悪魔の罠に落ちた男
夜の帳が下りると共に、チャールズの計画は動き出す。ルークの妻を囮に、ヴェスペラは“彼女”へと姿を変え、デズモンドを自らの屋敷へと誘い込む。欲望に酔いしれる男の前で、甘美な夢は悪夢へと反転し、蜘蛛のような怪異が這い寄る。逃げ場を失った時、彼の絶望が始まった。
夜の闇の中、チャールズの計画が静かに動き出した。
ルークは命令に従い、妻を安全な場所へと匿う。
その傍らには、妻の姿へと化けたヴェスペラが立っていた。
屋敷の前に貴族の馬車が止まる。
豪奢な音を立て、デズモンドが自信満々に降り立った。
扉を開けたルークの顔は、疲れ果てた男のもの。 その隣には「妻」の姿があった。
ルークは、すべてを諦めたかのような表情を浮かべる。
――絶望に沈む目。
デズモンドは満足げに嗤った。
「ふん……よかろう。平民の男よ。この女は私がもらう。ハハハッ!」
貴族の汚れた手が「妻」の胸を撫でる。
ルークは沈黙したまま、動かない。
まるで、心臓すら止まってしまったかのように。
馬車は走り出す。
「カーラ」を連れたデズモンドを乗せ、夜の闇へ消えていった。
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デズモンドの屋敷に到着すると、彼はすぐに女を引きずり下ろす。
嫌がる素振りを見せても、強引に扉を開け、屋敷へと押し込んだ。
「さあ、入れ。今夜からお前は私のものだ」
いやらしい笑みを浮かべながら囁く。
女は震える声で答えた。
「お……お願いです、デズモンド様……何をなさるおつもりで……?」
「決まっているだろう」
彼の手が躊躇なく女の体を這う。
そして強引に寝室へと押し込み、扉を閉めた。
部屋には大きな天蓋付きのベッドが用意されていた。
まるで花嫁を迎えるために飾られたかのように。
「名前は?」
「……カーラ、と申します」
「そうか。いい名だ。さあ、こちらに来て横たわるがいい」
全裸でベッドに腰掛けたデズモンドが手招きをする。
女はゆっくりと近づいた――だが、その瞬間。
女の体が、不自然に背後へ折れ曲がった。
顔だけはデズモンドを真っ直ぐに見据えたまま。
骨が軋む音が部屋に響く。
背骨が弓なりに曲がり、両腕が床に突き刺さる。
女は蜘蛛のような異形の姿へと変貌していた。
「な、な……何だと……!?」
血の気が引く。
背筋を冷たい悪寒が走る。
「ひ、ひぃっ!! 化け物め!! 近寄るな!!」
デズモンドは叫び、部屋を飛び出した。
屋敷中に響き渡る声で喚き散らす。
「誰かっ!! 召使いはどこだ!! あの女を捕らえろ!!」
しかし――返事はない。
屋敷全体が、死んだかのように静まり返っていた。
「嘘だろ……!? おい、誰か……!!」
その時、背後から骨の砕ける音が迫る。
異形の「カーラ」が四足で這い寄る音が、石造りの壁に反響する。
デズモンドは階段へ駆け下りる。
しかし足を滑らせ、無様に転げ落ちた。
鈍い音と共に腕がねじれ、脚が折れる。
「ぎゃあああああッ!!」
呻き声をあげ、床に倒れ込むデズモンド。
恐怖に駆られ振り返るが――そこには、もう誰の姿もなかった。
デズモンドは冷たい床を這っていた。
身体は震え、息は荒く乱れている。
かつて豪奢な光に満ちていた屋敷は――今や闇に沈み、まるで彼一人だけを残したかのようだった。
「ど……どこへ行った……? さっきまで皆ここにいたはずだ……!」
残された力を振り絞り、彼は台所へと這っていく。
そこには月明かりに照らされる一人の使用人の背中があった。
まるで何かを調理しているかのように。
「お、おい! そこのお前! なぜ呼んでも黙ったままなんだ! 早く俺を助けろ!」
デズモンドはよろめきながら近づき、震える手でその肩を叩いた。
「おい、聞こえて――」
――ドサッ。
使用人の首が落ちた。
身体から離れ、床を転がっていく。
「な……な、何だこれは?! さっきまで野菜を刻んでいたはずだろう!」
デズモンドの絶叫が屋敷に響き渡る。
彼は狂ったように玄関へと走り出した。
その時――ギィィ、と扉が開く音がした。
「……デズモンド様。中にいらっしゃいますか?」
その声は……知っている。ルークだ。
「ル、ルーク!! よかった……助かった……! 早く俺を――!」
だが、ルークの顔には冷たい微笑が浮かんでいた。
「なぜ……俺があなたを助けねばならない?」
「な、何を言っている?! 身分をわきまえろ、下民! 誰に口を利いていると思っている!」
ルークの足音が近づく。
その瞳は鋭く、燃えるような憎悪に満ちていた。
「身分だと? ……死の前では皆同じだ」
彼は腰に差していた肉切り包丁を握りしめた。
デズモンドの足は竦み、全身が震え出す。
「や、やめろ……! 分かっているのか?! 人を殺すことは大罪だぞ!」
ルークの瞳が氷のように冷たく光る。
低く、重い声が吐き出された。
「他人の権利を奪うことは……罪ではないとでも?」
――グサリ。
包丁がデズモンドの口に突き立てられ、そのまま押し込まれる。
彼の身体は仰け反り、床に叩きつけられた。
ルークはその上に馬乗りになり、動きを封じ込める。
「下民はただ耐えるだけだと……そう思っていたか?」
包丁を引き抜くと、血が噴き出し、デズモンドの口から溢れ出す。
ルークは顔を近づけ、冷ややかに囁いた。
「……下民だって、人を殺せる」
包丁の刃先が額に突きつけられ、鼻へと滑り降りる。
次の瞬間、ルークの動きは狂気に変わった。
獣を解体するかのように、何度も何度も振り下ろされる包丁。
デズモンドの顔は原形を失い、血が奔流のように床を染めていった。
――屋敷の屋根の上。
月光を浴びながら、チャールズは一本の煙草を咥えていた。
「……いい夜だ」
吐き出された白煙が夜空に溶けていく。
その背後から、女の声が響いた。
「ええ……本当に、美しい夜ね」
チャールズは横目で振り返る。
「やあ……もう終わったのか?」
ヴェスペラがそこに立っていた。
嫌悪を隠そうともせず、冷たい瞳で屋敷を見下ろしている。
「まったく……優雅さの欠片もない。あんな穢れた手で触れられるなんて、我慢ならないわ」
チャールズは小さく笑い、目を細めながら煙を吐き出した。
「悪かったな」




