終わりの前の幸福
剣の稽古が終わった、澄んだ朝の空の下。
シャルルは、リリアンにそっと語りかける。
「母さん、と呼んでもいい?」
子を持たぬ女と、母を失った少年。
運命が交わり、心が繋がった日。
市場の喧騒、笑い声、ふたりの影。
母子のような一日が、静かに流れてゆく。
しかし、細い路地の奥。
視線が、ふたりをじっと見つめていた。
夕刻、宮廷からの使者が一通の知らせを運んでくる。
「ミルバートン家が王位継承候補に選ばれました」
リリアンの胸に、初めて小さな不安が芽生える。
この幸福は、果たして本物なのだろうか――
午前の剣術訓練が終わった頃、涼やかな風が邸宅の中庭を吹き抜けていた。
「……母さんって、呼んでもいい?」
その言葉に、リリアン・ミルヴァートンは一瞬、時間が止まったかのように動きを止めた。
チャールズは真っ直ぐに彼女を見つめていた。大きくも小さくもない、けれどその瞳には確かな決意が宿っていた。
「あなた……今、なんて……?」
「母さんって呼びたい。だって、僕にとってリリアンは、母親みたいだから……」
ふっと、リリアンの胸が締めつけられた。決して自分には手に入らないと思っていた“母”という役割。それが今、この少年の口から――
「……いいの? 私なんかで……」
「うん。ずっと、そう思ってた。」
次の瞬間、彼女は彼をそっと抱きしめた。震える指で、金糸の髪を撫でながら、誰にも見せたことのない優しい微笑を浮かべる。
「……ありがとう、チャールズ。こんな私を……母さんにしてくれて。」
日差しがゆっくりと差し込み、二人の影を庭に落とした。
*
午後、リリアンはチャールズを連れて市街へと出かけた。帽子と薄い外套を羽織り、目立たぬようにして。
「今日は何が欲しいの?」
「うーん……母さんが選んで!」
「ふふ、それはずるいわね。」
市場には新鮮な果物と野菜が並び、通りには香ばしいパンの匂いが漂っていた。チャールズがぶどうを一房持ち上げると、リリアンはそれを軽く引き寄せて値段を確かめた。
「これ、美味しそうね。買っていきましょう。」
二人はまるで実の親子のように寄り添いながら、通りを歩いていた。笑い声が絶えず、リリアンの表情にはこれまで見たことのない柔らかさが宿っていた。
だが――その幸せな光景を、路地の奥から誰かが見つめていた。
黒いフードを深く被った人影。まるで教会の修道服のようでいて、どこか違う……背中には、色褪せた“道化の仮面”の紋章が浮かび上がっていた。
(……見つけたぞ、ミルヴァートン。)
その瞳に宿るのは、冷たい観察者の光――
*
夕暮れ、赤く染まった空の下。馬車の中でリリアンは静かに目を閉じていた。
「楽しかったな、母さん。」
「ええ、また一緒に行きましょうね。」
その言葉に、チャールズは嬉しそうに微笑んだ。だが、屋敷へ戻ると、すぐに空気が変わった。
食卓には温かいスープとローストが並べられていたが、召使が慌ただしく廊下を駆け抜けた。
「どうしたの……?」
「奥様、急ぎの使者が参りました!」
扉が開き、王宮の紋章を携えた男が姿を現す。整った衣服に血の気のない表情――彼の手には、封蝋がされた書状。
「ミルヴァートン家は、次代王位の候補に選出されました。」
「……!」
一瞬、室内の空気が凍りついた。
チャールズは意味が分からずリリアンの顔を見る。だが、リリアンの顔には微かな緊張と疑念が浮かんでいた。
「……なぜ、今になって?」
声には出さず、彼女は胸の奥に不安の種を感じていた。
それは、古くからの血筋に眠る“呪い”を、再び呼び起こす合図に思えたのだった。




