失われた年齢の記憶
チャールズとコナーの戦いの中で、嫉妬の罪〈エンヴィ〉がコナーの肉体を奪い取る。激しい攻防の果てに、チャールズは血の力を使い果たして一度“死”に沈み、その闇の中で――老いた自分が微笑みながら祈る、失われた未来の断片を見る。
その夜、コナー・ギャラガーは、もう生きることを諦めていた。
チャールズと戦うなど不可能だ――
ましてや〈嫉妬の大罪〉を冠するリヴァイアサンでさえ怯えているのだ。
リヴァイアサンの力は、ただ姿を模倣するだけではない。
“強く望む”ことさえできれば、何でも複製できる。
だが、その全ては器となる人間の肉体に制限される。
そしてコナーは――器としても、あまりにも脆かった。
「なぁ……リヴァイアサン……俺たち、ここで死ぬのか……?」
かすれた声で囁く。
返事が返ってこないことなど、最初からわかっていた。
チャールズとヴェスペラの視線が空気を刺し、
世界そのものが狭くなっていくようだった。
チャールズがゆっくりと歩み寄る。
その足音が、コナーの頭蓋に直接響く。
目前で膝を折り、静かな顔で覗き込んだ。
「……いったい、何が起きてる?」
その声は穏やかで――だからこそ息を止めさせるほど冷たい。
「し、知らない……本当に……」
コナーは自分の舌がもつれていくのを感じた。
ひとつでも間違えれば、即座に終わる。
「そう?」
チャールズの黒い瞳が細められる。
「じゃあ――どうして俺をここへ連れてきた?」
「細かいことは……わからない。
でも……誰かが、ロンドンを混乱させようとしてる……それだけは……」
チャールズは黙り込む。
「で? それと俺に何の関係がある?」
「ど、誰かが……お前を“攪乱因子”だと……」
その瞬間、チャールズは笑った。
軽く、楽しげに――まるで最高の冗談を聞いたかのように。
「なるほど……」
彼は立ち上がり、無防備に背を向ける。
「そいつに伝えてくれ。
――〈チャールズ・オーガスト・ミルヴァートン〉が帰ってきた、と」
ヴェスペラとともに歩き去る。
まるでコナーの存在など最初からなかったかのように。
残されたコナーは震え続けた。
後悔が胸を絞め上げる。
あの瞬間、悟ったのだ。
ローズマリーなど比べものにならない“悪魔”が存在する。
それは――人間の皮をかぶった怪物。
そのとき。
コナーの身体が急に硬直した。
恐怖のせいではない。
――奪われたのだ。
背骨が弓のように反り返り、
全身の血管が破裂しそうなほど浮き出た。
右目が漆黒に染まり、瞳孔が砕ける。
リヴァイアサン――〈嫉妬〉が浮上した。
「や……やめ……っ! お願いだ……!」
コナーの声は途切れ、呼吸は荒れ、
だがその叫びは、契約を破るほどの命令にはならなかった。
『黙れ。お前の声は要らない』
水の囁きが重なったような声が、頭に流れ込む。
黒い影が肩から這い上がり、顔を覆っていく。
皮膚がぼこぼこと脈動し、形を変えようとする。
「リ、リヴァイアサン……!? 俺は……俺は望んで――」
コナーの声が、口ではなく内側から漏れた。
チャールズが首を傾げる。
「ん?」
次の瞬間――
ドォンッ‼
コナー――いや、リヴァイアサンに乗っ取られた影が、
チャールズの胸を殴り飛ばした。
背後の煉瓦壁が紙のように砕け散る。
粉塵が舞い、床石が割れた。
チャールズは崩れ落ち――そしてゆっくりと起き上がる。
唇に親指をあて、血を見つめた。
赤い線がひとすじ。
ヴェスペラは口元を手で覆い、ふっと笑う。
「――あぁ。大罪の嫉妬なら、これくらい下劣じゃないとね」
コナー=リヴァイアサンの影が歪んだ笑みを浮かべる。
その体が、チャールズの体格・輪郭・肩幅へと近づいていく。
だが色は黒。濡れた墨のように滴っていた。
嫉妬は本物だった。
チャールズの身体に。
チャールズの顔に。
チャールズとヴェスペラの距離に。
あの静けさに。
あの力に。
『欲しい……お前のすべてが……』
コナーの精神は暗闇に押し潰され、
声にならない悲鳴だけが響く。
チャールズは肩の埃を払う。
黒い瞳が楽しげに細められた。
「……やっとわかった」
彼は唇の血をゆっくり拭う。
「これが、“痛み”か。久しぶりだな」
血が滴る。
滴り――
集まり――
固まる。
チャールズは微笑んだ。
まるで新しい玩具を見つけた子供のように。
「じゃあ……試してみようか」
指先が震える。
滴る血が糸のように伸び、細長く形を変え、
透き通る赤の細剣――心臓のように脈打つ〈血の剣〉となった。
ヴェスペラの目がわずかに開く。
それは人間の力ではなかった。
チャールズはそれを軽く振る。
――ヒュッ。
空気が裂けた。
リヴァイアサンの瞳が震える。
恐怖に――だがその奥の嫉妬が上回る。
影が爆発するように跳んだ。
チャールズも動く。
「――さぁ。遊ぼう」
■■
夜を裂くように戦いは始まった。
リヴァイアサンは形を変え続ける。
腕が鞭のように伸び、刃へと変わり、
時に無数の影となって四方八方から襲いかかる。
チャールズは血の剣で全てを受け止める。
肉のように湿った“打撃音”が連続した。
「速いな」
楽しげに呟く。
ヴェスペラは静かに見守るだけ。
これは二つの存在――
“運命を拒む人間”と
“全てを妬む罪”
その衝突だった。
影が跳ね、四本の腕となり四方から斬撃を落とす。
チャールズは三つを受けた。
だが――
四つ目が胸を捉える。
バンッ‼
血が溢れる。
チャールズは壁に叩きつけられ、床に深い亀裂が走った。
それでも笑った。
「……悪くない」
立ち上がる。
だが血の剣は薄れ、透け、震えている。
“血”がもう残っていない。
リヴァイアサンが叫ぶ。
『寄越せぇぇッ!
その体をッ! その顔をッ!
お前の全ては……俺のものだァァ!!』
影が三つに分裂し、乱雑な軌道で飛び込む。
チャールズは二つを捌いた。
三つ目が腹を貫いた。
ズブッ。
血の剣はひび割れ、乾き、砕けた。
彼は膝をつく。
「……血が……もうないか」
指を伸ばすが、刃はもう形成できない。
その背後に影の手が現れる。
そして――
ドォオオンッ‼
頭を床に叩きつけられた。
石畳が砕け散り、血が広がる。
身体が一度だけ痙攣し――
動かなくなる。
ヴェスペラは見ているだけ。
それが“当然の結果”だと知っていた。
リヴァイアサンの影がチャールズの身体に覆いかぶさり、
顔を奪おうとしたその瞬間――
チャールズは動かなかった。
眼は開かれたまま。
黒く、空虚。
瞬きひとつしない。
血も流れない。
もう流す血が残っていない。
チャールズ・オーガスト・ミルヴァートンは――死んだ。
……
だがその虚無の中で。
“生と死の狭間”で。
ただひとつの映像が回り始める。
失われた年齢――
彼が“生き返るために捧げた時間”の記憶。
■
すべてが白に染まり――やがて形を持つ。
教会だった。
高い天井。
柔らかな光を落とすステンドグラス。
祭壇の前に、一人の老人が膝をついていた。
銀白の髪。
細い肩。
深い皺。
祈りの姿勢で、静かに目を閉じる。
その顔は――
チャールズが決して見ることのなかった、自分の“老いた姿”。
穏やかに微笑んでいた。
あたたかく、静かに、幸福そうに。
ただ祈ることに満たされた人生の終わりの顔。
若きチャールズは動けなかった。
ただ見つめることしかできなかった。
“本来なら、こう生きるはずだった自分”。
“奪われた歳月の果てにいるはずだった自分”。
老人のチャールズは微笑む。
まるで感謝を告げるように。
「……生きてくれて、ありがとう」
■
白い世界は音もなく、崩れ始めた。
まず最初に、ここまで読んでくださっている皆さまに心から感謝します。
そして、ごめんなさい。
この先の展開に向けて、物語が少し複雑になり、
これまでの章が「読みにくい」「流れが乱れている」と感じた方もいるかもしれません。
正直に言うと、僕自身も書きながら迷った部分が多く、
ところどころ構成が荒くなってしまったと自覚しています。
ですが――
このアークが終わったあと、必ず全体を見直し、
流れ・設定・描写をもう一度丁寧に整えていきます。
もっと綺麗で、もっと伝わる形に仕上げるつもりです。
それでも今、こうして読んでくれて、
応援してくれて、
感想をくれて――
本当に、本当にありがとうございます。
あなたの一つ一つの反応が、
この物語を続ける力になっています。
これからも 『Me and the Devil』 をよろしくお願いします。




