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世界で一番美しいママ

ロンドンの最も暗い場所、ホワイトチャペル。

そこで娼婦の子として生まれた少年チャールズは、ある夜すべてを失った。

神に見捨てられたその子が契約したのは、深紅の目を持つ悪魔。


これは、笑顔を失った少年が、腐った貴族社会を裁く物語。

 ロンドンの陰に潜む地区、ホワイトチャペル。


 そこは、酒と煙と血の臭いが染みついた、誰もが目を背ける場所だった。

 月でさえ、この地に光を落とすことを拒む。そんな街の片隅に、一軒の娼館があった。


 その軋む床の上に、ひとりの少年が寝転がり、くすくすと笑っていた。




 ——チャールズ・オーガスト・ミルヴァートン。


 黒い髪、透き通るような白い肌。

 年齢は八歳。


 生まれた瞬間から、この世界には何一つ良いことなどなかったはずだ。


 けれど——彼は笑っていた。






 その朝、ホワイトチャペルは珍しく静かだった。


 騒がしい喧嘩も、酒場の絶叫も、朝の鐘に紛れていない。

 曇り空から差し込んだわずかな光が、埃の舞う室内をぼんやりと照らしていた。




「……んっ……もうちょっと……」


 チャールズは舌を出しながら、色の抜けたクレヨンを手に紙へ向かっていた。


 その紙は何度も描き直されたようにシワだらけで、角は破れている。

 それでも、彼の手は一生懸命だった。




「できたっ!」


 彼は立ち上がり、誇らしげに紙を掲げた。


「ママを描いたの! 見て見て!」




 紙の上には、黄色い髪をした女性の絵。

 赤いドレスを着て、優しく微笑んでいる。


 歪んだ線、不器用な塗り方。


 でも、そのすべてに“愛”が詰まっていた。




 部屋の入り口に、女性が立っていた。


 金髪はゆるく結ばれ、着古した薄いドレスからは疲れ切った骨のような体が見えた。

 頬は痩せこけ、唇は乾いていた。


 それでも、彼女の目は——優しかった。




「……ふふ、それがママなの?」


「うん! 一番きれいなママだもん!」




 女性——マリアンヌは、ゆっくりと部屋に入り、チャールズのそばにしゃがんだ。


 そして、彼の髪を撫でる。




「チャールズは絵が上手ね。いつか、画家になれるかもしれないわ」


「画家なんかならないよ。ママと一緒にいるんだ」




 その言葉に、マリアンヌは一瞬だけ、目を伏せた。




「……ママになるって、そんなに悪いことなの?」


 チャールズが問いかける。




 マリアンヌは何も答えなかった。


 ただ、紙を見つめ、少しだけ目を潤ませ——


 チャールズを強く抱きしめた。




 彼にとって、世界はマリアンヌだった。

 あの声、あの腕、あの匂い。


 変わる男の顔も、音のするベッドも、知らない叫び声も。

 全部、彼には関係なかった。




「ママがいれば、それでいい」——本気で、そう思っていた。




 マリアンヌは、彼にとって太陽だった。

 世界だった。

 人生そのものだった。




 だから、彼は——笑っていた。


 マリアンヌが笑うから。

 彼も笑えた。




 たとえ、その笑顔が、

 いつか壊れるものだとしても——

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