神に届かぬ祈り
闇の中で目を覚ましたヒューゴは、祈る理由を失っていた。
一方、外を歩くジュルガム・レオンは、妖刀を腰に携え、霧の森を進む。
二つの傷ついた魂──天に裏切られた者たちは、沈黙の神に復讐を誓う。
死の予感は、まだ胸の奥でくすぶっていた。
だが、目を開けたとき——ヒューゴは気づく。まだ生きている、と。
湿った空気が肺を刺す。
古びた木の天井が、軋みながら今にも崩れ落ちそうに鳴った。
「……ここは、どこだ?」
掠れた声で呟くと、前方の暖炉の前から低い声が返った。
「目を覚ましたか。思ったより早かったな。」
暖炉の炎に照らされ、背を向けた男がひとり。
ヒューゴは体を起こそうとするが、胸の奥がずきりと痛んだ。
左胸には、心臓をかすめた銃創が残っている。
「……すまない、俺はなぜここに?」
声は掠れ、息も荒い。
「覚えていないのか。撃たれたんだ。……ほとんど死にかけていた。」
「死……?」
ヒューゴは床を見つめる。
その瞬間、脳裏に閃く。——カメリア。
「ま、待て……あの女は!? カメリアはどこだ!?」
男は静かに指を伸ばした。
部屋の隅、暗がりに置かれた棺を示して。
天井が崩れ落ちるような錯覚。
ヒューゴの瞳から、音もなく涙が零れた。
「すまない。」
男の声は淡々としていた。だが、その奥にかすかな哀しみが混じっている。
「傷が深すぎた。助けても、苦しみが延びるだけだった。」
ヒューゴは俯く。肩が震え、息が乱れる。
「……いい。お前のせいじゃない。」
男はゆっくり立ち上がる。
擦り切れたマントの裾が床を滑り、重い足音が近づく。
「それで……何をしていた? なぜ《サンクタ・ラディクス》に関わった?」
その瞳が、炎の明かりで鋭く光った。
だが、それは脅しではなく、まるで人を試すような眼差し。
「その前に——あなたは誰だ? テンプル騎士か?」
男はかすかに笑った。
「テンプル、か。昔はそう呼ばれていたな。だが今は違う。」
炎に背を向けながら名を告げる。
「……ジュルガム・レオン。ただの流浪者だ。」
ヒューゴはその古びた外套に目を落とす。
古い紋章。遥か昔の騎士団のもの。——もしかして、俺が生まれる前から戦っていたのか。
「俺は……ハバート神父の命でここへ来た。」
「カンタベリーの信仰を立て直すために。」
「そうか。」
ジュルガムは腕を組み、静かに頷いた。
「目的は同じらしいな。俺も、放っておけないだけだ。」
ヒューゴは黙り込む。
この男の中に、何かを感じた。
それは力ではない。魂の底を突くような……奇妙な気配。
——あの男に似ている。チャールズに。
「どうした?」
「……いや。カンタベリーのことは、あまり知らない。ただ……カメリアは《サンクタ・ラディクス》の修道女だった。」
再び棺を見つめる。
静寂。冷気。——もう言葉はいらなかった。
「……なら、行き止まりだな。」
ジュルガムは立ち上がり、机に立てかけていた刀を取る。
「待て……その剣は?」
ヒューゴの視線が炎の光に反射した刃を捉える。
それは西洋の剣ではない。細く、しなやかに光る東の刃。
「これは——」
「刀。極東の地で手に入れた。」
ジュルガムはそれだけ言い残し、扉を開けて出て行った。
冷たい風が室内に流れ込み、炎が一瞬揺らめいた。
ヒューゴはその背を目で追い、静かに息を吐いた。
やがて、ただの静寂だけが残る。
彼はよろめきながら立ち上がり、棺の前に跪く。
蓋を開けると、カメリアの穏やかな顔が現れた。
——冷たい。けれど、美しかった。
涙が頬を伝い、彼の唇が震える。
「……ごめん。守れなかった。」
腕の中で、彼女は静かに眠っている。
ヒューゴはその体を抱きしめながら、嗚咽を飲み込んだ。
「なぜ……なぜ神は、彼女を見捨てた……?」
見上げた天井の向こうに、沈黙の天がある。
「もし神がいるなら——なぜ救わなかった!?」
涙が落ちる音と、弾丸の転がる金属音。
それが、すべてだった。
……カーン、カーン。
遠くで教会の鐘が鳴る。
重く、鈍く。まるで「終わりではない」と告げるように。
ヒューゴは立ち上がり、静かに涙を拭った。
その瞳の奥には、まだ悲しみが残っていた。
だが——そこには炎が宿っていた。
復讐。
失った者に残された、唯一の祈り。
―――――
霧深い森を、ジュルガムは歩いていた。
湿った空気が肌を噛み、葉が風もないのに震えている。
腰の刀から、低い声が響く。
「……ジュルガム。まだ人間どもに情を抱くのか?」
「黙れ、ヤシャ。」
口元に冷たい笑みを浮かべる。
「お前にとっても悪い話じゃないだろう?」
刃がわずかに震えた。まるで呼吸をしているように。
——この刀はただの武器ではない。
その中には、欲望の罪から生まれた悪魔が封じられている。
風が止み、森が息を潜める。
足元の霧が濃くなり、前方に影が現れた。
「ジュルガム……」
ヤシャの声が低く囁く。
「前方に、多数の人間。」
「知っている。」
ジュルガムは瞼を閉じ、一度だけ深く息を吸う。
木々の間から、銃を構えた男たち——ヴァージャーの兵が現れた。
「動くな! 包囲している!」
「……追ってきたか。」
ジュルガムは視線を落とし、刀の柄に触れる。
「残念だな。たとえ千人いようと——」
刀を抜く。
「——俺が斬る。」
閃光。
一陣の風。
そして、首が宙を舞った。
動く間もなく、最前列の男が崩れ落ちる。
他の者たちは凍りついた。誰も、動きを見ていない。
「サムライという言葉を……知っているか?」
囁くような声。祈りのように静かだった。
応える声はなかった。
銃声が響く。だが、弾丸は空を裂くだけ。
——ジュルガムの姿はもう消えていた。
次の瞬間、血飛沫。
人の形をしたものが、順に倒れていく。
鉄と血の匂い。
そして沈黙。
ジュルガムは立っていた。足元に積み重なる死体。
刀の刃先から、赤い滴が月光に淡く輝く。
ヤシャの声が、快楽に震えるように囁いた。
「……うまかったぞ、ジュルガム。」
ジュルガムは目を閉じ、静かに答える。
「——感謝する。お前の餌になってくれた連中にな。」
カンタベリー編、いかがでしたか?
もし気に入ってもらえたら、これからも読んで応援してくれると嬉しいです。
皆さんの応援が、物語を作る一番の力になります。
ぜひ友達や家族にも、この作品を紹介してくださいね。




