赤い夜、静寂の叫び
静まり返った夜。
ロンドン、ホワイトチャペルの暗がりで、何かが狂い始める。
子どもには静けさが恐怖に変わる瞬間がある。
――あの夜、チャールズの世界は、血と沈黙に飲まれた。
白い街灯がぼんやりと灯るホワイトチャペルの裏通り。
いつもなら酔っ払いの罵声や娼館の笑い声がこだまする時間帯なのに、今夜の街は異様なほど静かだった。まるで、ロンドンそのものが息を潜めているかのように──。
娼館の一室。
薄暗い部屋の中、マリアンヌは窓辺に立っていた。両腕を胸の前で組み、下唇を噛みしめながら、街を見下ろす。
ガス灯の光が不規則に揺れていた。不安定に、弱々しく。
「……変ね。今日は静かすぎる」
その背中を見つめていたのは、古びた人形を抱えたチャールズ。
彼は床に座ったまま、母の表情をうかがっていた。小さな声で、震えながら問いかける。
「ママ……なんで今日は誰の声もしないの?」
マリアンヌは無理に笑みを作り、振り返ってしゃがみ込んだ。そして彼の頬に手を添える。
その手は冷たく、微かに震えていた。
「きっと……ロンドンが早寝したんでしょうね」
「……本当?」
「うん、本当よ。さ、もう遅いわ。ベッドに──」
そのときだった。
廊下の空気が、一瞬にして変わった。
蝋燭の炎が「ぷっ」と音を立てて、ひとつ、またひとつと消えていく。まるで、何か見えない存在がゆっくりと近づいてくるように。
そして──
ガシャァンッ!!
一階から扉が破壊される音。木片の砕ける音。
次いで、足音──重く、早く、そして怒りに満ちた足音。
シィイイン──ズバッ!!
金属の斬撃音と、続いて響く女の悲鳴。甲高く、しかし途中でぷつりと途切れた。
チャールズは人形を落とし、耳を塞いだ。「ママ……なに、あれ……?」
マリアンヌの瞳から色が消えていた。
一瞬ためらった後、彼女はチャールズの両肩を掴み、真っ直ぐ目を見つめて言った。
「いい? ベッドの下に隠れて。今すぐ。ママがいいって言うまで、絶対に出てきちゃダメよ」
「でも……ママは?」
「お願い。早く!」
涙を浮かべながら、チャールズはベッドの下へと這い込んだ。
埃っぽい床、薄暗い視界。
マリアンヌは最後に彼の額へキスをし、「愛してるわ」と囁いてから立ち上がった。
そして、ナイトテーブルの上に置いてあった小さなハサミを手に取る。
扉の向こうの廊下は、もはや沈黙すらも凍りつくようだった。
――と、その時。
ドンッ!!
扉が蹴破られ、部屋の中に仮面の男が現れた。
血で濡れた外套、赤黒く染まった剣。
その目だけが、フードの奥から鈍く光っていた。
マリアンヌは叫びながら飛びかかる。
小さなハサミを振りかざし、必死に刺そうとする。
だが、男の剣が先だった──
ズバッ──シュルクッ!
切り裂かれる音、肉の裂ける音、そして……ドサッという音。
チャールズの視界の向こうで、母の身体が床に崩れ落ちた。
彼は手を口に当て、声を漏らさぬように震えていた。
男は静かに足を踏み入れ、マリアンヌの胸にとどめの一撃を刺す。
シュルッ……。
しばらくの沈黙。
ぽた、ぽた……と、床に血が垂れる音だけが響く。
そして──
男の手が、ベッドの下に潜むチャールズの足首を掴んだ。
「や──やめ──」
叫ぶ間もなく、剣の柄が彼の頭に振り下ろされた。
ガンッ!!
意識が、真っ黒に染まる。