Charles August Millverton
新しい名前、新しい暮らし。
チャールズは初めて「家」と呼べる場所で、食事を学び、礼儀を学び、そして少しずつ微笑みを取り戻していく。
そんなある日、彼は古い箱の中から母の面影が宿る十字架のイヤリングを見つける──
「これは、マリアンヌの宝物だったのよ」
左耳に揺れる十字架と共に、少年の新たな日々が始まる。
朝のミルヴァートン家には、ホワイトチャペルとは違う空気が流れていた。
酒の臭いも、酔っ払いの怒号も、薄いカーテン越しに響くベッドの軋む音も、ここにはない。
あるのは──
温もりを含んだ静けさと、台所から漂うシナモンの香り。
チャールズはゆっくりと目を覚ました。
彼は大きなベッドに横たわっていた。白く清潔なシーツに包まれ、高い天井には美しい装飾が彫られている。開け放たれた窓からの風がレースのカーテンを揺らしていた。
彼は目をこすり、ゆっくりと上体を起こす。
「……ここは、どこだ?」
その時、扉が開き、優しい笑みを浮かべた女性の使用人が入ってきた。
「おはようございます、坊ちゃま。」
チャールズは黙ったまま、戸惑いの表情を浮かべた。
「坊ちゃま」──まだ、その呼び方には慣れていない。
ほどなくして、リリアンが部屋に現れた。青みがかったグレイのシンプルな室内着を纏い、手には湯気の立つ紅茶のカップ。
「よく眠れたかしら?」
チャールズは目を逸らして、小さく頷いた。
「……うん。」
リリアンはベッドの縁に腰を下ろし、チャールズの目をまっすぐに見つめた。
「今日からあなたはここで暮らすの。学び、生きる。ミルヴァートン家の一員として。」
チャールズは唇を噛んだ。
迷いと戸惑いが胸を揺らす。
「あなたの名前は……チャールズ・オーガスト・ミルヴァートンよ。」
「……ミルヴァートン……?」
「そう。あなたには、その名前を名乗る資格があるわ。私の甥として……そして、マリアンヌが遺した、たった一つの存在として。」
しばらくの沈黙のあと──
チャールズは心の中で、その名を繰り返した。
チャールズ・オーガスト・ミルヴァートン。
まるで、異国の呪文のように──
でも、どこかあたたかい。
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それからの日々は、まるで新しい世界だった。
チャールズは、食事の時の姿勢から始まり、挨拶の仕方、ラテン語の読み書きまで学んだ。
文字が目の前で踊るように見えても──
いつか、練習帳の片隅に「Mama」と綴ったその瞬間。
彼の表情が、わずかにやわらいだ。
時には、リリアンと一緒に裏庭で小さな木を植えた。
別の日には、石造りの浴場で共に湯を楽しんだ。
「そんなに顔を隠さなくてもいいのに。私は他人じゃないのよ?」
リリアンが笑うたびに──
チャールズの胸に、小さな何かが芽生え始めていた。
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ある雨の日。
チャールズは古い書庫で本を整理していた。
その時、最上段の棚に置かれた、埃をかぶった木箱に手が触れた。
箱は古びており、鍵も外れていた。
ふとした拍子に──蓋が開いた。
中には、黒いベルベットの布の上に、十字架の形をした小さなイヤリングが置かれていた。
チャールズはそれを一つ手に取った。
なぜだか、強く惹かれた。
「……それ、マリアンヌのものよ。」
リリアンの声が、静かに背後から響いた。
チャールズは慌てて箱に戻そうとした。
「ご、ごめんなさい……勝手に──」
「いいの。」
リリアンは彼の隣に座り、ゆっくりと語った。
「パーティの時、いつもこれをつけていたの。家を出てからも……ずっと。」
「ある日、何の手紙もなく……この箱だけが戻ってきたわ。」
チャールズは、左のイヤリングをそっと握った。
「欲しいの?」
彼は小さく頷いた。
リリアンは右のイヤリングを手に取り、耳に飾った。
「じゃあ、半分こしましょう。」
リリアンは左のイヤリングを取り、チャールズの耳につけてやる。
「これで……マリアンヌは、私たちの間にいるわ。」
チャールズは、そっと自分の耳に触れた。
それが嬉しいのか、悲しいのか──
自分でもよくわからなかった。
でもただ一つ──
あの日、ベッドの下で世界が終わったあの夜からずっと、
初めて──世界が少しだけ、あたたかく感じられた。