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宮殿を去った薔薇

チャールズという名の少年を見つめながら、リリアンの胸に蘇るのは──かつて宮殿を去った一輪の薔薇、姉マリアンヌの記憶だった。


貴族の名誉よりも愛を選んだ姉。

そして、忘れられない別れの日。


今、静かな回想の中で語られる、過去に咲いた薔薇の物語。

 馬車の車輪が濡れた石畳を滑り、ホワイトチャペルの冷たい朝を切り裂いて進んでいく。 窓のカーテンは半分だけ下ろされ、曇り空の鈍い光がぼんやりと差し込んでいた。


 リリアン・ミルヴァートンは無言のまま座っていた。 その指先はドレスの生地をかすかに震わせながら撫でていた。


 彼女の向かいには、小さな少年が身を丸めて眠っている。 チャールズ。


 傷ついた頬、乾きかけた血の跡。 破れた服、そして腕の中にしがみついている小さなぬいぐるみ。


 どれだけ見ても、否応なく思い出す。


 ──マリアンヌ。


(……やっぱり……この子は……) (あなたの子に違いない……)


 リリアンは目を伏せ、そっとため息をつく。 そして、静かに心の扉が開かれた。


(どうして、マリアンヌ……あの日、あなたは……) (私たちの家族を、私を、どうして捨てたの……)


 その問いは、何度も胸の奥で反響しながら、 やがて静かに、あの夜の記憶を呼び起こした。



 ---


 数年前。 ミルヴァートン家・本邸。


 宮殿のような館の一室で、マリアンヌは鏡台の前に座っていた。 薄い水色のドレスに身を包み、美しく結い上げた金の髪。 けれど、鏡に映るその表情はどこか虚ろだった。


 扉の前には、まだ幼いリリアンが立っていた。 小さな手に赤いリボンを握りしめて。


「お姉さま……今日はグレイストーン卿がいらっしゃるのよ?」


 声をかけても、マリアンヌは鏡を見つめたまま動かない。


「ねぇ、どうして着替えていないの? お父様が……」


「……リリアン。少しだけ、静かにしてくれる?」


 その声は優しいけれど、どこか鋭かった。 リリアンは一瞬、言葉を失った。


(あの日、初めて気づいた。


 お姉さまの瞳に、深い影が差していたことに──)


 マリアンヌは椅子から立ち、窓辺へ歩いた。 外には、咲き乱れる庭の薔薇。 風に揺れるカーテンが、彼女の髪をそっと撫でた。


「……私、グレイストーン卿とは結婚しないわ。」


「えっ……どうして?」


「私は……愛する人がいるの。」


 リリアンは呆然とする。 「……誰? どんな方なの?」


「ただの画家よ。貴族でも、侯爵でもない。……でもね、彼は私を人間として見てくれるの。」


 マリアンヌは微笑んだ。 けれど、それは社交界で見せるような作り笑いではなかった。


 苦しみの果てに選び取った、哀しくも誇り高い笑み。


「今夜、私は家を出るわ。誰にも言わないで……お願い。」


 リリアンは動けなかった。


(止めたかった。 止めるべきだった。 でも……できなかった。)


 その夜── マリアンヌは姿を消した。 貴族の名も、富も、すべてを捨てて。 ただ一つの愛を選び、そして。


 二度と戻らなかった。



 ---


 ──現在。


 リリアンは目を開けた。 胸の奥に刺さったままの棘が、まだ疼いている。


 指先には、今も小さな薔薇のブローチが握られていた。 あの日、姉が手放した唯一の遺品。


 その隣には、小さな命が眠っている。 姉の代わりに、残された命。


(私は……もう迷わない。)


(この子は、私が守る。)


(マリアンヌが遺した、最後の薔薇……)


 そしてその誓いが、静かにリリアンの胸に根を下ろした。


 車輪の音が遠ざかっていく。 新たな運命を運ぶように。

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