嫉妬、王都に入る
かつて神に仕えた都は、今、静かに腐っていく。
祈りは途絶え、聖堂の鐘はもう鳴らない。
そして、ひとりの“悪意”が、その沈黙の中に足を踏み入れた。
彼の名はコナー・ギャラガー。
だが今、その顔はチャールズ・ミルバートンのものだった。
嫉妬――それは他者の幸福を許さない最も古い罪。
その罪が王都に入った瞬間、
聖と俗の境界は崩れ、信仰は裏切りへと変わる。
彼の一歩は、やがて教会と血の一族を対立させ、
ロンドンという名の神の墓標を築く。
昼下がり、最後の列車が長く汽笛を鳴らした。
霧のかかった駅を貫くように、その音は冷たく響く。
ジュルガムは一度も振り返らずに歩き去った。
蒸気と金属音の中、ヒューゴはただその背中を見送ることしかできなかった。
カンタベリーでの出来事のあと、なぜ彼が突然去ってしまったのか。
ヒューゴには、それを問う力さえ残っていなかった。
列車に乗り込もうとしたその瞬間、冷たい気配が首筋を撫でた。
誰かが、すぐ後ろに立っている。
「ヴ、ヴェスペラ……?」
声が震えた。「どうして、君がここに?」
黒髪の悪魔は、紫の瞳で彼を見据えた。
「ヒューゴ様……我が主はどこに?」
淡々とした声。だがその響きは、胸を刺す刃のように冷たかった。
「チャ、チャーリーは……どこに行ったのか分からない。
二人の男に連れ去られた。強くて……どこかおかしい連中だ。」
ヒューゴの声は震え、言葉の端で途切れた。
次の瞬間、ヴェスペラは彼の両肩を強く掴んだ。
「なぜ……なぜ助けなかった?」
その瞳はより深く燃え、千年の怒りを閉じ込めた焔のように輝いた。
「す、すまない……許してくれ。
できるものなら、俺だって助けたかった……」
ヒューゴは膝を折りかけながら、かすれた声で呟いた。
「もう……勇気なんて残っていないんだ。」
ヴェスペラはしばらく彼を見つめた。
表情はない。だが周囲の空気が震える。
二度目の絶望。愛する主がまた死の淵にいる。
今度こそ、彼女には捧げる血も残っていなかった。
「お帰りください、ヒューゴ様……」
そう告げると、彼女はゆっくり背を向けた。
「私が探しに行きます。」
黒髪が冷気の中で揺れる。
しかし、どこから探せばいいのかさえ分からない。
距離が遠すぎる。主の気配はもう感じられなかった。
──ロンドンから遠く離れた、沼と霧に囲まれた貧しい村。
チャールズは血に濡れた鉄鎖に繋がれていた。
身体はほとんど死にかけている。
息をする理由は、ただ痛みを思い出すため。
彼の前に立つのは、コナー・ギャラガー。
いまやその姿は完全にチャールズのもの。
あの皮肉な笑みまでも、完璧に模倣していた。
「さて、グレゴル……」
コナーは汚れた水溜まりに映る自分を見下ろした。
「ロンドンを、壊そうか。」
「ハハハ……まるで本人そのものだな。」
グレゴルは肩を叩き、薄く笑った。
二人は朽ち果てた村を後にする。
大罪の悪魔に魂を売った人間たち。
そして、ロンドンの夜は静かに滅びを迎えようとしていた。
薄い霧が石畳の街路を覆う。
鉄と雨の匂いが混じり、街そのものが悲鳴を堪えているようだった。
「本当に……暗い街だな。」
コナーは呟き、霧の向こうの教会塔を見上げた。
「これがロンドンというものだ。」
グレゴルは淡々と答える。
「で、計画は?」
「ローズマリー嬢はまずカトリック教会を潰せと言っていた……」
コナーは腕を組み、口元を歪めた。
「だが、どうやって、だ?」
チャールズの姿を得た彼は、もはや人にはできないことさえ可能だった。
「まずは……状況を見よう。」
コナーは低く呟いた。
二人は王立図書館へと向かう。
そこは古の記録が眠る場所。
教会の歴史と人の罪が、埃の中で交わる場所。
本棚を辿るその背後から、柔らかくも鋭い声が響いた。
「チャールズ? あなたなの?」
コナーはゆっくりと振り返る。
白いドレスの女が蝋燭の灯りの下に立っていた。
金の瞳が、どこか疑うように彼を見つめる。
「おお……久しぶりですね、陛下。」
コナーは、チャールズには決してできない微笑みを浮かべた。
「ここで何をしているの? その本……カトリック教会に関するものね?」
「ええ。少し興味があって。
学べることがあるかもしれません。」
女王は静かに目を細めた。
彼女の知るチャールズ・ミルヴァートンは、神に興味など持たぬ男だった。
これほど穏やかに笑ったことなど、一度もない。
「……何を知りたいの、チャールズ?」
「何でも。もっと知りたいだけです。」
「知ることは多いわ。」
女王は本棚を歩きながら、指で古びた背表紙をなぞった。
「宗教儀式のことでもいいし……
カトリックを守る騎士たちのことでも。」
「騎士……テンプル騎士団のことですか?」
「そう。教会の聖なる剣であり、最も罪深い手でもあった。」
女王の声は蝋の灯のように揺らめく。
「だが、彼らも一度、敗れたことがある。」
「敗れた?」コナーは眉を寄せた。「誰に?」
「それは――ブラッドフォールン家の兵たち。
彼らは〈トライアド〉と呼ばれていた。」
「ブラッドフォールン……」
コナーはその名を静かに口の中で転がした。
「彼らは独立した貴族の家系。
富み、権力を握り……そして戦いを好む狂人たち。
彼らは大悪魔ベリアルを崇めていた。
カトリック教会の最大の敵よ。」
「なるほど……」
コナーは俯き、ゆっくりと笑みを浮かべた。
その瞳の奥で、小さな炎が揺れる。
朽ちた歴史のページの中で――
彼は、見つけてしまった。
人の信仰を最も甘美に壊す方法を。




