微かなぬくもり
飢えと寒さの中で倒れたチャールズは、リリアンに連れられてミルヴァートン邸へと運ばれる。そこで彼が初めて触れる、“本物の”ぬくもり。だが、そのあたたかさに彼はまだ馴染めない。過去の傷が癒えぬまま、少年は静かに眠りにつく──これは、失われた微笑が再び芽吹くまでの、静かな夜の始まり。
チャールズは気づかぬうちに眠りについていた。
馬車の揺れが、まるで母の子守唄のように彼を包み込み、 飢えた体も、傷ついた心も──すべて、重く沈めていた。
「……もう着いたのかしら?」
リリアンは静かにカーテンを開け、目を細める。 馬車の窓の外、月明かりが豪華な邸宅の門を照らしていた。
チャールズはまだ目を閉じたまま。 小さな胸がゆっくりと上下している。
まるで壊れた人形。 その表情に、夢も、希望も、残っていない。
「──眠ったままなのね……きっと、限界だったのでしょう」
リリアンはそっと頷き、馬車の扉を開けた。
「エドモンド。あの子を、丁寧に運んであげて。起こさないように。」
「……承知しました、お嬢様。」
黒服の執事が馬車に乗り込み、細心の注意を払って少年を抱き上げた。
その瞬間──
「……!?」
エドモンドは息をのんだ。
近くで見たその顔。 頬のほくろ、まつ毛の長さ。 そして──あの、面影。
「……まさか……あのマリアンヌ様に……」
「ええ。……そうなの。」
リリアンは低く呟いた。
「この子は、あの人の……」
執事は何も言わず、深く頷いた。
邸宅の扉が開かれ、あたたかな光が彼らを包む。
冷たい夜の中で、初めてのぬくもりがそこにあった。
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チャールズはふわりとしたベッドの上で、目を覚ました。
「……どこ……?」
天井は高く、白く。 窓のカーテンは厚く、重厚で。 空気は静かで、どこか甘い香りがした。
彼はゆっくりと身を起こす。
……体が、軽い。 あたたかい布団の中。 手足の痛みも、昨日ほどではない。
その時──
「ご気分はいかがですか?」
声に振り向くと、そこには優しい微笑みをたたえたメイドが立っていた。
「あなたのお名前は、チャールズ様でよろしかったですか?」
「……様?」
彼は戸惑い、眉をひそめた。
「お嬢様がお待ちです。まずはお風呂へどうぞ。お身体も、心も、お疲れでしょう。」
チャールズは何も言わず、ただ頷いた。
──風呂。
白く広い浴室に連れてこられた時、 彼は思わず足を止めた。
かつて路地裏で泥水を浴びていた彼には、 ここはまるで別世界だった。
湯気が立ちのぼり、石造りの浴槽があたたかく彼を招いていた。
衣服を脱がされ、優しい手で洗われるたび── 彼は震えた。
「冷たいのではありませんよ。怖がらなくて大丈夫です。」
そう言われても、体が反応してしまう。
過去が、染み付いて離れない。
だが、誰も彼を傷つけなかった。 誰も彼に怒鳴らなかった。
お湯が肌を包み、 心の奥で、何かがほころびそうになる。
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その夜、チャールズは初めて、 静かな部屋で、あたたかな食事を前に座っていた。
リリアンは黙って彼を見守っている。
チャールズはスプーンを手に取る。 震える手。 しかし── 口に運んだ一口は、温かかった。
涙が、落ちそうになる。
「……なぜ……こんなことを……」
彼の声は、かすれていた。
リリアンはそっと答える。
「理由がいるかしら? あなたは生きていて、私は──あなたを見つけたの。」
チャールズは何も返さなかった。
ただ──また一口、スープを口に運んだ。
それが、彼の答えだった。
そしてその夜、彼はベッドに入り、 誰に追われることもなく、 骨が冷えることもなく、
ただ、目を閉じた。
夢も見ずに。
深く、深く眠った。