潮が退いた夜
大潮が退き、わずか十六分だけ現れた海底の道。
二十一人のテンプル騎士は、無残な死体と沈黙に満ちるオセア島へと足を踏み入れる。
同じ頃、ロンドン郊外では——
消えたチャールズを探すコナーが、月光の下で“本物”と最強の悪魔ヴェスペラに遭遇する。
その恐怖は、右目のレヴィアタンでさえ震わせるものだった。
牧師ヒューバートは、冷えきった大聖堂の奥で一人、祈りの姿勢のまま動けずにいた。
祭壇の蝋燭は微かに揺れ、聖母像の影を壁に長く引き伸ばす。
だが静謐の中に、ひとつだけ異物のように——胸の奥で、不吉なざわつきが止まらなかった。
まるで誰かが意図的に、この争いを仕組んだかのように。
その予感は、重く、じわりと彼の背骨を撫でていた。
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■ 潮が退く音
その頃——
ヒューバートが派遣した二十一名のテンプル騎士たちは、
夜に沈む海岸沿いの道を、静かに、しかし急ぎ足で走っていた。
大潮の夜。
普段は荒れ狂う波に覆われている海原が、まるで力を失ったかのように後退し、
海底が黒い大地となって露わになる。
オセア島へ通じる唯一の道。
それが姿を現すのは、ほんの十六分ほど——
潮が満ちれば瞬く間に海へ飲まれ、二度と渡れない。
月明かりだけを頼りに進む彼らは、やがて“それ”を見つけた。
生ぬるい潮風の中、
砂利の上に無造作に転がる——人の形が歪んだ死体。
「……っ!」
最初に声を漏らした騎士は、手が震えて鞘に触れた。
近づけば、どの遺体も、腕が、脚が、腹が……
何かに──齧られたように失われていた。
吐き気を堪えながら、一人がうめくように言った。
「……ひでぇ……
ただの戦狂いじゃねぇ……人間まで喰いやがるのか……」
彼の声は、潮の匂いと血の匂いが混じった風に消えた。
「許し難いが……
だが俺たちの任務は戦うことじゃない。状況確認だ」
仲間が低く告げる。
その声には、硬い決意よりも
——自分に言い聞かせるような怯えが滲んでいた。
「急げ。潮が戻る」
騎士たちは歩を速めた。
しかし道の先には、さらに数十体の死体が散らばっていた。
誰かが意図的に並べたように。
まるで「歓迎」の代わりに置かれた門のように。
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■ 亡骸の衣を借りる者たち
海底の道を抜け、オセア島が月光の中に浮かび上がった頃——
彼らは一つの問題に直面していた。
銀鎧のままでは、島に踏み込んだ瞬間に殺される。
血戦の民、ブラッドフォールン。
その全員が戦士であり、一族の掟に生き、外敵には容赦しない。
すると、隊の後方でひとりが静かに口を開いた。
「……商人の服を使うんだ。
荷車もある。完璧に偽装できる」
死体の上着、血に濡れた手拭い、散乱した木箱。
彼らは黙ってそれを拾い上げ、鎧の上から服を羽織り、
荷車に食料品のふりをした袋を積み込んだ。
風が一瞬止まり、遠くで波の音だけが響く。
偽りの商人二十一名。
彼らは深呼吸を一つし、黒々とした浜へ足を踏み入れた。
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■ “門”の前で
浜辺には二名のブラッドフォールン兵が立っていた。
肩にかけた槍は潮に濡れ、鉄の匂いを放っている。
「止まれ。
……何を運んできた?」
声は無骨で、疑念よりも疲労が滲んでいた。
一人の騎士が喉を鳴らし、商人らしく笑顔を作る。
「もちろん、オセア島への食料ですよ」
すると兵は深く息を吐き、心底ほっとした顔をした。
「……よかった。
てっきり、王都が供給を止めたのかと思った」
その言葉に、
騎士たちは一瞬だけ互いを見合った。
——供給を止めたのは自分たちだ。
——商人を殺したのも自分たちだ。
だが兵士たちは、まるで自分たちが“被害者”であるかのように振る舞っている。
理解が追いつかない。
だが疑えば命を落とす。
「いい、行け。村に売ってこい」
木製の小さな門が軋み、彼らは島の内部へ足を踏み入れた。
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■ 影に沈んだ村
門を抜けた瞬間——
空気が変わった。
海の匂いに混じる鉄錆、焦げた薪、そして何より重い“静寂”。
家々はわずかな灯火だけを点し、
窓から覗く影は皆、鋭い眼光を持ってこちらを見つめていた。
ロンドンとは違う。
文明とも整った秩序とも無縁の、
戦に憑かれた者たちの村。
夜風が吹くたび、どこかで兵の怒号と金属音がこだまする。
遠くの丘では、炎が小さく揺れていた。
ここは、完全に——彼らの領域だ。
二十一名の騎士は歩みを揃え、
潮の湿り気を帯びた石畳をゆっくりと進んでいった。
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■ 同じ頃 – ロンドン郊外
ロンドンの灯りが遠く霞む、森の入り口。
かつてチャールズが磔にされ、血を流し尽くしていたはずの場所。
そこに立ち尽くしているのは——コナーだった。
「……いない。どこにも……いない……?」
声が震えていた。
焦りが喉を締めつける。
生きているわけがない。
瀕死だった。
絶対に動ける状態じゃなかった。
なのに——影すら残っていない。
(まずい……まずい……
チャールズを見失ったら……全部崩れる……!)
木々の間を駆け抜け、森の深部へと踏み込む。
そして、見つけた。
枯れ果てた大樹の下——
月の光に浮かぶ二つの人影。
一人は、黒髪の男。
白い装いが朽ちた木の前で異様なほど浮かび上がっている。
もう一人は、黒いドレスを纏った女。
その存在は静謐なのに、世界の重心がそちらへ傾くような恐ろしさがあった。
コナーは息を呑み、自然と歩み寄っていた。
そして距離が縮まった瞬間——
彼は膝が抜けそうになった。
男は——チャールズ。
女は——悪魔。
しかも、ただの悪魔ではない。
本能が拒絶する存在。
「な、なんで……なんでお前が……っ」
コナーは後ずさった。
喉がつまる。
息がうまくできない。
アルカトラズから逃げた自分が、こんなにも怯える理由はないはずだ。
だが身体が震えを止めない。
(なぜ……?
なんで……こんなに怖い……?
レヴィアタン……お前まで……震えてるのか……?)
右目の奥。
宿している“それ”が、微かに身をすくめる気配を見せた。
チャールズはゆっくりと振り返り、柔らかく微笑んだ。
「やぁ……上手に“真似”するんだね、君は」
その笑みは穏やかだった。
だが底が見えない。
「殺しに来たんだよね?
……さあ、どうするの?」
言われた瞬間、コナーの背中を冷たい汗が滑り落ちた。
隣に立つ女が、静かに一歩前へ出た。
その瞳は紫に輝き、闇の中で獣のように光っていた。
ヴェスペラ。
悪魔たちの母。
最強の悪魔。
「——気づくのが遅いわね」
声は冷たく、囁くように、しかし鋭く響いた。
「あなたが模倣したのは
“チャールズ”じゃない。
右目に巣くう——レヴィアタン」
コナーの心臓が止まるほどの恐怖が胸に突き刺さった。
「つくづく運が悪いわね。
よりによって……私の前に現れるなんて」
その一言で、コナーは悟った。
——死ぬ。
今日だけは、絶対に逃げられない。




