残されたもの
空腹と絶望が渦巻くホワイトチャペル。
三日間何も食べていない少年は、一片のパンを奪って逃げ出す。
追い詰められた先、運命は思いもよらぬ再会を用意していた——。
かつて家を捨てた姉、マリアンヌの死を確認するため、貴族令嬢リリアン・ミルヴァートンは閉ざされた娼館を訪れる。
その帰り道、彼女の馬車はひとりの浮浪児と出会う。
少年の頬にあったのは、あの「印」。
「この子は……マリアンヌの、残した唯一のもの。」
失われた過去が、静かに、交差し始める。
ホワイトチャペルは飢えていた。
何も持たぬ者たちは──
盗むか、死ぬしかない。
その朝、チャールズはパン屋のショーウィンドウの前に立っていた。
体は夜露と昨晩の雨で濡れ、唇は紫がかっていた。
ガラスの向こうに並ぶ硬く乾いたパン。
まるで鉄格子の奥にある金塊のように、遠く、冷たく、手の届かぬもの。
──三日間、何も食べていなかった。
手が震える。
腹がきしむ。
だが、誰も哀れみなどくれはしない。
周囲を確認する。
誰もいない。
CRACK—!
小さな拳がガラスを叩き割る。
一片のパンを掴み、チャールズは駆け出した。
「このクソガキィィィィ!!」
店主の怒声が響き、手にした木の板を振り回しながら後を追う。
チャールズは細い路地を駆け抜けた。
息は荒く、肋骨が皮膚を突き破りそうだった。
手にはしっかりとパンを握っていたが──
世界のほうが、彼の首を強く締め上げていた。
---
街の反対側。
閉ざされた娼館の前に、一台の黒い馬車が止まる。
泥だらけの車輪。
金で彫られた紋章──ミルヴァートン家。
馬車から一人の女性が降り立つ。
金髪を整えたシニヨン。
レースのついたドレス。
優雅な日傘を持つその姿は、貴族の気品を保っていた。
だが、瞳は違った。
若いが、その眼差しには、幾度も砕けた者だけが持つ重みがあった。
名は──リリアン・ミルヴァートン。
王宮にも影響を持つ、名門貴族の娘。
彼女は無言で、かつての娼館を見つめていた。
「……マリアンヌ、あなた、本当に死んだのね。」
彼女の手には、古びたブローチ。
小さな薔薇の彫刻が施された──
かつて、姉がつけていたもの。
家を捨て、愛を選び、
ミルヴァートン家から姿を消した姉。
そして、今や名前しか残っていない。
「……何も、残さずに。」
リリアンは背を向け、馬車に戻ろうとする。
だが──
運命はすでに、舞台の幕を上げていた。
---
チャールズは裏道から表通りへ飛び出した。
その瞬間──
ギィィィィィ——!!
馬車の車輪が悲鳴を上げ、
馬が嘶き、地面を蹴る。
チャールズの体は転がり、パンはどこかへ消えた。
「バカか貴様ァ!! 死にたいのかっ!!」
御者が飛び降りて、怒鳴りつける。
「このクソガキめ、泥棒のくせに! 見るところ見ろやっ!!」
チャールズはうつむいたまま、震えていた。
それは、恐怖ではなかった。
寒さと──疲労。
リリアンが馬車のカーテンを開ける。
「何が起きたの?」
「浮浪児です、お嬢様。ぶつかりかけました! 本来なら牢屋に放り込むべきかと!」
だが、その時。
リリアンの目が止まった。
少年の顔に。
汚れた頬。
傷ついた唇。
──そして。
左頬の下に、小さなほくろ。
──全く同じ位置に。
マリアンヌと同じ、あの印。
リリアンの心臓が、一度、そして二度と強く打った。
彼女は馬車から降り、ゆっくりと少年に近づいた。
膝をつき、その顔を見つめる。
チャールズは顔を上げなかった。
だが、彼女にはわかっていた。
「あなたの名前は?」リリアンが静かに聞く。
チャールズは答えない。
「一人なの? 両親は?」
しばらくの沈黙のあと、少年はゆっくりと顔を上げる。
──目が合う。
凍てついた沈黙。
だがそこには、なにか引き寄せられる力があった。
「ぼくの名前は……チャールズ。」
「お父さんは知らない。お母さんは……死んだ。」
リリアンは固まった。
喉が詰まったような感覚。
だが、涙は出ない。
ただ──言葉が生まれた。
「……もう、彼を責めないで。」
「この子は──」
「マリアンヌが遺した、唯一の宝物よ。」




