彼女は、未来にいた
チャールズは――また死んだ。
だが今回、死は痛みではなく、
決して辿り着けない未来と、
出会うことのない“彼女”を見せた。
奪われ続ける時間の中で、
それでも彼は立ち上がる。
すべての終わりが、
手に入るためにあるわけではないと知りながら。
ロンドン・ゲート西側で、二人の男が向かい合って立っていた。
その場の空気は、まるで動きを忘れたかのように静止している。 薄い霧が低く垂れ込み、石畳に貼りついていた。長く息を止め続けた肺のように。
一人は前屈みになり、 肩は激しく上下し、荒い呼吸が喉を震わせ、歯を強く食いしばる音が微かに響く。 怒りは完全に彼を支配し、指先に至るまで煮えたぎっていた。 まるで魂の半分を失った獣のようだった。
もう一人は、その数歩先に立っている。
白い服。
ロンドンの路地にはあまりにも清潔すぎる。 死を目前にした者にしては、あまりにも静かすぎた。
背筋を伸ばし、表情は凍りついたまま―― それは恐怖を知らないからではない。 最悪の結末を、最初から受け入れていたからだ。
まるでこの場所に来た時点で、 「生」か「死」か、その二択だけを手にしていたかのように。
ロンドン西部の住民たちは、次々と窓を閉めていった。
木枠が軋み、 カーテンが慌ただしく引かれ、 震える手で鍵が回される。
彼らは目で見ていない。 ――感じ取っていた。
何かがおかしい。 空気が重すぎる。 街の音が、あまりにも遠い。
古いロンドンの本能が囁く。 ――関わるな。
「し……白い服の男は、誰だ?」 カーテンの裏から、かすれた声が漏れた。
「やめろ」 年配の男が、折れた声で答える。 「見るな。問いかけるな」 「こんな場所じゃ……息をすることさえ、間違いになりかねない」
そして―― 合図もなく、 戦いは始まった。
グレゴールが疾走する。 踏み込んだ瞬間、地面がひび割れた。 制御を失った弾丸のように、彼の身体は前へ突き進む。
空を引き裂くように伸ばされる腕。 殴るためではない。
掴むためだ。 引き寄せるために。
チャールズは後退する。
一歩。 二歩。
――十分だ。
身体が軽い。あまりにも軽すぎる。 彼は知らなかった。 ベルゼブブが、グレゴールに何を与えたのか。 その限界が、どこにあるのか。
ただ一つだけ、分かっていることがあった。
――触れさせるな。
グレゴールが唸る。 それは喉の奥から無理やり引きずり出された、不自然な音。 深すぎて、湿りすぎている。
もはや人間の声ではなかった。
痛みが理性を蝕み、 憎しみが最後の論理を焼き尽くしている。
「姉を返せ!!」
その叫びが空気を裂き、 直後に――おぞましいものが続いた。
グレゴールの口が開く。
――開きすぎる。
顎が軋む湿った音を立て、 肉そのものが引き裂かれるように広がった。
その口内から、彼は何かを引きずり出す。
濡れている。 鈍く光り、 脈打っている。
縄―― いや。
鞭だ。
唾液に覆われ、粘液を滴らせながら、 まるで生まれたばかりの臓器のように蠢いていた。
――バンッ!
鞭が建物を打つ。
石は砕けなかった。
――老いたのだ。
堅牢だった壁は一瞬で脆くなり、 色を失い、皺のような亀裂が走り、 次の瞬間には古い塵となって崩れ落ちた。
チャールズはそれを見つめる。
眉が僅かに歪み、 一瞬だけ、嫌悪が浮かんだ。
躊躇はない。 彼は自らの腕に噛みついた。
血が溢れ―― 従順に応える。
伸び、 湾曲し、 硬化する。
深紅の血から、 闇を帯びた大鎌が形成された。 霧の中で、不気味に輝いている。
だが――
――ズッ。
遅かった。
鞭のほうが速い。
それはチャールズの手を掠めた。
冷たい。
物理的な冷気ではない。
――何かを、奪われる感覚。
チャールズは硬直する。
皮膚が皺を刻み、 血管が浮き上がり、 関節が軋む。
一息の間に、 数十年が流れ去ったかのようだった。
「……なに……?」
声は、ほとんど音にならない。
背後から、穏やかで、満足げな声が響いた。
「驚いたか?」
グレゴールが、薄く笑う。
「ベルゼブブは、ただの『暴食』じゃない」 「人間が恐れるもの――老い、そのものだ」
彼は笑った。
解放の笑いではない。
時間が他人を壊していく様を見て愉悦に歪む、 ひび割れた笑いだった。
「痛いだろ……?」 低く囁く。 「触れた分だけ……お前の命は削れていく」
鞭が再び動く。
打つためではない。
絡め取るために。
チャールズは跳び退く。 だが鞭の先端は、地面に触れるだけでよかった。
大地は瞬時に脆くなり、 ひび割れ、 墓の塵のように崩れた。
チャールズは空中へ跳ぶ。
その最中、血が再び流れ、 より長く、より重い鎌を形作る。
振り抜いた。
――ザァァンッ!
血と鞭が衝突する。
空気が軋み、 薄い蒸気が立ち上る。
チャールズの血は沸騰し、 少しずつ、蒸発していった。
彼は歯を食いしばる。
(……そういうことか)
内心は冷え切っていた。
(壊すんじゃない……時間を、食う)
グレゴールは思考を許さない。
鞭が、何度も振るわれる。
建物が崩れ、 鉄柱が一瞬で錆び落ち、 空気そのものが老いていく。
チャールズは着地し、片膝をついた。
呼吸が重い。
鞭に触れた手が震える。
恐怖ではない。
――身体が、死の近さを覚えているだけだ。
「姉を返せ……」 グレゴールの声が砕ける。 「なぜ奪った……?」
チャールズは、ゆっくりと立ち上がる。
表情は冷たいまま。 だが瞳の奥に、 微かな紅――隠された火が灯っていた。
「この世界には」 彼は低く言う。 「生かしておいてはならないものが、確かに存在する」
血が奔流となる。
巨大で、 美しく、 ――重すぎる鎌を形作った。
振り抜いた瞬間、 その重さに、身体ごと引かれる。
グレゴールは逃さない。
――バンッ!
鞭がチャールズに絡みついた。
再び、あの冷たさ。
痛みではない。
――時間。
皮膚が老い、 髪が白み、 筋肉が衰える。
血の鎌は地に落ち、溶けた。
チャールズはよろめく。
「……は……?」
足が、もう持たない。
グレゴールは荒い息で見下ろす。
「見ろ」 呟く。 「老いた……壊れていく……」 「その老いた身体で、俺はお前を嬲ってやる」
鞭が締まる。
チャールズは膝をついた。
視界が霞む。
だが――
彼は、微笑った。
小さく。 静かに。
選択を終えた者の笑み。
「なにを――」
チャールズが手を上げる。
血が集まる。
武器にはならない。
――自らを貫くための。
血の棘が、彼の喉を貫いた。
グレゴールが凍りつく。
「……な……?」
チャールズの身体が倒れる。
黒い瞳から、光が消えた。
静寂。
風が止み、
世界が、息を殺した。
――――
そして、チャールズは見る。
小さな部屋。 古い木の机。 夕暮れの光。
白髪の男が座っている。
――自分自身だ。
老い、 穏やかで、 残り少ない命で、文字を綴っている。
彼の背後に、年老いた女性が立つ。
肩に置かれた手。
温かい。
チャールズは、胸に奇妙な感覚を覚えた。
――自分は、ここに一人ではない。
机の隅。 黄ばんだ紙の山の上に、 小さな物が置かれている。
耳飾り。
黒い十字架の耳飾り。
かつて身につけていたもの。
血よりも前。 契約よりも前。 死が日常になるよりも前の、自分。
老いたチャールズの手が止まる。
弱さではない。
――迷いだ。
ペン先が、宙に浮かぶ。
「もし、ここで終わらせたら」 彼は小さく呟く。 「人は……俺を、何として覚えるだろうな」
答えはない。
ペンが再び紙に触れる音だけが、部屋に響く。
最後の文章は短い。
美しくもなく、 英雄的でもない。
だが――正直だった。
若いチャールズは読もうとする。 だが文字は滲み、 未来そのものが、読むことを拒んでいるかのようだった。
女性が、そっと身をかがめる。
額が、白い髪に触れる。
浮かぶ微笑み。
喜びではない。
――受け入れた者の微笑み。
若いチャールズの胸に、何かが沈み込む。
恐怖ではない。
悲しみでもない。
もっと残酷な理解。
――彼は、十分に長く生き、 すべてが終わるのを見届けるのだ。
「もう、遅い」 その声は、近く、柔らかい。 「お前は、この場所には辿り着かない」 「そして……俺を、知ることもない」
部屋が、ゆっくりと薄れていく。
机。 紙。 女性の姿。
残ったのは、机の上の黒い十字架の耳飾りだけ。
チャールズは、それに手を伸ばす――
「まだだ」
――――
チャールズは、息を詰まらせて目を覚ました。
身体は、若いままだ。
グレゴールが一歩、後退する。
「……ありえない……」
チャールズは立ち上がる。
虚ろで、 深く疲れた眼差し。
「分かっている」
恐怖が、ようやくグレゴールの顔に浮かぶ。
「人間が……死から戻るなど……」
チャールズは拳を握りしめる。
「俺もだ」 「戻らずに済むなら……そうしたかった」
閉ざされた窓の向こうで、 何人かの住民は誓うように語った。
――一人の男が、確かに死に、 そして、再び立ち上がったのだと。




