一、奇妙な出逢いが・・・・・
2002年のビックイベントに携わった事で、このビックイベントの事を記録として残そうと思って1冊の本とした。その時、編集者より一つの誉め言葉を頂いた。
現役を離れて、これから先の脳細胞の劣化防止をどうするかと思った時に、あの誉め言葉を思い出して物書きの真似事を始めた。好みの時代物を書き表している時に、コロナと言う今まで経験して来た事がない巣籠の苦しさ、明るさの見えない日々の中で、今までの人生で聞き得て来た事、見て来た事を頭の中で繋ぎ合わせて書き上げて来た作品である。
一、奇妙な出逢いが・・・・・
平成と言う元号が平成三十一年の四月三十日を以て閉じられる事は、星子 森彦と妻の紀代子は報道で知っていた。
その平成の年が閉じられる一月前の三月三十一日、二人は八分咲きになっている庭の枝垂れ桜を平成最後の桜見としゃれこんで、リビングのガラス戸の処に缶ビールを置いて眺めている。
青く晴れ渡った空から時偶吹いて来る緩やかな風が、薄紅色の花弁を小刻みに揺らしている。二人の膝元には昼下がりの春の陽が温かく二人を包んでいる。
紀代子が席を立った。森彦は紀代子の足音が遠ざかるのを、少し首を捻る様な素振りで紀代子の後姿を追ったが、其の首を緩と枝垂れ桜の方に戻して、小刻みに揺れている枝に眼を向けていたが、何時しか首を上下に振ってうとうととした顔を見せていた。
森彦は五十八の歳から六十五歳まで大手電機会社の役員を張り、六十六の歳から関連会社の社長を務めて七十の歳に身を引いて、妻紀代子との老いの楽しみに浸かっていた。
七十歳まで世話になった東京のマンションを売り払って、東京ディズニーランドの近くに平屋造りの家を拵えて六年を迎えていた。
此の平屋造りの家を建てた時に造園業者に頼んで紀代子のお気に入りである枝垂れ桜を南側の庭に植えた。此の枝垂れ桜を紀代子と見る森彦は七十六歳を迎えていた。妻の紀代子は七十二歳になっていた。
紀代子が奥から盆に乗せて来たコーヒーカップを森彦の脇に押し出した。
森彦が紀代子の素振りで、うとうとした域から抜け出すと少し首を左右に振った後、ゆっくりと体を捻ると斜め後ろに居る紀代子に笑顔を見せて、森彦の脇に置いてあるコーヒーカップに手を掛けようとした。
二人はコーヒーを啜り乍ら、暫し、時の流れに言葉を挟む事もなく、枝垂れ桜に眼を遣っている。
「貴方、明日は新しい元号が発表されますわねぇ」
森彦は枝垂れ桜から眼を外すこともなく紀代子に応えた。
「うーん。何と言う元号になるのかなぁ」
「平成の年は、暗さが多かったから、この桜のような・・」
と紀代子が言って、二人の言葉は止まった。
森彦は紀代子が言った暗さを思い浮かべていた。
そう言えば平成に入って、バブルと言う物が弾けて経済が未曽有の混乱を起こしていた。
この時期に森彦は自ら望んで、単身で大阪に赴任した。此の自ら希望しての大阪行きは紀代子との相談の上での行動であった。
阪神・淡路大震災があった平成七年の翌年に赴任した。
復興の真っ只中とバブル崩壊後の影響が市場を被っている中で、関西統括支店長と言う名の下で一心不乱に働いたが売るべき商品は売れずに、業績は前年から見て、考えさえ思いつかない数字がパソコンの帳票欄に並んでいた。
復興の槌音が広く聞かれる中で、バブル崩壊後のあの苦しさも徐々に回復を目指し始めた頃の平成十一年の三月に東京に戻った。
あの、阪神・淡路大震災から十六年後の平成二十三年には、東日本大震災が宮城県・福島県・岩手県と関東地方一帯を襲った。その時の森彦は関連会社の社長をしていた頃で、此の関連会社が東北で親会社に納入する部品を作る工場を二つ持っていた。此の東北の工場がこの地震や津波の影響で封鎖せざるを得ない状態になり、大阪に赴任した時と同様に業績を求める様な物ではなかった。
この二つの大震災の外にも、豪雨で被害を蒙られた方、また大火災で家を焼失なされた方や、大事件や大事故で尊い命を亡くされた方、事故や事件で酷い後遺症に悩まされていられる方。また、新聞紙上やテレビのニュースで心を痛める子供や高齢者への虐待。
なんと、暗い事が多かったことか。と森彦は此の三十年を振り返っていた。
「この桜の様に、心を弾ませてくれる様な元号をなぁ」
森彦が言って紀代子に振り向くと、何処となく笑みを浮ばせた顔を見せてくれた。
紀代子も此の三十年間は森彦が思う様な思いであったが、紀代子には今でも消える事が無い辛い苦しい思いがあった。
其の事を偲び乍ら口にしていたコーヒーカップを、紀代子がソーサーに戻した時の音が少し大き目の音であったので、森彦が背を返して紀代子を見ると、紀代子は青空の中で小刻みに揺れ動く枝垂れ桜に眼を細めていた。
その目を森彦に戻して口を開いた。
「貴方と一緒になって、五十年近くになりますわねぇ」
紀代子が言った事に、森彦が少し考える様な恰好で応えた。
「そうか。五十年か・・・・・」
と言って、森彦が目線を膝元に射し込む陽射しに落とした。
陽射しに落としていた眼を紀代子に向けた森彦が徐に喋り出した。
「紀代子と一緒になった時の僕は二十八の歳だった」
「そうでしたねぇ。私が二十四でしたわ」
「そうか。互いに若かったなぁ」
森彦が言って、紀代子が持って来たコーヒーポットに眼を落した。森彦の眼の動きを察した紀代子が、コーヒーポットから森彦のコーヒーカップにコーヒーを注ぐと、残りのコーヒーを紀代子のコーヒーカップに注いだ。
満たされたコーヒーカップを取った森彦が紀代子に視線を流して、庭の枝垂れ桜に眼を戻した。紀代子が森彦の左側から枝垂れ桜に眼を向けている。
二人は桜に眼を細め、過ぎ去った五十年程前に心を戻している様子であった。
確かに森彦が言った様に、森彦が紀代子と結婚をしたのは二十八の歳であり紀代子が二十四の歳であったが、二人の出逢いは二年前に遡る事になる。
あの二年前の紀代子との奇妙な出逢いを思い起こしていた。
あの日も、今日の様な春爛漫の日であった。
高田馬場駅近くにある喫茶店で、学生時代のゼミ仲間四人と森彦が談笑している席の斜め前で、女性仲間四人が姦しく話していた。
日曜日の午前中であったから、店内は森彦達のグループと此の女性達のグループしかいなかった。だから店主も奥に下がって森彦達のグループにも女性達のグループにもお構えない様子であった。
そんな店の様子であったので、女性達のグループは森彦達のグループに遠慮もせずに大きな声で燥ぎ回っていた。
森彦達のグループが眉間に立て皺を寄せて、此の女性グループを睨みつけたが、誰も此の女性グループに小言を言う者はいなかった。
森彦達が話している話が、此の女性達の大声に阻まれて聞き辛くなっていた。
だからと言って、男達が此の女性達に負けない様な大声で話すのも大人気無いと思って、森彦達は額を摺り寄せて話していたが、女性達の話し声は一向にトーンが下がる様子ではなかった。
森彦が斜め前に居る女性グループに向かって穏やかに注意を促した。
此の森彦の注意に女性達が鋭い目を森彦に向けて来た。
この女性達の様子に、森彦の友が森彦に話に戻る様に促したが、森彦は友の言葉に従わずに、じっと、其の女性達に穏やかな眼を施していると、其の女性グループの中の一人が笑みを漂わせ乍ら森彦を見詰めている。
何故笑っているのか。森彦は戸惑ながら、其の女性に暫し視線を送った。この二人の様子から双方のグループの会話は途切れ、双方のグループの者が席を立とうとしていた。
森彦達のグループの誰かがこの場の料金を払ったのだろう。其れと同じ様に女性達も不満言葉を投げ乍らこの店から出て行った。
森彦も一度立ち上がった席であったが、笑みを見せた女性が席から立たずにその場に座っている。其れを見た森彦は其の女性に尋ねたいと思って、一度立った席であったが、其の女性を見ながらゆっくりと腰を下ろした。
此れが紀代子との出逢いであった。
離れていた席の二人が、同じテーブルで話してみた。
其の女性が言うには、先程の仲間は高校時代の仲間であるから、席を立って出て行ったが心配はいらないと言われた。今夜にも、皆に連絡を取って機嫌直しをしておきますからと言って、此の女性が話し出した事は、高校を卒業してアメリカ・ロサンゼルスにある美容専門学校に四年ほど通って先月戻って来たので、このアメリカ滞在中の話を、高校時代の友達が聞きたいと言う事で集まっていたと言う話だった。
話しが弾んでいたのは、美容学校がハリウッドにあるから名ある俳優さん達も、此の学校の先生達からヘアースタイルを整えて貰っていた話や有名ミュージシャンのライブに行った話などをしていたのが盛り上がって、あの様な大声になり皆様にご迷惑を掛けた。と女性が詫びて来た。
あの時、森彦が此の女性に尋ねて見た。森彦が貴女方に注意をした時に、グループの女性達は鋭い目線を私に向けていたが、貴女は私に微笑みを見せていた。
何故だか尋ねて見た。
其の女性が応えた事は、あのような時、日本人の男性は憤りの表情を見せ乍ら大声で威圧して来る人が多い中で、貴方は私がアメリカ生活四年で学んだ男女の接し方をマスターしてある方の様に見えたから、思わず微笑ましくなって笑が出てしまったと言った。
此の女性の言葉が森彦を引き付ける事になった。
此処から二人の付き合いが始まったのであった。
あの時の女性が、今、森彦の傍にいる紀代子と言う妻で、あの時、妻の紀代子は二十二歳で、森彦が二十六の歳であったと思い浮かべて横の紀代子に頷いて見せると、紀代子も森彦に緩く頷きを返した。
そして、二人は穏やかな春の陽射しの中で揺れる桜に眼を戻した。
見詰めている桜から目を外すことなく。
森彦は五十年程前のあの頃に思いを馳せていた。
あの奇妙な出逢いが二人にときめきを起こさせて、二人は出逢いの日から二週間後の日曜日に此の喫茶店で会うことを約束した。
君と出逢ったあの時は、大学時代のゼミ仲間達と年に四回ほど春夏秋冬に合わせて会っていた。と二週間後のデートの時に森彦は紀代子に話していた。
あの日は、あの年の最初の寄り集まりの日であった。
あの時、森彦の注意から双方のグループが嫌な雰囲気になり、双方が席を立つことになったが、あの日の晩、友達から森彦の処に電話が入り、森彦と残った女性の、その後の事を興味津々で聞いて来た。と森彦が紀代子に話したのも、あのデートの時だったと森彦は思い出していた。
その時、デートに誘われた紀代子も私達のグループもあの様な事で仲違いをする様な仲ではないのよ。と森彦が紀代子から聞いた話を思い浮かべていた。
森彦が紀代子と付き合って半年が過ぎていた頃だったと思う。紀代子と何処かの公園に行った。公園のベンチ前の樹木が色付き始めている頃だった。其処で紀代子が森彦に話した事を思い浮かべてみた。
それは紀代子の生い立ちの話であった。
紀代子が五歳になった頃だったと思うが、父親の角田剛平が紀代子に将来は何になりたいか。と尋ねて来たあの日の事を森彦に話した。
父の問い掛けに紀代子が応えた事は、子供である紀代子が、先々で遣りたい事などが頭に浮かぶ事はなかった。しかし、紀代子の母由紀子が美容院を遣っていたので、母の様な恰好の良い美容師になりたいと子供心の何処かにその様な気持ちがあったのだろう。
だから、父の問いに、お母ちゃんの様な髪屋さんになりたいと応えた。と紀代子はあの時、笑いを入れて森彦に話した。
この話をして、一年が過ぎた頃、紀代子の父剛平の許にアメリカから一通の手紙が届いていた。その手紙の中身とは、以前、剛平が世話をしたアメリカ人のロバート・ジョン・アンダーソンさんと言う人が、以前日本にいた事で日本文化を会得したいと言って、何処かの陶芸家を紹介してくれないか。との手紙の内容であったそうだ。
紀代子の父剛平が、その頃、何をしていたかと言えば、紀代子から見ればお爺ちゃんになる剛志と言う人と仕事を一緒にしていた様に思う。と紀代子から森彦は聞かせて貰っていた。
そのお爺ちゃんが民芸調の陶器に興味を抱き、その道の陶芸家と親しみを持っていたので、アメリカから来た手紙の事で剛平がお爺ちゃんに相談していた。
此のロバート・ジョン・アンダーソンさんは手紙の中で、剛平に心配させない為に、ロバート・ジョン・アンダーソンさんの身内に関する事が書かれていた。と父から紀代子は聞かされた。と紀代子が言った。
其の身内に関する事とは、アンダーソンさんには三人の子供達が居られるが既に結婚をして、自分達の許から離れているので、今回の日本行きは妻のジェーシィーと共に来たい。と書かれていたそうだ。
それから、日本で勉強する事が終わってアメリカに戻ってもロサンゼルスの家屋は知人に貸して来るから、私達がロサンゼルスに戻った時、家屋の事で心配する様な事はないからと書かれていた。と父から聞かせて貰ったと紀代子は話した。
手紙には、剛平さんこう言う事だから、私達の願いだけを聞いて良い方を紹介して欲しい。と書かれていたそうだと父から聞かされた事を、あの時、森彦に話した。
此のアメリカ人の願いを叶える為に、父の剛平はお爺ちゃんが知っている河口湖の辺で陶芸をしている陶芸家に相談すると、陶芸家の敷地内にご夫婦が生活が出来る家屋を立てて、此処で五・六年程勉強なさると日本文化を会得なさるだろうと父の剛平が聞いて、お爺ちゃんと一緒になってこのアメリカ人の家屋を建てるなどの支援をしたそうだ。
此の話を、紀代子は何回目かのデートの時に森彦に話した事を思い出していた。
角田剛平が世話したロバート・アンダーソン夫妻が来日して1年が過ぎて、紀代子が小学校の2年生になった頃、父の剛平が紀代子に再び尋ねて来た事があった。その時の話も、紀代子は何になりたいかの話であった。その時、紀代子は迷わず、お母さんがしている美容院の仕事がしたいと言った。
此の紀代子の考えが変わらない事から、父と母が話し合ったのだろう。
其の父と母が話し合って考え出した事は、、此れからの仕事はアメリカから学んで遣って行かなければ成功しない時代になっている。母由紀子が遣っている美容の世界も、これから先はアメリカから学んで来た者が成功するだろう。
だから、紀代子が先々でアメリカで美容の勉強をしたいと言えば、まずは何と言っても英語が話せる事や書く事を身に付けておく事だと思って、剛平が支援しているアメリカ人のロバート・アンダーソン夫妻の処に紀代子が土曜日から泊まり込んで、日曜日まで英語を喋る事と書く事を学びに行ってはどうか。と紀代子に応えを求めて来た事があった。
どうやら、父剛平は紀代子にこの様な話しを持ち出す前にロバート・アンダーソン夫妻と話して、夫妻から了解を得ていた様だった。
その時、紀代子は、即座に父の話しに賛成した。
ロバート・アンダーソン夫妻の許に紀代子は毎週土曜日になると、母の弟子達の引率で東京駅から中央線で大月迄行って、富士急行の電車に乗り換えて河口湖畔の辺にある外国人の家で英語を学ぶ事になった。
ロバート・アンダーソン夫妻が五年間、日本で陶芸の道を会得して帰国される頃、紀代子は中学一年生になっていた。その紀代子が英語で喋る事や書く事で不自由さを見せる事はなかった。そこまで学び得ていた。
まさしく父剛平が願った様な紀代子に成長していた。
紀代子は中学から高校を卒業するまで家の近くにある英語塾に通い詰めていたので、紀代子の英語力は相当な物だった。そこを見た父剛平が、紀代子が高校を卒業する前に今一度、紀代子が考えている進路の事を確かめて来た。この時も紀代子は即座に、母と同じ美容師になりたいと父に告げた。
しかし、此の時の父剛平は紀代子の英語力を生かして、先々では公務員か商社の国際人になせたいとの思いがあって、何処かの大学へと思っていたが、紀代子の意思が固いのに剛平が動かされて、以前父剛平とお爺ちゃんの剛志が世話をしたロサンゼルスのアンダーソン夫婦の許に手紙を送っていた。
紀代子が小さい時分に知り合ったアンダーソン夫婦の許に、今度は紀代子が四年間お世話になった。
お世話になったロバート・ジョン・アンダーソンさんと奥様のジェーシィーさんに尋ねてみた。
父の剛平とお爺ちゃんの剛志とロバート・ジョン・アンダーソンさんはどの様な事で知り合っていたのですかと尋ねた処、ロバートさんが応えられた事は、自分は一九四六年の四十三歳から一九五一年の四十八歳までの五年間、GHQ(General Headquarter, the Superme Commander for the Allied Powers ・連合国軍最高司令官総司令部) で日本語の通訳をしていた。この時、私の住む処を探してくれたのが紀代子の父剛平さんと剛志さんだった。と教えて貰った。此の住む処を探して貰ってから剛平さんとは友達のようになって常に会っていたし、自分が四十九歳の時にアメリカに戻って、翌年の五十歳の時に除隊してからもレターで友達関係を続けていたと聞かされた。
紀代子がロサンゼルスから戻った時、父剛平にアンダーソンさんの事を尋ねると、アンダーソンさんは自分一人が住む処だから小さな処でよいと言われたが、儂と父剛志はアメリカの将校さんを世話するにはそれ相当な家が必要と思って、当時、旧華族の別邸で洋館造りの邸宅が賃貸物件としてあったのをアンダーソンさんに見せると非常に気に入ってくれて、それからの付き合いが始まったのだと父は話してくれた。
このアンダーソンさん夫妻のお世話を受けながら四年間、ロサンゼルスの美容学校に通ってコスメトロジーライセンスを取得して、ヘアースタイルを始め、メイク・ネイリスト・マツエク・エステをマスターすると、次にメイクアップスクールにも通って、俳優さん達に施すメイクアップの勉強をすると、留学最後にはベバリーヒルズのセレブサロンで実習に入り、俳優さん達のヘアーを整える手伝いをさせて頂いたのが、四年留学の中での最大のお宝であると、紀代子が目を輝かせて、紀代子の輝かしき青春時代の思い出を森彦に話をしたのは、森彦と交際を始めてから半年近くなる頃だったかなぁ。と思いに馳せていた紀代子が目を細めて笑みを見せていた。
微笑みの眼を膝元に置いているコーヒーカップに落とした紀代子は、其のコーヒーカップを片手に取ると、冷えたコーヒーで唇を潤わせた。そしてカップを膝元に戻すと、森彦が此の紀代子と交際した頃に此の森彦はどんな話をしてくれたのか。と紀代子が考える様な素振りを見せた時、陽は既に西に傾きかけていた。其の緩やかな陽に紀代子が眼を配った。
緩やかな陽から、眼を庭の枝垂れ桜に留まらせると、また思いに耽った。
其れから何度目かのデートの時に、森彦が森彦の父直治さんの事を話してくれた。森彦の父直治さんは都内の大学を出て中央官庁に勤めていると言う話だった。
その様な父であったので、森彦には大学院まで進学して研究に没頭して欲しいと望んでいたが、森彦は大学で研究する事よりも、大学を出ると社会に役立つ商品を売り出している会社に入社して、この商品を世に広める事が世の人達の為になると思って、大手の電機会社に大学を卒業すると共に入社したと話してくれた。
森彦の父直治さんと森彦との間に考えの相違がある。此の事で、大学時代から会社に入社した頃に掛けて、父との間には溝が出来ていたが、森彦がそれなりの責任者を任されて社会に貢献している事を知った父は、この森彦の事を理解してくれて良好な親子関係になった話もしてくれた。あの遠き昔の話を紀代子は思い浮かべていた。
その時だったか、その後であったか。紀代子が森彦に聞きたいと思って聞いた事がある。
其れは、森彦のお母さんと兄弟達の事だった。
あの時、森彦はこの様に応えてくれた。と思いが甦っていた。
自分には姉と弟がいて、二つ上の姉は洋子と言って、父直治が勤めている処の上司の勧めで、政府機関の役所で働いている人の許に嫁いで行っていると聞かされた。
森彦の弟は、この森彦より三っ下で名は憲治と言う。此の弟は父の考えを受け入れて、いま、大学の医学部で感染症の治療に関する研究に没頭している事も聞かされた。
この森彦と姉の洋子さんと言われる方と弟の憲治さんを育てられた母親の瞭子さんと言われる方は、嘸かし、近代的な行動をなされるお方だと紀代子は想像していたが、そうではなかった。森彦の父直治さんと結婚なされた母の瞭子さんと言われる方は、結婚後ずっと専業主婦をなされていると森彦から聞かされた。
森彦から家族の事を教えられた紀代子は、紀代子の父の事も母の事も全て森彦に話した後に、紀代子の二っ上の兄剛一郎の事と紀代子の二っ下の妹理恵子の事などを話した。兄の剛一郎は大学の建築学部を出て、父の知り合いの人の処で建築業の勉強をしている事や妹の理恵子が都内の大学を出て外資系の証券会社に入社をしてアナリストをしている。事などを森彦に紀代子が話したのは何時だったかなぁ。紀代子が思いに耽った表情を見せた。
此処迄、紀代子が思い出を思い巡らした時、紀代子は枝垂れ桜の先に広がる春の青空に夕映えの明かりが染め出したのを見て、あの日の思い出を手繰り寄せて見た。
その思い出とは、森彦と紀代子が新婚生活に入る一年前の夏の日、森彦に誘われて東京駅を十時頃だったと思う特急列車に乗せられて房総半島の安房鴨川と言う処に連れて行かれた事だった。
此処で僅か四時間の観光滞在であったが、森彦はこの四時間の間に、何処で何を食べさせ、何を言うべきか、既に考えての行動だったのだろう。
夏の太陽がぎらぎらと輝く白砂に私の腰を下ろさせた森彦は、夏の暑さなんかは一向に気にする事もなく。森彦は紀代子に眼を配り乍ら、遥か彼方の大海原から押し寄せて来る潮騒の合間を縫って、紀代子にプロポーズをして来たのは、この日であった。
紀代子は森彦の眼を窺い乍ら、紀代子が目元に笑みを作って森彦に大きく頷いて見せたのが、今でも紀代子の脳裏に残っていた。
二人の承諾で、双方の家族達も祝福の日を迎える事になったが、双方の親の関係者の出席を願うと、二人が願っていた様な質素な式にはならない為に、式は半年後のクリスマスの日に都内のホテルで挙げる事にした。二人はクリスチャンでもないのに、クリスマスに婚礼を迎えると言う事には、森彦に思惑があってのこの日であった。
紀代子はあの婚礼の日を思い浮かべていた。
媒酌人と並んでいる壇上に、婚礼の出席者が森彦と紀代子に祝いの言葉を掛けて来た。
出席者の祝い言葉と共に勧めて来られる一杯の盃を、最初は気持ちよく受けていた紀代子であったが、式の出席者の殆どの人からの勧めで、紀代子は多少顔を赤らめて気分の悪さに襲われていた。森彦を横目で見ると平気な顔で祝いのお酒を受けていた。
あの時、紀代子は媒酌人から声を掛けられてお色直しをする事で、横の森彦に僅かに頭を下げて壇上から下がったのを思い起こして、紀代子がくすっと笑いを漏らして、目先を膝元へと落とした。
森彦が不思議な顔つきで紀代子に目線を施した。
紀代子は其の森彦に笑みを見せ乍ら三度程頷きを見せると、森彦は何の事かは分からずに大きな頷きを一つ返すと、その眼を再び枝垂れ桜に戻した。
紀代子は婚礼のあの日に想いを戻した。
あの式で、紀代子が一番嬉しかった事は紀代子と森彦が初めて出逢ったあの奇妙な出逢いの処に居た双方の友達が、羽目を外す程に喜んでくれたのが、二人に取って何よりの贈り物であったし、また紀代子がロサンゼルスに滞在していた時に、あの美容学校で友達になったローズ・ウィナィーにこの日の事を手紙で知らせていた事が、多くの友達から電報が式場に流れて来たのを、式場の方が流暢な英語で披露してくれた。
紀代子に取って、この席が遠く離れた地球の裏側を身近に感じさせていた。
あの艶やかな席で、心からの贈り物をしてくれたあの友達も海の向こうの友達も、いまは白髪や光る頭になってわいるが、互いの老いた顔や声をテレビ電話で見せたり聞かせたりして楽しんでいる事は、紀代子の心の時計があの時以来止まっているかの様だった。
あの艶やかな結婚式を思い浮かべた紀代子が、老いた顔に何処やら笑みを浮ばせて夕映を眺めている森彦の肩越しから、その夕映えに眼を配った。
そして、再び思いに心を戻らせていた。
式を終わらせた二人は、式場のホテルで一夜を取ると、羽田から北へと飛んだ。北海道の知床半島にあるウトロに宿を三泊取ると、四日目には亜熱帯の島である沖縄県の石垣島に飛び、此処で三日を過ごす事にしていた。
何故に、このようなハネムーンをしたのか。と紀代子は夕映えを見ながら北の知床と南の石垣に想いを馳せていた。
この様なハネムーンを提案して来たのは森彦であった。
その森彦が紀代子に言って来たのは、この狭い日本で同じ時期に北と南の季節感を味合えば、決して狭い日本と思えないだろう。そう思えば、これから先、二人が此の日本で遣り遂げる事には前途が広げられるし、大自然の素晴らしさを二人の心に植え付けられるだろうと言った森彦に、紀代子が賛成の様子を大きな頷きで応えたのを思い出していた。
羽田から北海道に行く機内で、紀代子は森彦に聞いてみた。
貴方はお酒が強い方ねぇ。と言う紀代子の問いに、森彦が不思議な顔を見せたので、昨日の婚礼の席で、多くの出席者が私達にお祝いの言葉と共に、お酒を勧められたでしょう。あれで、私は気分が悪くなって、下がって暫く横になっていたのよ。
自分は紀代子があまりにも戻って来ないので心配になって晩酌人に聞くと、お色直しで少し手間を取っているのでしょうと言われたが、そうだったのか。
と言って、森彦はあの時頭を下げたわ。
謝る事はないのよ。私が倒れたのに比べて、貴方は、最後まで出席者のお酒のお相手をなされたから、相当にお酒の強い方だと言ったまでの事よ。
此の紀代子の話しに、森彦が笑い乍らに応えた事は、あの席では僕の右側には媒酌人、左側は紀代子が座っていた。此の媒酌人と僕の間の床に小さなバケツを置いて貰っていたの。
だから、僕に祝いの酒を勧めて来た方の酒は頂いて、口に貯めておく、そして、僕の前に置いてあるおしぼりを無造作に取ると、口許を拭く様にして、口に含んでいる酒を此のおしぼりに戻して、相手の眼から目線を話さずに其のおしぼりを壇の下へと降ろすと、其処にあるバケツに向かっておしぼりを絞り込む。
この動作で全ての方に、嫌な思いをさせずにお相手をしていたのさ。
だから、僕は、然程、酒は強くはないと笑いを含ませ乍ら何度となく紀代子に頷きを見せてくれた。
紀代子は驚きを覚えながら、あの時、笑った。
その光景を思い出して、老いの紀代子がくすっと笑った。此の紀代子の笑いに、今度は森彦が言葉を出して言った。
「何か可笑しいのかい・・・・」
「いや、貴方と一緒になった時の事を思い起こしていたの」
「僕と一緒になった頃の事かい・・・・・」
「そう、貴方が、ハネムーンの時に言った。お酒の飲み方よ」
「酒の飲み方・・・・」
「そう。おしぼりにお酒を浸み込ませる飲み方よ」
「あぁ、あの事か」
と森彦が言って、西から射し込んでいる膝元の陽に眼を落して笑を流した。ガラス戸の傍に座っている紀代子の膝にも春の緩やかな夕映えの陽が心地よく射し込んでいる。其の陽に目を落とした紀代子が、赤く染まりつつある西空に眼を向けると、式後の森彦との生活に想いを馳せていた。
紀代子が結婚式を迎える一月前位に父剛平に相談していた。
その相談とは、森彦と所帯を持つ所を森彦と探して見たが、利便上に都合が良い処は予算上に手が届かなくて、手が届く所は結構都心から離れた所で、と言う事で紀代子が父剛平に探してくれないかと相談をした。この話に父剛平はにたりと笑って応えた事が、今でも紀代子の脳裏にはっきりと描かれていた。
父剛平のその時の話は、この年の九月に完成した渋谷区内の八階建てのマンションの五階部門に、二戸分を密かに押さえているのを聞かされた。
父剛平が言うには、多分紀代子が泣き付いて来るだろうと思って販売に出す前に、此の二戸を除いていたと言う事だった。
その時、紀代子は父剛平に尋ねた。
二戸・・・・・
その紀代子の問いに、父剛平が言うには、二戸の内の一戸は森彦君と紀代子達の新婚住宅用。もう一戸は此の父剛平と母由規子が住む処だと言った。
紀代子はびっくりした。
だが、父剛平は至って平気な顔で言った。
紀代子と森彦君との間に可愛い孫が出来るだろうから、此の孫の顔を毎日でも見たいから、隣同士に住もうと思ってなぁ。と言って笑った顔が、今でも忘れる事が出来ない。
こんな話で、父剛平と母由規子それに兄剛一郎と紀代子の妹理恵子達と住み慣れていた世田谷区の尾山台にある家は剛一郎に任せて、父親と母親が自分達と隣同士で住みたいと願っている事を紀代子が森彦に相談した処、森彦は快く父剛平のこの話に賛成と言って、式後は父が用意してくれたこのマンションに住む事になった。
父が思った様に、森彦と紀代子が結婚した翌年には、森彦と紀代子の初子が誕生する予定であった。誕生予定の子は検査の結果女の子と分かっていたので、紀代子は生まれて来る子に〝紫苑〝と名付けたいと森彦に願ったら、森彦もこの名が良いと言って二人で決めた名を届け出す事にした。
此の紫苑の誕生は父剛平と母由規子にとっては外孫であったが、その喜びようは尋常な物ではなかった。
隣の部屋に住む父剛平が紫苑の顔を見ると、八重洲にある角田建設と言う父の会社に向かうし、母由規子も毎朝紫苑の顔を見てから青山通りに構えている美容院の黄連雀に通っていた。これが二人の日課の決まり事であった。二人が紫苑の顔を見て喜びの顔を紀代子に見せながら職場へ行くこの頃には、紀代子より二つ上の兄剛一郎が父の会社に入社していた。
その兄は、紫苑が一歳になった時に、大学時代のアルバイト先で知り合った。兄より二つ下の他校の女子学生の裕子さんと結婚していた。兄夫婦の間に子供が授かったのは紫苑が三歳の時だった。兄から聞かせて貰ったその子の名前は、慎吾と言う男の子であった。
一九七五年、紫苑は三歳を迎えていた。此の三歳児になった頃から紀代子は紫苑の先々の事を考えて、幼稚園に入園させて頂いた他にも、紀代子が得意の英語を教え始めていた。それに音感教育の一つとして、紀代子が知っているピアノ教室の先生に頼み込んでピアノを習い始めさせていた。
この他に、紀代子達が習わせたいとして通わせている訳ではないが、マンションの一階に通りに面してガラス張りのダンス教室がある。此のダンス教室にも妙な事から、教室の生徒さん達がダンスをしているのを見に行く事を紫苑が遣っている。
一九七六年に紫苑は四歳を迎えていた。この年は色んな事があって大変であったと紀代子が思い起こしていた。
この年には紀代子が二十九歳になる年だった。
この年の一月で五十五歳になっていた母由紀子が、この歳で決めている事があると言って、紀代子に話し出した事は、母由規子が青山通りで営んでいる美容院黄連雀を母に代わって紀代子が営んで呉れる様にと言って来た。
店を任せられるとなれば、紀代子は家を明かす事になる。
では紫苑をどうするのか。紀代子の胸に紫苑の事が気になってこの母の話を受ける事が出来ずにいると・・・・・
母由紀子が言うには、紫苑の面倒は隣に居る私が見るから安心して店を賄って欲しいと言う。
今から考えると、亡くなった母由規子は計算ずくめの話を此の紀代子に持って来たのだ。と紀代子は思って亡くなった母の顔を思い浮かべてた。
先々の為として三歳頃から紫苑に教えた英語は、紫苑にとっても興味があったのだろう。紀代子が思う以上の読み書きを身に付けていた。
それに、音感教育の一環としてピアノ教室に通わせた事も、紫苑にとって嫌いな事ではないらしく、教室の先生からは取り込み方に素質があると褒め言葉を頂いたのでピアノ教室も続けさせたい。それに母が言って来た店の運営、これが遣りたい為に遠いアメリカまで言って来た。この二つの願いを遣り通すには、母の話に乗って、母由紀子の世話にならなければならない。
其の事で、母の顔をじっと見ていたら、母が言うには、紀代子に店を譲る事は、私がお父さんの剛平と話し合った処、お父さんの剛平も賛成してくれた。と母は言うが・・・・
夫森彦はどう言って来るのかなぁ・・・・・
此の話を森彦に話して、彼の応え方によって母から言われた話が決まるわ。と母に言ったのがこの年のお正月が過ぎて十日頃だったかなぁ。と紀代子は母からのお仕事の引き継ぎ話を思い起こしていた。
森彦が言うには、この仕事をしたい為に紀代子は遠いアメリカまで行ったのだろう。学んで来た腕を鈍らかせる事は僕は絶対反対だ。と言って紀代子と同じ様な考えを聞かせてくれた。此の森彦の話で事が先に進む事になった。青山通りの美容院を父と兄に頼んで自分なりの改装を遣ってみた。
すると、若き日、自分がロサンゼルスのハリウッド通りやベバリーヒルズなどを闊歩していた頃に見た美容院の様に改装が出来たので、お客様に新装開店と責任者が由紀子から紀代子に変わった事と紀代子のプロフィールを書き入れたご案内状を、いま見ている庭の桜が満開になる頃の四月上旬頃に郵送したわ。
あの日の、あの嬉しさを思い起こしていた。
この郵送から10日目が過ぎた頃だったか。
森彦から思わぬ話を聞かされた。森彦の会社は重電機器を製作して販売している会社だと紀代子は知っていた。其の重電機器を売り込んだ国に、森彦が駐在員として今年の10月から勤務をせよとの辞令が下りたと言う話を聞かされた。其れもヨーロッパの端にある国、スペインに勤務せよとの事であった。森彦が十名のスタッフのチーフとして三年の駐在勤務の話であった。
この時、森彦は三十三歳で、将来を嘱望された職務だと森彦は思って、此の赴任地に家族全員で行きたい思いであったが、では、紀代子が母から譲り受けた新装開店の青山の店はどうするのか。お客様にも新装開店のお知らせの案内状も発送している。紀代子もこの青山の店に出勤して5日目を迎えている。お客様も店に足を運んで来て呉れた。
紫苑の面倒を見る為に母由紀子が早朝から森彦夫婦の部屋に来てくれて、夕刻に紀代子が店から戻って来るまで紫苑の傍で気遣って呉れている。全てが都合よく動いているのに・・
母から譲り受けた此の店を母に戻すべきか。赤の他人に手放すべきか。迷いに迷った。
何日も森彦と話し合ったが、良い解決策は見当たらない。
この悩みの他にも・・・・・・・、
家族全員でスペインに行かない事にすれば、四歳児の紫苑が父親と一緒に居られない日々が重なる。子供心に寂しさが被って来て、紫苑の将来が心配である。
では、どうすべきか。と悩む紀代子であったが・・・・、
結局、森彦が決断した。此の駐在の話を断るとサラリーマン生命を断つ様な物だ。
単身赴任してでも行って来る。
此の森彦の言葉で全てが落ち着いた。
此の事が家族の中で解決をすると、森彦は次の行動を起こしていた。駐在勤務を命じられた森彦は、英語で不自由する事はなかったが、駐在先のスペイン語は全く出来なかったので、会社の勤務が終わって家路に向かう前に神田にある語学学校に通って、短期間で日常的なスペイン語を話せる様に、聞いて理解出来る様に勉強に勉強を重ねた。
十月に、森彦はスペインに単身赴任をした。
森彦が赴任した十月から一月が経った十一月の中頃、剛平と由紀子が夕刻遅く紀代子の処に遣って来た。
父と母から話があると言い出した。
その話とは、母由規子のお客様である人が母に相談して来た話だった。相談の中身とは、アメリカ人の夫婦が都内で英語塾を始めてみたいと言う話が、アメリカに居られる此のお客様のご主人から手紙で此のお客様に伝えられたそうだ。
だが、此のお客様は何処で塾を作ってよいのか。
また、アメリカ人夫婦の住まいを何処にしたらよいのか。全く分からない。其処で、お客様が母由紀子に貴女の旦那様は不動産業を手広くなさっていられると聞いているから、これらの問題を解決なされる事が出来るだろうと思って相談して来られた話を紀代子に聞かせた。
母由規子はこの話を断る事は出来ないと言った。
其れと言うのも、何十年も此のお客様がお店に通ってくれた。此処で、此のお客様に恩を返さなければと思って剛平に話し掛けた。
すると、父剛平は妻由紀子が受けた恩を返す方法として、剛平が提案して来た話は、紫苑も大きくなったので、孫の顔を毎日見る儂等の役目も済んだ。だから、自分達が住んでいる紀代子達の隣から出て息子剛一郎達が住んでいる尾山台の家に移ろうと思っていると言った。
そうすれば、自分達が住んでいる部屋が空くから、其処に、アメリカから来られるご夫婦を入れようと思っている。塾の開校場所は、そのアメリカ人夫婦が来て、都内を見て回って気に入った処に塾を作ればよいではないか。その時には、会社が持っているマンションを改装して提供してもよいし、何処か良い処を探してやってもよい。と剛平は言った。
此の父と母の話を聞いた紀代子は驚いたが、剛平夫婦の考えは揺ぎ無い物であった。だから反対をしても無駄だと思った。
この話を紀代子に聞かせたのは、儂ら夫婦が隣の部屋から居なくなる事を事前に知らせる事で話しに来たと言った。
紀代子が聞いてみた。
其のアメリカ人夫婦とはどんな人なの・・・・・。
すると、由規子が言うには、お客様から聞かせて貰った話で、其のアメリカ人ご夫婦は五十歳を越した人達だと聞かされている。此のご夫婦は大学時代に日本文学を勉強なされた事で、日本語は上手にお話が出来るそうだ。だから、卒業と同時にご主人は日本車のアメリカ法人会社に入社なされて、其処で、日本車を全米に広める為に、日本人幹部と一緒に全米を隈なく行動なされて目的を達成されたそうだ。
その後は、此の法人会社の幹部に取り立てられて、経営の一端を任されていたが、学生時代に学んだ日本の古典文学をいま一度勉強したい思いが募って、会社を辞めて訪日したい考えを話されたのが会社の取締役の方だったそうだ。
其の取締役の方が、母由規子の長年のお客様のご主人である事で、此の由紀子に話が舞い込んだと言う事だ。
こんな話を紀代子は母由規子から聞かせて貰った事を思い起こしていた。
来年の春には、紀代子達の隣にアメリカ人夫妻が入居して来る。今年の末から来年の春先にかけて、自分達が住んでいた居住のリフォームをして来年の桜が咲く頃には、話したアメリカ人が入居する事で、紀代子と隣同士になるので仲良く遣って欲しいと父と母から願われたが・・・・・、
紫苑の事を心配していると、父剛平が言うには儂等は隣から出て行くが、由紀子が紫苑の面倒見る事で、森彦さんがスペインから戻って来る迄、紀代子達と同居させて欲しい。
森彦さんに了解の返事が貰える様に電話で話してくれと父が言った。
父でも母でも、何かを遣る時には全て理詰め話だと、紀代子はあっけに取られていたのを思い出していた。
一九七七年、紫苑が五歳を迎えた春の日。
至る処で、この年の桜の満開を見る事が出来る。
此の頃だったと思う、剛平夫婦が居た処にアメリカ人夫婦が引越して来られた。つまり、紀代子と紫苑達の隣である。
アメリカ人夫婦と紀代子と紫苑の隣同士の付き合いが始まった。
隣に引っ越しして来られたアメリカ人夫婦は日本語が堪能であった。ご夫婦に尋ねて見た処、大学時代に日本文学を勉強した関係で日本語には不自由さを感じさせない二人であった。日本での隣同士の付き合いであるので日本語での話をしていたが、日本語と言うのは難しい処があって、たまには外国人の二人が戸惑う事があった時には、英語で話す事には自信を持っていた紀代子であったので、その場を取り繕っていた。まして、紀代子はロサンゼルスに滞在の経験があったので、アメリカ文化を口に乗せる事で、異邦人夫婦と紀代子とのお付き合いは、最初から和気あいあいの場が作られていた。
紀代子は心置きなく青山のお店を切り回す事が出来る。
これが剛平、由紀子夫婦の考えであった。
アメリカ人夫妻の住居と紫苑の面倒を見る事は解決したが、次に英語塾を何処で開くかに話が移り、剛平が何軒かを紹介した。その中で、互いが了解した話は父剛平が住み始めた尾山台の一郭で、剛平の会社が売りに出している平屋造りの家がある。それに少し手を入れて塾にする話になった。
こんな話を父から紀代子は聞かされていた。
アメリカ人夫婦が紀代子達の隣に来てから一年が過ぎていた頃だったと思う。紫苑が六歳になったある日の夕食の時、紀代子がこんな悩み話を口に乗せた。
それは、紫苑が三歳になった時に紀代子が英語を教え始めて、いま紫苑は六歳になった。其の六歳になった紫苑が簡単な読み書きをする事は傍がびっくりするほどの力を持っていた。此の紫苑の英語力をまだまだ伸ばして遣りたいと紀代子は思っていたが、母由規子から譲り受けた青山通りにある美容院を一層繁栄させなければと言う思いがあって、仕事からの帰りも今までよりも遅くなり、紫苑にこれ以上の英語を教える余裕はなかった。
其処で思い付いたのが、紀代子の小学校時代に民芸陶器を学んでいたアメリカ人の許に泊り掛けで英語を学びに行った。
紀代子が経験した事を紫苑にもさせて見ようと思った。
同居している母由紀子に此の事を話すと、母由紀子は紀代子の考えに賛成をしたが、スペインにいる森彦さんにこの事を相談してみなさいと言う話になった。相談を受けた森彦は大いに賛成してくれて、僕が戻って来た時には娘と英語で話してみたいと言うジョークまで飛ばしていた。
この話を出したのは、紫苑が隣に引っ越しをしてきたアメリカ人夫妻に懐いて、毎日でも隣に行っている事があったからであった。
紫苑に尋ねたら、紫苑がグランドファーザー・グランドマァーザーの処に毎日でも隣に行きたいと言った。
此の話がアメリカ人夫婦と進んで、紀代子の小さい時と同じ事をこの紫苑にも始めさせた。
隣のアメリカ人夫婦から由紀子に紀代子そして紫苑が夕食に呼ばれた時に紀代子は聞いてみた。
夫婦のお名前は、ヒュー・バートン・ウィリアムズとナンシー夫妻であった。お歳は共に五十四歳であった。
大学時代からのフレンドが一緒になったと言われた。二人には二人の子供さんが居られて、上が男の子で二十八歳、下が女の子で二十六歳、共に所帯を持って働いているので心配する事は無い。
だから、二人の若き日の思いを再び紐解いて見ようと思って、この日本に来たと教えてくれた。
ヒューさんのアメリカでのお仕事は母由規子から聞かせて貰っていたが、奥様のナンシーさんに其の事を尋ねると、奥様は子供さん二人を育て乍ら、家で日本文学の翻訳仕事に携っていたと聞かされた。
森彦がスペインに単身赴任している三年の間、紀代子と森彦は日本とスペインとの時差を考えながら月一回の電話で絆を繋いでいた。其の紀代子が森彦に電話を掛ける時には、時偶、隣のウィリアムズ夫婦を電話口に呼び求めて森彦との会話も深めていた。
三年の駐在勤務の終了を迎えていた。
十名のスタッフは帰国して新たな十名が赴任地に来た事を森彦が伝えて来たが、森彦に代わって駐在する予定のチーフの方が予期せぬ病気に罹られたので、森彦にもう一期駐在をしてくれとの日本の上司からの電話が入った。と紀代子に伝えて来た。
紀代子に言わせると、森彦の心の寂しさを癒して遣る為に紀代子と紫苑がスペインに行こうかと一度は心に描いたが、紫苑の事や美容院の運営の事には一切心配はいらないから頑張って、と言って森彦を励ました。
森彦にしては、此のスペインに変電所設置の機材導入を図りながら、現地の人が滞りなく運用される様に指導をして一年が過ぎ、二年が過ぎ、追加の三年の月日を過ぎようとしていた。
森彦が駐在地のスペインから戻って来た。紫苑は小学校四年生になったばかりの四月であった。久し振りに紫苑を見た森彦は紫苑の体格が一メートル二十センチ近くになっているのにびっくりしたが、紀代子には心配があった。紫苑が四歳の時に森彦は海外赴任となった。其れから六年、親子が顔を合わせて話す機会を失っていた。
六年も顔を合せなかった森彦が戻って来た。
親子の間で親子の断絶が、此の家庭を覆うのではないか。
いや、気苦労する事はなかった。
森彦の大学時代は仲間と組んで軽音楽のバンドを組んでいた事は紀代子は聞かされていた。その時、奏でていた曲がジャズの世界であった。と森彦は紀代子に話した事があった。
其の忘れ去っていたジャズの曲を・・・・・、
英語の歌詞で、紫苑が結構上手な歌い方で唄って聞かせてくれた。
隔てていた二人の心をジャズの音色が熱く包み込んでいた。
どうやら、森彦が海外赴任後親しくなった隣の住民、ウィリアムズ夫婦の影響が大なる物と知った森彦は、ウィリアムズ夫婦に感謝の心を持って聞いて見た。
すると、アメリカに残している子供達が、私達がジャズを好む夫婦だと知っているので、時偶、この様なジャズの曲を送ってくれると言って、レコードのジャケットを見せてくれた。
この曲を聴いている内に、紫苑も興味を見せて歌う様になってくれたのだ。
曲を歌うと言う事は、言葉に秘められている感情を身に付ける一番良い方法と言って、紫苑の英語力を伸ばせる方法の一環として取り入れている。とヒューさんから聞かされた。
此の事で、森彦とウィリアムズ夫婦そして紫苑は音楽を通して強い絆を作り上げていた。
紀代子が心配する程ではなかった。三十の半ば近くを迎える紀代子としてはメイクアップルームに心置きなく腕を振るう事が出来た。
そんな紀代子の気持ちがお客様に伝わると、お客様がお客様を更に呼ぶ様になって、毎日が多忙に暮れる紀代子であったが、寸暇を作っての森彦や紫苑との話には、どんなに疲れていても紀代子は必ず笑顔を見せていたわ。と紀代子は過ぎ去った遠い昔を思い浮かべていた。
丁度此の頃だった。ウィリアムズ夫婦の娘さんでシャーロットさんと言われる方が、勤めてある会社の出張で日本に来られた。森彦家族はこの娘さんを歓迎する事でウィリアムズ夫婦とシャーロットさんを日本食の有名店にお呼びした事があった。
紫苑の高校受験に向けて話し合っていた紀代子と森彦に、紫苑がこの様な考えを言った事を紀代子は今でも鮮明に覚えている。
お母さん、私はお母さんの遣り遂げている道に進む事はしないわ。
紫苑には紫苑の遣りたい道があると言ったのは、上野公園の処にある音楽高校に入学して、音楽の道に進みたいと言うのだった。
この時、森彦は紫苑の考えに反対を唱える事もなく。この様な話を紫苑と紀代子に聞かせた。
お母さんの紀代子はアメリカで美容の知識と経験を積んで来られて、今や美容界のエキスパートになられている。
父さんが携わっている仕事も、重電機具と言う物を通して多くの世の人達に喜びを与えている。
此の仕事に携わって来た事が、お母さんやお父さんの心に充実感を与えて呉れたから、ずっと頑張って遣って来られた。
紫苑も、お母さんの様な私の様な、その道のエキスパートになって、多くの人の心を潤わせて貰いたい。母さんはどう思うかい。
と紀代子に森彦が返事を求めて来た事があった。
あの時、私は、多分、笑顔を見せ乍ら大きな頷きを紫苑に見せたと思う。
その紫苑が私に抱き付いて来た。
あの日のあの光景は、未だに忘れる事はない。
紫苑の願いが叶って、高校一年生の四月には、左襟に校章が取り付けられた紺色のスーツにスカートと、白色の長袖のブラウスを身に付けて颯爽と登校して行く姿を何度となく紀代子が見送っていた。
丁度此の頃に、紀代子が青山の姉妹店になる店として渋谷に店を張った。この店の責任者には紀代子と共に青山の店を盛り立てて呉れた一番弟子に任せる事にした。
高校時代の紫苑は楽しい限りであった。小さい頃から学ばせていたピアノが得意であったから楽しかったのだろう。
紫苑はピアノの外に、専門レッスンとしてサキソフォンをマスターする道と声楽を選んでいた。高校で学んだ音楽の道をさらに進みたいと言って、紫苑は高校と同じ処にある大学に平成二年に入学をしていた。この頃には望みが大きくなると共に、森彦の身長が一メートル八十センチあるのに匹敵するように紫苑の身長も一メートル七十を超す程に成長していた。大学に入学した紫苑はその大学の友達同士とバンドを組んで、軽音楽の世界にのめり込んでいた。
この頃の紫苑は、生き生きとした輝きの人生を進んでいる様に森彦も紀代子もその様に見ていた。
紫苑が六歳の頃からウィリアムズ夫婦について英語力を伸ばして来たが、此のウィリアムズ夫婦も日本に住んで十三年を迎えて、当初の目的である日本の古典文学の勉強が剛平や由紀子それに紀代子そして森彦や森彦の父直治達の人脈を通して成果が出されたので、帰国する話が出されたのは此の頃であった。と紀代子は楽しさと寂しさが交差する思い出を思い起こしていた。
この時、紀代子は四十の歳を三つばかり越していた。
充実感に満ち溢れての仕事を遣り通している紀代子であったので、その紀代子の表情の輝きで顧客が顧客を呼んでいた様であった。此の顧客に不便さを与えない事で紀代子が次に出したい店の考えは、お客様の利便性を考えての追加の店を出したいと思って六十九歳になった父剛平や六十八歳の母由紀子それに二つ上の兄剛一郎に相談をして見たところ、父達が言うには、お客の不便性を解消したいと思っている紀代子の考えには賛同出来ると言う事になって、青山の店を加えて3店目の店を銀座みゆき通りのビルの3階に出した。
この店は紀代子が青山の店と交互に見て行く事にした為にみゆき通りでお仕事を持ってある方が次々と店に訪れて呉れる事でオープン当時から人の往来で賑わいでいた。
ウィリアムズ夫婦がアメリカに帰国なされて一年が過ぎていた。帰国なされた後で、ご夫婦と電話で話した時、驚きの話を聞かされた。奥様のナンシーさんがアメリカに戻られて、日本におられた十三年の中で外国人から見た日本人の喜び、悲しさ、驚き、滑稽さを出版なされたのが、アメリカでヒットしている話であった。
この時、ウィリアムズ夫婦が紫苑と話された事は、紫苑が今でも音楽の道へ行きたいと言う思いがあるなら、私達はニューヨーク市からハドソン川を北上した処のエングルウッド・クリフスと言うハドソン川沿いの街に居るから頼っておいで、その時には、ブロードウェイでミュージックの仕事をしている人を知っているから、その人を紹介してもいいよと言われた。
もともと、紫苑はアメリカに渡って、本場のジャズやソウルそしてポップを自分の物にしたいと言う望みがあった。
ウィリアムズ夫婦と話した紫苑の決まり言葉はこれだった。
お母さんはウェストコーストで学ばれた。
紫苑はイーストコーストで・・・
此の紫苑の言い慣れた言葉を紀代子が思い出した処で、紀代子がリビングのガラス戸の先に見える陽に眼を遣ると、陽は西に大きく落ち込んだ処から緩い陽が森彦の膝を温めていた。
其の森彦が右横に置いているコーヒーカップに手を伸ばして、冷えたコーヒーで口元を湿らかせたのを紀代子が見て、暖かいお茶でもと思って腰を伸ばそうとした。その紀代子の立ち上がる音に森彦が小首を捻って、紀代子の動きを制した。
腰を浮かしていた紀代子が森彦の止めた動作に従って腰を戻した時、森彦が紀代子に声を掛けて来た。
「今日は何曜日かなぁ・・・・・・」
「今日は日曜日ですよ」
「そうか。毎日が日曜日の僕には、曜日でまごつく事があるわぁ」
「認知症の走りですか・・・・・」
「いや、それは、僕は大丈夫だ」
と言って、森彦が紀代子に小首を捻って笑顔を見せた。
此の森彦に、紀代子が後ろからポンと森彦の肩を叩いた。
森彦が背を返して、紀代子と向き合うと言葉を放した。
「いや、月曜日ならば明日は賑やかくなると思ってねぇ」
と言って、森彦が紀代子を見詰め乍ら頷きを見せていた。
火曜日が賑やかくなると言ったのは、紀代子が賄っていたお店を、いまは当時の紀代子の弟子達にお店を譲っていた。その店の弟子達が火曜日には紀代子の処を尋ねてくれる。此れが老いた二人には楽しい一日になる事で、森彦が曜日の話を出したのであった。
「そうか。日曜日か。忙しい日曜日だろうなぁ」
森彦が言って、紀代子の現役時代の日曜日を思い起こしていた。
紀代子が森彦のコーヒーカップに眼を落した。
「貴方、冷えたコーヒーは美味しくはありませんよ」
「そうだなぁ・・・・」
言った森彦がコーヒーカップに眼を落した。
「変えましょう」
紀代子の言葉に深く頷いて、紀代子が台所に遠ざかる後ろ姿に眼を定めていたが、くるりと背を返して薄暗さの中に佇む桜に眼を遣った。
紀代子が押し出した暖かいコーヒーカップを手にした森彦が、一口のコーヒーを喉に通した後、ぼんやりと見える桜に眼を遣り乍ら言った。
「昼から、君と一緒になった時からの事を思い浮かべていたよ」
此の森彦の言葉で、紀代子が持っていたコーヒーカップがソーサーに当って小刻みの音を出した。森彦が紀代子に振り返った。
「どうかしたのか。紀代子・・・・・」
「いえ、貴方が言われた過ぎ去った過去のお話・・・・」
「うむ。其れが何か・・・・・」
「私も思い浮かべていたのよ」
「何、紀代子もかぁ・・・・・」
と言って二人は暫く黙り込んでいたが、紀代子が眉を曇らせる表情を見せたのに、森彦が問うた。
「どうした・・・・・」
「紫苑の事が・・・・」
「そうか・・・・・・」
と言って、暫し口を噤んで刻を遣り過ごせていた森彦が、徐に背を返して黒い形を見せている桜に眼を施した。紀代子が森彦の背をじっと見詰めている。
森彦の背から寂しさが犇々(ひしひし)と紀代子に伝わって来た。
紀代子が頭を左右にゆっくりと降って、あの光景から遠ざかろうとしていた。
しかし、あの負の時を、紀代子の心からすんなりと滑り落とす事は、紫苑に対する紀代子の心の裏切りと思って、紀代子は森彦の背に眼を定めて思いを手繰り始めた。
紫苑はウィリアム夫婦が帰国されてからも頻繁にPCのテレビ電話を利用して話し合っていた。その話を、夕食の時に森彦や紀代子に聞かせてくれた。
大学を卒業すると、ウィリアム夫婦を訪ねて渡米する。
其処で紹介を受けた人の指導でジャズやソウルそれにポップを演奏し乍ら歌も歌えるミュージシャンを目指したい。
その為の渡航費用は、今まで、仲間と演奏して来た時の出演料を貯えているから、足らない時はお父さんやお母さんの助けを願いたいと思っている。と絶やさない笑顔を見せ乍ら言った事が、つい先日のように思える。
此の紫苑の心の内を紀代子が何時の日だったか。
父剛平と兄剛一郎に話した時、父剛平は七十二歳になり家業は四十五歳の息子剛一郎に任せていた。
その二人が言うには、ウィリアム夫婦とは儂らも関係がある。あの夫妻との縁を切らない為にも、紫苑の援助は自分達に任せてくれとの話があった。森彦も紀代子も此の紫苑の将来に対しては紫苑の気持ちを大切にして遣ろうと言う心があったので、父親や兄の話には感謝しかないと言う気持ちであった。
紫苑との夕食は楽しさに満ち溢れていた。
ある夕食の席で、紫苑がこの様な話を聞かせてくれた事があった。
日本の民謡はその時代の人達の魂を取り入れた歌と思うの。
其の日本の民謡を現代風にアレンジしてアメリカの人達に日本の文化を伝えたい。お母さんはアメリカのメークの文化を日本の人達に伝えたし、お父さんは日本の電気部門の技術を他国の人に伝えたのでしょう。
私もお父さんとお母さんの子だから、この考えを夢から成功へと努力して行くわ。こんな話を何度聞かされた事か。
紫苑が大学四年生になって、五か月後にはアメリカに渡ると言う十月の二十六日の午後九時五十分近くに電話が鳴った。
見知らぬ電話番号であったが紀代子が取ってみた。受話器の先から聞こえて来る言葉を、紀代子は一瞬疑った。
紫苑が交通事故にあって、病院に搬送されていると言う警察からの電話であった。気が動転した。
教えて貰った病院に森彦と駆け付けると警察の方が、手術が行われている手術室の斜め前の部屋に案内して下さった。
其の部屋に入る前に手術室に紀代子は眼を遣った。紀代子の眼には手術室の赤い表示灯が冷たく眼に射して来た。
待つ事二時間近く、手術室のドアが開かれた。二人は小走りにドアの処に行ってみた。ストレッチャーに寝かされている紫苑の上半身から顔に掛けて白い布で覆われているのが痛々しく見えた。
森彦と紀代子の体が硬直した。
医師の話では、努力をして見ましたが残念な事ですが、と言って静かに頭を下げられた。
紀代子は目の前が真っ暗くなり,辺りの人達の声が聞こえなくなって、傍にあった椅子に崩れる様にどさっと腰が落ちた。どの位の時が経ったのだろうか。紀代子は森彦の手を借りて、やっと、その椅子から腰を持ち上げて、先程の部屋に戻った。
其処で警察の方から聞かされた話では、紫苑が自転車で横断歩道を渡り始めた時に、左折のトラックが此の横断歩道に掛かった。
其の横断歩道は灯りも充分照らされているので、運転手が横断歩道を渡り出した娘さんを見落とす事はないだろう。それなのに事故が起きたと言う事は、運転手が脇見をしていたのか。何かに眼を奪われていたかと思えるが、これからの捜査を待たなければ、しかし、残念な事ですと言われて、暫し部屋は無言の状態が続いていた。
病院関係の方が来られて、その方について一階の部屋へと案内された。
悲しさに打ちのめされている紀代子と森彦であったが、病院としては所定の事を遣り通していかなければならない。
紀代子は父剛平に電話をした。事の次第を手短に話すと、父が知っている葬儀屋はないかと尋ねた。父から教えられた葬儀屋に連絡して紫苑の遺体を病院から葬儀屋へと運んで貰うと、深夜近くに関わらずに、主だった親戚が顔を出してくれた。
其の人達が紀代子を迎えてくれると、押さえていた悲しみがどっと湧き出して、涙が止めなく溢れた。
葬儀が終わって二日が経っていた。
森彦と二人で新しい紫苑の仏壇を見ていると、紫苑は永遠の眠りに誘われて行ったのだと言う実感が、またしても紀代子の頬に一筋の流れを誘っていた。
夢を追い掛けて行こう。と言うあの笑顔を再び見る事は出来ぬ。
剛平に由紀子そして剛一郎、森彦の父直治さんに母の瞭子さんそして弟の憲治さんに姉の洋子さん達と紫苑の多くの友達が嘆き悲しんでくれるが、紫苑が戻って来ない日が続いている。