてはなりません」
クレシ―伯爵領の瘴気の濃さは、もはや王都でもかなり話題になっている。
このまま放っておくと魔獣が生まれたり疫病が蔓延したりするので、早く一帯を正常化させるようにと言われ、あたくしは王都にある冒険者ギルドからこのクレシ―伯爵領までやってきたのだ。
「フン、早くしろ。あの平民女と離縁してから、一気にこうなったんだ」
「平民女というのは、以前にマルセル様とご結婚されていたという聖女さまのことで?」
あたくしが尋ねると、マルセルはあからさまに顔をしかめた。
「そうだ。あの女、ちょっと聖なる力が使えるとかで、平民あがりのくせに生意気だったんだ。でもこの俺が、平民ごときと真実の愛を交わすと思うか? なぁ、アイリーン」
マルセルはアイリーンと呼ばれた、横にいる髪の長い女に目を向けた。
アイリーンは深緑色の光沢のあるドレスに身み、マルセルにしっかりと腕を絡ませている。二人が恋仲であることは一目見ただけで明白だ。
アイリーンはこの世の者とは思えないほどに美しく、また妖艶だ。
マルセルが聖女を放りだして夢中になるのも仕方ないのかもしれない。
「ほぉ。その愛人様と真実の愛とやらを貫くために、聖女さまと離縁して、さらに彼女を町から追放したという訳ですね。それで町がこの有様になったと」
「人聞きの悪いことを言うな! 俺は自分の愛を貫いただけだ。聖女などいなくても、薬師が薬を撒けば瘴気は消えるそうじゃないか? だったら平民あがりの聖女なんかいらないだろう?」
「はぁ。確かに、あたくしのような薬師でも瘴気は払えますが、効果は永続的ではありません。聖女様に末永く土地を支えて頂いた方が、瘴気が払えるだけでなく、作物もよく育ち、病気も蔓延しません。それをみすみす手放すなど……」
貴族相手に苦言を呈すなど、ギルドの連中が知ったらあたくしも大目玉をくらうに違いない。しかし、この勘違い令息には一言言ってやらないと気がすまない。
聖女を心から愛せとは言わないが、安易に追放することで町の人間たちが不利益を被ることをもっと理解してほしい。
この町から聖女がいなくなって最初に困るのは、免疫力の低い子供や年寄り連中だ。
あれだけ瘴気が濃いのだから、すでに何人も寝込んでいるだろう。
「口うるさい薬師だな。おまけに男だか女だかよく分からない見た目で気味が悪い奴だ。男にしては線が細いし、女にしては声が低くて色気が無さすぎる。……まあいい。とっとと瘴気を払って、そして早く帰れ。伯爵令息である俺にこれ以上の口出しは無用だ」
マルセルはあたくしの長い三つ編みを見ながら吐き捨てるように言った。
「はい、お金さえキッチリ払っていただけるなら、これ以上は何も言いません。けれど」
「なんだ、まだ何か言い足りないのか」
「いえ。思ったよりも状況がアレなんで、薬の材料を追加で用意せねばなりません。隣町の大きい素材屋まで、少し行って参ります」
◇
隣町での買い物はすぐに終わった。けれど重い荷物を抱えて再び伯爵家の屋敷まで戻るのがおっくうで、あたくしは近くの飯屋に入ることにした。
少しくらい休憩しても罰はあたるまい。
店の真ん中に備え付けられた大きなテーブルで、コカトリスの香草焼きに舌鼓を打っていると、相席していた近くの女が次々に酒瓶をカラにしていくのが目に入った。
「いい飲みっぷりで」
あたくしが声をかけると、女はニヤリと笑う。
「昼間っから飲んだくれやがって、とでも思ってるんでしょ?」
「いいえ。仕事さえキッチリやっていれば、どの時間から飲んでもいいと思っています」
「……仕事か。はは、アタシは無職だよ。無職の酒飲み。終わってるだろ」
女は自虐的に笑った。けれどその笑みは見ているだけで癒されるような、悲しいけれど深い優しさが感じられる笑みだった。
「どうだ、アンタも一緒に飲むかい?」
「いえ、聖女様。あたくしは、まだこれから大仕事が残っているんで」
「聖女って……アンタ……」
「元聖女様、とお呼びした方が良かったですか?」
あたくしが尋ねると、聖女の顔色がサッと変わった。目には色濃く警戒が渦巻いている。
「どうして分かった? マルセルに言われてアタシをこの町からも追い出しにきたのか⁉ 伯爵家から追放するだけでは物足りないっていうのか⁉」
聖女は持っていたグラスをガン! とテーブルに叩きつけると、勢いよく立ち上がった。その拍子に椅子がバタンとひっくり返る。
彼女のものすごい剣幕に、周りの客たちの視線が集まってきた。
「先月まではアタシたちもそれなりに仲良くやってたんだ……。でも急に、あのアイリーンとかいう女がやってきて、マルセルを誘惑しちまった」
「あたくしもさっき会いましたけど、えらく妖艶な女でしたね」
「ああ。それで、アタシはあっさりと離縁されて伯爵家から追い出されて、身寄りもなく路頭に迷ってるってワケだ。哀れな女が面白いか⁉」
あたくしは静かに首を横に振る。
「あのね、あたくしはマルセル様に言われてここにやってきたんじゃありません。たまたまですよ。それにあなたが聖女だと分かったのは、この町では珍しい魔力持ちだからです」
「魔力持ち……?」
聖女はいぶかしげな目であたくしを見る。
「そうです。聖剣を使えるとか、魔法を使えるとか、そういう変わった連中は皆魔力持ちです。あたくしギルドでそういう連中を毎日見てるもんで、普通の人間との違いは一目見ただけで分かるんです」
「そう。それでアタシが聖女だと分かったってわけか。確かにこの町で魔法を使える奴は他にいない。そういうアンタも魔力持ちか?」
「いいえ。あたくしは普通の人間です。なんの能力もないので、薬師というみみっちい仕事をしてるんですよ。魔力があれば炎魔法なんかで厄介事をバーンと焼き払いたいものですけど……。それで、今日は伯爵家から追放された聖女様に代わり、薬を撒いて瘴気を払う仕事に来たんです」
「そうか。アタシがいなくても、伯爵家はどうにでもなるんだな」
聖女は悲し気に俯いた。
「まあ、どうにもならないくらい瘴気が蔓延してるから、あたくしが呼ばれたんですよ。もう伯爵家はダメかもしれません」
「何を言ってるんだ。あの家には地位も金もある。マルセルだって健康だし、ちょっと馬鹿だが家が傾くほどじゃない。だからこそ、離縁された自分が惨めでしょうがないよ。アタシには何にも残らなかった。せめて……マルセルに復讐してやりたいよ」
聖女はそう言うと、ぐっと酒をあおり、深い息を吐いた。
「復讐せずとも、もう終わりは近いと思いますよ。よければ、一緒に見に行きますか?」
◇
あたくしは聖女を伴い、再びマルセルの待つ伯爵家の屋敷へと戻った。
聖女は酒瓶を片手に、あたくしについてくる。
けれどどれだけ飲んだくれていても、聖女の光り輝くオーラは消せない。
他の人間にはなかなか分からないかもしれないが、あたくしには分かる。この聖女は相当力が強い。だからこそ、彼女がいなくなったことに反発するかのように町に強い瘴気が流れ込んだのだろう。
まあ、原因はそれだけではないが……。
伯爵家に着き、使用人にマルセルを呼び出してもらうように頼む。
しかし、待てど暮らせどマルセルは現れない。
「お貴族様ってさ、本当に人を待たせるよね」
聖女がため息をつきながら言った。
ふと空を見上げると、空の色は先ほどよりももっとどんよりと暗い。
いや、暗いというよりも、もはや禍々しい。
「これは少々まずいかもしれませんね……!」
「何が?」と首をかしげる聖女をよそに、あたくしは伯爵家の屋敷の中へと押し入った。
もう屋敷の中にも瘴気が充満しはじめている。先ほどマルセルを呼びに行ったはずの使用人が廊下で倒れていた。
常人には耐えられないほどの濃さの瘴気ということか。
瘴気のもとをたどると屋敷の2階の一番奥へとたどり着いた。
「ちょっと薬師! この屋敷の中は一体どうなってるんだい⁉」
「あたくしが先ほど訪れた際には、ここまで酷くありませんでした。おそらく、あたくしが現れたことで焦ったのでしょう」
あたくしは突き当たりの部屋の扉をバンと開け放つ。
「マルセル⁉」
聖女が彼の名を呼んだ。
部屋の中には意識を失いかけのマルセルと、彼を今まさに絞め殺そうとしているアイリーンがいた。
いや、アイリーンという人間の女に擬態していた魔族、と言った方が正しい。
「あぁやっぱり。マルセル様の愛人、魔族だと思ったんですよねぇ。蛇女だとは思いませんでしたが」
ドレスからのぞくアイリーンの足は、今や太く長い蛇の尾と化している。
目は不自然に丸みを帯び、口元からは二股に割れた長い舌がのぞいている。
「薬師よ。これは一体どういうことなんだい?」
「聖女様、ここで質問です。アイリーンと名乗る女の目的は何だったのでしょう? マルセル様の愛が欲しかった? 違います。伯爵家の地位や金が目当てだった? 違います。正解は——」
あたくしは喋りながらも手は止めない。
先ほど新たな材料で調合したばかりの、魔族の皮膚をも溶かす強烈な薬剤を蛇女に向かって投げた。
薬を包んでいた薄い革袋が蛇女に当たると同時に破裂し、蛇女の悲鳴と共にシューッと白い煙が上がる。
「正解は、マルセル様の愛人になることで、強力な力を持った聖女をこの町から遠ざけること。それがあの蛇女の狙いだったのです。魔族にとっては聖女は天敵のようなものですからね。あらよっと」
あたくしは先ほど同じ薬を追加で投げつける。蛇女の皮が焼けることで、鼻をつくような匂いがあたりに充満した。おまけに伯爵家の高そうな絨毯が少し焦げてしまった。
……あとで弁償しろとか言われませんように。
「キシャァァァ! おのれ薬師! いつから私の正体に気付いていた⁉」
「最初にお会いした時からですよ。魔族も魔力持ちですからね。見る人が見たら分かりますよ」
おまけにアイリーンの美しさと妖艶さは普通の人間の範疇を超えていた。冒険者やギルドに所属する人間なら大抵は彼女が人外だと見抜けるだろう。
聖女が夫の愛人を魔族と見抜けなかったのは、純粋に魔族と対峙した経験の少なさによるものだろう。それは仕方ないと思う。
「瘴気が濃いだけなら手持ちの薬でなんとかなりましたが、魔族を撃退するとなるとひ弱なあたくしでは少々荷が重いですからね……だから隣町まで薬の材料を追加で買いに行く羽目になりました。まあ、そこで聖女様にお会いできたから良かったんですが」
「マルセル!」
聖女がマルセルへと駆け寄る。
マルセルはぐったりしたまま、聖女へともたれかかった。
「マルセル様も、変な女なんかにうつつを抜かすからこんなことになるんですよ。真実の愛っていうのはね、ポッと出のもんじゃないんです。例え離縁されたとしても、こうやって駆け寄ってくれる聖女様のような慈悲深さこそが、真実の愛なんじゃないですか。知らんけど」
「クソ! 薬師ふぜいが! もう少しでマルセルを締め殺して、私がマルセル擬態するつもりだったのに! そして伯爵家を乗っ取り、魔族の侵攻の足掛かりにするつもりだったのに!」
蛇女はヒステリックに叫びながら、殺意に満ちた目であたくしを睨んだ。
「こうなったら後片付けが面倒だが、全員殺してやる!」
「無理ですよ。ホレ、気づいてないんですか? アンタのしっぽのほうから、もう体が凍ってきてるでしょう?」
「何⁉」
蛇女が後ろを振り向いたわずかな隙に、あたくしは薬の材料を刻むためのナイフを手に、蛇女へと切りかかった。
「嘘です。あたくしが投げた薬に氷結の効果はありません」
蛇女の丸い目が、より大きく見開かれる。
でも、もう遅い。
あたくしはナイフを蛇女の頭に突き立てると、そのまま渾身の力を込めて真下へ押し込んだ。
蛇女の頭はぱっくりと割れ、まるで噴水のように血が噴き出す。
「ありゃりゃ。伯爵家のお高そうなカーテンが赤色に……。弁償しろとか言われませんように」
あたくしには金がない。
もし弁償を要求されたらギルドに押し付けるしかないな。
そんなことを考えながら、うっすらと目を開けるマルセルと、彼をやさしく抱きよせる聖女の姿を眺めた。
浮気男の末路にしては少々甘い気もするが、まあいいだろう。
横で転がっている蛇女はもう動かない。伯爵領をおびやかす脅威は去ったのだ。
屋敷の窓からは、柔らかな陽の光が差し込んできていた。
瘴気は晴れつつあった。
◇
それからしばらくして、伯爵領の馬鹿令息と聖女が再婚したとの報告をギルド職員から受けた。
「ウルランが汚した絨毯とカーテンの件だが……伯爵家はこちらに請求はしないとのことだ。寧ろ、薬代と出張費だけで事態を解決してくれたことに感謝しているそうだ」
「助かりました。セーフセーフ」
あたくしはギルドの職員と向かい合いながら、ほっと胸を撫でおろした。
「それにしても、聖女様と馬鹿令息はヨリを戻したんですね? あたくし、あの聖女様にはもっといい男がいると思ったんですが……」
「伯爵令息を愛しているからあの家に戻ったとは限らんぞ。聖女として町を守るためには、伯爵家の肩書があった方がいいと判断したのかもしれんし」
「大酒飲みでしたけど、慈悲深そうな方でしたからね。それに伯爵家に居た方が上等な酒が飲めそうですし」
そう言いながらも、あたくしは聖女が酒を飲みながら「復讐したい」と言っていたことを思い出した。
彼女はどういう思いで伯爵家へと戻ったのか。それは彼女にしか分からない。
こうしてクレシ―伯爵領の瘴気はすっかり晴れ、町は正常に戻ったらしい。
あたくしはふと思う。あの令息の言っていた、真実の愛とはなんだろう。
真実の愛があるところに、果たして濃い瘴気など立ち込めるだろうか。
人の心の揺らぎに、魔族は付け入るのだ。
真実の愛があれば、それを跳ね除けられるのに。
けれど、人間は愚かだから、まだそれが分からないのだろう。
あたくしは今日も薬を持って、弱い人間たちを癒す手伝いをする。
この作品が気に入ってくれた方は、ウルランが活躍する別の短編もございます。
「パーティから追放された聖女の後任の薬師です。薬代はキッチリ頂きます。」という作品です。
よろしくお願いします。




