私から、君へ
あらすじ
夜明けは、救いではなかった。
それはただ、闇の中で流された血と罪を照らし出す光だった。
戦いの果てに生き残ったチャールズは、再び生と死の境界に立たされる。
守りたかった街は騒然とし、王宮では新たな火種が芽吹き、
裏側では、糸を引く者が静かに運命を編み始めていた。
理想のために踏み越えた一線。
救済の名の下に積み重なる屍。
――世界は、善人によって救われない。
罪を背負う覚悟のある者だけが、明日へ進める。
■ 夜明けの気配
夜は、ついにその闇をさらすのをやめた。
煙と粉塵に覆われていた空は、ゆっくりと色を失っていく。
まるで夜明けは希望をもたらすためではなく、大地に残された罪の残滓を洗い流すために訪れたかのようだった。
戦いは――終わった。
ひび割れ、焼け焦げた建物の屋上に、ヴェスペラは立っていた。
呼吸はかすかで、風に紛れて消えてしまいそうなほどだ。
ヤシャ――彼女があと一歩で葬るところだった悪魔は、すでにその場に存在しない。
残された黒い血だけが、冷え始めた夜風にさらわれ、ゆっくりと蒸発していく。
ヴェスペラは振り返らず、そのまま跳び降りた。
下では、チャールズが立ち尽くしていた。
背筋は伸びたまま、しかし不自然なほど硬直している。
まるで死が彼を地面へ引きずるのを忘れたかのように。
血が至る所に散らばっていた。
石畳に、壁に、そして――もはや白とは呼べない彼の服に。
両腕は力なく垂れ下がり、指先だけが微かに震えている。
それが残ったアドレナリンのせいなのか、それとも魂がまだ戻りきっていないせいなのかは分からない。
彼の足元には、かつて人間と呼ばれていたものが横たわっていた。
グレゴールの肉片は、すでに冷え切っている。
顔と呼べるものは残っていない。
名前も、存在も――そこにはなかった。
ヴェスペラは音もなく、チャールズの背後に着地した。
数秒間、彼女はただその背中を見つめていた。
あまりにも脆く、あまりにも多くを背負いすぎた背中を。
やがて、彼女はそっと抱きしめる。
温もりはない。
だが、今にも崩れ落ちそうな身体を支えるには、十分な強さだった。
「……重いでしょう」
囁くような声。
「……夢に辿り着くというのは」
チャールズは答えない。
いや、反応すらしなかった。
彼の魂は、まだグレゴールが死んだ場所に置き去りにされているかのようだった。
このまま放っておけば、身体は必ず崩れる。
そして、ここで再び死ねば――次の蘇生は、肉体にも精神にも、より深い傷を残す。
ヴェスペラは何も言わず、チャールズを連れてその場を離れた。
チャールズは、ほとんど不死だ。
だが――身体は違う。
彼が再生できるのは、死んだ後だけ。
魂が無理やり引き戻された後だけだ。
生きている間に受けた傷は、ただの傷として残る。
そして今夜の彼の傷は――あまりにも多すぎた。
二人が暗い路地から姿を消す頃、太陽が顔を出し始める。
夜明けが、ロンドンを照らした。
そしていつものように――
街は、騒然となった。
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「神に誓って言うが、昨夜の音を聞いたか!?」
「地震だと思ったぞ!」
「いや……もっとこう、空が崩れるみたいな……!」
ロンドン・ゲートの近く。
青ざめた顔の市民たちが、城壁のそばに集まっていた。
彼らの前には、切断された死体が散乱している。
だが、誰一人として身元を特定できなかった。
「死んだ人間が……生き返ったのを見たって話もある」
「馬鹿馬鹿しい」
「お前はそこにいなかっただろ。俺は……見たんだ」
囁きは、朝の光よりも早く広がっていく。
止まらなかった轟音のこと。
理由もなく胸を締め付けた恐怖のこと。
闇の中で戦っていた――何か、あるいは誰かのこと。
だが、そこで何が起きたのかを知る者はいない。
そして正直なところ、
本気で知りたい者も、ほとんどいなかった。
ロンドンの市民にとって、理解不能な出来事は日常だ。
この街は常に秘密を抱えている。
そして彼らは、
触れないほうが安全な謎があることを、とっくに学んでいた。
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一方その頃。
王宮の裏庭で、女王は静かに紅茶を口にしていた。
朝の風が薄いカーテンを揺らし、鳥たちは穏やかに囀っている。
まるでロンドンが、平和な都市であるかのように。
彼女の手には、ロンドン・タイムズ。
「チャールズ……」
小さな呟き。
「……あなたなの?」
女王は、ゆっくりと新聞を閉じた。
そのとき、一人の侍女が近づき、膝をついて一通の書簡を差し出す。
目を通した瞬間、女王の表情が変わった。
短い文面。
だが、あまりにも危険な内容。
――カトリック教会は、異端と神への冒涜を理由に、
ブラッドフォールン家の殲滅を計画している。
「……何ですって?」
女王は顔を上げ、抑えた怒りに声を震わせる。
「オーシア島へ追放しただけでは、足りないというの?」
返答はない。
あるのは、朝の風と――
胸の奥で芽生え始めた、不吉な予感だけだった。
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ミルヴァートン家の屋敷は、異様なほど静まり返っていた。
チャールズはベッドに横たわり、意識を失っている。
全身に巻かれた包帯が、本来なら人間が耐えられないはずの傷を隠していた。
マーサはベッドの脇に座り、両手を強く握りしめている。
疲れ切った表情。腫れた目。
それでも、彼女は一歩も離れなかった。
背後で、ヴェスペラが静かに立っている。
「ヴェスペラ様……」
マーサの声は震えていた。
「どうして……どうして坊ちゃまは、いつもこんな目に……」
単純な問いだった。
だからこそ、痛烈だった。
「……たまたま、でしょう」
ヴェスペラは静かに答える。
「あるいは……不運が重なっただけ」
マーサは、ゆっくりと首を振った。
「坊ちゃまは……優しい方です」
「誰を見下すこともなく、誰にでも誠実で……」
それが、マーサの知るチャールズだった。
ヴェスペラは沈黙する。
確かに、チャールズは善い人間だ。
だが――善意は、必ずしも清らかではない。
その沈黙が耐え難い重さになりかけた、その時。
チャールズの瞼が――動いた。
ゆっくりと。
本当に、ゆっくりと。
夜は終わった。
だが、より深い闇は――今、始まろうとしていた。




