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婚約者の遅刻を108回記録したので、契約通り自動破棄いたします

作者: 白昼夢
掲載日:2026/05/26






婚約披露パーティーの開始十分前。



本来なら祝福で満ちているはずの新婦控室は、しんと静まり返っていた。

ウェディングドレスが、やけに重い。


「……また、エレン様ですか」


侍女のマーサが、悔しそうに唇を噛む。


私は答えない。


手元にある魔導懐中時計と、小さな手帳を見つめていた。

最初、その数字は『1』だった。


初めての観劇。

劇場の前で二時間待たされた。

「悪かった」と笑う彼を、その頃の私はまだ愛おしく許せた。


数字が『10』を超えた頃。


誕生日のディナーが冷めきっていくのを見ながら、私はもう、数えることしかできなくなっていた。


数字が『100』を超えた頃。


婚約一周年の記念式典に彼が来なかった日、私は怒ることすらやめていた。


理由はずっと同じ。


『エレンが急病で、どうしても放っておけなかった』


そして今日。手帳に刻まれた数字は、ちょうど『108』になった。


108回。それは、終わった恋の記録だった。


「……今回だけは、来ると思ったのだけれど」


ぽつり、と声が零れた。


なぜ、こんな男を108回も許してしまったのか。

私には、どうしても捨てられない記憶があった。



3年前、私が高熱で死にかけたとき。

レナードは遠征先から、不眠不休で馬を飛ばして帰ってきた。

泥まみれの鎧のまま私の寝室に駆け込み、手を握って泣いたのだ。

『よかった。間に合った。セリア、君を失うくらいなら、私は何もいらない』


あのときの目は、本物だった。

だから信じてしまった。

この人は本当は誠実で、私を愛してくれているのだと。

たった1回の眩しい思い出が、私を五年間縛り続ける呪いになっていた。



カチ、カチ、カチ。



時計の針が進む。


もう、悲しくもなかった。

泣きすぎると、人は泣けなくなるらしい。

私は手帳を閉じ、魔導計算機を起動した。

悲しむ時間は、もう終わり。

私は、時間と契約の加護を持つオルブライト公爵家の娘だ。

愛が私を裏切るのなら、私はただ、冷徹に事務処理を行うだけ。






「――すまない、セリア! エレンが急に発作を起こして……! 本当に、本当に少しだけ進行を遅らせてくれ!」



午後5時59分。


壇上へ息を切らせて駆け込んできたレナードは、開口一番にそう叫んだ。

会場の貴族たちから、落胆の溜め息が漏れる。

レナードは稀代の天才騎士だ。剣を持たせれば無敵。

任された仕事は完璧にこなす男だ。

ただ一点、私生活の優先順位だけが、致命的に壊れていた。


「セリア、頼む! エレンは本当に身体が弱いんだ。君のように強くない。今日の主役は君なんだから、数分遅れたって誰も――」


「あと、5秒です」

私はレナードの言葉を遮った。

私の瞳に熱がないことに気づいたのか、彼が微かに目を見開く。



「え? セリア、何を言って――」


「3、2、1。……ゼロ。時間です、レナード様」



カチリ。



長針が午後6時を指した。



パキィン!



私の薬指の「誓約の指輪」が、ガラスのように砕け、光の粒子になって消えた。

レナードの胸元の魔導勲章が、ボロボロとただの灰になって床へ崩れ落ちる。



「え……? 指輪が、消え……? 勲章が……?」


私はドレスの裾を払い、一礼した。


「約束の時間は、本日午後6時。1秒の猶予も与えないと、あらかじめ契約書に明記しておりました。これをもって、私とあなたの婚約は、自動的かつ完全に失効いたしました」


「な、何を言っているんだ! 私はただ、少し遅れただけで――」


「過去五年間、私はあなたの不誠実をすべて記録していました。婚約誓約書・第3条。片方の不誠実による遅延が通算108回に達した瞬間、本契約は未来永劫、修復不可能な形で消滅する。……あなた、確かにサインなさいましたよね?」


「あ……」


レナードの顔から、一気に血の気が引いていく。


「私は時間と契約を司る公爵家の者。私の前では、1秒のズレすらすべて等しく契約違反です」


私は一度も声を荒らげることなく、ただ事務的に微笑んだ。


「では、皆様。主役が片方消失いたしましたので、本日のパーティーはこれにてお開きとさせていただきます。お帰りの馬車の手配はすでに済んでおります。お気をつけて」


呆然とする元婚約者を残し、私は壇上から退席した。




♦︎♦︎♦︎




レナードは無能ではない。


むしろ、第一近衛騎士団長としての彼は「不敗の英雄」だった。

だが、彼は勘違いをしていた。

『仕事さえ完璧なら、私生活での甘えは、彼女の愛によってすべて許される』と。

婚約が自動破棄された翌日、騎士団長室は、パニックに陥っていた。


「団長! 予算申請の期限が昨日の午後5時で切れています! 王宮財務部から突っぱねられました!」


「ば、馬鹿な! いつもなら財務部への根回しはセリアが……!」


「そのオルブライト公爵令嬢から『契約関係にない一般人からの書類代行は、すべて1秒以内に破棄する』との通達が届いております!」



レナードの背中に冷や汗が流れる。

これまで、彼が戦場で暴れながら、膨大な事務作業を遅滞なく終わらせられていたのは、すべてセリアが「秒単位」でスケジュールを管理していたからだった。

セリアという最高の管理者を失った瞬間、彼の優秀な頭脳は、公務のパンクによって完全に機能停止した。


さらに、騎士団の防壁や、レナードの聖剣の「魔力供給権」が次々と失効していく。これらもすべて、二人の婚約を担保にセリアが付与していた誓約維持術式だった。



「団長! 結界の出力が通常の10%まで落ちています! オルブライト家の契約加護がないと維持できないと!」


「くそっ、セリア……! なぜこんな、嫌がらせのような真似を……!」


頭を抱えるレナードの元へ、車椅子に乗った幼馴染、エレンが現れた。

その顔は、激しい絶望に染まっていた。



「レナード……! 街の噂は本当なの……!? セリア様との婚約が、本当に破棄されたの……?」


「エレン……、ああ、少しセリアが怒っていてね。大丈夫だ、私が頭を下げれば――」

「大丈夫なわけないじゃない!! 私、聞いてないわよ! あんな厳しい条件の契約になってたなんて!」


エレンがボロポロと涙を流す。



「どうして私の言うことを聞いてくれなかったの!? 私はあの時、『今日は大切な日だから行って』って、形だけでも止めたわよね!? 私、ちゃんと止めたわよ!」


「エレン……? 君が苦しそうだったから、私は――」


「私はあなたに来てなんて頼んでないわよ!!」


エレンは激しく首を振った。


「……だって、あなたが私を優先してくれるの、少しだけ嬉しかったのよ……! セリア様に勝ってるみたいで、良い気分だったわよ! でも、こんなことになるなんて聞いてない! 私を巻き込まないでよ! あなたのせいで、私は公爵家を敵に回した最低の女って、街中で指を差されてるのよ!!」


「エレン……? 君、何を……」


「もう私に関わらないで! 大嫌いよ!!」


バタン、と激しく扉が閉まる。

あとに残されたのは、完璧に手遅れになった、孤独な元英雄だけだった。


彼はそこで初めて、自分が「優しい男」などではなく、ただただ甘え腐り、周囲に依存していた最低の男だったことに気づき、ガチガチと歯を鳴らして震え始めた。




♦︎♦︎♦︎




婚約破棄から一週間後。


私は王宮の回廊を歩いていた。

隣を歩くのは、この国の第一王子、ディルク殿下だ。


「素晴らしい手際だったね、セリア。レナードの団長更迭と、アスラン家の降格が決定したよ」


ディルク殿下は歩きながら、フンと鼻で笑った。


「しかし驚いたな。君ほど聡明な人間が、108回も許し続けるほど恋は人を鈍らせるらしい」


その棘のある言葉に、私はピクリと眉を動かし、彼を睨み据えた。


「……殿下に、私の何がわかるのですか」


「わかるさ」


ディルク殿下は足を止め、真っ直ぐに私を見つめた。

その瞳は冷たく、けれど酷く真摯だった。


「君が冷徹な仮面を被らなければならなかったのは、そうしなければ心が壊れてしまうほど、彼を愛していたからだろう? ……だが、私は君を甘やかさない。君の傷を憐れむこともしない」


ディルク殿下は、私の手首を静かに、しかし強く掴んだ。


「契約は守る。私は君の時間を1秒たりとも浪費しない。それだけは保証しよう。私と、生涯の共同経営者としての契約を結べ。今度は、君が私を選ぶ番だ」


甘い言葉ではない。

ただ、契約の重さを知る者としての、絶対的な誓い。

この男の、なんてずるくて、底知れない冷徹な包容力だろう。



その時。



「セリアーーーーッ!!」



回廊の向こうから、ボロボロの衣服を着た男が叫びながら走ってきた。

近衛兵に取り押さえられ、床に組み伏せられながらも、必死にこちらへ顔を向ける。



――レナードだった。



かつての輝かしい英雄の面影はどこにもない。

目の下には深い隈があり、髪はボサボサだ。


「セリア! 頼む、頼むから話を聞いてくれ! 私が悪かった! 君がどれほど私を支えてくれていたか、やっと分かったんだ! エレンだって、私を責めて去っていったんだぞ!?」


床に涙をこぼしながら、必死に縋り付こうとする元婚約者。

彼は、信じられない言葉を口にした。


「だって……! 君はいつも怒らないで、手帳に数字を書くだけだったじゃないか! だから私は、最後には君が笑って許してくれると思ってたんだ……! 君の愛は、そんなことで消えるものだったのか!?」


その醜い言い訳を聞いた瞬間、私の中の何かが、完全に消滅した。

私は、冷え切った目でレナードを見下ろした。


「レナード様。あなたは、私の時間を5年間浪費しました」


「あ……、セリ、ア……?」


「……もう二度と、支払い能力のない方とは契約いたしません」


「君の愛は、そんなことで消えるものだったのか!?」


レナードがなおも叫ぶ。


 私は答えない。


ただ、懐中時計を閉じる。




カチン。



その音だけが、静かな回廊に冷たく響いた。


「……近衛の皆さん」


私のその一言で、憲兵たちが動いた。


「セリア! セリアアアアアアッ!!」


 狂ったように名前を叫ぶレナードの声は、遠ざけられ、やがて完全に聞こえなくなった。

彼はこれから、契約違反の代償として、過酷な罰を受けることになるだろう。

自分の甘えが引き起こした、自業自得の結末だ。


「さあ、行こうか、セリア。次の御前会議まで、あと12分45秒だ」


ディルク殿下が、私の隣に並ぶ。


「ええ。移動時間を差し引くと、私たちが次の『愛の誓約』について話し合える時間は、正確に7分20秒」


私は今度こそ、小さく口角を上げて歩き出した。


「……有意義に使いましょう、ディルク様」


「ああ、望むところだ」



傷ついた過去の時間は、もう巻き戻らない。

けれど、これから刻む時間だけは、決して裏切らないと私は知っている。

〈了〉


最後までお読みくださり、ありがとうございます。


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― 新着の感想 ―
唐突に出てきたアスラン家
ヒロインの名前が某100円ショップだから税金込み(軽減税率対象)の数字の108回なのか…?
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