白き悪魔
死から戻ったチャールズは虚無のまま歩き出す。ヴェスペラはコナーの死体を処理する途中、チャールズと瓜二つの謎の男エゼキエルと遭遇する。
夜明けはまだ訪れていなかった。
崩れ落ちた瓦礫の中心に、チャールズはただ一人、微動だにせず立っていた。
まるで――最後の瞬間に生命を失った彫像のように。
地面に散った血はすでに黒ずみ、冷え切った大地へと吸い込まれていく。
朝の風が彼の濡れた黒髪を揺らすが、チャールズは瞬きすらしない。
ヴェスペラが静かに歩み寄る。
整った足音が静寂を割くたびに、空気が冷たく震えた。
「若様……?」
掠れるような低い声。
「いったい……何があったのですか?」
彼女が目の前で立ち止まった瞬間、ようやくチャールズの黒い瞳が上がる。
その瞳は――空っぽだった。
怒りでも困惑でもない。
二つの世界の狭間に立っている者のような、遥か遠い虚無。
「……ヴェスペラ。」
彼は小さく呟いた。
「さっき……死んだ時に。
自分自身を見たんだ。教会で……祈っている俺を。」
そして視線を落とす。
「……つまり、全てが終わった時。
俺は結局……神のもとへ戻るべきなのか?」
ヴェスペラは一瞬だけ言葉を失った。
死を理解する心なんて、彼女にはない。
だがその言葉は、確かに胸の奥を刺した。
「……はい。
たぶん……そうなのだと思います。」
チャールズの口元がわずかに歪む。
喜びでも悲しみでもない、ただの諦念。
「その時の俺……八十歳くらいに見えた。
つまり……あと五十九回は死ねる、ってわけか。」
古いビルの向こうから日の光が薄く差し込む。
チャールズは深く息を吐き、静かに命じた。
「片づけろ。
コナーの死体はテムズ川に捨てておけ。
俺は先に行く。」
ヴェスペラが頭を下げる。
「若様……これからどちらへ?」
チャールズは崩れたコナーの死体を一瞥し、
「……まだいるからな。
“ああいう奴”が。」
「承知しました。」
コナーを引きずりながら歩き出すヴェスペラは、ふと足を止め、遠ざかるチャールズの背を見つめた。
「……チャールズ。
あなたは……この先、正気でいられるのでしょうか……」
彼女に“心”は無いはずだった。
けれどその古く、冷たく、闇のために造られた存在の奥底に――
確かにチャールズへの想いが芽生えていた。
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霧の朝、テムズ川は静かに揺れていた。
ヴェスペラは迷いなくコナーの亡骸を放り投げる。
水面が鈍く弾け、すぐに沈んでいく。
彼女がそれを見下ろしていると、背後から声が響いた。
「おはようございます、お嬢さん。」
柔らかい。しかし不穏で、どこか不吉な声。
振り返ると、数メートル離れた場所に男が立っていた。
磁器のような白い仮面で顔の半分を隠し――
残り半分は、誰かに酷似していた。
チャールズ。
だが、より大人で、より残酷で、より人間味のない顔。
「……何の用です?」
ヴェスペラは冷たく問う。
「見させてもらいましたよ。」
男は手を背に組み、穏やかに言った。
「なかなか興味深い戦いでした。」
「あなた……誰です?」
「別に、特別な理由はありません。」
仮面の奥で微笑む気配が走る。
「ただ――あの子のことを、どうか大切に守ってほしいだけです。」
あの子。
チャールズ。
ヴェスペラの喉がごくりと鳴る。
この男から漂う気配は、チャールズに似ている。
だが、壊れ、歪み、闇に沈んだ“何か”が混じっている。
――こんな存在、知らない。
男は踵を返し、霧の中へ歩き出す。
が、消える寸前に振り返った。
「僕の名はエゼキエル。」
微笑みが闇に滲む。
「覚えておいてください。」
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ロンドンの霧はまだ低く漂っていた。
チャールズが城門に足を踏み入れると、血の乾いた匂いと共に冷たい鉄の匂いが漂う。
白い袖口についた血痕は乾き、彼の歩みに不気味な威圧を添えていた。
数名のテンプル騎士が慌てて道を塞ぐ。
剣は構えているが――誰一人、前へ出ようとはしない。
「と、止まれ! ミルヴァートン殿!」
震える声。
だがその震えは恐怖か、それとも本能か。
チャールズはゆっくりと顔を上げる。
その瞳は……底なしの虚無。
「……俺は、ロンドンに入ってはいけないのか?」
静かな声なのに、空気が刺すように張り詰める。
「い、いえ、そうではなく……!」
騎士は喉を鳴らし、剣を握る手が震える。
「あなたは……教会で騒動を起こした、と……!」
「騒動?」
チャールズの瞳が細くなる。
「俺は教会と何の関わりもないが?」
騎士たちの間にざわめきが走る。
「……記憶がないのか?」
「いや……まさか本当に……」
「でも姿形はまるで――」
その瞬間、チャールズは悟った。
――コナーか。
薄い笑みが、彼の唇の端に浮かぶ。
それは“警告”にも“宣告”にも聞こえる危険な笑みで、
騎士の一人が本能的に後ずさった。
チャールズは一歩踏み出す。
ただ、それだけ。
「退け。」
低く静かな声。
しかし剣より鋭かった。
「さもなくば……今度こそ本当に騒ぎを起こす。
教会だけじゃない。ロンドン全体にな。」
空気が変わった。
異質な寒気が骨の奥を這い、
“人ならざる何か”が彼の背後に立っているような錯覚を生む。
気づけば騎士たちは剣を下ろしていた。
自分の意思ではなく、本能によって。
チャールズは彼らを一切見ず、そのまま都市へ歩みを進める。
遠くで教会の鐘が鳴り響く。
歓迎なのか、嘲笑なのか――。
チャールズの視線は、一つの巨大な建物へ向けられていた。
頂に十字架を掲げた、高く、冷たい塔。
――ここだ。
(俺の名を書き換えたやつを……引きずり出す。)




