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悪魔の慈悲

ロンドンの冷たい朝、果樹園は死んだように腐り果てていた。

全てを失った老いた果物商は、ただ一つの名に縋る。

――シャルル・オーガスト・ミルヴァートン。

彼の差し伸べる手は、救いか、それとも悪魔の慈悲か。

二日後――。


ロンドンの朝は冷たく吹き抜ける。

農夫たちが畑を世話するはずの時間。だが、一つの畑だけは死の庭と化していた。


果実は黒く腐り、野菜は萎れ、まるで誰にも触れられぬまま放置されたように。


その光景の前に、ひとりの果物商が立ち尽くす。

濁った瞳に涙が滲み、彼の世界は一瞬で崩れ落ちた。


「……おお神よ。これは……ありえない……」


膝が砕ける。

男は地に膝をつき、両手で顔を覆った。


心臓を掴まれるような絶望。


「……俺は終わりだ。畑を失い……妻までも奪われる……」


その朝、彼の世界は涙と共に崩壊した。


だが――その絶望の中、脳裏に一人の男の姿が浮かぶ。

チャールズ・オーガスト・ミルヴァートン。


二日前、あの男は確かに「助け」を口にした。


残された僅かな希望にすがり、彼は立ち上がると、よろめきながら駆け出した。

向かう先は――チャールズの診療所。



---


だがそこは空虚だった。

扉の前に座り込み、彼はひたすら待った。


時間は過ぎ、陽は昇り、体力は尽き……やがて壁に凭れて眠りに落ちる。


――そして昼。


「……旦那。私の診療所の前で、何をしているんですか?」


靴音と共に、その声は夢を破った。


目を覚ますと、目の前にチャールズが立っていた。

男の肩に軽く手を置き、穏やかな笑みを浮かべながら。


果物商――ルークは、慌てて地に這いつくばる。

涙を流し、額を土に擦りつけるように。


「ミルヴァートン様……どうか……どうか俺を助けてください……!

 俺は……もう、終わりなんです……!」


震える指がチャールズのズボンを掴む。

奴隷のように縋りつくその姿は、惨めで哀れだった。


チャールズの眼差しは冷酷でありながら、口元は慈悲深い微笑みを形作る。

わざと優しげに、男の肩を軽く叩いた。


「……落ち着きなさい。

 さぁ、中へ入りましょう。話はそこで聞きましょう。」



静まり返った診療所の中。

ルークは椅子に座り、頭を抱えたまま低く唸っていた。

意味のない言葉を繰り返し、今にも心が崩れ落ちそうだった。


チャールズは湯気の立つ紅茶を注ぎ、穏やかな声を投げかける。


「……まずは、あなたの名前を教えてもらえますか?」


ルークは顔を上げ、虚ろな瞳で答えた。


「……ルーク。

 ただの農夫で、商人にすぎません。好きに呼んでください……」


諦めた者の声音だった。


チャールズは薄く笑みを浮かべる。

「そうですか。では――話してみてください、ルーク。」


その一言で、堰を切ったように言葉が溢れる。


「畑が……畑が全て滅びたんです、旦那……!

 果物は腐り、野菜は枯れ果てた。

 あんなに世話をしてきたのに……これはおかしい……!」


チャールズはただ静かに頷き、考え込むふりをする。

何も知らぬ素振りをしながら。


ルークの肩は震え、視線は地面へと落ちていく。


「……このままじゃ……あの貴族が妻を奪っていく。

 そうだ、俺なんか……ただの下民だ。

 あんな美しい妻、俺には不釣り合いだ……」


その瞬間、チャールズの笑みは深まった。

待ち望んでいた言葉だった。


「ルーク……」

囁きは低く、耳の奥を刺すように響く。


「もしもだ……デズモンド卿が、わざと畑に毒を撒き……妻を奪おうとしていたとしたら?」


「なっ……そ、そんな……ありえない……!」


「ありえるとも。

 今季は本来、大豊作になるはずだったのだから。」


ルークの顔色は蒼白になり、俯いたまま唇を噛む。


「……たとえそれが真実でも……どうしようもない……。

 妻は……結局、奪われる……」


チャールズの眼が細められ、その笑みはさらに冷酷に歪む。


「それを知っても、まだ気づかないのですか。

 ――あなたは、騙されている。」


彼は身を乗り出す。

声は鋭く、心を抉るように。


「不公平だとは思わないのか?」


ルークの唇が震え、声にならない息が漏れる。


「……ただの庶民だからといって、抗えない理由にはならない。」


「……反抗……?

 それは……死にに行くのと同じだ……!」


チャールズはゆっくり立ち上がり、背を向ける。


「……なら帰れ。

 そして不幸を受け入れろ。」


「ま、待ってください!

 ミルヴァートン様……俺に、一体何ができるというんですか……!」


懇願する声に、チャールズはふと立ち止まる。

振り返り、再び椅子に腰掛けた。


その口元に浮かんだのは、毒を含んだ微笑み。


「……良い計画を用意してあげましょう。」


声は低く、悪魔の囁きのように甘く響いた。


「あなたは、ただ――私の指示に従えばいい。」

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