八、手に取る様な情報を・・・・
八、手に取る様な情報を・・・・
月は変わって十月を迎えていた。
森彦が両手で新聞を広げて見ている。
見ている新聞から眼を逸らして、リビングの窓先に見える空を窺う様に少し体を屈めた。
外を捉えていた目を両手に持っている新聞に戻すと、その新聞を丁寧に折り畳んで食卓の端に置いた。
「紀代子、今日は中秋の名月だ」
森彦が言って紀代子の顔を窺った。
今までの中秋の名月の日には、天候次第では紀代子の弟子達が花屋さんから買い求めて来たススキと、紀代子が森彦と結婚した時に森彦の母から教えて貰った団子を作って、庭先に置いてあるテーブルに飾って風流な酒の嗜みをしていたが、今年はこんな世であるので、ススキを持って来る人もいない。
こんな話を森彦と紀代子がしている。
「此の曇り空だから見えないでしょうねぇ」
「うーん、午後から少し雲が取れればねぇ・・・・・・」
「では、ススキとお団子なしのお酒だけの用意ですか」
「年に一度のオリエンタルの文化には親しもうよ」
と森彦が言ったのは、此の浦安に来てから何年後であったか、森彦が中秋の名月の事を紀代子に話した。
此の庭から中秋の名月を見る事が出来るだろう。と言って、ホームセンターから五・六名が座れる椅子とテーブルを購入すると、森彦は紀代子の弟子達を呼んで月見会をしようと提案した。
天気が良ければ弟子達が集まって、賑やかな月見会になっていた。
その時、若い弟子達から森彦と紀代子は尋ねられた。
此の月見の謂れは何であるのか。との質問に森彦が応えていた。
時を探れば、平安時代に中国文化が日本の貴族の間に定着をした。其の一つが此の中秋の名月であった。
平安時代の暦は大陰太陽暦を使用していたので、春の季節を一月から三月。夏の季節を四月から六月。秋の季節を七月から九月。冬の季節を十月から十二月と決めていた。其の秋の中で八月は秋の真ん中に当たり、月が一番奇麗に見えるのは八月十五日の夜と決められて、この日を中秋の名月と名を打って、ススキを飾り団子の舌鼓と程よい酒の味と香りを心に満たし乍ら、皓々(こうこう)と照る月を見上げて親しき人と酌み交わす。この時に無上な喜びを、当時の貴族の人達は得ていたのだろう。
現代では暦が太陽暦になっているから、秋は九月から十一月になる。其の秋の真ん中が十月と言う事で、現代では十月に中秋の名月を開いて平安貴族の真似事をしているのだ。
この様な謂れを以てお誘いをした。とあの時森彦が若い人達に教えていた。
紀代子と森彦にはこの様な中秋の名月の思い出があったので、今年は如何しようかと思って、空の様子を窺ったのだ。
今日の空模様と今年の世の流れから、紀代子と森彦だけでリビングの窓越しに見る事にした。
ススキもない。団子もない。人も来ない。
ただ、缶ビールだけを用意しての中秋の名月を見る話しになった。
コロナ過の世が憎い。
森彦は思って、何時もの様に書斎へと足を運んだ。
紀代子が森彦の後姿に眼を遣ると、食卓に並んでいる食器の後片付けに食卓と台所とを何度か行き来をしていた。
雲の間から浩々と照る月灯りをビール片手にリビングの窓越しから眺めてから二日が過ぎて、日曜日の朝を迎えていた。
日曜日であるので遅い朝食を済ませた森彦が、紀代子と共に使うプライベートルームに入り込んで四時間近く出て来ない。
森彦のこの行動を気にする事もなく、紀代子は朝の片付け物を終わらせて、TVのハードディスクに保存しているお目当てのドラマをTVに映し出して一人で楽しんでいる。
プライベートルームは紀代子と森彦が音楽を楽しむとか映画を楽しむ部屋として作ったのであるが、常に二人で聞いたり見たりはしない時もある。そういう時は、プライベートルームの音がリビングや紀代子の部屋迄聞こえて来るとしたら、自分の部屋で自分の好きな事に取り組んでいる集中力が保たれなくなる。
その様な想いがあって、この部屋を作る時に無音室にしようと言って、その様に作っていた。
今朝、この部屋に入って四時間近くも森彦が出て来ないと言う事は映画を見たり音楽を聴いたりしているのではなく。
紫苑のサキソフォンに指を動かせているのだろう。と紀代子は思っていた。
午後の二時半を迎えようとしていた。お腹が空いて来たのだろう。プライベートルームから森彦の書斎へ入るドアの音が微かに紀代子に聞こえていた。
紀代子は台所で遅い昼食の用意に取り掛かり始めていた。
森彦が書斎に入ってそう時間が経たない頃に、森彦が少し急ぎ足でリビングに顔を出して来た。
「紀代子! アナンさんからのメールが来ていた」
アナンさんの話しをする時の森彦の顔は疲れを知らない表情であった。其の嬉しそうな表情からメールの中身を言葉に表した。
「アナンさんの家族、マンセルさんも出張先から戻られたと書いてある。アントニオちゃんとカルメンちゃんの事は、マドリードで再び感染が広がり始めているので、二人の子供は未だにママの実家に預けてあると書いてある。
スペインがこの様な状態であるので、アナンさんが勤めていられる大使館でも通常仕事をテレワークに代えて家で仕事をしていたら、昨日、大使館から緊急の呼び出しが全職員になされたそうだ。
全職員に大使から話がなされた事が書かれている。
其の話と、アメリカ大統領が新型コロナウィルスに感染された話を大使がなさったそうだ。
大統領の症状がどの様になるか分からないので、何があっても咄嗟に組織が動く様な体制を取る様にと大使が言われたように書かれてある。
此処暫くは、感染防止に気を付け乍ら大使館勤へ出勤をしますので、テレビ電話を掛ける事が出来ないと書いてある。
先日話したママレイデから預かっている手紙の事ですが、と書かれている後には、此の預かっている手紙は今年の東京オリンピックを見に行った時に、紀代子様にママレイデからの手紙です。と言ってお渡しする予定でしたが、東京オリンピックが一年先に延期になったので、アナンさんが来年オリンピックに来れるかどうか分からないので、ママから預かった手紙を放置する事はアナンさんの心が許さないと書いてある。
だから、失礼かと思いますが郵送で手紙を送らせて頂きますので受け取って下さい。と書かれている。
前に書かれていた様に、アメリカ大統領の今後の容態や十一月にある。大統領選挙の結果次第で職場がどの様になるか分からないと書かれている。
選挙の結果で大統領が変わるとするならば、アナンさんが勤めている大使館の大使の移動があるかも知れません。
だから、此処暫くは仕事や職場の様子から眼を外す事は出来ないと書かれている。
大統領が変わった処でアナンさんがアメリカ大使館勤めを辞めざるを得ないと言う事にはなりませんと書いてある。
大使が交代される事になれば、仕事の遣り方も変わって来るでしょうから、コロナに気を許す事なく、此処暫く仕事に取り組んで行きますから、紀代子に差し上げる手紙はクリスマスが来る頃には差し上げられる。と書いてあるぞ。
申し訳ありませんが、其の頃までお待ち下さいと書いてある」
と森彦がメールの内容を話してくれた。
森彦が読み上げたアナンさんからのメールを紀代子に渡した。受け取った紀代子は森彦が話してくれた事を頭に描き乍ら、再びアナンさんのメールに目を走らせた。
メールを読み終えた紀代子が、メールに向かって何度となく頷きを見せていた。
アナンさんからのメールを受け取った紀代子は、アナンさんの心を酌み取ってクリスマスが来るまで静かに待つ事に心を置いていたが、日本や世界のコロナ情報が紀代子の心を揺さぶっていた。紀代子は此のコロナ情報から心を落ち着かせる為に、プライベートルームが空いている時は、この部屋で好きな事に心を任せて不安な心を和ませていた。
世界を不安に陥れている新型コロナの事で、森彦は弟の憲治と何度か話した事があった。
その時に憲治が言った事は、兄貴と姉さんは交際相手が多いから色々の方と会って話をしているだろうが、此のウィルスは人から人へとうつる事が分かっているから、今後は、人に合う事を出来るだけ控え目にする事だ。敢えて、逢わなければならない時は必ずマスクをして、出来るだけ間合いを取って話をする事だよ。
人に会って、帰って来たならば石鹸水で充分に手を洗うと、今度は水で眼と鼻そして口元を奇麗に洗い、口から喉を嗽で清める事だと教わっていた。
これまですべきかと憲治に問うた処、高年齢者は念には念を入れて対応すれば、自分も苦しまなくてもよいし、身近の人に心配を与える事もないからなぁ。と言ってくれた。
此の話を森彦が紀代子に何時((いつ)の日か話した事があった。
紀代子としては外出して、色んな人と色んな話をして来ると、紀代子の胸を覆いつくしている不安めいた事から遠退く事が出来るだろう。だが、義弟の憲治さんから教えて貰った事を思うと、外に行くと、どの人が陽性患者か分からない。分からないから、何時の間にかにコロナにうつってしまうから、憲治さんの話を守って、いまプライベートルームで無心に取り組んでいる事がある。
それは色紙に水彩画を描く事だ。
この水彩画を六年程学んだので、その詮があって、今は、見事な水彩画を色紙に描いていた。
これが紀代子の心を癒してくれる唯一な時間であった。
朝の片付け物を終わらせてから、かれこれ三時間近くプライベートルームに閉じ篭り中だ。
先日から描き出していた色紙が完成した。
この色紙を暫く見ていた紀代子が、脇に置いている自分が作った俳句集を手に取って、捲っている手を止めた。
其の俳句を何度か口遊むと、頷く様な素振りを見せて先程書き上げた色紙に俳句を書き入れ始めた。
何と、其の俳句は色紙の下方に横文字で書き入れ始めた。
紀代子の長年の友人であるアメリカの友達に送ろうとの思いだろう。
この日の午後七時のニュースを見た二人は、夕食の後片付けもせずに話に耽っている。
「貴方、私心配だわ・・・・・・」
「何が・・・・・」
「コロナの事よ。日本も緩やかに感染者が増えているでしょう」
「そうだなぁ。先程のニュースでも言っていたなぁ」
夕食後に二人がこんな話を出した先には、紀代子が心配であると言った心の内を話していた。
紀代子が言うには日本もコロナの収束を迎える事はなく微々たる感染者の増え方をしているので、此の冬を迎えるにあたって心配であるが、此の日本よりもヨーロッパは第二波が襲来したのであろう。
一日の感染者が何千名ほど出ている事が、今朝の新聞で目にした。此の事で心配であると言ったのだ。
「アナンさん達の国スペインも、多くの感染者が出ている事が書かれていたわ。アナンさんやご主人のマンセルさんにアントニオちゃんとカルメンちゃん達は大丈夫なのかなぁ。
先日の話ではマドリードで感染者が増え出したので、子供達はママレイデの実家に預けていると書かれていたが、心配なの・・・・・。
それにアメリカ大統領選挙後の職場の様子がどうなるか。
この様な事が心配で心配で・・・・・
現地スペインの情報が目に見えないから、心がイライラしてじっとしていられないの。
だから、今日は、朝からプライベートルームで水彩画に没頭していたわ。そうでもしなければ、何処かに出向いて、此の心のイライラを癒したいと思うが、其の事も此の歳では無理でしょう。
だから、私達の方から電話かメールでも・・・・・・」
と紀代子が迫って来るのに森彦が応えるには・・・・、
「今は、コロナの事、職場の事、子供達の事、これ等の事でマンセルさん一家、ましてアナンさんの頭の中は一杯だろう。
その様な時に、心配であると言って、何もする事さえ出来ない此の老人二人が騒ぎ立てる事よりも、アナンさんが言われた様にクリスマスが来るまで、嵐が通り過ぎるまでじっと待つ方が、アナンさんに取って良い事ではないか」
と森彦は紀代子を宥めた言葉を流した。
此の話で、待つ事に結論付けたが、来る日も来る日も、羅列される数字に心を痛めるならば、何か、現地のもっと深い情報を手に入れる事は出来ないのか。と二人の心は動いていた。
昨日、紀代子と話した事が森彦の心に残っていた。
確かに何もする事もなくじっと来る日を待つのが得策であるかも知れぬが、アナンさんの家族がコロナに感染しなくて、アナンさんの職場が動揺する事もなく。クリスマスを迎える事が出来るか。
連日此の事ばかりを頭に描いていたならば、心が萎れて体が元気さを失うのではないか。クリスマスの時にアナンさんがテレビ電話を掛けて来てくれた時に床に臥せている二人になっているかも知れぬ。電話に出る事が出来た処でも、寠れた姿を見せてアナンさん達に心配を掛ける事になるかも知れぬ。
そんな姿を見せたくはない。そうならない為には紀代子が言う様に現地の詳しい情報を手に入れる事が出来れば、スペインの日々が見えて来て安心し乍らクリスマスを待つ事が出来るだろう。と森彦は思った。
この日から、森彦は書斎に閉じ籠もって、スペインの情報を手に入れる事が出来る方法を模索始めた。
この日から四日が経った朝食後の何時もの話の中で、森彦が切り出した。
「紀代子、先日スペインの情報を手にしたい様に言っていたなぁ」
「そうですねぇ。じっと待っておくのは耐え難い思いですからねぇ」
「僕もそう思ってなぁ。調べて見たよ」
「情報を取る処をですかぁ・・・・・」
「うん」
「それで、そう言う処が在ったのですか」
森彦が言うには、大学時代の友に此の事を話したら、遠城寺の高校時代の友が新聞社に勤めていたと言うので、遠城寺がこの人から聞き出した事は現地の新聞社で英語新聞を出している処があると思う。其処から取り寄せたらよいのではないかと教えて貰った。
早速、この遣り方で新聞を取り寄せて見ようと思って、遠城寺からその方に伝えてくれと言ったら、その方から後輩の方に話がされて、現地の特派員の方に僕の住所と名前とTELナンバーを伝えて下さって、其の特派員の方が英語新聞を発行している新聞社の方に教えて下さったそうだ。
来週には其の新聞社から現地新聞が僕等の許に送られて来る。
その発送新聞に料金の振込先を提示されている物も同封されて送って来る様になっている。と森彦が紀代子に教えてくれた。
「えっ、現地新聞の英文を・・・・」
「此れを読めば、クリスマスを楽しく迎える事が出来るぞ」
「貴方のなさることは、流石、嬉しくなったわょ」
月が代わって、今日から十一月である。
朝食後、東の窓を通しての朝日が食卓の森彦と紀代子を包んでいる。
九時を過ぎた頃である。
「紀代子、今朝は寒くなかったか」
「寒かったのでしょうねぇ。毛布を抱き込んでいましたよ」
「そうか。僕もその様な恰好だったねぇ」
「今日から十一月ですから、寒いのは当たり前ですよ」
「衣替えをして、冬支度をしなければなぁ」
と他愛ない話をしていた森彦が書斎の方に足を向ければ、紀代子は食卓に残っている朝食の器などを台所へ運び出していた。
遅い昼食を終わらせた紀代子と森彦がリビングの先に見える南の空に眼を遣った。
朝方は東からの朝日が食卓の二人を射していたが、いまは薄い雲間から緩い陽がリビングの窓際を射している。
天気が少し下り坂であるらしい。段々と寒さが押し寄せて来るのか。其の寒さに乗っ掛かってコロナの襲来が再び遣って来るのか。と少し暗い顔を見せた紀代子は、昨年までの事を思い起こしていた。あの時は自分達の終焉をどの様にすべきか、誰に託すべきかと二人の心に重く圧し掛かって来ていた悩みがあったが、今はその悩みは取り除かれて、それに代わって先を見越しての悩みに惑わされていた。
「日本のコロナは微増との話であるが・・・・・・」
紀代子は顔を曇らせて言葉を止めた。
森彦は紀代子がスペインのアナンさん一家の事を心配しているのだと察して、噤んだ口で何度か紀代子に頷きを見せて、紀代子の気持ちに労わりの表情を見せていた。
スペインのコロナがどの様になっているのか。
此の心配が二人の心の大部分を占めているのは確かであるが、紀代子の心の一部分はアメリカ大統領の選挙の事である。紀代子は日本人であるからどちらが大統領になろうと然程の関心はないが、選挙後のアメリカの治安が一挙に悪くなって内乱状態にならないか。と言う危惧が一抹の不安を掻き乱している。
そんな事になると、何十年と付き合って来ているアメリカの友達の事や日本に来て森彦や紀代子達と永遠の友になって下さった方々の事が心配である。
それに、選挙後の混乱がアナンさんの職場にどのように覆い被さって来るのか。と悩ます心の内を森彦と話していると、森彦が言うには時の流れに従うしかない。
その時の流れが凶に向かったら、紀代子の友達の身に危険が迫らない様にアドバイスする事は、その時にすればよいのではないかと言った。
要するに、森彦は自ら悩みを背負い込む事は止めて、其の時点になった時に、心を動かせばよいと言う話である。
そうでもしなければ、心に負担を掛けて心に病を引き起こす事にもなりかねないからと森彦は言って、至って楽観的な笑顔を紀代子に見せて、リビングの席から腰を上げて自分の寝室へと足を運んだ。
寝室から戻って来た森彦はスポーツウェアに着替えて戻って来た。この格好を見た紀代子は不思議な顔を見せるどころか、食卓の席に腰を下ろして、今日の新聞に目を走らせようとしていた。
今年の春先から、コロナウィルスの事が世間の目を奪う事になって来て、外出自粛であるとか人との接触を極力抑えて行く事を守らなければ、自分の命がどうなるかの話が毎日の話題となっている森彦と紀代子であった。
其の二人が話し合っているリビングは、紀代子の弟子達が集まっての語り場としての広さのリビングを作っていたが、今は人が来ない。徒広いリビングが寒々しく見える。
如何にすべきかと二人が話し合った結果では、外出は控えろ。人との接触は距離を置いての話をする事などが報道で何度となくなされている。この事は命に係わる事だからしつこくなされていると思っている二人は、此の事を守る事で巣籠に徹したが、此の歳で運動をしなければ足腰が弱くなり寝たきりになるのは嫌だと思って、ウォーキングマシンとフィットネスバイクを購入してリビングの寒さを消していた。
スポーツウェアに着替えた森彦がウォーキングマシンの前に置かれている棚にDVDポータブルをセットした。このDVDポータブルの音響を大きくする為にスピーカーにセットして、このDVDポータブルから流れる動画と音楽を聴き乍ら一時間近く歩く積りである。ウォーキングマシン上に乗って動きを始めようとした時、リビングの窓を通して見える南側の小道に向かって門が作られている。其の門の横のポストインに郵便局の職員の人が何かを入れ込もうとしているが、大きさが大きいのか。ポストに入らず苦労している姿を森彦が捉えた。
「紀代子、郵便局の人が、何やら苦労しているぞ」
新聞に眼を落していた紀代子が森彦に眼を向けた。
「郵便局の人・・・・・」
「うん、ポストに物が入らないらしい。紀代子行って遣れ」
紀代子が窓越しにポストの方を見た時、郵便局の人と目線が合った。紀代子が軽く会釈を戻して玄関ドアから外へと足を運んだ。
森彦は運動を始めた。
紀代子が玄関ドアを開けるなり、大きな声で伝えて来た。
「貴方、来たわよ。来たわよ」
この紀代子の興奮した声で森彦はマシンを止めて、マシン上から紀代子に不可解な表情を見せていた。
「貴方。スペインの新聞が来たのよ」
そう言えば、二週間ほど前スペインの新聞を送ってくれる様に頼んでいた事を思い出した。
運動する事よりも、届いた新聞を眼にする事が何よりも先と言わんばかりに、森彦は紀代子から受け取った新聞を食卓で開いて見た。
送って来た新聞は七日の日付が打たれている新聞から十四日分までが送って来ていた。
その新聞を纏めた中には一通の封書が入れられていた。封書の中身を改めると、当社の英語新聞を愛読される事に対しての感謝の言葉が書き並べてあった。
其の文書の最後には米ドル立ての支払いで、振込先が明示されていた。
ウォーキングをし始めていた森彦は其の事もすっかり忘れたかの様に食卓に広げられた新聞に眼を通すと、十一日から十四日の日付が打ち込まれている新聞を紀代子に渡して、森彦は七日から十日迄の分を自分の手元に置くと、早速、七日の新聞に眼を這わせた。
二人は無言で、約一時間近く、気になる処の記事に目を走らせた。
目を走らせた二人が互いの顔を見詰めて、新聞から得た情報で顔を強張らせていた。
「スペインの首相のお名前はペドロ・サンチェスさんと読むの?」
紀代子が森彦に確かめる様な表情を見せた。
「うん、その様に呼ぶのだろうねぇ」
スペインの事を決める人の名前を二人が確認し合った処で、二人は其のペドロ・サンチェスと言う首相が決められた事で話題が集中していた。
どうやら二人は十月二十五日にスペイン全土に出された非常事態宣言の事を危惧している。
新聞の記事によると、スペインの保健省が十月二十五日に発表したスペイン全土に於ける新型コロナウィルスの累積患者数は一〇四万六一三二名、死亡者数を見れば三万四七五二名である。
アナンさん一家が住んであるマドリードの様な都市、十万人当たりの直近一週間の新規感染者数が二〇九、三四六人である。
此の数字から見ると、大変な数字だと森彦と紀代子は暫し顔を見合わせて言葉が出ない。
スペインの非常事態宣言で強く言われている事は夜間の外出禁止である。
スペイン政府が出した此の夜間外出禁止は、二十三時から翌朝の六時までとなっているが、一時間前倒をするか後ろ倒しをするかが各州の判断で出来る様になっていると二人は読んでいる。
「この州と言うのは、日本で言えば都道府県の様な物・・」
以前スペインに滞在していた森彦に紀代子が尋ねた。
「そう言う物だ」
紀代子が尋ねて来た事で、森彦はスペインの一日の過ごし方の大まかな事を教える様に話し出した。
「スペインの夕食時間と言う物は大体二十一時頃である。
日本から見れば考えられない時間であるが、スペインの一日の始まりである午前中の仕事は九時から始まり十二時か十三時に終わるので、昼食時間は十二時か十三時頃から十四時か十五時まで取られる。其の後から昼の仕事が十五時から始まり十八時か十九時には終わる。其れから家に戻り夕食の用意をするので二十一時頃に夕食になる。家で食事を取らないで町のレストランを利用する人は、会社から帰宅してシャワーで汗を流して、レストランに向かうので二十一時から二十三時に掛けて夕食を取る事になる。このライフスタイルから見ると、今回の外出制限はレストランや飲食店に大きな打撃を与えるだろう」
と森彦は以前住んでいたスペインの様子を思い浮かべ乍ら紀代子に教えた。
この新聞の記事を読むと、今年の春先にもスペインは非常事態宣言を出したが、今回の非常事態宣言は新型コロナの二波の襲来の為に出されているらしいが、以前よりも規制は厳しいらしいと紀代子と森彦は、読んだ記事からその様に思っている。
八月から屋内屋外を問わずマスクを着用する事が義務化されているのが、今回の非常事態宣言では一段と厳しくなって、飲食店でマスクを取り除くのは、飲食を口に入れる時だけで、後は常にマスクを着用しなければ罰金が科せられる様に書かれている。と紀代子と森彦は記事に目を走らせている。
スペインでは屋外のテラスで食事を取る事が多い。その時、マスクを外して喫煙する人が多いので、此のテラスでの喫煙禁止がなされたとも書かれている。
次に紀代子と森彦が話題にしているのは、人の移動の事である。州、県、市の判断で州、県、市内の移動は自由だが、市及び県そして州を越しての移動は出来ないと書かれていると言う記事の処に紀代子と森彦が目を這わせていた。
規制されている範囲内から出る例外につぃては、仕事であるとか学校に行くとか病院に行く時は認められるが、証明書を持参しておかなければ許可されないと書かれている。記事を森彦と紀代子が読んで顔を見合わせている。
「では、お仕事にも学校にも行けるのねぇ」
「それは行けるが、範囲以内の行動だねぇ」
「その範囲に、生活必需店があればそう困らないわねぇ」
「食料調達場所・病院・銀行などの事かい」
「そう」
と言って紀代子は少し安堵の表情を見せたが、アナンさんの事を思い浮かべると、暗い表情に戻っていた。
スペインで何時まで、この恐ろしい病が続くのであろうか。
アナンさん達はマドリードに住んであるが、其のマドリードがスペインの中でも感染者が特に多いらしい。
二人の会話は感染危惧の話から少し外れた話で弾んでいる。
「貴方、スペインも日本と同じ様に見えるわ」
「同じ様に・・・・・」
紀代子が言った事に森彦が何の事か分からずに返事を返していた。
「地方自治体が困惑する事があるのではないのと聞いたの」
「此のコロナの事でかい?」
「そう。日本政府は経済回復を一生懸命していられるが」
「それで・・・・・」
と森彦が問うて見た。
「地方自治体では感染が広がる事を心配されているわねぇ」
こう言って紀代子が話を止めて、森彦に問い質して来た。
紀代子が言うには・・・・・・、
「スペインの政府は感染を防止したい為に非常事態宣言を出してあるが、此の非常事態宣言を出されるスペイン政府とアナンさん達が住んでいられるマドリード自治州との確執があるらしいですねぇ」
と紀代子が読んだ記事から見ていた。
此処にこの様に書いてあるわ。と紀代子が言い出した。
「マドリード自治州は十月二日に政府の保健省から指示を受けてマドリード首都圏内の不要不急の外出を規制していたが、政府はマドリード自治州全体に移動制限をしなければ、緊急閣議を開いて非常事態宣言を出して、これを順守させると警告を十月八日に出してあるわ」
と言って、間を置いて紀代子が記事を読み続けた。
「これに対してマドリード自治州の裁判所は八日に、この様な指示は政府の越権行為で、規制自体が基本的な人権を侵害しているので政府の指示は認めない様に思えるが、何故、地方自治体は政府の施行に沿わないのかなぁ」
と紀代子は森彦に考えを求める様な話ぶりを見せた。
「他にもこんな記事が目に入ったわ」
「マドリードでは十二日に、非常事態宣言に反対する市民がデモ抗議をしたらしい。これに対してマドリード自治州の首相であるディアス・アジュソ氏は十三日、政府は自治州の経済を崩壊させかねない。と言うと、政府の保健省は医療状況に沿って対応しなければならないと言って、規制解除を否定した」
と書かれている。此の紀代子の疑問に対して、森彦はアナンさんとの出会いが始まってから暫くして、スペインの政治状況を勉強していた。
此の事を以て紀代子に応えた事は・・・・・・、
「スペインの政府は新型コロナの感染防止で人の移動を規制している。規制される自治州に於いては経済に支障を施す事が見えて来ている。自治州としてはこれだけは止めたい。しかし、人の移動を自由にさせると感染の拡大に嵌る。
この問題の確執は分かるが、どうやら底辺には政治政党の対立がこの問題に影を落としているのかもしれないねぇ」
と森彦は応えた。
「政治政党の対立・・・・・・・」
と紀代子は訝る様子で尋ねた。
此の紀代子の懸念に森彦が応えた事は・・・・・、
「スペイン政府の首相ペドロ・サンチェスさんは左派のスペイン社会労働党に対してマドリード自治州の首相であるディアス・アジュソ氏は中道右派の国民党の所属。国政の与野党の対立が政府と自治州との対立を起こしているとも言えないのではないか」
と森彦が応えた。
「日本でもあった様な事・・・・」
と紀代子が言うと、
「あれは政治的な対立ではなく。個人的な考えの相違かなぁ」
と森彦が多少の笑みを漂わせて言った。
国も地方も新型コロナの影響で、都市部も農村部も疲弊している経済をどの様に立て直して行くかが最大の課題である。これは日本も、全世界にも共通する難題である。
特に、観光立国を謳い文句で多くの外国人達を日本へ迎えていたが、コロナの影響で出入機関を封鎖した為に外国人の訪問がぴたりと止まった。
此の事で、観光に携わっている方々を救済する事で日本政府はGO・TO・TRAVELやGO・TO・EATで経済の復活を来たしているが、同じ観光立国のスペインではどの様になっているのかなぁ。と森彦がその様な記事を掲載している処を見付け乍らに言った。
「あーあったあった。スペインの観光バス会社は大変らしいねぇ」
と言って、森彦が記事から読み取った状況を紀代子に話し出した。
「バス会社と言うのは何十台から何百台を保有しているバス会社もあれば二・三台を保有して家族で営んでいる処もあると書いてある。此の零細企業のバス会社が助けて欲しいと政府に請願している事が書いてあるが、スペインでは日本の様なGO・TO・TRAVELやGO・TO・EATの様に国家補正予算を放出させて、これらの人達を助ける事はしてないのかねぇ」
「そうですねぇ。その様な事は記事としては見えませんねぇ」
紀代子が言って、表情を曇らせて言葉を繋いだ。
「経済の事は見えるが、アナンさん達は大丈夫かなぁ」
「新聞だから一市民の事まで読めないが、大丈夫と思うよ。
先日のアナンさんの話によれば、子供達はアナンさんの母の実家に預けていると言われていたし、アナンさんに急な出来事が起こらない以上テレワークで過ごしていると言われていたし、御主人のマンセルさんも感染症には十分気を付けているので、今までの様に仲間や職場の人達と飲食をされる事も取り止めて、食事は家で取る事に専念されていると言われていただろう・・・・・・・・」
と森彦が先日の話を持ち出して紀代子の不安を和らげた。
「待てば海路の日和あり。果報は寝て待てと言うだろう。アナンさんが言われた様にクリスマスまでじっと、静かにアナンさん一家に吉が訪れる様に祈っておれば、きっと、僕が言った様になる」
と森彦が言って笑みを紀代子に見せた。
「それよりも、アメリカ大統領の結果次第で・・・・・」
と森彦が言って、アナンさんが職場で、どの様な事になるのかを心配した。
しかし、考え直した。アナンさんがアメリカの大学を卒業してアメリカの国務省に就職なされた。其れから現在まで何人かの大統領が交代された。
しかし、アナンさんが職場を去る様な事になってはいない。
現在もアメリカ国務省の出先機関である在スペインアメリカ大使館に勤務されているのだ。と思って大きく頷いて見せた。
この様子を見た紀代子が問うて来た。
「貴方、何か心配事でも・・・・」
「いや、ない」
ときっぱりと言って白い歯を見せた。