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寛容  作者: 中岡 真竹
9/10

九、グレーのクリスマスイブが・・・・

九、グレーのクリスマスイブが・・・・


世間が騒々しくなっていた。

十一月の中日(なかび)を過ぎて秋の行楽シーズンの三連休を迎えていた。

其の三連休の二日目の夕食の席で森彦と紀代子が七時のニュースに眼を配っている。

ニュースを告げているアナウンサーが緊急地震情報を流した。

二人は持っている箸の動きを止めて、画面に釘付けになった。

此のニュースの画面から流れて来ると言う事は、大きな地震が襲って来るのだろう。と緊張感が迫って来た。

アナウンサーがニュースを中断して地震の事を何度も何度も繰り返している。アナウンサーの説明では茨木沖との言葉が耳に付く。

森彦と紀代子が画面から眼を外して、二人が見合わせた。

二人の眼は、あの東北地方の地震を思い起こしている様な眼である。

茨木と言えば東海村の原子力施設を思い起こす。東日本大震災の時の福島第一原子力発電所の事故に二人の考えが流れて行く様な眼であった。

時間が経つに従って、正確な情報がアナウンサーから流された。

津波は来ない。

揺れの震度としては震度五弱が最高であるようだ。

其の五弱が茨木県の東海村とアナウンサーが伝えている。

危惧している事で、二人が眼を合せている。

程なくして、各地の被害情報が流されているが、何処の街からも被害が甚大だと言う情報が放送される事はない。

五弱であった東海村の原子力施設に被害がない事が伝わって来た。

安堵した・・・・・。森彦と紀代子が多少の()みを浮かべて頷きを交わした。

ニュースの時間は終わった。夕食を中断して見ていたテレビから食卓に目を移した二人は、再び箸を付ける気にもならず。茶を啜りながら、この日のニュースを話題にして話に入ろうかとした時、紀代子が席を立ってリビングのシャッターを閉めに掛かった。その時、カーテンを少し捲って外を見ると闇の世界が漂っていた。

「貴方、外は真っ暗ですわょ」

 言われた森彦は何故(なにゆえ)に紀代子がこの様な事を言って来たのが分からず。ただ、返事の代わりに二度ほど頷きを見せた。

紀代子に言わせれば、一月前(ひとつきまえ)までは此の時間にシャッターを下ろした時、外の様子を眼で捉える事が出来ていた事から考えると、季節が正確に流れている事を森彦に伝えたかったのであった。

他愛無い会話でも、二人の心を温ませていた。

席に戻った紀代子が森彦の茶碗に茶を注ぐ様な素振りを見せると、森彦が頷きを見せて紀代子に茶碗を差し出した。

「大きな被害がなくてよかったわ」

「そうだねぇ」

「地震とコロナが重なると、と私は思ったの」

「僕もそう思った」

「地震には安堵したけれどもコロナは大変だわ」

 と言って、暫し()を置いて紀代子が言葉を繋いだ。

「貴方、先程のニュースでの観光地の人込みは大変ねぇ」

「観光地からの感染が広がっているとは言い難が・・・」

「しかし、人の込み合った処は恐ろしいわぁ」

「それは言えるが、活動が無いと世の中が疲弊してしまう」

「世の中の疲弊・・・・・」

「うん、国が成り立たなくなって行くかも知れない」

「国が・・・・・・」

 と紀代子が絶句した。

二人の間で会話が止まった。やけにリビングの明かりが皓々と二人を照らしている様に紀代子には感じられた。

その灯りに眼を遣った紀代子は、先日、アメリカの友人から送られて来たメールの中身を思い起こしていた。

アメリカ大統領選挙が十一月三日に行われて、新しき大統領が決まったのであるが、新旧の大統領支持者達の間で対立が何処彼処(どこかしこ)で行われている事が書かれていた。

アメリカに多少住んでいた紀代子には、此の友人の話は理解出来るが、日本の人達には理解し難い事だと思っていた。

其の友人が書き教えてくれた事は、連邦政府の役人を大幅に解雇すると言う話が政界で取沙汰されている話だった。

連邦政府の職員を大幅に解雇する。そうすると、連邦政府の役人であるアナンさんはどうなるのかしらと、此の事が気になりメールをアナンさんに流してみよう。

紀代子がこの様な思いをする様に、森彦もアナンさんの事が心配であった。森彦の心配は紀代子が心配している様な事もあるが、それよりも先日スペインから届いた新聞で、スペイン全土での新型コロナウィルスに感染している人は一五五万人であり、死亡された方は四万人を超している情報が大きな見出しで載っていた。

アナンさん一家が感染してあるならばそれなりの連絡が来よう。

いや、連絡もされない様な状態なのか・・・・・。

数値から森彦は苛立(いらだ)ちを覚えている。

日本でも騒いでいるが、日本の様な物ではない。隣同士で感染が広がっている様な物だ。

それならば食料調達はどの様にしておられるのだろうか。

考えれば、考えるだけ心配が度を越して来る。

十一月の(なか)ばに差し掛かった頃の記事では、マドリード自治州での感染状態は九月に入ってから最悪な状態を辿(たど)っていたので、悪化している地区のみを封鎖する政策を取り込んだ結果、州全体の経済効果を壊す事なくマドリード自治州の感染状態を七週間連続で改善達成中であると書かれていた。此の記事を読むと心配している事が、何処となく安心感に覆われる気持ちになった。

こんな記事も目に入った。

感染防止の為にマスクを掛けている。此のマスクは現時点では生活必需品ではないか。これに消費税を掛けるとはもってのほかだ。と野党が政府に抗議した。と言う記事が・・・・・

此の事で二十一%の消費税が掛けられていたのが四%になった。マスクの販売価額が安くなったと書かれている。

日本は如何(いかが)な物か。と森彦は苦笑の表情を浮かべ乍ら次の記事へと目を走らせている。

ワクチン接種を受け入れるか。とのアンケートの記事が乗せられていた。

受けると応えた人は三十六・八%であった。

受けないと応えた人は四十七%であった。

この調査は何度か行われているらしい。

しかし、回を重ねる度にワクチン接種拒否の方が増えている。と書かれている。これは、ワクチンの安全性に疑問を持つ人が国民の中に多いと言う事を示している。と記事は結んであった。

この事は日本では如何(いかが)な物になるのかなぁ。

と思った時、日本政府はワクチン接種に関しては高齢者から始めて行く様な事を言っていた事を思い出して。

―そうかー

と呟く様に言った。

森彦の呟く様な言葉が紀代子の心配心を揺さぶったのか。

紀代子が森彦に言葉を掛けて来た。

「貴方、アナンさんにメールでも流しましょうよ」

「いや、言われた様にクリスマスまで静かに待とう」

「クリスマスまで・・・・・・・」

「うん、そうだ」

 と言った森彦の表情も何処やら心配の影を宿していたが、この影を踏み潰してアナンさんと連絡を取る事がアナンさんは喜んでくれるかなぁ。と思い乍ら心配の表情を消した。


 今まで、経験した事が無いコロナ禍のうんざりする毎日、ニュースと言えば東京では今日一日で何名が感染された。日本全国では何千名である。東京の今日一日の感染者数も全国の感染者数も過去最多の数字であると聞かされる。

亡くなった方と言えば森彦や紀代子と同年齢か多少歳を重ねられた人達であろう。と紀代子がニュースを耳にし乍ら、自分達と同年配の人達が危機意識を持たれて行動が縮小されて、毎日発表される数字が小さくなって行くのに期待をしたい。と紀代子は師走に入って、十日が過ぎた日の夜のニュースで発表されている数字を聞き乍ら思っていた。

今日も過去最多の数字と発表された。

発表されたこの日も最悪だと思い乍ら紀代子はベッドルームに足を向けた時、紀代子のスマホの呼び出し音が鳴り響いた。同じ様にベッドルームに向かっていた森彦が、紀代子の呼び出し音で振り返って足を止めた。

紀代子がスマホを見ると紀代子のロサンゼルス時代の友達でローズと言う女性が電話を掛けて来たのであった。

此のローズは、いまニューヨークの繁華街から少し離れた住宅街で暮らしている。

その彼女が、こんな夜更けにスマホを掛けて来るのだから何かあったのだろうと思い乍ら、彼女の話を待ったが、

何かがあった話ではなかった。時差の事が頭になくて九時半になったから掛けて見たとの事であった。


 ローズと言う女性が電話を呉れてから十日が過ぎて二十二日の十六時過ぎを時計の針は示していた。

紀代子がリビングの椅子に腰を下ろした時、セーターのポケットに入れているスマホの呼び出しが成り出した。慌てた様子でポケットからスマホを取り出して相手を確認すると、笑顔を対面の森彦に見せて話し出した。

流暢な英語で話し乍ら、時偶、対面の森彦に眼を遣っている。

森彦は紀代子の相手がアメリカの友達と分かってはいたが、紀代子の会話を聞いていると、何やら、笑える様な話しではない。

森彦は紀代子の話が終わるのを待った。

三分ほどの会話であった。

「何の話であったのか・・・・・」

 話が終わると途端に、森彦が尋ねて来た。

「ワシントンに住んでいるエリーからの電話よ」

「ワシントン・・・・・」

「先日、ニューヨークのローズがテレビ電話をくれたでしょう」

「アメリカ大統領の選挙後の様子の事を話してくれたなぁ」

「其の事で、ローズがワシントンのエリーに話したそうよ」

「それで、ワシントンのエリーと言う人が電話して来たの」

「そう」

「ローズが話した大統領選挙後の経緯にはまだまだ尾鰭(おひれ)が付いていると言って、電話では永くなるし、お金も掛るからテレビ電話を掛けるからパソコンの前に行ってと言っているの」

 と紀代子が言って森彦にパソコンを開く様に目配りを見せた。紀代子とワシントンのエリーは二十分位話して森彦が居るリビングに紀代子が顔を出した。

紀代子が台所に行って暖かいコーヒーを淹れて、森彦と紀代子の前に置いて腰を下ろした。

コーヒーを啜り乍ら、紀代子がエリーから聞いた話を始めている。ワシントンのエリーから聞いた。大統領選挙後の生々しい話を、紀代子が森彦に話し終えると、森彦は多少の驚きを紀代子に見せて、冷えたコーヒーを口元に運んだ。


 玄関を出た紀代子は空を見上げた。どんよりした冬の空が一面を覆っていた。其の(くも)(あいだ)に眼を据えて思いを巡らしていた。

と言うのは、今日のこの日がクリスマスイヴだと紀代子が知っていたからであった。

ホワイトクリスマスではなくグレークリスマスか。

溜息(ためいき)の様な物を吐き乍ら呟いた。


 もう五十年程昔になるだろうか。紀代子がロサンゼルスで美容の勉強をしている頃、先日、ニューヨークとワシントンからテレビ電話を掛けてくれたあの仲良し友達とホワイトクリスマスを楽しもうと言って、ニューヨークからシカゴの街を探索した事を思い出していた。あの時、シカゴの郊外にあるホテルに二十三日から宿泊して夜が明けた時に一面銀色の世界を眼にした。

この光景から五十数年が過ぎたが、あの様な光景を再び目にした事はない。だから、クリスマスイヴと言えばあの日の光景しか思い出す事はない。

今日がグレーに覆われているイヴの空を見て、溜息の様な物が出てしまったのだ。

此処は日本だからと思い直して、玄関口から門柱に向かっての歩道に足を運ばせた。門柱の横に作ってある郵便箱に何時(いつ)もの様に手を入れて、中の郵便物を取り出して見た。

数通のダイレクトメールに交じってB5の角封筒が混じっていた。

表の住所は日本語で紀代子と森彦が住んでいる処の住所が書かれているが、星子 森彦と紀代子の名はローマ字で書かれている。

この可笑しな書き方に不思議な表情を見せた紀代子が、誰からの手紙かと思って封筒の裏を見ると、其処には東京都江戸川区の住所で尾幡千代乃と書かれていた。

紀代子の友達にも知り合いにも江戸川区で尾幡 千代乃と言う人はいないと思い乍ら玄関口の方に戻り掛けた。

ひょっとしたら、森彦の知り合いかも知れないと思い乍ら玄関ドアに手を掛けた。

「貴方、江戸川区に居られる尾幡千代乃さんと言うお方ご存じ」

 とリビングに入るなり森彦に声を掛けた。森彦は紀代子が淹れてくれたコーヒーを啜り乍ら、朝刊に這わせていた眼を紀代子の呼び掛けに合わせて紀代子に眼を遣った。

「あー」

 と気のない返事で、紀代子に言葉を求める様な表情を見せた。

「貴方のお知り合いで尾幡千代乃さんと言う方はおられますか」

 紀代子の問い掛けに、森彦は少し小首を捻る様な仕草を見せて、紀代子から問われた人の名を頭の中で(めぐ)らかしている様だった。

「いや、知らない。其の人が何か・・・・・・」

 と森彦が訝る様な表情で、紀代子の眼に視線を流した。

「其のお方のお名前で私達に手紙が来ているの」

「手紙・・・・・・」

「それも私達二人の名前はローマ字よ」

「ローマ字・・・・・・・」

 と言った森彦の前に紀代子が其の手紙を差し出した。手紙を手にした森彦が封筒の表と裏を何回となく返して、思案顔で紀代子を見た。

「住所に名前は私達の事だ。開けて見ようか・・・・・」

 と森彦が言って紀代子に眼を遣った。

紀代子が小さく頷いて見せた。開いた封筒の中には一枚の便箋(びんせん)と二通の封書が入っていた。

其の便箋には、尾幡千代乃と言う方の自己紹介が書かれた後には、封書を送り届けた意味が書かれていた。

一通の便箋を読み上げた森彦が、目元に()みを携えて紀代子に頷いて見せた。

森彦が言うには・・・・・・、

「此の尾幡千代乃さんと言うお方は、アナンさんとアメリカ国務省に同期入省された方だ、アメリカ大使館勤務をなされているお方だ。

此の方の処にアナンさんから電話が入り、日本の郵便制度は指定日配達制度があるのかと尋ねられたので、あると応えると、アナンさんが尾幡さんの処に封書を送るから、其の封書をアナンさんが書き知らせた住所の処の夫婦に送ってくれと言う手紙が来そうだ。

其の手紙は私達に送る手紙で、その手紙はクリスマスイヴの当日に配達される様な条件が書かれていたそうだ。

其の様な訳で、この尾幡さんがアナンから頼まれた手紙を私達の許にアナンさんが希望された日に届く様に送らせて頂いたそうだ。

住所は日本語で書かれるが、私達の名前を漢字で書くと間違う事になるから、アナンさんが教えてくれたローマ字で書かせて貰ったと書かれている。

最後には、失礼の事、お詫びしますと書いてある」

と読み通した森彦が紀代子に説明すると、紀代子と森彦が顔を見合わせて大きな頷きを見せていた。

以前、アナンさんがアメリカの大学を卒業してアメリカ国務省に入省した時、研修会で意気投合したのが日本人の尾幡千代乃さんだと教えて呉れた事を思い出していた。

「そうねぇ。アナンさんのお母さんが日本で勉強された事で・・・・」

「うん。そんな繋がりがあって親しくなったと言われていたねぇ」

 森彦と紀代子はそんな会話を楽しんだ後、尾幡さんが送ってくれた二通の封書に二人が眼を落した。

其の一通の封書は軽い物で住所は書いてなくて、森彦と紀代子の名前がローマ字で書かれている。裏を返して見ると小さな字でアナンと書かれている。

アナンさんが出された手紙、と森彦と紀代子は思って卓上のケースに入れてある(はさみ)を取り出して、森彦が封を切った。

書かれている文面は英文で、森彦と紀代子の処に定めた日に此の郵便物が届く事で、友人の尾幡千代乃さんに此の手紙を託した事が書かれていた。

次にアナンさんが書いてある事は、Madre Soriano Carreras Leideが生前、星子 森彦様の奥様にお詫びをしなければならない。と私に何度か話して来ました。

その時、母レイデは私が何時の日か星子 森彦様に会う事があった時には、此の手紙を森彦様の奥様に渡す様に頼んで来ました。母から此の手紙を渡された時、此の手紙は密封されていましたから、母がどの様な事を書いているのか。私は知りませんが、母が私に奥様にお詫びを、と何度も言っていましたから、私達の国で一番大切な日として迎えているクリスマスイヴのこの日に、母の手紙が奥様に届けばと思って尾幡様に頼んで差し上げました。

その様に書かれた後には、アナンが日本の大切な日、一月一日になった時刻にテレビ電話を差し上げますから、日本は深夜になっていますが、此の時間にアナンの家族達とお話をさせて頂きたいと書かれていた。

森彦がアナンさんからの手紙を読み通して、紀代子にアナンさんの言葉を伝えた。

「アナンさんがお母様からの手紙を送ってくれたの・・・」

「そうらしいねぇ」

 と言った森彦が卓上にある手紙を手にした。

「それも、クリスマスイヴに手紙が届く様に・・・・・」

「うん・・・・」

「アナンさんの優しさが心に沁みて来るわ」

「此の手紙の中身を・・・・・」

 森彦が呟く様に言った。

そして、手にしている手紙を紀代子に差し出した。

「貴方が封を切ってお読みになって・・・・・」

「いや、紀代子に出されたレターだ。受け取ってくれ」

 森彦は何処やら緊張した表情で、手にした手紙を紀代子の手に触れさせた。紀代子は手にした手紙に眼を落していた。

そして、紀代子がその眼を森彦に向けると小さく頷いて、森彦の前にある鋏に眼を遣った。

紀代子が静かに手紙に鋏を入れた。

中から五枚ほどの便箋に奇麗な日本の文字で書かれた文面が紀代子の眼に入った。

「貴方、日本語で書かれていられるわ」

「そうか・・・・」

 と言った森彦は目を(つむ)って遠い過ぎ去った日々に想いを巡らせているのか。紀代子は文面を読み通すに従って目頭を押さえ乍ら読んでいたが、何時(いつ)しか紀代子の頬に一筋の雫が流れ落ちていた。


 レイデさんからの手紙を読み終えた紀代子は、其の手紙に視線を落として(うつむ)いたままであった。森彦が声を掛けて来たのに合わせて、徐に持ち上げた紀代子の表情は、今にも号泣(ごうきゅう)しそうな顔を一文字に噤んだ口で堪えている様だった。

「紀代子、何て書いてあるのか・・・・」

 此の森彦の問い掛けに紀代子は応える事も無く。

黙って、紀代子の手元にある手紙を森彦に手渡した。

手にした森彦が手紙を読み通している(あいだ)、紀代子はレイデさんの澄み切って見える心の中を見通していた。


 レイデは日本の文化を学びたいと思って、其の日本の文化が色濃く残っている処は京都だと教えられて、京都の大学に留学をいたしました。其処で学んだ事は日本人の文化の流れでありました。

日本の政治・経済の事も学びましたが、レイデが特に勉強したいと思った事は、日本も古い歴史を有している国であるから、この古い歴史の中でどの様な文化が作り上げられて、現代にどの様に反映されているのかを勉強いたしました。

此の日本で勉強した日本の文化の事が、帰国して国のお仕事に()いた時に大いに為になりました。その国の、政治・経済と自分達の国との連携を深めて友好な結び付きをして行くには、その国を司って居られる国民が身に付けてある文化を会得しなければ、自分に任されたお仕事も先に進ませる事は出来なかったが、貴女の国で学ばせて頂いた事が私の仕事を進ませてくれました。

そんな仕事をしている時、マドリードの下町にある居酒屋に立ち寄ってグラスを傾けていると、同じカウンターの端で片手に持ったグラスに眼を落して居る方に眼が向きました。

薄暗い中で、その方の横顔に惹かれる物を感じました。

この様な下町の酒場には地元の人達しか寄って来ないのが、東洋人の風貌(ふうぼう)をなされた方が・・・・・

懐かしさから話をして見たいと心が動いた。

まず、英語で日本人ですか。と尋ねました。

はっきり、イエスと応えられました。

其処で、私が、何故(なにゆえ)に、見も知らぬ貴方様に話し掛けて来たかを話し始めました。

それは、日本の事を勉強したいと思って京都の学校に留学をして、今は、この国の政府機関で働いている事を話しました。

私が話し掛けた人は、私が日本語を流暢に話す事と、政府機関で仕事をしている事を聞かれて安心なされたのでしょう。

それと、自国語を話す機会がなく少しストレスをお持ちだったのでしょう。其れが、話す機会を得られて心に仄かさが射し込んで来られたのでしょう。

お話している間に、笑顔も見せられる様になられました。

二人の出逢いは、私の懐かしさと、私が話した貴女様のご主人様の心の寂しさが楽しさに代わると言う。互いの願いが得られると言う事で、次回もお会いしてお話をしましょうとの事になりました。

(たし)かに、ご主人様は奥様と離れて異国の空の下で過ごされている。此の寂しさは、自国の空の下であろうと異国の空の下であろうと、一人で生活を遣って行く人の心に忍び込んで来る物だと思っています。

最初の誘いも、このレイデがいたしました。

決して貴女様のご主人様が寂しさを紛らわす為に誘われる様な事はなさいませんでした。

レイデも日本に居た頃、日本文化を勉強する一環として日本料理も勉強しました。其の事がありましたから、何度か、私の家にお招きをして日本料理の走りの様な物を作ってあげた事がありました。

そんな二人に、楽しい思いを断ち切らなければならない日が来ました。其れは、貴女様のご主人様が此のスペインでのお仕事が終了して日本にお帰りになる事を貴女様のご主人様から告げられました。

二人の楽しかった日々にピリオドを打たなければならないと言う思いと、レイデとの楽しかったスペインでの思い出を忘れないで欲しいと思って、私の家での夕食にお呼び致しました。その日はスペインの取って置きの料理を作って食べて頂きました。

これで、此の方と、再び会う事が出来ないと思うと、レイデの心が騒いで、貴女様のご主人様に此のレイデの家で泊まって、と言ったのです。

此処でも、此のレイデが誘い込んだのです。

貴女のご主人様が貴女様を裏切って此のレイデを誘い込む様な事はなされた事は一度もありませんでした。

此のレイデが誘い込んだ時、ご主人様の心の隅に此のスペインから離れて行かねばならぬと言う寂しさがあったのでしょう。其の寂しさが此のレイデの誘いにふらふらと擦り寄って来られたのでしょう。

だから、ご主人様には悪さは何処にもありません。

悪いのは此のレイデです。

ご主人様がご帰国なされた後、そんな悩みに惑わされ乍ら日々を送っている時に、妊娠の兆候(ちょうこう)に接しました。

此の事は、レイデは初めから分かっていましたが、お腹が大きくなるに従って、親兄弟や仕事場の上司や同僚達が、此のレイデにどう接して来るかと言う悩みも持ち上がりましたが、此のレイデはこの様な事になると思ってのご主人を誘い込んだのですから、此の責任は此のレイデが取る事でお腹の子供を出産する事にいたしました。

レイデの父親キリルは子供を出産する事に頑固として反対をしましたが、レイデの母親のオリナと兄のセンダは出産する事に理解をしてくれました。母オリナはレイデが出産した後、兄が運転する車でマドリードにある私の家に来てくれて産後の事に手を施してくれたので、生まれた女の子のアナンは(やまい)の心配もなくすくすくと成長して行きました。此のレイデの処に母のオリナがずっと泊まり、私の事やアナンの事を世話してくれましたので、此のレイデはアナンが生まれて半年後に職場に復帰しますと、職場の上司から同僚が歓迎して此のレイデを迎えてくれましたので、アナンを育て行くのに何の心配もありませんでした。

お仕事とアナンの成長に喜びを満たす毎日でありました。この喜びにもう一つの喜びが重なって来ました。其れは、アナンの一歳の誕生日を祝う日に母オリナと共に父キリルが遣って来まして、父キリルが一歳になったアナンを抱き上げて頬ずりをしているのを見た此のレイデは、涙が零れ落ちて止まる事がありませんでした。

産んでよかった。としみじみ思いました。

しかし、此のレイデは喜んでいますが、喜べば喜ぶに従って奥様に申し訳ないと言う気持ちが持ち上がって、一度行ったあの日本に行って奥様に会って、心の底からお詫びを申し上げなければと言う気持ちが、此のレイデから抜ける事はありませんでした。

しかし、尋ねて行くにしても一枚の名刺しかありません。其の名刺も何十年前の名刺で、この名刺で尋ねる事が出来るのかと思いを重ねている内に、此のレイデに(やまい)が圧し掛かって来て、日本に行ってお詫びを申し上げる事は不可能と思う様になりました。

其処で、此のレイデに代わって娘のアナンが父親のルーツを知りたいと思った時には、此のレイデもこの世には存在していないと思います。其の娘のアナンが何時の日か父親を求めて日本に渡った時には、此のアナンには何の罪もありません。罪があって罰を受けるのは此のレイデです。どうか、その様な時が来た時はアナンを奥様の娘として迎えてくれませんでしょうか。奥様にはお一人の娘さんが居られる事も聞いていました。

アナンには姉や弟などが居ません。奥様の娘さんの妹の一人に認めて頂ければ、此のレイデもアナンの先々の事を胸に秘める事も無く人生を閉じる事が出来ますが、此のレイデが奥様に対して罪の(つぐな)いをしなければと思う心は消える事はありません。

此のレイデは若き日に日本で、日本の文化を勉強しました。

その時、教えて頂いたのは、武家の家に生まれた女子(おなご)と言う者は(おび)に短刀を()びている。此の短刀は我が身を守る護身の為に()びると共に、武家の家に生まれた女子が自ら過ちを犯した時には、此の短刀で首筋を切り付けて自害をすべきと教えられました。

西洋の騎士の家にも日本とよく似た考えがあります。

日本文化を学んだ私から見れば、日本の家屋は靴を脱いで上がる様になっています。此れが日本の文化です。汚い物は除いて立ち振る舞う。

此の事から思えば、此のレイデは奥様の心に土足で踏み行ったのです。詫びても詫びきれない事をしました。

此処で首を断ち切ってお詫びをすればと言う思いもありますが、此の私はイエスキリストを心から信じている私ですから、日本文化に従って自害の道を選んだ処で、イエスキリストは私を天国には導いては呉れないでしょう。

卑怯なレイデですが、心だけは奥様に常に詫びています。

イエスキリストの言葉に従って、()(あらた)めて(あやま)ちをお詫びさせて頂きます。


 五枚の便箋にはこの様に書かれていた。

森彦もこの五枚の便箋に眼を通して、口を噤んで紀代子の表情を窺っている。

「貴方・・・・・・」

 と紀代子が言葉を投げて、投げた言葉を止めた。

森彦が(けわ)しい表情で紀代子の後の言葉を待った。

「レイデさんは四年前まで御存命だったのねぇ」

「うん・・・・」

 森彦が俯いた体で僅かに声を出した。

「もう少し前からレイデさんの事を知っていたならば・・」

「知っていたならば・・・・・・・・」

「そう。私、レイデさんとハグをしていたでしょう」

「紀代子・・・・・・・」

 森彦が絶句した。

暫し、二人はレイデさんに思いを巡らかしている様に無言が続いている。

此の無言の時を破るかの様に紀代子の声がリビングに響いた。

「アナンさんの便りにある一月一日を楽しみに待ちましょう」

「そうだなぁ」

 森彦が()みを浮かべて応えた。

グレーのクリスマスイブを迎えた日であったが、あの何十年前かに見たホワイトクリスマスイブの光景が紀代子の心の中に甦っていた。


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