悪魔が差し出した救いの手
都市の片隅、誰も目を向けない貧民街の果物屋で——
かつて畑を持ち、家族と静かな幸せを知っていた老人が、
一人の貴族にすべてを奪われた。
「私の娘は、最後まで微笑んでいた……」
老人の震える手、絞り出すような声、
崩れ落ちそうな果物の山。
その静かな慟哭が、
チャールズの心に眠るものを目覚めさせる。
優しさの仮面の裏で、
静かに、静かに、地獄が蠢き始める——
チャールズの唇から、細い煙が吐き出された。
夜の冷気に溶け、ゆらゆらと漂う。
彼の目が細まり、鋭く光る。
その視線は、目の前の男のやつれた顔を射抜いていた。
「お前の顔は……」
チャールズの声は低く、言葉ごとに重みが宿る。
「ただ商売を終えた者の顔じゃない。何かを失った者の顔だ。」
果物売りの男がびくりと肩を震わせた。
慌てて俯き、膝の上で指が震える。
「……す、すみません。旦那様。ただ……疲れているだけで。」
チャールズの瞳が細く光る。
赤く濁った目、乾いた唇、かすかに震える身体。
――これはただの疲労じゃない。
【世界に少しずつ削り取られていく者の顔だ。】
「疲れている? それとも……搾り取られているのか?」
チャールズは薄く笑みを浮かべる。
「俺には、その違いがよく分かる。」
男が唾を飲み込む。
重い呼吸。叫びたい何かが喉までこみ上げているが、恐怖がそれを塞いでいた。
やがて、かすれた声で囁く。
「旦那様……ロード・デズモンドという名を……ご存じでしょう。」
チャールズの眉がわずかに動く。
もちろん知っていた。
強欲な貴族――口を濡らすのは赤い葡萄酒と、民の血。
「もちろんだ。」
視線が鋭く突き刺さる。
「どうやら……そいつと関わりがあるようだな?」
男はさらに深く俯いた。
赤く充血した目。ぬかるんだ地面を見つめ、答えを探すように。
「……分からないんです。あいつは……妻を奪おうとしている。」
声が震え、かすれていた。
「妻は……私の唯一の存在だ。もし奪われたら……私は、もう誰でもなくなる……。」
チャールズが一歩近づく。
黒い靴が濡れた地面を踏み、冷たい音を残した。
彼は腰をかがめ、男の視線と同じ高さに立つ。
「それでもお前は、あの俗物の貴族に……人生を、女を奪われるつもりか?」
口元に薄い笑み。だが、その瞳は漆黒。
「愛する者を諦める男は――ただの屑だ。屑になりたいのか?」
男は呼吸を止めたように固まる。
顔は恐怖と怒りの狭間で硬直していた。
チャールズは畳み掛ける。
「黙っていれば、奴はお前を骨の髄まで吸い尽くす。収穫物も、財も……最後には妻さえも。」
彼の手が伸び、男の肩を軽く叩いた。
その感触は軽いのに、鋼よりも冷たい。
「だが、別の道がある。」
チャールズの視線が鋭く貫く。
「俺の言葉に耳を傾けさえすればいい。」
男がゆっくりと顔を上げる。
瞳の奥にかすかな光――怒り、絶望、そして死にかけた希望が揺れていた。
「……別の道?」
チャールズは顔を寄せた。
その声は低く、冷たく、耳を這う悪魔の囁きのように響く。
「もちろんだ。お前をこの鎖から解き放ってやれる。だが……」
口元に笑みが浮かぶ。
「……自らの手を血で汚す覚悟が必要だ。」
男は動けない。
迷いが空気に張り付き、舌は凍りついていた。
チャールズは立ち上がり、背を向ける。
煙草の煙だけが残る。
「覚悟ができたなら――俺のもとへ来い。」
そして、去っていった。
男を泥濘の道に置き去りにし、その心を揺さぶったまま。
夜。
街は沈黙に飲み込まれ、息苦しいほどの静寂に包まれていた。
黒髪に銀の十字架のピアスを揺らす男――チャールズ・ミルヴァートン。
彼の靴音が、デズモンド家の広い屋敷の庭に、乾いたリズムを刻んでいた。
重い扉が開く。
深々と頭を下げる執事が現れる。
「ようこそお越しくださいました、ミルヴァートン様……。旦那様はすでにお待ちです。」
チャールズは何も言わない。
ただ、鋭い眼差しを部屋の奥へと滑らせた。
正面の壁には、大きな絵画が掛けられていた。
デズモンド家の家族肖像――その中の女の微笑みは、未だ温もりを失っていなかった。
――ああ。
【やはり、お前は妻を忘れていないのか。】
「ハロー、ハロー! ミルヴァートン殿! お会いできて光栄ですな!」
陽気すぎる声が部屋に響く。
デズモンド卿。葡萄酒で赤く染まった顔、脂ぎった笑みを浮かべ、柔らかな椅子に腰掛けていた。
「どうぞお掛けください、ミルヴァートン殿。今宵はどのようなご用件で?」
チャールズは口元をわずかに歪め、作り笑いを浮かべた。
「いや、特別な用事はない。ただ……挨拶をと思ってな。」
向かいの椅子に腰掛け、煙草に火を灯す。
白い煙が立ち昇り、重苦しい空気を切り裂く。
「ところで、デズモンド卿……」
チャールズの目が細まり、低く鋭い声が続く。
「園芸はお好きかな?」
「えっ……あ、ああ。もちろん、好きだとも。」
嘘だ。
屋敷の庭の場所すら知らぬ男が、何を言う。
チャールズは小さく頷いた。
「そうか。それは幸運だな。この季節は収穫が豊かでね。」
「そ、それは結構。ぜひ、私の収穫も分けて差し上げよう。」
ぎこちない笑み。
だが、チャールズの声色が低く沈むと、空気が変わった。
「だが……」
彼は身を乗り出し、囁くように言った。
「植物を、一晩で腐らせ枯らす薬があると聞いたが……知っているか?」
一瞬、デズモンドの目が揺れる。
そして――欲望の光を宿した。
「ほぅ……そんな薬が。興味深いですな。ふむ……ぜひ気をつけねば。」
乾いた笑い声。
だが、その瞳にはいやらしい渇きが滲んでいた。
「もしよろしければ……その薬の名を教えていただけますかな?」
チャールズは煙草を掲げる。
白煙が細い線を描き、空に消える。
「名など……どうでもいい。ただし、市場ではほとんど手に入らない。」
口元に影を落とし、微笑む。
「だが、偶然……一本だけ、私の手元にある。」
デズモンドの瞳が貪欲に燃える。
「ほう……! それは素晴らしい。ぜひ、私に譲っていただけませんかな?」
チャールズは軽く頷いた。
「いいだろう。明日の朝、私の従者に届けさせよう。」
「ミルヴァートン殿……お優しい! 感謝いたしますぞ!」
油で光る笑顔。
だが、チャールズは静かに立ち上がり、黒い外套を整えた。
「では、失礼する。」
そう言い残し、部屋を後にする。
外は夜更け。
冷たい風が頬を刺し、石畳の道を彼は一人歩いた。
――その時。
狭い路地の影から、一人の影が姿を現す。
銀色に輝く長い髪。赤い瞳が、夜の闇に柔らかく灯っていた。
「……坊ちゃま。こんな夜更けに、何をなさっているのです?」
ヴェスペラの低い声。
チャールズは煙を吐き出し、短く答えた。
「別に……。ただ、夜風に当たりたかっただけだ。」




