悪魔の頂と、始原の悪魔
ロンドンを崩壊させるほどの激闘の最中、
第一階位の悪魔ヴェスペラが死を振り下ろそうとした瞬間。
その刃を止めたのは、無垢な微笑みを浮かべる少女――ローズマリー。
だが彼女の正体は、
“悪魔の始原”と呼ばれた存在の器。
現代最強の悪魔と、世界の始まりを知る悪魔が、
静かに邂逅を果たす。
■ 霧が震えるロンドンの朝
ロンドンはその日、まるで震える生き物だった。
漆黒の霧が重く垂れこめ、屋根を押し潰すように沈み込む。
建物の影は叫び声をあげているかのように歪み、街全体が不吉な鼓動を打っていた。
グレゴールの放つ黒赤い熱気――それは長い眠りから目覚めた怪物の怒号そのものだ。
人々は足を止めて顔色を失い、犬たちは一斉に同じ一点へ向かって吠え続ける。
教会の鐘は誰も触れていないのに震え、信徒たちは耳を塞ぎながら祈りの言葉を途切れさせなかった。
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■ グレゴールの憎悪
石畳の中央に立つグレゴールは、肩を震わせながら怒りに焼かれていた。
浮かび上がる血管、軋む顎、噛みしめた歯の隙間から漏れる獣のような唸り。
「……チャールズ・オーガスト・ミルヴァートン」
金属が割れるような声。
両眼は燃え盛る炭火のように赤く爛れ、濁った殺意が底に沈んでいる。
「このオレが……必ず貴様を殺す」
吐息は白煙となって空に溶け、まるで体内に炉を抱えているかのように熱い。
その前に立つ男――
チャールズは、ただ静かだった。
異様なほどの静寂。
その沈黙はグレゴールの怒りよりも、はるかに恐ろしい。
整えられた黒髪が風に揺れ、陽光を受けてしっとりと輝く。
漆黒の瞳の奥では赤い光が細く燃え、唇の端に浮かべたわずかな笑みが挑発のように見える。
その仕草ひとつがグレゴールの理性を削り取っていった。
チャールズは首をわずかに傾ける。
その小さな動作の中に、圧倒的な優位が滲む。
泣き叫ぶ子供を見下ろす大人のようだった。
彼の背後、三歩ほど下がった場所にヴェスペラが佇む。
黒いドレスが風を受けて揺らぎ、横顔は陶器のように冷たい。
紫の瞳は感情を隠し、静寂そのものを湛えていた。
そして彼女はそっと一歩退く。
まるで――主役はもう自分ではないと示すように。
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■ 屋上の影 ―― ジュルガム
その光景を、古い建物の屋根からひとり眺めている男がいた。
ジュルガム。
金の髪が冷たい風に流れ、鋭い横顔が浮かび上がる。
口元の浅い傷は過去の戦いの痕で、纏う気迫は隠しようがないほど研ぎ澄まされていた。
腰には黒赤の妖刀――ヤシャ。
鞘の中で微かに震え、主のざわめきをなぞるように共鳴する。
この場で彼に気づいたのは、ただ一人。
ヴェスペラ。
紫の瞳がゆっくりと屋根の上を向く。
その動きは、熱源を嗅ぎつけた蛇のように滑らかで正確だった。
視線が交わった瞬間、世界が凍りつく。
ヴェスペラの唇に、温度のない微笑が浮かんだ。
悪魔の作り出す、冷ややかな弧。
「……あら。面白いものを見つけたわ」
ヤシャが低く囁く。
刃のように鋭い声だが、その震えは恐怖に他ならなかった。
『ジュルガム……ここは危険だ』
「危険? あいつら……俺と似た匂いがするが」
『違う。あの女は常軌を逸している……もっと古い』
ジュルガムが視線を戻したとき――
ヴェスペラはそこにいなかった。
跳んだわけでも、走ったわけでもない。
ただ、“失われた”。
現実から指でつままれて取り除かれたかのように。
背筋に冷たい刃が落ちる。
「どこに――」
「ようこそ、ロンドンへ。Lust」
声は背後から。
ヤシャは震えを止めた。
恐怖で沈黙したのだ。
ジュルガムは即座に振り返り、膝を沈めて構えを取る。
戦士の本能が極限まで研ぎ澄まされる。
一歩の距離にヴェスペラが立っていた。
その瞳は魂の奥を射抜くように深い。
「……何者だ、お前」
「ただのメイドよ」
冷たい微笑。空気が凍りつく。
『違う、ジュルガム……!』
ヤシャが震えながら叫ぶ。
『あれは――プライド。すべての悪魔の母だ』
心臓が跳ねる。
「……お前より強いのか」
『逃げろ。今すぐにだ』
その言葉を聞くより早く、ジュルガムは屋根を蹴った。
影のように走り、煙突から煙突へ飛び移る。
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■ 逃走と警告
「なぜ逃げる?」
息を荒らしながら問うジュルガム。
『勝ち目がほぼゼロだ。
七つの大罪は我らを生み出した……その中心がプライドだ』
反論しようとした瞬間――
空気が裂けた。
シュバァッ!
銀白の弧が闇を切り裂き、月光のように迫る。
視認すら不可能な速度。
ジュルガムは反射で刀を抜き、防いだ。
轟音。
巨神に殴られたような衝撃。
身体は空に弾かれ、煙突を砕き、瓦を散らして転がり落ちる。
気づけば街外れの石畳に叩きつけられていた。
「……っ、今のは……何だ……」
影が目の前に降り立つ。
ヴェスペラ。
足取りは羽のように軽く、大地に触れている気配すらない。
「逃げてどうするの?」
平坦な声。
だが底に潜む殺意が赤く脈打つ。
一歩、近づく。
「……私の主を、邪魔する気かしら?」
「そんなつもりは――」
ドガァッ!!
拳が頬にめり込み、世界が傾く。
裂けた口元から血が霧のように散る。
息をする暇もなく――
視界から彼女が消えた。
と思った瞬間、左に現れる。
ドンッ!!
蹴りが肋骨を砕く勢いで叩き込み、地面が蜘蛛の巣状にひび割れた。
ヴェスペラの表情は変わらない。
優雅で、完璧で、氷のように無慈悲。
長い黒紫の髪がふわりと舞い、紫の瞳が薄く細められる。
「……私の“遊び”を邪魔しないで、Lust」
ジュルガムは血を吐きながらも顔を上げる。
その眼光にはまだ、折れぬ戦意が宿っていた。
――たとえ生きて帰れないと知っていても。
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■ 夜の風が悲鳴をあげる
夜の風が、まるで人間の喉を引き裂くような悲鳴を上げて吹き抜けた。
ヴェスペラはゆっくりと顔を伏せ、その紫の瞳に、ふらつくジュルガムの姿を静かに映し込む。
怒りはない。
愉悦もない。
そこにあるのは――ただの“使命”。
主の前に立つ影を排除するためだけに存在する、第一階位の悪魔としての冷たい本能。
ジュルガムは刀を持ち上げる。
砕けた肋骨が悲鳴を上げ、呼吸のたびに胸が軋む。裂けた唇から血が細く滴り落ちる。
それでも、その構えは不思議なほど美しかった。
まるで“死”そのものを舞うために生まれた、戦場の侍。
「……いいだろう」
深く息を吸えば、肺の内側が刺すように痛む。
「もう一度だけ……やってみる」
ヴェスペラが細く白い人差し指をひとつ動かす。
スラァッ……。
空気が裂け、闇を裂いて巨大な黒い大鎌が姿を現した。
月光を飲み込んだような紫の輝きが、刃の表面を静かに流れる。
ヴェスペラの足元――石畳がバキリと音を立てて割れた。
“傲慢”の純粋な魔圧が街区全体を震わせ、街灯が一斉に消え、窓が震え、いくつかは砕け散る。
その瞬間、ロンドン全体が息を呑んだ。
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■ 無音の侍
ヴェスペラが振り下ろす。
ブオォォォン――!!
その一振りは山を両断するかのような重さ。
衝撃波だけで、ジュルガムの背後の石壁が粉々に砕け飛ぶ。
だが――
キィィィン!
ジュルガムは刃の“最も細い一点”を正確に受け止めていた。
衝撃で数メートル後方へ吹き飛ばされても、倒れない。
呼吸は震え、血は滲む。
それでも、その眼光だけは揺らがなかった。
そして次の瞬間。
ジュルガムから――音が消えた。
風が止まり、世界が一瞬凪ぐ。
影だけがはじけるように跳ねる。
日本の戦場に生きた侍だけが扱える技。
“無音の斬撃”。
ジュルガムの姿が消える。
左。
カン!
背後。
カン!
右。
カン!
ヤシャの斬閃が細く鋭く軌跡を描き、瞬きの間に何十も連なる。
しかし――
ヴェスペラには、一つの傷すらつかない。
黒いドレスは乱れず、
長い紫黒の髪は一本さえ揺れない。
彼女が大鎌をひと回ししただけで――
ウゥゥン……!
風圧の奔流が叩きつけられ、ジュルガムの膝は石畳に沈んだ。
耳から血が流れる。
“傲慢”の魔圧は、人間の肉体にはあまりにも重すぎる。
――たとえ三百人を一人で斬り伏せた怪物であっても。
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■ 傲慢の歩み
そしてついに、ヴェスペラが“動いた”。
一歩。
ただ、それだけ。
だが踏みしめた石畳はガラスのように砕け散る。
彼女は大鎌をゆっくり持ち上げ――次の瞬間。
ドゴォォォン――!!
一撃目が地面を粉砕し、小さなクレーターが生まれる。
ジュルガムは空へ跳んだ。
身体をひねり、ヤシャが紫の弧を描く。
「ヤシャ……」
荒い息の合間に、かすれた声で問う。
「……俺は……死ぬのか……?」
『まだ死なない。』
ヤシャが冷たく、しかしどこか縋るように答える。
背後から二撃目の斬光が迫る。
シャアァ――!!
ジュルガムは空中に“足場のない足場”を踏むかのように体をひねり――
ティン!
衝突した瞬間、紫の光が空間にひび割れのように散る。
その技を見て、ヴェスペラが初めて目を細めた。
ほんの一瞬だけ、興味が揺れたように。
「……動きが綺麗ね。」
囁くような優しい声。
だが温度は絶対零度。
ジュルガムは血を吐きながらも笑う。
「……褒め言葉として……受け取っておく……」
だが――
悪魔はもう遊んでいなかった。
三撃目が雷光のように地面を裂く。
石畳が割れ、土がめくり上がり、瓦礫が嵐に吸い込まれるように浮き上がる。
そしてその一撃が――
ジュルガムの身体を捉えた。
バリィィィンッ!!
数十メートル吹き飛ばされ、
古い建物の壁を三つ貫通し、地面へ転がり落ちる。
ヤシャは手から離れ、数メートル先に突き刺さる。
立ち上がろうとするが膝が震えた。
鎖骨が折れ、肩が裂け、額から流れた血が片目を真紅に染める。
それでも――彼は立とうとした。
「……ここまで……か……」
ゆっくり降り立つヴェスペラ。
大鎌を静かに掲げ、終焉を告げる動き。
「傲慢に挑むなんて……大きな間違いよ、“色欲(Lust)”。」
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■ 黒霧の呼吸が止まる音
ヴェスペラの鎌が、静かに、しかし確実に持ち上がった。
その影は、地面に崩れ伏したユルガムの身体を深く覆い、
次の一撃が触れたものすべてを粉砕する運命を告げていた。
ユルガムはもう、顔を上げる力すら残っていない。
呼吸は途切れ、砕けた骨がひどく軋み、
意識は水底へ沈むように暗く濁っていく。
ヴェスペラは囁くように――どこか慈しむような声音で告げた。
「大丈夫……どうせ、あなたはまた生まれ変わるのだから」
大鎌が、静かに振り下ろされ――
スルゥッ……
その瞬間、荒れ果てたロンドンの夜には似つかわしくない、
やわらかい風が街路を撫でていった。
そして――
「え? あなたたち……なにしてるの? どうして喧嘩なんか……?」
まるで鐘の音のように澄んだ、少女の声。
あまりに場違いで、
この夜に満ちた“殺意”を一瞬だけ白く濁らせた。
ヴェスペラの動きが、ぴたりと止まる。
鎌の刃先は、ユルガムの鼻先まであと数ミリ。
刃から伝わる殺気だけで、彼の全身は震え続けている。
ゆっくりと、ヴェスペラが振り返った。
ひび割れた石畳の上に立つのは、
真紅の髪を揺らす若い娘――
両手に小さな籠を抱え、まるで“パンを買いに来ただけ”のような表情。
ローズマリー。
彼女は困ったように眉を寄せ、少しだけ首をかしげた。
「あ……ごめんなさい。邪魔しちゃったかな……」
胸の前で籠を抱え直し、小さく肩をすくめる。
「でも……ちょっと怖くて。道も壊れてるし……あっ、その人、すごく傷だらけ……!」
目を丸くする仕草も、息の震えも、完全に“人間”のものだった。
ヴェスペラはひとつ瞬きをし、低く呟く。
「……見覚えがある。確か……貴族の娘、だったか」
ローズマリーから漂う“気配”は――空虚。
澄み切っていて、無臭で、
悪魔でもなく、戦士でもなく、
何者の影も宿していない。
まるで、ただの市民。
「……市民か」
ヴェスペラの声は、ほんのわずかだけ柔らかくなる。
第一階位の悪魔は、本来ただの人間には手を出さない。
ユルガムはうっすら目を開けた。
視界は滲み、赤い色だけがやけに鮮やかだ。
(……あれは……ローズマリー、様……?)
ローズマリーはそっと膝をつき、
倒れた旅人を助けるようにユルガムを覗き込む。
そしてヴェスペラへ向き直り、
ふわりと穏やかに微笑んだ。
「この人……病院へ連れて行ってもいいですか?
本当に……死んでしまいそうなんです……」
ヴェスペラは長く、深く、彼女を観察する。
その眼差しの中にも、やはり悪意はなかった。
何もない――完璧な“空白”。
「……好きにしろ」
鎌が影に溶けて消える。
「脅かしたのは謝るわ。驚かせてしまったわね」
「い、いえ……ほんとうに……怖かった、だけ……」
肩を震わせる芝居は、あまりにも自然だった。
ヴェスペラはそれ以上何も言わず、
霧のように虚空へ消えていった。
――沈黙。
風すら止んだそのとき、
ローズマリーの“空気”が音を立てて変わる。
籠を持つ指先からは、少女の柔らかさが消え、
呼吸は研ぎ澄まされ、
瞳は紅玉のように冷たく光を宿す。
先ほどの村娘の面影は――一片すら残っていない。
ユルガムを見下ろし、
その声は氷の刃のように静かだった。
「起きなさい」
たった一言で、周囲の空気が張りつめる。
「ここで死ぬには――あまりにも早すぎるわ」
ユルガムはわずかに目を開き、
掠れた声で囁く。
「……申し訳……あり……ません……ローズマリー様……」
ローズマリーは片口をわずかに上げ、
冷淡で、それでいてどこか優しい笑みを浮かべた。
「気にしないで。
さあ――まずは傷を治しましょう」




