二、紫苑亡き後でも
二、紫苑亡き後でも
二十五年前の一九九四年の十月に、紫苑は交通事故で命を落とした。
あの時、紀代子の父剛平は訴訟の費用は儂が面倒みるから裁判を起こす告訴をする様に言って来たが、裁判となると儂等素人には分かりかねる事が多いので、交通事故に関しての腕利きの弁護士を雇って色々の知恵を授けて貰い、此の事を検察が充分汲み取って加害者の責任追及を徹底した結果、法が許す最高刑を裁判長が判決として下してくだされば、残された被害者の家族の心が少しでも癒される事になり、紫苑の供養になる事でもあり、この様な事故を引き起こさせぬ社会への警鐘にもなるだろう。と紀代子と森彦に言って来た。
従って、紀代子と森彦は全てを弁護士に任せて、この事故に関しての報道には口も出さぬが顔も出さぬ事を貫いていた。
この様な思いでいた事故後、警察から聞かされた話では、左の前輪で紫苑を巻き込むと後輪で紫苑の骨盤から内臓に掛けて轢いた事が致命傷であったと聞かされた。
紫苑が横断報道の青信号に合わせて横断歩道を渡り出したのに、何故トラックが紫苑を轢いたのか。
歩行者優先、それも横断歩道を青信号に合わせて渡っているのに事故が起きた。納得出来ぬ。
其れは、トラックの運転手が赤信号で停車している時に、助手席に置いていた携帯電話を手にして同僚に電話を掛けた。
電話の内容は、三十分後には会社に戻るから、何時もの居酒屋に出向く事で、後輩に待っておく様に話をしたそうだ。
信号が変わって青になった時に、携帯電話を切って車を動かすべきが、左手の携帯電話を左耳に当てて会話を続け乍ら右手でハンドルを左に切った。携帯電話を手放して車を動かすべきと言う細心の注意義務が闕如していた為に、横断歩道を渡って居られた娘さんへの目の集中力を取るべき事が、その集中力が左耳にあった為に娘さんを見落とした。と言う捜査の結果を聞かされた。
此の捜査結果の話を耳にした森彦と紀代子は、運転手は車を動かす時には細心の注意を払わなければ、其の細心の注意義務を放棄して人の命を奪った。
この事が過失か。と森彦と紀代子は心に強く感じて、父剛平が言った様に、この事を世に問い質す思いを以て、裁判での結果は最高刑を願った。
その結果、自動車運転過失致死罪の最高刑七年の判決が出た。
手塩に掛けて育てた娘の命を帰らざる事にしたのが過失か。
一人は永遠として帰って来ない。一人は七年が経つと帰って来る。
此の不合理・・・・・・
此の刑事裁判に合わせて、亡き紫苑の損害補償の交渉を腕利きの弁護士に依頼して、納得いく紫苑の補償を目指したが、法律が定める逸失利益から見れば、紫苑は女性で学生の身分であるから親の森彦・紀代子が想像するには程遠い金額が提示される雰囲気であった。
紀代子と森彦は親の手前味噌ではないが、紫苑は仲間とバンドを組んで社会奉仕もしていたし、その腕を見られてTVから誘われて映像でも演奏を流していた。
亡くなった故人は、先ではニューヨークに渡りミュージシャンとして成功したい夢も持っていた。
この様な事から考えても、最高の補償金額を事故を起こした会社が加入している保険会社から獲得して欲しいと弁護士に願った。
紀代子と森彦がこの様な思いを告げるには、二人には思う事があったからだった。
裁判の結果と、運転手を採用していた会社の運転管理者が毎日の点呼の時などに、携帯電話の使い道などを確りと指導していたのか。また、会社の経営責任者が此の様な事故を起こさぬ事を充分理解して社員に指導徹底をしていたのかを弁護士が追及すると、此の事が杜撰であった事が判明されて、紫苑の補償額は紀代子や森彦が思っていた額に近い所で査定がされた。
裁判と補償交渉で三年の月日が掛かった。
紀代子も森彦も心を休ませる事が出来ない三年であったが、心の傷は今でも癒されずに、深く傷ついている。
紀代子と森彦が願った紫苑の補償額は、紫苑が通っていた母校に全額寄付した。
此の寄付した金銭を有効に利用なされて、紫苑亡き後に何人かの人がアメリカに渡り、音楽の道を目指していられると森彦と紀代子は耳にしていた。この話は紀代子が紫苑にも聞かせていた。
紫苑は喜んでいるだろう。後輩が紫苑の道を進んで呉れる事を・・・・・
事故と言う物は、一寸した心の隙間から忍び込んで来て、一瞬にして被害者や残された家族、また加害者や其の家族に不幸を齎す。
紀代子と森彦は、この事故と言う現実から前向きな気持ちになれずにいた。
紫苑の納骨も済ませた頃、森彦が紀代子に話があると言って来た。
其の時の森彦は妙に改まった姿勢を見せていた。紀代子は何の話かと思って、緊張の趣で森彦に眼を定めたのは、未だに忘れられぬあの時のあの様子であった。
森彦が言うには、紫苑なき後を、二人が辛い気持ちを二人で舐め合い乍ら時を過ごして行くならば、紀代子も私も今まで作り上げて来た人生の宝を壊してしまう事になるだろう。其の事は、決して紫苑は喜んでは呉れないだろう。
私達が此の辛さから立ち直って前に進んで行く事が、紫苑の為でもあり、紫苑を支えてくれた人達の為でもあり、私達を見守ってくれる人達の為でもある。
此の辛さから縁を切って前に進む為には、私達が自ら環境を変える事が最善の方法と思える。
紀代子が環境を変える・・・・。と言って森彦を見詰めた。
うん、働く処を変える。と森彦が言った様に覚えている。
会社を辞めると言われるのですか。と紀代子は言った。
いや、会社を辞めるのではなく仕事場を変える。
自分は大阪に行く。と言う。
その時、紀代子の頭には、森彦が紀代子と離婚を考えているのかなぁと思った。
大阪に行かれると言う事は私と離婚なされるお積りですか・・・・
と紀代子が心にもない事を口に乗せた処、森彦が笑顔を見せ乍ら言った事は・・・・・・・、
紀代子、紀代子と初めて出会った時の事を覚えているか。あの出会いからすれば、そう簡単に別れる事は出来ない二人だぞ。
森彦がその様に言って話し出した事は、初めての土地大阪で、其れもバブル崩壊で大変な市場に、森彦が自ら飛び込み苦しさと闘い乍ら毎日を迎えれば、きっと、二人には青空が覆い被さって来る。
紀代子も走り出しているメークと言う仕事の完成を目指して頑張って欲しい。二人でおれば、ついつい、辛い事の愚痴を並べる毎日を迎える事になる。
そんな毎日を過ごした処で紫苑は喜んでは呉れまい。
紫苑の夢を、夢の中で遣り遂げさせて遣るには、私達が紫苑が居た時と同じ様な二人で居る事が必要だ。
その為に、暫し、自分達の仕事に打ち込んでみよう。
会社には三年を目途に話を通してみる。
此の五十三歳に森彦はもう一つの決断をしていた。
紫苑がこの世に生きていれば、婿を取って星子家の先祖供養をしてくれようが、その紫苑もこの世にはいない。
すれば、此れから先の星子家をどうするか。其の時期になっていた。中央官庁で終身勤めた父も八十一歳になっているし、母瞭子も七十八歳を迎えている。先行きの事が心配である。
其処で、森彦は大阪赴任前に紀代子に森彦の父直治と母瞭子に森彦の姉洋子夫婦そして弟の憲治夫婦を入れての家族会議を修善寺温泉の宿で行った。
其の会議の中身とは、星子家の長男である森彦夫婦には一人っ子の紫苑を亡くして、今後、星子家の先祖供養が出来ない。
寄って、星子家の先祖供養や今後の事を弟の憲治で賄って貰いたいとの話を森彦が家族会議に持ち出した。
弟憲治には長男と長女それに次男の三人の子供がいる。
父の直治が承諾の声を出すと、母瞭子も直治の顔を見て頷きを戻していた。後は、弟の憲治次第である。この時の憲治は父直治の願いを受けて都内にある大学の医学部を卒業して、厚生労働省に入省して感染症の研究に務めていた。
此の弟が一同の顔を見て、最後に森彦の顔を凝視して言った。
「兄貴、この私で務める事が出来ようか・・・・・」
「お前なら、大丈夫だ。頼むぞ」
森彦が言った処に姉の洋子が言葉を放した。
「森彦が言うのだから、憲治やって頂戴」
洋子の此の言葉で、座は緊張感が取れて、夕食の席は父と母を囲んだ慰労の席へと代わっていた。
こんな家族会議が行われた後、森彦は単身で大阪赴任をしたが、一月の内に二度程大阪から戻って、紀代子と話を弾ませていた。
処が、森彦が赴任した前年には、阪神・淡路大震災と言う災害が関西地方に襲い掛かっていた。
この様な状態の中に森彦は飛び込んだ。どうする事も出来ない市場。しかし、森彦が自ら望んで来た此の市場。此処で尾を巻く事は出来ぬと思って一心不乱に働きに働いた。
その結果が、森彦が赴任してから三年目には業績が何とか上昇の兆しを見せ始めた頃、三年の約束と共に森彦は東京に戻って二年後の五十八歳の時に取締役の一員に抜擢された。
紀代子も森彦と同じ様に紫苑の悲しさを乗り越える為に働きに働いた。
紀代子が紫苑の事を思い出して心を湿らせる様な事は、紀代子が取り込んでいる仕事の忙しさが許してはくれなかった。
三年振りに、二人が同じ屋根の下で暮らす事になった。
この時、父剛平が森彦・紀代子の新婚当時に都合してくれたマンションから、亡くなった紫苑が通学していた大学近くの西日暮里のマンションに移った。
紀代子は此処で森彦と十六年程過ごした。この間、森彦は七年程会社の取締役を務めていたが、六十六歳の歳から子会社の社長を仰せつかっていたのを七十の歳に身を引いた。
此の森彦の会社退職に合わせて、紫苑の思い出が残る西日暮里のマンションを売り払って、敷地に少し余裕のある処を兄の剛一郎に頼んで千葉県浦安市のディズニーランドに程近い処に、紀代子の寝室兼プライベートルームに森彦の寝室兼書斎に、それに少し広めのリビングルームの一角に二人の共同プライベートルームがある家屋を造っていた。この間取りに使う建築材料は永く二人が住む訳ではないだろうと言って、安価な材料で平屋の家を建てた。
凝っている間取りと言っても、紀代子の寝室で紀代子が此れから何かを遣り出すのに都合が良い程の広さの部屋だった。森彦の寝室についても森彦が何かを研究する気持ちが何処かにあった為に、大きな本棚を備え付けて貰って、其処で研究などを始めた時に疲れたら傍のベッドに横たわれる事が出来る書斎兼寝室の部屋であった。
紀代子と森彦の共同プライベートルームと言うのは、森彦が六十六歳の歳に子会社の社長になった時に、自分なりの何かに取り込んで見たいと言う気持ちが持ち上がって、紫苑の仏壇横に掲げられているアルトサックスが目に留まった。それは紫苑が奏でていたアルトサックスであった。
六十の手習いで紫苑の後を追ってみるかと思って、男性の森彦であったが、紫苑になった積りでアルトサックスを会社が引けた後で、新橋にある演奏教室に通い始めた。
気持ちが充実していたのと、紫苑が手にしていた楽器から手を放す事は出来ぬと言う一念発起に、それに森彦は大学時代に軽音楽クラブでテナーサックスを奏でていた事もあって、四年後の会社を辞めた頃には人様の前で奏でても聴きづらさがない腕まで成長していた。この事があって、七十の歳で家を建てる時に演奏の練習音が外に漏れない様に遮音装置を施した部屋、それに、二人が若き日に見た映画を多少大きなスクリーンで鑑賞出来る部屋、紀代子の好きな音楽、また森彦も好きな音楽を誰にも気兼ねなく聞ける音響効果を施した部屋として、この二人の共同プライベートルームを作り上げていたのであった。
この部屋だけが少し豪華にデザインされていた。
森彦と紀代子は七十の歳と七十近い歳になっていたが、互いのプライバシーは守ろうと言って、此の歳になっても寝室を分けていたが、何時何時二人に突発的な事が起こるかもしれない。此の突発的な事を即座に処理する為に各部屋の間にはインターホンが置かれていた。
この様な思いでこの家を建てた事を紀代子は思い出し乍ら、リビングのガラス戸のカーテンを引いてリビングの椅子へ森彦を促した。
リビングに灯りが灯されて明るい食卓に暖かい茶を紀代子が運んで来た。森彦の茶器から仄かな湯気が立ち昇っている。
其の湯気に眼を定めている紀代子が、先程、思い巡らかしていた心を呼び戻していた。
此の平屋の家を建てるにあたって、兄剛一郎とその息子慎吾に紀代子が注文した事は広いリビングを希望した。希望された二人は紀代子の願い通りの家を建ててくれた。
繁栄を見せている三店の店を、紀代子が六十になった時に全て弟子に譲った。弟子に教えた技術が延々と、此の東京でいまでも残って行く事が紀代子の願いであって、それを継いで行くのは血の繋がりだけではないと紀代子は思っていた。自分が広めた物を、確かな腕で次の世まで残してくれる事に、紀代子が満足な笑顔で森彦の髪に眼を這わせると、白い物が多く目につく森彦を見て、大きな溜め息を吐いた。
此の溜め息で、森彦が下に向けていた視線を紀代子に向けた。
「貴方、明日発表される年号は何でしょうかねぇ」
「うん。人の心が温かくなる物がよいなぁ」
「人の心・・・・」
森彦は紀代子の此の問いには応えず。過ぎ去る平成の世を思い浮かべていた。確かに、技術の進歩は目を瞠る様な日々であるが、人の心の衰退は目を覆う様な日々であった様な気がする。この気持ちが止まる様な元号を口遊みたいと思って、森彦が明るいリビングの灯に眼を向けると、その眼を再び紀代子に戻した。
元号が令和となって三か月が過ぎ様としている。街の祝賀の賑やかしさも落ち着いて来て、何時もの年と変わらぬ七月末日の夕食後の一時を迎えている。
紀代子と森彦がリビングのテーブルを挟んで、先程から話し込んでいる二人の顔に、東京ディズニーランドから打ち上げられる花火の明るさが、リビングのガラス戸を通して濃淡を描いている。
「貴方、東京ディズニーランドも昨年より派手ですねぇ」
「ふむ・・・・」
森彦には紀代子が言った言葉の意味が分からず。この様な応え方をして、紀代子の顔を暫し見詰めた。
此の森彦の様子を悟った紀代子が言うには、元号が変わって賑やかく祝うのは日本の企業ばかりと思っていましたが、外資系の東京ディズニーランドも昨年より多くの花火を打ち上げて祝っている。と言いたかったの。
「そりゃぁ、人集めの場所だから、国とは関係なくするだろうねぇ」
「そう言えば、そうでしょうねぇ」
と紀代子は言って、少し含み笑いを見せた。
二人の夕食後の話は、来月の盆参りの事を話していたのが、東京ディズニーランドの打ち上げ花火が派手に夜空を飾ったので、二人の話が中断していたのであった。
盆参りと言えば、東京の人達は七月十三日から十五日になされるが、星子家の先祖は九州の熊本であったので、先祖からの仕来りで星子家では旧盆に当たる八月十三日から十五日を盆参りと定めていた。
盆参りと言えば、昨年、紫苑の盆供養を終わらせた後で、甥御や姪御達から森彦と紀代子に話がなされた。
話された言葉を紀代子が口遊んだ。
「紫苑さんが生きていられれば、叔父さんや叔母さんの事を・・・・・・」
と言って、甥御や姪御達が森彦と紀代子の顔を窺った。
此の甥御や姪御達が残した言葉を盆が終わった処で、二人は如何すべきかと話し合っていた。
其の話の結末は、紫苑が元気でいれば、二人の先々の事を紫苑に頼んで行けると思っていたが、二十五年前に亡くなった紫苑にはもう頼む事も出来ぬ。
森彦と紀代子の終焉をどうするか。と言う話である。
二人に取って、頼み事が出来る兄弟や従兄弟そして甥御に姪御達もいるが、此の兄弟や従兄弟達に頼もうと思っても、森彦と紀代子と然程歳は変わらない。年老いた者に年老いた者の世話を頼む事は出来ないと思って、甥御か姪御達にお願いしょうと思っている。
甥御や姪御達とは慣れ親しんだ親戚であったし、この家の敷居を何度となく跨いで訪問もしてくれていたので、彼等に頼もうと言う考えはあった。
しかし、此の甥御や姪御達にも子供達が誕生して家庭を持っている。彼等に自分達の事を重荷として担がせる事は出来ないのではないか。と言う考えが持ち上がっていた。
子供達が居る甥御や姪御に、其れでも私達の事を願うとすれば、出来る限り甥御や姪御に迷惑の掛からぬ様にしなければ、と思って、自分達が病に罹った時には、どの様な処置を医師にして貰いたいか。自分達が帰らぬ人となった時の葬儀の遣り方等を書き表した物を甥御や姪御達に渡して、私達の事で心を悩ませる事が無い様にしなければ、と二人は話し合った。
話し合った二人が人生を振り返って見た。
すると、此の期に及んで何も悔やむ物はない。と言うのが二人の考えであった。
だから、大病に罹った時は天命の定めとして、延命処置を断ると共に苦しさや痛みを解いて貰って、ごく自然に命が絶える事を望むと書き認めた物を用意しょうとの話になっていた。
帰らぬ人となった時には、葬儀と言う儀式には捉われず。俗名を持って次の世へ旅立ちをすること。
派手な事には一切無用と二人は書に定めて、甥御、姪御達にこの様な野辺送りを頼む考えであった。
骨になった二人の事は、二人が若き日に、働いた処、学んだ処に再び魂が運ばれたいと願って太平洋での散骨を望んでいた。
そうする事が、大海原の潮路に乗って互いが望む処に魂が運ばれるだろう。この様な思いが、二人の痕跡を残す事も無く。
先々、甥御や姪御達に世話を掛けない事だと思っていた。
この二人の考えを兄弟や従兄弟達そして甥御や姪御達に書き表して見せてはいなかったが、此の考えの概略は今年の春のお彼岸に、紫苑の墓参りに来てくれた兄弟や従兄弟達そして甥御に姪御達の耳には入れて、一応の承諾を皆から得ていた。
二人の先々の考えは此れで良いだろう。と思った処で森彦と紀代子の話しは止まった。
すると、紀代子が行き成り口を開いた。
「私達の事は決めたが、紫苑の事はどうしますか・・・・」
「紫苑の事・・・・・・」
「そう。紫苑の供養の事ですよ。何回忌とかの供養の事ですよ」
「そうか。其れを遣り遂げる僕達もいないしなぁ・・・・」
このように言った森彦が、暫し、間を置いて言い出した。
「そうかと言って、甥御や姪御達に頼む事も出来ないだろう」
と言って二人の話が途切れた。
紫苑の墓は紫苑が好きであった。太平洋の大海原と富士山が見える鎌倉の霊園に埋葬されているが、その墓には二人が時偶おとずれて墓地の周りの雑草を取り除くと、墓標に向かって手を合わせて声を掛けているが、それも何時まで続く事やら、年老いて行く二人はその事を考えなければならない歳になっている。
この先をどの様にして行くかは、二人にはこれと言った考えはなかった。
その時、森彦が紀代子の顔を窺いながら言葉を放した。
「紀代子、君が良ければ、僕達と同じ遣り方を・・・・・」
と言って、森彦の言葉は止まった。
「僕達と同じ遣り方・・・・・」
紀代子が問い質して来た。
「そう、私達と同じ様に散骨にして遣れば・・・・」
海に流して遣れば、私達が思っている様に、暖かい海流に乗って紫苑の魂は行きたかったアメリカへ行けるだろう。紫苑の気持ちにも添える事にもなるだろう。
そうする事によって、私達も紫苑の事で人様にお世話を掛ける煩わしさの気持ちを持たずに、この世とお別れする事が出来るだろう。
森彦の心の内はこの様な事だった。
此の森彦の考えに紀代子が反対する気持ちは何処にもなかった。
だから紫苑の事で二人が辿り着いた処は、今年の秋のお彼岸が過ぎた処で、紫苑の葬儀の時にお世話になったお寺と相談をして墓仕舞いを行い。散骨する葬儀屋に頼んで、来年の春のお彼岸が過ぎて桜の花の咲く頃に、太平洋で散骨をお願いしょうと言う話になった。
此の散骨には一隻の船をチャーターして兄弟や従兄弟達そして甥御に姪御達が乗船して貰って、皆で紫苑の念いが来世で成り立つ様にして遣ろうと言う話になった時に、リビングの壁に掛けてある時計が二十一時の刻を野鳥の声で伝えて来た。
二人は夕食の事も忘れて話していた。
時計の針に眼を遣って、その眼を互いの顔に定めて二人は笑みを見せていた。此の笑みは心の蟠りを取り除いた笑みであったのだろう。
八月の旧盆が来た。
紫苑の祭壇に、森彦と紀代子が紫苑を迎える事は今年が最後になる。其の最後の祭壇を飾る花は紫苑も喜んでくれるだろうとの思いから、色鮮やかな花が祭壇を飾ってある。
此の盆の合間を見て、森彦と紀代子が森彦の両親が祭られている弟の処に足を運んでいた。
紀代子の両親が祭られている兄剛一郎の処で二人が手を合わせたのは先月の十四日であった。
両家に伺った時に紫苑の墓仕舞いの話をして、その席に居合わせていた甥御や姪御達にもこの話の理解を求めていた。
つまり、紫苑の散骨は二〇二〇年の四月五日(日)に行う予定であるから、この散骨の儀式に皆様が参加して頂く様にとお願いをしていた。
葬儀屋との話も終わらせて、二〇二〇年の四月五日(日)の予定日が確定日となった処で、兄弟や従兄弟達そして甥御に姪御達に、その日の案内を認めた物を郵送していた。
森彦と紀代子が取った次の行動は二〇二〇年の春のお彼岸が終わった処で、紫苑が葬られている鎌倉の霊園の事務所にお寺のご住職と供に伺って、紫苑の墓仕舞いをさせて頂く予定だった。
此処迄の行動が滞る事なく終わると、紫苑の遺骨は暫く我が家で休ませて、桜が咲き出した頃に葬儀屋に持ち込んで、散骨用のパウダーにして貰う。
そして、二〇二〇年の四月五日の日曜日を待つ事にしていた。
この様な話を紫苑の祭壇を前にして話していた紀代子が、突然紫苑の祭壇をじっと見つめて口を閉ざした。
其の紀代子が祭壇から眼を離す事もなく、後ろにいる森彦に言葉を投げた。
「貴方、あれから二十五年になりますわねぇ」
と言って紀代子が背を返して森彦に視線を流した。
「紫苑が亡くなってからかぁ」
「そうです」
と紀代子が言って、あの二十五年前に紫苑が交通事故で命を失くしたのは、トラック運転手が細心の注意義務を以て運転すべきなのに、世に出た携帯電話に心を許して細心の注意義務を怠った為に事故が発生した。
貴方は、先程、技術の進歩は目を瞠る物だと言われたでしょう。
紫苑の事故の原因となった携帯電話も、其の技術の進歩の一つとして、今は、スマートフォンと言う物に変わり、音声だけでなく映像も見える。それも、停止画像ではなく動く画像。動画として見る事が出来るし、行き先を案内して呉れる事も出来るし、不明な事を調べる事も出来る。見知らぬ人と声や字幕で結ばれる事も出来る便利な物に様変わりして来た様ですが、人の心は此の便利な物に合わせて充実して来たのでしょうか。
ながら運転と言う記事が新聞紙上でよく見かけますが・・・
この様な話を紀代子が言った。
「紫苑の時より危険性が大きいと言うのかねぇ」
「そうです。紫苑の時は、目は前方を見る事は出来ていた」
「うん」
「それが、スマホになれば、目は前方を見るのではなく」
「スマホに目を向けているから事故が起きると言う事だねぇ」
「そうです。今の世も、細心の注意義務をねぇ」
「そういう事だねぇ」
「技術が目を瞠る進歩ならば、人の命を守る進歩も・・・」
「人の命を守る進歩・・・・・」
「そうです。車の中では、スマホは利用できないとか」
「車の中でのスマホの禁止か・・・・・・」
「車のエンジンが始動している時は、TELの着信の合図だけが」
「と言う事は、電話の遣り取りや、スマホの他の機能もか」
「そうです。車を止めないと作動出来ない様な技術が・・」
「そこ迄すると、経済効果が鈍るだろう」
「経済効果の為に人の命までも粗末に・・・・・・」
と紀代子は言って、再び、紫苑の仏壇に目を配った。
森彦に背を向けながら、紀代子は言葉を放した。
「貴方とこんな議論をした処で、紫苑は喜んでは呉れないでしょう」
と紀代子が言って背を返して、森彦に少しの笑みを見せながら、仏壇前から腰を浮かして台所に足を運んだ。
一時の時が流れると、台所から香ばしいコーヒーの香りがリビングの席にいる森彦を被って来た。
森彦の前にいる紀代子が、森彦のお好みのコーヒーをカップに注いで森彦の前に押し出した。
目元には笑みを漂わせている。