六、映像で、初めての出逢い
六、映像での初めての出逢い
毎日、気が滅入るニュースにも然程の嫌味を覚えずに、七月一日の朝食を終えて、好きなコーヒーを口に運び乍ら、小粒の雨が庭の芝生を濡らしているのをリビングの窓越しに見ている森彦が口を開いた。
「いよいよ、今日からディズニーも再開園するねぇ」
「若い人達は待ち遠しい思いだったでしょうねぇ」
「うん、それにしては、此の天気が気になるねぇ」
「天気と言えば、夜の花火は上がるのでしょうかねぇ」
二人の会話は、ディズニーの事に尽きていた。
「今日の花火は無理かもしれないなぁ」
森彦の眼は外の様子を窺っている。森彦に合わせて紀代子もリビングの窓越しに外の光景を覗いてみた。
音もなく、小粒の雨がどんよりした空からしとしとと降り注いでいる。
森彦はこの雨を見て、花火が上がらないと言ったのだろうと思い乍ら、紀代子が森彦に眼を戻した。
戻された森彦は今日の空模様が心配ではあるが、ディズニーは今日の午前八時の開園で午後八時の閉園と聞いている。
何時もの花火は午後八時三十分から五分間ぐらい夜空を煌めかせていた。今日の閉園は通常の花火が上がる三十分前に閉まる。入場観客がゲートを出る時に背を返させるか。
ゲートを出た観客の足を止めさせるか。
多分してくれるだろうが・・・・・・・、
この雨が酷くならなければと思い乍ら、空模様を気にして言った森彦であった。
ディズニーランドが四ヶ月振りに開園をする事は森彦も紀代子も新聞などの情報で知っていた。
其のディズニーランドが今日からの入園者をコロナの対策上、オンラインの申し込みで入場者の制限がなされている。
と言う事を知っていた森彦と紀代子は、すると、以前の様に気楽にキャラクター達との触れ合いも出来ないかもしれないだろう。しかし、ディズニーを楽しみにしていられ人達から見れば・・・・・・・・・、
ディズニーに行ける事。あの夢の世界の雰囲気に触れる事。
これだけでも満足と言う事でしょうねぇ。などとコーヒーの合間に話が弾む。
今日はコロナの嫌な話もせずに楽しかった。美味しかったと言って、森彦はリビングの席を立って書斎へと向かった。
七月五日の日曜日。
朝食を終わらせた後の一時、二人は眉間に皺を寄せて小声で話している。
「貴方、夕べのニュースで災害の事を流していたでしょう」
と言って紀代子は、リビングの食卓に置かれている新聞に眼を流した。其処には大きな活字で九州熊本豪雨の見出しが目に留まった。
「貴方、熊本の親戚の方達は大丈夫かしら・・・・・・」
と紀代子が言ったのは、星子家の出身地は熊本である。
しかし、星子家は森彦の父が東京の大学を出て中央官庁に就職して、その後に全てを東京に移したから、森彦達の故郷は東京だと言うイメージしかなかった。
だが、星子家の親戚は熊本に居られるから、此の方達の事を思って紀代子が尋ねたのであった。
「うん、憲治と相談して熊本に連絡を取って見よう」
此の話から、憲治と連絡を取って熊本の親戚の状況を尋ねてみた。案ずる事はなかった。親戚の人達は全て熊本市内に居られるので、被害を蒙られたと言う話は一切なかった。森彦も紀代子も安堵した日曜日であった。
しかし、熊本は数年前に発生した大地震、それに今回の豪雨、其の豪雨が地震で被害を蒙られた方達に、容赦なく未だに雨を降り注いでいる熊本のニュースを眼にする度に、森彦は地震の上に此の豪雨かと胸の中で憤りを覚えていた。
一週間後の七月十二日、この日の朝食後のコーヒータイムと言う時間は、紀代子と森彦には何処やら緊張の表情が漂って、何時もの様な軽口が飛び交わす事はなかった。
其れもそのはず。今日の午後九時には、会った事もない。話したのは先日の電話だけ。遠いスペインからアナンさん家族達が顔を見せてくれる事になっている。
其れは、アナンさんの話であって、御主人のマンセルさんが気持ちよく私達と会って呉れようか。アナンさんの子供、七歳になる男の子のアントニオちゃんと四歳の女の子であるカルメンちゃんが映像に出て呉れるのだろうか。
気にすれば、気になって、何もしたくない。食べる事も少食になっていた。
いま午前十時を過ぎた頃である。午後九時まで十一時間。長い様で短い様なドキドキする時間であり、わくわくする時間でもあった。
十一時間後に話す事は紀代子と森彦は昨日まで何度も話し合って、此の事を話そう。この事を聞いて見ようと話して来た事だから、何もドキドキする事ではないだろう。と紀代子も森彦も思ってはいるが心が許してはくれない。
どんな顔を相手の方達に見せればよいのか。この事も森彦と紀代子は話し合ってこの様な顔をしょう。と何度も鏡にその顔を作ってこの日を迎えて来たのだから、と紀代子と森彦がその様な会話を交わして、冷えたコーヒーを渋い顔で飲み干した。
昼過ぎになった今でも、朝からの雨が枝垂れ桜の枝を濡らしている。昼食後、この雨に眼を向けていた森彦がコーヒーカップを手にして言葉を放した。
「あと何時間かなぁ」
「何がです」
「スペインのアナンさんがテレビ電話を流して来られるのは・・・・・」
紀代子がリビングの時計に眼を遣った。針は既に午後の二時近くを指していた。
「あと七時間ほどですねぇ」
「そうか。七時間か」
森彦は呟く様に言って、リビングの席から腰を浮かして、自分の部屋へと足を運んだ。
其の森彦の背をみ乍ら、紀代子は遣り残した後片付けの為に台所へと戻って行った。
暫くして、森彦がワイシャツにネクタイを掛けた上にスーツを着こんでリビングに顔を出した。
この格好を台所から眼にした紀代子が声を掛けた。
「貴方、何処かへお出かけですか・・・・・」
「いや、今夜のテレビ電話に写る衣装はこれでいいだろうか」
と森彦が紀代子の応え方を待つ様な眼差しを見せた。
「いやだわぁ。貴方おしゃれをなさるお積りですか・・・」
「いや、おしゃれではないが、身嗜みと言う物をしっかりとねぇ」
「貴方、普段の気持ちが一番。着飾る心は如何な物でしょうかねぇ」
「そうか・・・」
と森彦が言って、リビングの席に腰を下ろした。
そう言って森彦の顔を見ていた紀代子の脳裏を過る物があった。
昨年の盆を過ぎた頃から、森彦と紀代子が老いて行く自分達を見詰めると、不幸にして亡くした娘の墓仕舞いをして、紫苑が行きたかったアメリカへ行かそうと思って、お台場パレットタウン桟橋から出るクルーザーで、富士山が遠くに見える相模湾での散骨を決めていた。
新型コロナウィルスをサタンと言う悪魔が全世界に蔓延させた為に中止した。
此の紫苑の墓仕舞いが終われば森彦と紀代子の終焉の迎え方をどの様にしょうか。と暗い話に付き纏われていたのが、年が明けると天使の悪戯か。と思われる話を森彦から聞かされた。
残された森彦との人生をどの様にすべきかを迷わずにはいられなかった。
しかし、友と言う者は有り難いものである。
私の心を覆っていた黒いベールを容赦なく剥ぎ取って、残された人生を楽しく、元気よく進む事を教えてくれた。
其の事で、異国人であるが、互いの心が重なり合えば、亡くなった紫苑の妹が出来るかも知れぬ。紫苑が見せてくれなかった孫と言う子供達が出来るかも知れぬ。
森彦も此の紀代子も先がないと思っていた二人だが、あと数時間後の光景で森彦と紀代子が若き日に描いた楽しい夢が、此の歳になって目の前に現れ様としている。
当世、騒がれているコロナウィルスにも罹らず、他の病から招かれる事を極力断って、何時の日か紫苑の妹になれる人と。私達の孫になるかもしれぬ子供達とハグが出来る事を願って、其の日を迎える事で紀代子の心は老いの歳にしては、わくわくと躍っていた。
心が躍ると言う事は何処となく表情に綻びが見えていたのだろう。
「紀代子、いい顔をしているよ」
「そうですか。心が躍っているからよ」
「心が躍っている・・・・・・」
「そう、貴方の心も躍って、身なりは何時もの通りで」
「それはどう言う事だい」
「何時もの貴方を見せると言う事よ」
「何時もの僕の姿を・・・・・」
「そうょ」
と言って言葉を止めた紀代子が時計を窺った。
「貴方、あと六時間後となったわよ」
聞かされた森彦が背を返して時計に眼を遣った。
如何にも落ち着かぬ二人である。森彦は前に座っている紀代子に眼を定めていたが、何か良い事が思い付いたのか。椅子の背凭れから背を外して紀代子の方に体を寄り添った。
「紀代子、夕食までライブの動画をみ乍ら心を落ち着けておくよ」
「そうですか。では夕食は何になさいますか」
「うん、簡単な物で良いだろう」
「では、ポテトサラダにナポリタンのスパゲティでよろしいですか」
「うん、それでいいよ」
今夜の夕食のメニューは決まった。何時もの通り六時から食事を始める事で、森彦は動画鑑賞の為に二人が使うプライベートルームへと足を運ぶと、紀代子は夕食の下拵えの為に台所へと歩を運んだ。
夕食の一時間前の五時頃に紀代子が動画を見ている森彦の許に遣って来て森彦の傍に座ると、森彦が見ている動画に眼を向けた。
動画は五人の女性シンガーが舞台で唄っている。
紀代子は黙って其の動画を見詰めている。
パンチの効いた曲を歌っている。
「これ、誰のライブなの」
と尋ねた。森彦は応える事もなく、動画の一時停止を作動して動画を止めて、紀代子に眼を向けた。
「Ladies of Soulと言って、毎年女性シンガーで遣っているライブだ」
と森彦が教えた。
「迫力があるライブねぇ」
「そりゃぁ。ソウルだからねぇ」
「紫苑もこの様な事をしたかったのかしら・・・・・」
紀代子が森彦に視線を流し乍らに言うと、森彦が止めた動画に一寸と視線を戻すと、その視線を紀代子に向けた。
「多分、紫苑もこのライブの様な事をしたかったのだろうねぇ」
「貴方、先を見せて」
森彦が動画を動かせた。
動画のシーンで一人の女性演奏者がサックスを奏でている。此の女性に紀代子の眼は釘付けになっている。紀代子は紫苑が奏でていると思っているのか。演奏に合わせて僅かに首を振り乍らじっと見詰めている。
ライブの動画が終わった。二人はライブ会場から出て来た人の様に、満足な心に浸かっていた。
ライブの動画を見た二人が話を始めた。
「紫苑もあのサックスを奏でていた人の様になるのを望んでいたのかしら」
と紀代子が持ち出すと、少し考える様な様子を見せた森彦が紀代子の問いに応えた。
「いや、もっと違うスタイルを目指していたのではないだろうか」
と森彦が言った。
此の森彦の話に紀代子が問い掛けた。
「もっと違うスタイル・・・・・」
此の紀代子の問いに森彦が応えた事は・・・・・、
「僕達が住んでいたマンションの一階にダンス教室があっただろう。あのダンス教室の前を紫苑を連れて買い物帰りに通った時、未だ三歳児である紫苑がガラス張りの中でダンスをしている人達を見て動かなかった時があっただろう。覚えているかい」
「あの事があって、ダンス教室の先生に未だ三歳児だけれども教室に通わせてくれないか。と相談をしただろう。
その時、先生は見るだけでも勉強になりますから来て下さいと言われた話」
と森彦が言った。
紀代子が僅かに頷いた。
あの時から、紫苑は高校を卒業するまで、あのダンス教室に通って、先生も驚かれる様なダンスの上達を見せていた事を紀代子も森彦も先生から聞かされていた。
そんな事を思い出した森彦は・・・・・・・、
「楽器を奏でるだけではなく歌に合わせてのダンスを取り入れるミュージシャンを目指していたのではなかろうか」
と森彦は紫苑の面影を浮べ乍ら言った。
「ダンスを取り入れるミュージシャン・・・・・」
紀代子が昔を振り返る様な表情を見せた。
そして紀代子が腰を浮かせると、自分のプライベートルームへと足を運んだ。
暫くして、紀代子が縦横三十センチ程ある物を、胸元に抱きかかえる様にして森彦の処に戻って来た。
紀代子がプライベートルームの机の上に置いたのは、レコードのジャケットであった。
其のジャケットには、The Immaculate Collectionと書かれている。Madonnaと言う歌手のヒット曲十七曲が収められているレコードだ。と森彦は机の上のジャケットを見て思った。
ジャケットに落としていた眼を森彦が紀代子に向けた。
森彦の目に紀代子が応えるには、
「紫苑が亡くなる一年前の春だったと思う。紫苑が此のジャケットを見せ乍ら話して来た」
と紀代子は言って、あの日を思い起こす様に少しの間を置いて話し出した。
「お母さん、此のアルバムのマドンナと言う歌手の方を知っている・・・・・・・」
「と聞いて来たので・・・・・・」
「多分、あの時、私は、呟く様にマドンナ・・・・・・と言った様だったわ」
「すると、紫苑が、私は来年卒業と共に、この人の様にダンスを取り入れた歌を歌って、多くの人達を楽しませるシンガーになる為にニューヨークに渡るわ」
「その様に紫苑が言うので・・・・・・・、
マドンナと言えば ー憧れの女性ー と言う意味ねぇ。と私が言うと・・・・・・・」
「そぉ、私の憧れの女性よ! この人・・・・・・・・、
先では必ずや、クイーン オブ ポップスと呼ばれる人になられると思うわ」
「その様に言って紫苑が見せたアルバムだから、紫苑亡き後も大切に私の処で保管していたの」
「そうかぁ。紫苑はポップシンガーになりたかったのかなぁ」
森彦が呟く様に言った。
その森彦が言うには、紫苑の若き日、仲間達とバンドを組んで楽しんでいた。其の仲間達に人生のゆとりが出来て、昔の仲間達と再びバンドを組んでボランティア演奏をしている中に森彦が誘われていた。
此のボランティア演奏の中で、毎回、マドンナのヒット曲を一曲演奏していた。
この事を、森彦は何故の演奏なのかは知らなかったが、今、紀代子から紫苑の話を聞いた森彦は、昔のバンド仲間が今でも紫苑の夢を絶やさない気持ちがあっての演奏かぁ。と彼女達の思いをしみじみとした口調で森彦が紀代子に教えた。
紀代子も森彦も二0二0年代のミュージックには詳しくはない。今の世は、いま見た動画の様にヴォーカルシンガーで実力のある人がライブを開いているが、森彦や紀代子達の青春時代にはこの様なライブのスタイルではなかった。と森彦は思って言った。
「僕の青春時代はエルビスに始まりエルビスで終わったからねぇ」
「エルビスと言うとElvis Presleyのこと」
紀代子があの当時の事を思い起こさせる様な奇麗な発音でプレスリーの名を上げてくれた。
「そうだ。彼一人で多くの観衆を熱狂させてくれた」
「私、其のプレスリーを間近で見たわよ」
「えっ、プレスリーのライブに行ったのかぁ・・・・」
「貴方覚えていらっしゃいます」
「何を・・・・・・」
「貴方と初めて出会った。高田馬場駅の近くの喫茶店の事」
「高田馬場駅近くの喫茶店・・・・」
「私達のグループが騒いでいた事よ」
「あーあ、思い出した。紀代子達のグループに注意した事だねぇ」
「そぉー、あの時、プレスリーの事を話していたと思うの」
「それだから騒いでいたのか」
此の紀代子の話から、森彦と紀代子の話は半世紀前に話は飛んでいた。
紀代子が言うには美容の勉強でロサンゼルスに居た頃、学校の理事長からロサンゼルスでプレスリーがライブを行うチケットを三枚くれた。友達を誘い合ってライブを見に行った事を話した。
此の話は、紀代子と一緒になって五十年以上時が過ぎているのに初めて聞かされた話であった。
森彦の自分の青春はプレスリーに始まったと言う話から、この歳になって、紀代子と森彦の間に思わぬ心の架け橋が現れた。その橋を支えているのはプレスリーであった。
半世紀前に心を置いての二人の話は笑いが絶えない。
思い出し乍ら紀代子が語った処によれば・・・・・、
「ロサンゼルスのライブ会場は八畳間位の広さの四角い舞台で、上下皮ジャンに包まれたプレスリーとギターとドラムが入った三人が、其の舞台でライブを開いてくれた。私達三人はこの舞台から一メートル位下がった席からプレスリーを見上げる様な恰好でライブを楽しんだわよ」
此の紀代子の話に、森彦は少年の様な眼差しを差し向けて聞き及んでいた。
「何の曲を聞いたの・・・・・」
「Heartbreak Hotelだったわよ」
「そうか。その曲、僕達のバンドで遣っていたよ」
「えっ、プレスリーの曲を遣っていたの・・・・・」
森彦に言わせれば・・・・・・・、
「バンド仲間の一人が芸能関係に親戚が居て、当時、TVなどで流している音楽の楽譜のコピーなどを手にしてくれたので、此れを教本にしていたよ。また当時売られていたEPレコードを何回も繰り返して聞く事で演奏にメリハリを付けていた」
と話してくれた。
森彦の話が途切れた処で、紀代子がぽつりと言った。
「紫苑が生きていれば・・・・・」
と言って言葉を止めた。
止めた言葉の先を繋いだ。
―紫苑は私達の心の中にあるプレスリーを・・・・・・―
と紀代子が呟く様に言った。
少しの間が経った処で、紀代子が口を開いた。
「ちょっと寂しくなったわねぇ。ごめんなさい」
「いや、いや、紫苑と僕達の新たな繋がりが増えた様な気がした」
「貴方、プレスリーのライブのDVDあるの・・・・」
「ある。見て見るか・・・・・」
「みましょう」
「そうか。Viva Las Vegasで行こうか」
「楽しそうね」
「うん」
森彦がDVDのセットをして画面に映像を出した。
パンチの効いた音が行き成り部屋を覆った。
遠くへ過ぎ去った二人の青春が戻って来た様な物だった。
楽しさが二人を包んでいる。
プレスリーの曲が終わって、二人はあの日のあの頃に想いを馳せているのか。黙って、黒ずんだ画面をじっと見詰めている。
画面から眼を外した紀代子が言った。
「このViva Las Vegasの映画見たわよ。プレスリーの相手はアンマーグレッドだったわ」
「そうだったかねぇ」
「そうよ。彼女のダンスをまねして踊っていたわ」
紀代子が映像から当時の事を思い出して、その様な事を口に乗せた後、暫し、口を閉ざしていると、何かを思い付いた様な様子で森彦に眼を定めた。
「貴方、いま見たプレスリーの様に録画は取れないの・・」
「録画を取る・・・・・・・」
森彦は納得の出来ない表情で紀代子に問い質した。
此の森彦の表情に紀代子が応えた事は・・・・・・・、
「今日の二十一時になるとスペインのアナンさんと言う人からテレビ電話が入るでしょう。テレビ電話で話している時は、初めてのアナンさんやアナンさんの家族の顔は拝見出来るが、テレビ電話が終わると年老いた紀代子の脳裏からはアナンさんや家族の皆さんの顔は忘れてしまうだろう。
先程のプレスリーの様に何時でも会える様に録画が出来ないの」
と森彦に尋ねて来たのだった。
森彦は友達とテレビ電話で話す事は何度も経験していたが、その友達と話す様子を録画にした事は今まで一度もなかった。果たして遣れるのか。と森彦が思って応えが鈍った。
「紀代子、其の事は、僕は遣った事が無いので分からない」
そう言って、森彦は映像と音響を楽しむ二人のプライベートルームから、パソコンがある森彦の書斎に移る様な様子を見せた。
森彦の部屋にあるノートパソコンから取り付けたディスプレイの画面はTVの画面程大きくはないが大型画面である。
この画面に、あと何時間後にはスペインのアナンさんと言う方の顔が映る。初めて見る相手の顔や家族さん達の様子が一過性の物ではなくテレビの画面で何時でも見たい時に見える様にと願った事に、森彦がテレビ電話のソフトを画面に立ち上がらせて遣れるかを調べている。
結果が見えたのだろう。森彦が少し綻びの表情を紀代子に見せ乍ら口を開いた。
「紀代子、今夜のテレビ電話の録画は撮れないだろう」
「やっぱりだめですか」
「いや、此の、ソフトを使って遣れば出来るかも知れない」
森彦が説明するには、テレビ電話が入る前に、このソフトの枠をテレビ電話の流れて来る映像の枠に合わせておく。
テレビ電話が入ると共に、合わせたソフトの作動ボタンをクリックする。
すると、テレビ電話で流れて来ている映像と音声が一部始終録画されるだろうと思える。テレビ電話が終了した時には録画を撮っているソフトも終了のクリックを作動させると、多分、このソフトで撮った映像は、此のソフトの保存場所に保存されると思うから、其処からDVDに書き込むソフトに取り込めば一枚のDVDが出来るかも知れない。
この様な事を紀代子に説明したが、紀代子としては説明はどうでもよかった。遣れるか遣れないかの問題だと思って森彦に目線を定めた。
「僕も始めて遣る事だから、遣って見なければ分からない」
と言って、自信と不安を持ち合わせた表情を紀代子に見せたが、二人は出来ると思ったのか。
二人が笑みを漂わせ乍ら頷きを交わした。
後はテレビ電話が掛かって来るのをパソコンの前で待つしかない。その前に腹ごしらえと思って、森彦が書斎の卓上時計に眼を遣った。針は午後六時を示す前を動いている。
「紀代子、早いが夕食は如何かなぁ」
「温めるだけになっていますよ」
「そうかい。早いが頂いて、九時を待とう」
「そうですねぇ。其れでは用意をいたしますから」
紀代子は森彦の書斎から台所へと足音を遠ざけて行った。
夕食を済ませた二人が再び森彦の書斎に入り、パソコンを立ち上がらせて、今日のニュースが字幕で流れているのを読み取って、二人は其の話題で時間を消化している。
卓上の時計に紀代子が眼を遣った。
「貴方、八時半になったわょ。あと三十分ねぇ」
森彦が紀代子に頷いて見せた。
此の三十分は二人とも口を開く事もなく。じっとパソコンに眼を遣り、テレビ電話の通知が流れて来るのを今か今かと耳を欹てていた。
紀代子は思った。何十年振りかなぁ。この様な緊張感に取込まされるのは、しかし、期待して待っているが、期待に応えて微笑んでくれるのだろうか。それとも、何十年間の心の痛みを曝け出されて、画面から流れて来る相手の表情は目が吊り上がって喚き散らされると、森彦はどう応えていい物か。傍にいる私はどの様に振舞うべきなのか。
考えを巡らせば心が冷え切って、表情が硬くなって行く様な感じがして来た。先程まで見ていた動画の楽しみどころではない。
じっと、ディスプレイに眼を施している森彦も私と同じ心なのか。今まで見た事が無い様な硬い表情を横顔に捉える事が出来る。
この様な二人であれば、遠いスペインから我が家を訪問されようとしているアナンさんを始めとして、家族の皆様に嫌な思いを抱かせて、テレビ電話の映像は行き成り真っ暗な画面に代わるのではないだろうか。と紀代子は思った。
時間を見ると午後の九時を目指す時計の針は、九時前十分の処を小刻みに動いている。
紀代子が森彦の肩に手を掛けて揺さぶった。
「貴方、あのプレスリーを聞いていた時代は楽しかったわねぇ」
と言って、大きな笑い声を森彦に投げた。
投げ掛けられた森彦は、一瞬、様子が分からずきょとんとした顔を紀代子に見せたが、再び紀代子が森彦の肩を揺さぶった事から、森彦の心が開いて思わず大きな笑い声を出した。
紀代子と森彦の二人の笑い声が森彦の書斎を覆った。
その笑い声が尾を引いている時に、ディスプレイにテレビ電話の通信が流れて来た。
「貴方、流れて来たわょ」
「おぉ」
と言って、森彦はテレビ電話の受信を示す処をクリックすると共に、相手の画面を録画するソフトが作動する様にクリックした。
女性の顔がディスプレイ一杯に流れて来た。
画面の女性から滑らかな言葉が届いた。
星子 森彦様・星子 紀代子様Hello。あっ、間違ったわ。Good Eveningねぇ。と言う英語が森彦と紀代子を捉えた。
相手の女性が挨拶言葉を言い換えられた後に、此処スペインと日本との間に七時間の時差がある事をすっかり忘れていたわ。と言って、朗らかな笑い声を聞かせてくれた。
笑顔の中に少し緊張さが見える顔で話を続けられた。
「私がソリアーノ ホシコ アナンです。一九八三年生まれで、今年二〇二〇年で三十七歳になります。
仕事は先日メールでお伝えいたしました様に、此のスペインでアメリカ大使館に勤めています」
と言われた後に、少しの間があったので、森彦が自分達の紹介をしょうかと思った時に、男性が画面に映し出された。
森彦はアナンさんが家族の紹介をなさるのだと察して、画面の男性に紀代子と共に眼を瞠った。
「この人は私の夫でアモール クルス マンセルと言いますのよ。マンセルは私より二っ年上ですから今年三十九歳になります。
マンセルと私が結婚したのは十年前の二〇十〇年です。
夫のマンセルとの出逢いは私がアメリカの国務省からスペインのアメリカ大使館に転勤で帰国した時に、生まれ故郷のスペインを暫く出ていましたので、スペインに戻って来た時、スペインの文化と言う物に興味を抱いて、フラメンコダンス教室に通っていました。其の教室でスペインギターをアルバイトで弾いていたのがマンセルでしたの。その様な出逢いから結婚へと入りました。
その当時、夫はスペインで名のある建設会社に勤めて、夜はフラメンコダンス教室でアルバイトをしていたのです。
今はアルバイトも辞めて、建築家のガウディが手掛けたサグラダ ファミリアの未完成を二〇二六年までに完成させる事になっていますので、其れを完成させる事でサグラダ ファミリアの建築現場で責任者をしていますの」
その様にアナンさんが説明してくれている間、夫のマンセルさんは画面の先に居る森彦と紀代子に笑顔を崩さず見せてくれている。
森彦と紀代子はアナンさんが説明して呉れる度に、アナンさんに向かって笑顔でyes・yesと応えている。
アナンさんが暫し画面から消えると、可愛い子供二人が画面上に映し出された。
アナンさんが女の子を指して言われる事には・・・・、
「この子が長女でカルメンと言って、二〇十六年の三月に誕生していますから、母レイデはこの年の十一月に亡くなりましたので、カルメンの顔を見ての旅立ちになりました。
その様な孫との出会いがあったからでしょう。母レイデがカルメンを確り支えてくれているのでしょう。此のカルメンは病気一つにも患う事もなくすくすくと成長して、今年で四歳を迎えています。いま、此の子は、コレヒオ・プリバードと言って二歳児から通える幼児学校に通っています。此の幼児学校に通わせるのは英語を主体にした教育で高校まで同じ系列の学校で学ぶ事が出来る為、この幼児学校に通わせていますのよ」
と言われた処で、森彦と紀代子に分からない言葉が流れて来たから、森彦がその言葉を尋ねる様な様子で口遊んだ。
「コレヒオ・プリバード・・・・・・」
此の森彦の口遊みに、アナンさんの少し甲高い声がテレビ電話から流れて来た。
「あっ、ごめんなさい。スペインの学校形式をスペイン語でお話ししましたからお分かりにならなかったのでしょう。コレヒオ・プリバードとは私立の学校の事ですのょ」
このアナンさんの説明に森彦がお礼の言葉を流した。
「よかった。分かられました。御免なさい。つい、スペイン語で話して」
と言われた後に、女の子の横に居る男の子を紹介された。
「この子が長男でアントニオと言って二〇一三年に誕生して今年で七歳を迎えます。この子は、生後四か月になった時に保育園に入れさせて頂き、其処から英語を身に着ける育て方をして頂き、三歳になった時に私立の小学校に入り、今は其の小学校の四年生になっています。あと二年小学校を終えると系列の中学・高校へと進むことになります」
とアナンさんが説明して呉れた時、森彦から滑らかに言葉が出た。
「カルメンちゃん・アントニオちゃん。こんにちは。私は日本の星子 森彦と言うのよ。此のお婆ちゃんは星子 紀代子と言うのよ。カルメンちゃんとアントニオちゃんが可愛くて好きになったよ。何時かは二人に必ず会いたいねぇ」
思わぬ森彦からのスペイン語によるカルメンちゃんとアントニオちゃんへの挨拶言葉に、アナンさんとマンセルさんがびっくりした表情を見せ乍ら感嘆の言葉を流してくれた。
其の感嘆の言葉に森彦が応えた。
「いやいや、三十八年程前に覚えていたのを、何とか思い出し乍らお喋りをしたが、分かってくれて嬉しいですよ」
と言葉を返すと、少しの間を取って森彦が紀代子に視線を送って頷きを見せた。そして、森彦と紀代子が自分の事をアナンさんとマンセルさんに伝えた。
森彦と紀代子の自己紹介にアナンさんが応えてくれた。
「お二人とも流暢な英語にびっくりしたわ。私もアメリカの大学に留学した時は慣れない英語に相当苦労をしましたが、森彦様と紀代子様の英語の力には心から敬服しましたわ。森彦様は何処で、紀代子様は何処で此の英語力を身に付けられたのかをお尋ねしたいわ」
とアナンさんからの問い合わせに森彦と紀代子が応えると、アナンさんから紀代子に言葉が返って来た。
「紀代子様がロサンゼルスで美容の道を得る為に四年程いられた事は、紀代子様の第二の故郷はアメリカではないでしょうか。私もアメリカに留学してアメリカの国務省に就職をしてワシントンに住んでいましたから、アメリカを第二の故郷と思っているのですよ」
此の話に紀代子がびっくりした。
「アナンさんもアメリカを第二の故郷と思っていられるのですか。アナンさんと心が通じて、これほど嬉しい事はありません」
「紀代子様の事は亡くなったMadre mia(マディニー・私の母)が、私が二十六歳になった頃によく話してくれました」
「Madre(母)と言われるとアナンさんのMadreの事ですか」
「そうです。Madreは紀代子様に一度会ってお詫びをしなければ、イエスキリストの招きには応じる事は出来ないと申していたのです」
「お詫び、Madre様が・・・・・・・・・」
「えぇ、Madreはこれが日本の心よと教えてくれました」
―日本の心―
紀代子の心が止まった。
画面に暫しの静寂が流れる。止めた紀代子の心が動き出した。
「アナンさん、貴女のMadre様がこの様に言って呉れた事に、此の紀代子の心と貴女のMadre様の心が初めて触れ合って、二人の心が温かく交わった様に思えたわ」
「紀代子様がその様に、私のMadreを思って下さって、心から感謝をいたします」
と言われた後に、細い指で両目の目尻を押さえられた。それを見た紀代子が片手を鼻から口に被せて、何度となく軽い頷きを画面に映らせていた。
画面の雰囲気が重く感じられたのか。アナンさんが明るい声で問い掛けて来られた。
「森彦様と紀代子様の事は私が二十六歳になった頃、Madreから何度となく聞かされました。その話とは、森彦様や紀代子様の若き日の頃の話でありました。あれから十一年が過ぎています。Madreが話してくれた森彦様や紀代子様も、私が抱いている若き日のお二人ではないと思っていたのですが、お二人は私が描いていた老いのイメージとは違ってお若いお二人を見て・・・・」
アナンさんが暫し言葉を止められた。
止められた後に流れて来たのは、言葉ではなく朗らかな笑顔から流れる笑い声であった。其のアナンさんの横には夫のマンセルさんにアントニオちゃんとカルメンちゃん達も笑顔を見せてくれている。
森彦も紀代子も嬉しさと楽しさを包み込んだ笑顔を流している。
この日のテレビ電話は初めての事であったので、双方の自己紹介の様な形で三十分の時間が流れていた。
アナンさんが言われるには、次のテレビ電話でのお話は私の仕事の合間を縫って差し上げますので、其の予定日をメールでお伝えしますから、双方がその様な用意をいたしましょう。と言う話で、初めての出逢いの時が終わった。
テレビ電話の画面が黒ずんだ処で、紀代子は永い息を吐いた。此の紀代子の様子を横目で見た森彦が、少し頷く様な様子を見せ乍ら、黒ずんだ画面に眼を遣った。
其の森彦に紀代子が言葉を投げた。
「貴方、先日見たあの映画、アフリカのモロッコを舞台にした・・・・」
と紀代子が言って、その映画の題目を思い出す様な表情を見せた。
「モロッコ・・・・」
と言った森彦が、不思議な表情で紀代子を見た。
「ほら、渋い顔立ちの俳優さん、あの方、ほら、何と言ったかしら」
「渋い顔立ちの俳優・・・・」
「そぅ、咥え煙草のあのシーンよ、痺れるほどの魅力の人よ」
「うーん・・・・」
今度は森彦がその俳優の名を思い出す様な表情を見せた。
「あーあ、ハンフリー・ボガートだ」
「あぁ、そぅそぅ。其の人が出ていたあの映画・・・・・」
「カサブランカだろう」
「あの映画で、あのハンフリー・ボガートさんの相手役の女優さん」
「イングリット・バーグマンかい」
「そぅそぅ。アナンさん、あの方に何処やら似ていると思わない」
「そうーかい。・・・紀代子が言えばその様に思えるなぁ」
森彦が嬉しそうな笑みを紀代子に見せると、紀代子も笑みを浮かべて話を戻した。
「紫苑に素敵な妹が出来た事を報告しなくちゃぁ」
「紀代子、それはまだ早い。アナンさんが私を父親と言われた後だ」
此の森彦の話に、笑みを浮かべていた紀代子が表情を引き締めて言った。
「そうねぇ。親子の名乗りがあった訳ではないですからねぇ」
「うーん」
森彦が渋い表情で応えた。
「紀代子、もう一度、アナンさんの家族を見て見るか」
「えっ、録画撮れているの・・・・・・」
少し沈んでいた紀代子の表情に明るさが戻って来た。
森彦が、先程のテレビ電話の画像を録画しているソフトを立ち上がらせている。
ディスプレイにアナンさんが映し出された。あの声が流れて来た。
森彦と紀代子が顔を見合わせた。思わず二人に微笑みが浮かぶ。
「画像が録画されているので、後は、この録画されている動画を別なソフトを使ってDVDに焼き付ければ何時でもテレビ画面で見る事が出来るし、またDVDプレーヤーで外出先でも見る事が出来る」
と森彦が話してくれた。
―あぁー、紫苑の妹と此れから何時でも会えるわー
と紀代子は自分の胸に言い聞かせた。
遠い異国の人であるが、前々からの知り合いの人であった様に話を終わらせた森彦と紀代子の興奮は、あの時以来、冷め切らぬ日々を過ごしていた。
其れと言うのは、森彦が録画に撮ってくれた先日のアナンさん家族の動画をDVDに焼き付けてくれた。
このDVDを何度も見ているからであった。見れば見るほど楽しさが膨れ上がり、嬉しさが込み上げて来ていた。
「アナンさんって、本当に奇麗な方だわ」
「うん、この二人は似合いの夫婦だ」
「そうですねぇ」
「このアントニオちゃんの賢そうな顔・・・・・」
「それにカルメンちゃんのなんと可愛い事」
「うん、賢そうな子と可愛い子だ」
「傍に居るならハグして見たいわよねぇ」
DVDの画面をみ乍ら森彦と紀代子の話は止まらない。
「紀代子。ビールなかったかなぁ」
「ビールですか」
「あぁ。そうだ。ビールだ。今宵はビールを飲まないと」
紀代子が森彦の気持ちを察して
ビール缶からコップにビールを注ぎ入れた森彦が、この缶ビールを紀代子に向けた。
コップが無い紀代子が慌てた様子で台所にコップを取に行って席に戻ると、森彦が紀代子に笑顔を見せ乍ら琥珀色の液体をコップに流し落とした。
「紀代子、何時でも、あのイングリット・バーグマンに会えるぞ」
森彦が言う様に、此れからの毎日毎日、二人で先程の動画を見る度に交わされる二人の会話は、昨日とはまた違った新鮮な会話が飛び交わされる事だろう。
森彦七十七歳、紀代子七十三歳になって、こんなに美味ビールを味合う事が出来るなんて、こんなに楽しい日々を、こんな嬉しい日々を迎える事なぞ考えにもしていなかったので、先程見たあの画面が、二人を興奮の坩堝に陥れていた。夜が更ける事さえ忘れていた。
昨年までは、二人の終焉をどうするか。と暗い話で終始していた此のリビング部屋に、何処からかパット明るさが射し込んで来て、二人は年齢の事など忘れたかの様に、先程の画面で拝見したアナンさん達の家族に会いたい想いが、二人の心に覆い被さって来ていた。
覆い被さって居るから、二人はこの先森彦が作ってくれたDVDから眼を外す事が無い日々が続くだろう。
そんな思いの日々を過ごしている時に、アナンさんからメールが流れて来た。