婚約者の遅刻を108回記録したので、契約通り自動破棄いたします
婚約披露パーティーの開始十分前。
本来なら祝福で満ちているはずの新婦控室は、しんと静まり返っていた。
ウェディングドレスが、やけに重い。
「……また、エレン様ですか」
侍女のマーサが、悔しそうに唇を噛む。
私は答えない。
手元にある魔導懐中時計と、小さな手帳を見つめていた。
最初、その数字は『1』だった。
初めての観劇。
劇場の前で二時間待たされた。
「悪かった」と笑う彼を、その頃の私はまだ愛おしく許せた。
数字が『10』を超えた頃。
誕生日のディナーが冷めきっていくのを見ながら、私はもう、数えることしかできなくなっていた。
数字が『100』を超えた頃。
婚約一周年の記念式典に彼が来なかった日、私は怒ることすらやめていた。
理由はずっと同じ。
『エレンが急病で、どうしても放っておけなかった』
そして今日。手帳に刻まれた数字は、ちょうど『108』になった。
108回。それは、終わった恋の記録だった。
「……今回だけは、来ると思ったのだけれど」
ぽつり、と声が零れた。
なぜ、こんな男を108回も許してしまったのか。
私には、どうしても捨てられない記憶があった。
3年前、私が高熱で死にかけたとき。
レナードは遠征先から、不眠不休で馬を飛ばして帰ってきた。
泥まみれの鎧のまま私の寝室に駆け込み、手を握って泣いたのだ。
『よかった。間に合った。セリア、君を失うくらいなら、私は何もいらない』
あのときの目は、本物だった。
だから信じてしまった。
この人は本当は誠実で、私を愛してくれているのだと。
たった1回の眩しい思い出が、私を五年間縛り続ける呪いになっていた。
カチ、カチ、カチ。
時計の針が進む。
もう、悲しくもなかった。
泣きすぎると、人は泣けなくなるらしい。
私は手帳を閉じ、魔導計算機を起動した。
悲しむ時間は、もう終わり。
私は、時間と契約の加護を持つオルブライト公爵家の娘だ。
愛が私を裏切るのなら、私はただ、冷徹に事務処理を行うだけ。
◇
「――すまない、セリア! エレンが急に発作を起こして……! 本当に、本当に少しだけ進行を遅らせてくれ!」
午後5時59分。
壇上へ息を切らせて駆け込んできたレナードは、開口一番にそう叫んだ。
会場の貴族たちから、落胆の溜め息が漏れる。
レナードは稀代の天才騎士だ。剣を持たせれば無敵。
任された仕事は完璧にこなす男だ。
ただ一点、私生活の優先順位だけが、致命的に壊れていた。
「セリア、頼む! エレンは本当に身体が弱いんだ。君のように強くない。今日の主役は君なんだから、数分遅れたって誰も――」
「あと、5秒です」
私はレナードの言葉を遮った。
私の瞳に熱がないことに気づいたのか、彼が微かに目を見開く。
「え? セリア、何を言って――」
「3、2、1。……ゼロ。時間です、レナード様」
カチリ。
長針が午後6時を指した。
パキィン!
私の薬指の「誓約の指輪」が、ガラスのように砕け、光の粒子になって消えた。
レナードの胸元の魔導勲章が、ボロボロとただの灰になって床へ崩れ落ちる。
「え……? 指輪が、消え……? 勲章が……?」
私はドレスの裾を払い、一礼した。
「約束の時間は、本日午後6時。1秒の猶予も与えないと、あらかじめ契約書に明記しておりました。これをもって、私とあなたの婚約は、自動的かつ完全に失効いたしました」
「な、何を言っているんだ! 私はただ、少し遅れただけで――」
「過去五年間、私はあなたの不誠実をすべて記録していました。婚約誓約書・第3条。片方の不誠実による遅延が通算108回に達した瞬間、本契約は未来永劫、修復不可能な形で消滅する。……あなた、確かにサインなさいましたよね?」
「あ……」
レナードの顔から、一気に血の気が引いていく。
「私は時間と契約を司る公爵家の者。私の前では、1秒のズレすらすべて等しく契約違反です」
私は一度も声を荒らげることなく、ただ事務的に微笑んだ。
「では、皆様。主役が片方消失いたしましたので、本日のパーティーはこれにてお開きとさせていただきます。お帰りの馬車の手配はすでに済んでおります。お気をつけて」
呆然とする元婚約者を残し、私は壇上から退席した。
♦︎♦︎♦︎
レナードは無能ではない。
むしろ、第一近衛騎士団長としての彼は「不敗の英雄」だった。
だが、彼は勘違いをしていた。
『仕事さえ完璧なら、私生活での甘えは、彼女の愛によってすべて許される』と。
婚約が自動破棄された翌日、騎士団長室は、パニックに陥っていた。
「団長! 予算申請の期限が昨日の午後5時で切れています! 王宮財務部から突っぱねられました!」
「ば、馬鹿な! いつもなら財務部への根回しはセリアが……!」
「そのオルブライト公爵令嬢から『契約関係にない一般人からの書類代行は、すべて1秒以内に破棄する』との通達が届いております!」
レナードの背中に冷や汗が流れる。
これまで、彼が戦場で暴れながら、膨大な事務作業を遅滞なく終わらせられていたのは、すべてセリアが「秒単位」でスケジュールを管理していたからだった。
セリアという最高の管理者を失った瞬間、彼の優秀な頭脳は、公務のパンクによって完全に機能停止した。
さらに、騎士団の防壁や、レナードの聖剣の「魔力供給権」が次々と失効していく。これらもすべて、二人の婚約を担保にセリアが付与していた誓約維持術式だった。
「団長! 結界の出力が通常の10%まで落ちています! オルブライト家の契約加護がないと維持できないと!」
「くそっ、セリア……! なぜこんな、嫌がらせのような真似を……!」
頭を抱えるレナードの元へ、車椅子に乗った幼馴染、エレンが現れた。
その顔は、激しい絶望に染まっていた。
「レナード……! 街の噂は本当なの……!? セリア様との婚約が、本当に破棄されたの……?」
「エレン……、ああ、少しセリアが怒っていてね。大丈夫だ、私が頭を下げれば――」
「大丈夫なわけないじゃない!! 私、聞いてないわよ! あんな厳しい条件の契約になってたなんて!」
エレンがボロポロと涙を流す。
「どうして私の言うことを聞いてくれなかったの!? 私はあの時、『今日は大切な日だから行って』って、形だけでも止めたわよね!? 私、ちゃんと止めたわよ!」
「エレン……? 君が苦しそうだったから、私は――」
「私はあなたに来てなんて頼んでないわよ!!」
エレンは激しく首を振った。
「……だって、あなたが私を優先してくれるの、少しだけ嬉しかったのよ……! セリア様に勝ってるみたいで、良い気分だったわよ! でも、こんなことになるなんて聞いてない! 私を巻き込まないでよ! あなたのせいで、私は公爵家を敵に回した最低の女って、街中で指を差されてるのよ!!」
「エレン……? 君、何を……」
「もう私に関わらないで! 大嫌いよ!!」
バタン、と激しく扉が閉まる。
あとに残されたのは、完璧に手遅れになった、孤独な元英雄だけだった。
彼はそこで初めて、自分が「優しい男」などではなく、ただただ甘え腐り、周囲に依存していた最低の男だったことに気づき、ガチガチと歯を鳴らして震え始めた。
♦︎♦︎♦︎
婚約破棄から一週間後。
私は王宮の回廊を歩いていた。
隣を歩くのは、この国の第一王子、ディルク殿下だ。
「素晴らしい手際だったね、セリア。レナードの団長更迭と、アスラン家の降格が決定したよ」
ディルク殿下は歩きながら、フンと鼻で笑った。
「しかし驚いたな。君ほど聡明な人間が、108回も許し続けるほど恋は人を鈍らせるらしい」
その棘のある言葉に、私はピクリと眉を動かし、彼を睨み据えた。
「……殿下に、私の何がわかるのですか」
「わかるさ」
ディルク殿下は足を止め、真っ直ぐに私を見つめた。
その瞳は冷たく、けれど酷く真摯だった。
「君が冷徹な仮面を被らなければならなかったのは、そうしなければ心が壊れてしまうほど、彼を愛していたからだろう? ……だが、私は君を甘やかさない。君の傷を憐れむこともしない」
ディルク殿下は、私の手首を静かに、しかし強く掴んだ。
「契約は守る。私は君の時間を1秒たりとも浪費しない。それだけは保証しよう。私と、生涯の共同経営者としての契約を結べ。今度は、君が私を選ぶ番だ」
甘い言葉ではない。
ただ、契約の重さを知る者としての、絶対的な誓い。
この男の、なんてずるくて、底知れない冷徹な包容力だろう。
その時。
「セリアーーーーッ!!」
回廊の向こうから、ボロボロの衣服を着た男が叫びながら走ってきた。
近衛兵に取り押さえられ、床に組み伏せられながらも、必死にこちらへ顔を向ける。
――レナードだった。
かつての輝かしい英雄の面影はどこにもない。
目の下には深い隈があり、髪はボサボサだ。
「セリア! 頼む、頼むから話を聞いてくれ! 私が悪かった! 君がどれほど私を支えてくれていたか、やっと分かったんだ! エレンだって、私を責めて去っていったんだぞ!?」
床に涙をこぼしながら、必死に縋り付こうとする元婚約者。
彼は、信じられない言葉を口にした。
「だって……! 君はいつも怒らないで、手帳に数字を書くだけだったじゃないか! だから私は、最後には君が笑って許してくれると思ってたんだ……! 君の愛は、そんなことで消えるものだったのか!?」
その醜い言い訳を聞いた瞬間、私の中の何かが、完全に消滅した。
私は、冷え切った目でレナードを見下ろした。
「レナード様。あなたは、私の時間を5年間浪費しました」
「あ……、セリ、ア……?」
「……もう二度と、支払い能力のない方とは契約いたしません」
「君の愛は、そんなことで消えるものだったのか!?」
レナードがなおも叫ぶ。
私は答えない。
ただ、懐中時計を閉じる。
カチン。
その音だけが、静かな回廊に冷たく響いた。
「……近衛の皆さん」
私のその一言で、憲兵たちが動いた。
「セリア! セリアアアアアアッ!!」
狂ったように名前を叫ぶレナードの声は、遠ざけられ、やがて完全に聞こえなくなった。
彼はこれから、契約違反の代償として、過酷な罰を受けることになるだろう。
自分の甘えが引き起こした、自業自得の結末だ。
「さあ、行こうか、セリア。次の御前会議まで、あと12分45秒だ」
ディルク殿下が、私の隣に並ぶ。
「ええ。移動時間を差し引くと、私たちが次の『愛の誓約』について話し合える時間は、正確に7分20秒」
私は今度こそ、小さく口角を上げて歩き出した。
「……有意義に使いましょう、ディルク様」
「ああ、望むところだ」
傷ついた過去の時間は、もう巻き戻らない。
けれど、これから刻む時間だけは、決して裏切らないと私は知っている。
〈了〉
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