微笑みの仮面、絶望の街
ロンドンに再び姿を現したチャールズ・オーガスト・ミルヴァートンは、若き貴族として民衆の前に穏やかな笑顔を見せる。道行く人々に声をかけ、ささやかな品物を買い取るその姿は、ただの善行ではない——ミルヴァートン家の名を取り戻し、街の信頼を得るための周到な計画の一環だった。
その背後では、悪魔ヴェスペラが静かに彼を見守っている。かつては無力だった少年が今や強く魅力的な男となった姿に、彼女の胸は淡い感情で揺れていた。
だが、平穏な風景の片隅に潜む影。寂しげに果物を売る一人の男が抱える沈黙の奥には、ある貴族の非道な所業が隠されていた。それは、チャールズの次なる報復の引き金となる——。
王冠家の屋敷にて
翌朝、ロンドンの王冠家の屋敷には、不穏な空気が流れていた。
“ミルヴァートン家の生き残りが帰還した”――その報せは、屋敷の中を恐慌に陥れる。
赤髪を揺らし、紅いドレスを纏った女が椅子に腰掛ける。
片手には煙草、もう片手にはビール。白い息を吐き、彼女は冷ややかに問うた。
「……なぜ、ミルヴァートン家がまだ存在しているの? 皆殺しにしたはずでしょう」
「いいえ、お嬢様。確かに全員を始末しました。ご存じの通り――リリアン・ミルヴァートンには子を成せぬはずでしたから」
そう答えたのは、操り人形師。ミルヴァートン家を滅ぼした張本人である。
だが、彼の胸には誰にも告げぬ秘密があった。
――幼き子供、チャールズを、あえて見逃したのだ。
ローズマリーは苛立ちにグラスを叩きつける。
紅の瞳が揺れ、不安と苛立ちが入り混じる。
「……っ。彼の存在は、私の計画を壊しかねない」
数秒の沈黙の後、彼女は小さく息を吐き出し、無理やり笑みを浮かべた。
「……まあいいわ。たった一人の男で、私が揺らぐはずがない」
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夜。
屋敷の地下にある暗い研究室で、マリオネッティストは一人、椅子に腰掛けていた。
手元には、ロンドンの新聞。そこには“チャールズ・オーガスト・ミルヴァートン”の名が躍っている。
「……チャールズ。やはり生きていたのか」
彼は独りごち、ゆっくりと立ち上がる。
頭の中では、次の研究の構想が蠢いていた。
「さて……どう動くべきか」
その夜も、彼は狂気の実験に没頭する。
かつて医師であった男は、今や“死を拒む者”へと成り果てていた。
己の老いを止め、時を縛る研究。
氷の中で眠る、長らく保存されてきた一体の女の死体を、彼は前に引きずり出す。
「……ふふ、やっと出番だ」
腐敗もせず眠る女の顔に、彼は指先を這わせた。
その口元には、正気を失ったような笑みが広がってゆく。
「この夜……ロンドンを揺るがすのは、私の“傑作”だ」
冷たい研究室に、狂気の笑いが響き渡った。
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翌朝、チャールズはロンドンの石畳を静かに歩いていた。灰色の空の下、街はいつものように騒がしく、煤にまみれた建物が立ち並ぶ中で、彼の姿はどこか異質にすら見えた。
だが、それこそが彼の狙いだった。
この街に自分が帰ってきたことを、人々に知らしめるため。いや、それだけではない。恐れを抱かせるのではなく、安堵と尊敬を植え付けるために――かつての貴族ではなく、「民と共に歩む存在」としての仮面をかぶる必要があった。
「ふふっ……偽りの微笑みを貼り付けるのも、随分と様になってきたじゃない」
後ろを歩く黒いヴェールを纏った女――ヴェスペラは、そう心の中で呟きながらチャールズの背を見つめていた。
「かつては無力な少年だったあなたが……今や、堂々たるカリスマを纏った男になったのね」
そう思った瞬間、ヴェスペラの頬がかすかに紅潮する。己の心に芽生えた名もなき感情に戸惑いながらも、彼女は何も言わなかった。
チャールズは街の人々一人ひとりに丁寧に微笑みかけ、軽く頭を下げ、時に子どもと談笑しながら、露店でパンや果物を買っていく。彼は常に言っていた。
「金持ちは貧しい者に分け与えるべきだ。力ある者は、弱き者を助けるべきだ」
その言葉は静かに、しかし確実に人々の心に染み渡っていった。ミルヴァートン邸の周囲には次第に穏やかな空気が流れ、互いに助け合い、笑い合う人々の姿が戻り始めていた。
だが、そんな穏やかな景色の中に、明らかに場違いな男がいた。
街角の果物屋。年老いた男が寂しげに座り込み、売り物の果物は半分ほど腐りかけていた。彼の表情は曇り、誰とも目を合わせようとしない。
チャールズは迷わず足を止め、その男に声をかけた。
「調子はどうですか、おじさん?」
男は答えなかった。ただ俯いて、痛んだリンゴを手で隠すようにするだけだった。
「何かあったんですか? もし困っているのなら、僕にできることがあれば手伝います」
チャールズの声音は優しく、それでいて真剣だった。
男は、しばらくの沈黙の後、ほんの少しだけ顔を上げた。だが、その目に浮かんでいたのは、深い絶望と恐れ――それは、まだこの街に巣食う「闇」の存在を示しているようでもあった。
ヴェスペラは黙ってその様子を見ていた。彼女の瞳には、今や王すら欺ける男へと成長したチャールズの背と、未だ消えぬ民の痛みが、重なって映っていた。




