喰らうは嫉妬、奪うは飢餓
地下鉄の暗闇。
ヒューゴが見たのは、人が人を喰らう光景だった。
その地獄の隅に潜んでいたのは――二つの顔、二つの器。
飢えに支配された兄、暴食の器。
嫉妬に呑まれた弟、嫉妬の器。
彼らの狙いはヒューゴではない。
繰り返すように、彼らはただ「彼の居場所」を奪い取ろうとする。
そして、何も知らずに目を覚ますシャルルの前に座るのは――
もはや“友”ではない、偽りの存在だった。
古びた鉄の軋む音が、暗い地下鉄のトンネルに響き渡る。
天井の薄暗いランプがちらつき、今にも消えそうだった。
最後尾の車両の扉が開いた瞬間――ヒューゴの世界は音を立てて崩れ落ちた。
そこにあったのは、一人の男。汚れた床に膝をつき、全身を血で染めている。
顎をゆっくりと動かし、肉を裂き、噛み千切り、そして飲み込んでいた。
まだ温かい人肉を。血が滴るままに。
ヒューゴの身体は硬直した。脚が拒絶するように動かない。
その場に崩れ落ち、両手で口を覆う。吐き気が込み上げ、瞳孔が見開かれ、呼吸が止まる。
――人が……人を喰っている……?
「……神よ……これは……?」
声は掠れ、震えていた。
【俺は……どんな罪を犯した……?
なぜこの地獄を、この目で見せられねばならない……?】
車両の空気そのものが理性を蝕む。
鉄の冷気と、生臭い血の匂い、そして肉を噛み砕く音が混じり合い、耳を犯していく。
逃げたい。だが身体は縛られたように動かない。
――「おはようございます」
不意に背後から声がした。耳元で囁かれたように。
ヒューゴは軋むように首を振り返る。
その瞬間、血の気が引いた。
そこに立っていたのは――自分自身と瓜二つの顔。
「あ……あぁ……なんだ……これは……」
頭が割れるように痛い。胸の奥を何かが締めつける。
【そんな……あり得ない……俺が……二人……?】
呼吸を整える間もなく、強烈な蹴りが側頭部を打ち抜いた。
視界が回転し、世界が歪み、闇が覆う。
「……俺があなたの代わりを務めましょう、旦那様」
冷たく、それでいて穏やかな声が響く。
そいつ――分身は、まだ肉を貪る男へと振り返った。
「食うなよ、グレゴール。ローズマリー嬢が言っていただろう? 人質として生かしておけと」
食人鬼が顔を上げる。血で濡れた口元から笑みが裂ける。
「コナー……俺をバカにしているのか? そんなことは、とっくに知っている」
「ならば……仕事の時間だ」
コナーはあっさりとヒューゴの身体を引きずり、暗い車両の隅に縛りつける。
その手際は慣れすぎていて、迷いなど一切なかった。
やがて、彼は軽やかに歩みを戻し――ヒューゴの席に腰を下ろす。
まるで何事もなかったかのように。
ほどなくして、チャールズが眠りから目を覚ました。
「ふぁぁ……ヒューゴ、どこへ行っていたんだ?」
コナーはヒューゴの顔で、にやりと笑った。
「あぁ……少し散歩をね。退屈していたから」
「散歩か……お前らしいな」チャールズは薄く笑い、目を閉じかける。
だが――その心の奥に、微かな違和感が棘のように刺さった。
視線が落ちる。ヒューゴの靴先――そこに赤黒い染み。
乾ききっていない血の跡が残っていた。
【……血……? こいつは……何をしていた……?】
さらに――衣服も違う。
最初にこの列車へ乗り込んだ時と、わずかに異なっている。
チャールズの心臓が速まる。
【なぜだ……なぜ彼は……ヒューゴではないように見える……?】
チャールズはまだ知らない。
その顔の下に潜む真実を。
目の前に座っているのは――もう一人の器。
自分と同じ存在。
だがそれは、嫉妬の魔を宿すヴェッセルだった。
その頃、最後尾の車両では――
ヒューゴがゆっくりと意識を取り戻しつつあった。
まぶたは鉛のように重く、頭の奥が何千もの小槌で叩かれるようにズキズキと痛む。
かすかに目を開けた瞬間――。
視界いっぱいに、人の「顔」があった。
いや、それは人の顔のはずなのに……どうしようもなく、人間からかけ離れていた。
口元は血で濡れ、赤黒い滴が顎から垂れ落ちる。
大きく見開かれた瞳が瞬きひとつせず、真っ直ぐこちらを射抜く。
「――ッ!」
ヒューゴの息が喉で詰まった。
縛られた両腕が暴れるが、硬く食い込む縄は決して解けない。
「……あぁ、目が覚めたか、貴族サマ」
声はしゃがれ、どこか小馬鹿にするような響きを帯びていた。
男は血に染まった歯をむき出しにして笑う。
「改めて自己紹介を……俺の名は、グレゴール・ギャラガー」
その名が、ヒューゴの脳内でいやに重く反響した。
心の平衡を、無遠慮に引き裂いていく。
「な、何を……何を望んで……?」
震える声は途切れ途切れに洩れた。
グレゴールは床に転がる肉片へと一瞥を送り、再びヒューゴへと目を戻す。
「望む? いや、別に……何も欲しくはないさ」
唇の端がゆっくり吊り上がる。
「ただ――そうだな。もし許されるなら……お前を食ってもいいか?」
鼓動が一瞬、止まった。
毛穴が総毛立ち、体が痙攣するように震える。
【喰われる……? 俺が……あの怪物に……】
生唾を飲む暇すらなく、グレゴールは小さく笑い出した。
「冗談だよ」
歯にこびりついた肉片を晒すように、にたりと口角を広げる。
――冗談。
だが、ヒューゴには一滴の笑いも浮かばなかった。
「安心しろ、命までは奪わん……少なくとも、今はな」
「……“我々”?」
ヒューゴの眉がひそめられる。
「あぁ、“我々”さ」
グレゴールは肩越しに車両の扉へ目をやる。
「俺の弟が――お前の代わりを務めている」
全身が硬直した。
ヒューゴの目が血走り、必死にグレゴールの嘘を探す。
だが、その笑みはあまりにも自然で――だからこそ、異常だった。
「お、俺は一体……お前たちは何者なんだ……」
問いに、グレゴールは静かに、しかし残酷なまでに穏やかに答えた。
「何者? 俺はグレゴール・ギャラガー。そして、あちらにいるのはコナー・ギャラガー」
「俺たちはただの……悪党さ」
――悪党。
その言葉に、ヒューゴの胸がかすかに震えた。
いや、違う。
ただの悪党が人の顔を盗み、肉を喰らうはずがない。
その仮面の奥には、もっと深いものが潜んでいる。
視界が揺れる。
ヒューゴの瞳が大きく見開かれる。
――奴らの狙いは、自分ではない。
そうだ。
彼らの本当の目的は――シャルル。




