わたしはヒーロー
私がまだ子どもだった頃は、こんなに悩むことはなかった。
未来は明るいけど、本当はよく分かってなかった。
それでも、希望はあった。
私のヒーローが居たから。
そんなあいつとは、幼い頃からずっと一緒だった。
いつもあいつと一緒だったけど、小学校にあがる時、初めて知った。
私が年上だったこと。
そして私が、女の子だったということ。
あいつとは、違っていた。
でも、それが何を意味するのか、当時の私には分からなかったし、あいつの悔しそうな顔を私は理解出来なかった。
今なら、分かる。
でも、どうにも出来なかった。
だってあいつは、私によそよそしかったから。
話かけても、素気無かったから。
私は悲しくは無かったけど、でも寂しかった。
そんなあいつだけど、私があることをしていると、何故か側に居てくれる。
それは私が、ピアノの練習をしている時だった。
私はお昼の休み時間になると、音楽室でお弁当を食べたり、ピアノを弾いていたから。
私がピアノを弾いていると、あいつはいつも音楽室に来るけど、私に何か話しかけるでもなく、気が付くといつも眠っていた。
「ねえ、あんた、ここに何しに来てるの?」
「演奏を聞きに」
「うそ!」
「嘘なもんか」
「うそよ、あんたいつも寝てるじゃん」
「だって、眠くなるから」
「それって、わたしの演奏が退屈ってこと?」
「知らないよ、そんなの」
いつも憎まれ口を聞く私だけど、本当は嬉しかった。
眠っているあいつの顔は、あの頃のように幼く、いたずらしたくなる。
一度やって、怒られたけど。
でもそれが、とても嬉しかった。
まるで、あの頃に戻ったように。
でも、私の演奏は退屈なんだと思う。
だからある時、私はメチャクチャな演奏をした。
ちょっと、イライラしていたから。
成績があまり良くなく、ピアノか進学かを選ばないといけなくなったから。
音楽大学に推薦してもらえるけど、私は保留にしていた。
だからあいつに、どうしたって聞いて欲しかった。
だって、そうしたら、きっと私は・・・・・。
「どうした?」
「別に」
違う違う、そうじゃないでしょう?
「眠れないじゃないか?」
カチーンときた。
「あ、あんた、何しにここに来てるの?」
私がこんなに悩んでいるのに。
「ひるね」
私は鍵盤を、ガ~ンと思いっきり叩いた。後で先生に叱られるけど、止められなかった。
「私が悩んでいるのに、あんた何それ?」
「悩むって?」
「悩んでいるの!」
「だから、何悩んでいるの?体重?」
「バカ!!!」
私は音楽室を飛び出した。
「バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、私の馬鹿」
素直じゃない私が、一番馬鹿だった。
物語のヒロインのように、どうしてもうまく出来なかった。
皆のように、どうしてうまく出来ないんだろう。
泣きたくなった。
本当はどうしたいのか、私にも分らない。
自分のことなのに。
ただ言えるのは、将来はピアニストになりたい。
でも、私の演奏はうまいだけで、退屈だと先生にも言われた。
もっと、自分を出して表現しないとダメだって言われたけど、どうしていいのか分からなかった。
私よりも下手な人が、先生たちに評価されているのを見ると、私にはピアノの才能が無いんだって思った。
ピアニストになる夢を、諦めた方がいいのかなって、そう思っていた。
だから、あいつに聞いて欲しかった。
あいつに、慰めて欲しかった。
だったら、音楽なんてやめればいいって、言って欲しかった。
でも、もっと頑張れって言って欲しかった。
現実を見ろって、そう言って欲しかった。
夢を諦めるなって、言って欲しかった。
私、どうかしている。
でも、これだけは分かる。
あいつから、離れたくない。
離れたくないのに、あいつは分かってくれない。
私の気持ちを、分かってくれない。
どうして?
何で?
涙が出てしまう。
「おい?泣いてるのか?」
「え?」
あいつは、私を追いかけてきてくれた。
私の肩には、あいつの手が乗っていた。
子供の頃の小さな手ではなく、もう立派な男の子の手だった。
私のあいつでは、もう無かった。
寂しかったけど、嬉しかった。
「なあ、何があったんだ?」
「何も無い」
「何も無いのに、何で泣いている?」
「だから、何でも無い」
彼は戸惑っていたけど、理由を言いたくなかった。
本当のことを言えば、きっとこの関係は壊れてしまうから。
私は、それが怖かった。
「ねえ」
「うん?」
「私の演奏、どう思う?」
「そ~だなあ」
「退屈?」
「そんなことある訳ないよ」
「だって、いつもあんた寝てるじゃん」
「だって、気持ちいいんだよ」
「え?」
「お前の演奏、気持ちいいんだよ」
「そうなの?」
「そうだよ」
「そうなんだ」
「だって、お前は俺のヒーローなんだから」
「何それ?」
「俺さ、何にも無くってさ、どうしようもないんだよ」
「そんなことない!」
私は強く否定した。
彼は、何にも無くなんてない。だって、運動だって、お勉強だって頑張っているし。
この学校だって、進学校なんだから。
頑張んなきゃ、入ることだって出来ないんだ。
私はまた、泣いてしまった。
彼は、私の頭を撫でてきた。
子供の頃、私が泣いているといつもそうしたように。
「何にも無いんだ、俺は」
「そんなこと言わないでよ~」
「だからさ、お前は俺にとって、ヒーローなんだよ」
「どうして?」
「だって、すごいじゃないか。あんなおっきなステージでさ、皆の前でカッコよく演奏してるんだから」
「格好なんてつけてない。必死なんだよ」
真面目でつまんない演奏。それが私のピアノ。みっともなく、あがいているだけの演奏。
「それだよ。俺にはさ、お前が光って見えたんだ」
「スポットライトのせいじゃない?」
「違うって。だって、今のお前も、俺には光って見えるんだよ」
「私、光ってないよ」
「俺には、光って見えるんだよ」
「でも」
「だからさ、お前はお前の好きな道に進みなよ」
それって。
「俺はさ、お前を追いかけるよ」
「え?」
「どこまでもさ、追いかけるよ」
「どこまでも?」
「そう、どこまでもだ」
「君、楽器演奏出来ないじゃん」
「出来ない」
「なに威張ってるのよ」
「出来なくても、やれることはあるよ」
「例えば?」
「ええっと、それはこれから探す」
「ちょっとお。私は真面目に聞いているんだから、ちゃんと答えてよ」
「大丈夫だよ」
「何が?」
「大丈夫だよ」
「本当?」
「ああ」
「分かった」
「やっぱり、お前は俺のヒーローだ」
「バッカみたい」
はにかむ彼の顔を見ていたら、悩んでいたことが馬鹿らしくなった。
でも、何だか大丈夫な気がしてきた。
だって、私はヒーローなんだから。
彼だけの、ヒーローになるんだから。
こうして私は、音楽大学に進学し、本格的にピアニストを目指すことにした。
あいつも受験で忙しくなったので、疎遠になってしまったけど。
私も練習の日々で、あいつと会う時間は無かった。
時々連絡は取るけど、いつものように素っ気なかった。
人の気も知らないで。
練習は大変で苦しくなる時もあるけど、その時は彼のあの時の言葉を思い出す。
「大丈夫だよ」って。
それから数年が経ち、私は念願のデビューを飾ることになった。
初の大舞台だ。
正直、逃げたかった。
観衆の目が、怖かった。
一挙手一投足、見られているようで恐ろしかった。
演奏はうまいけど、面白くもなんともないって非難されるんじゃないか?
私の演奏が退屈で、観客は居眠りしてしまうんじゃないのか?
演奏が終わっても、拍手されないんじゃないのか?
ブーイングの嵐になるんじゃないのか?
いやだ。
いやだ。
いやだ。
逃げたい。
逃げたいよ。
ねえ、逃げたいよ。
足が震えていた。
手も震えていた。
これじゃ、演奏が出来ない。
落ち着け、落ち着くんだ。
ダメだ、震えが止まらない。益々、酷くなる。
私は、もうダメかもしれない。
泣いてはダメだ。
落ち着け。練習を思い出せ。
あいつの、あの言葉を思い出せ。
「頑張れ~!」
「え?」
声が聞こえた。
大きな声だった。
あいつの声だった。
舞台袖で思いっきり、手を振っていた。
あいつだ。
あいつが、そこに居た。
関係者の格好で。
「え、ええええええええ?」
「いつの間に。もう、何やってるのよ。恥ずかしいな」
ここは、ライブ会場じゃないのに。
ああ、やっぱり注意されてるし、怒られている。
もう、本当に、あいつは。
私は不謹慎にも、微笑んでしまった。
いつの間にか、震えも止まっていた。
なんだろう、今すぐにピアノを弾きたいって、そう思っている。
あいつに、私の恰好いいところを見せたいって、強く思っている。
私の雄姿を、あいつに見せつけたいって、思ってるんだ。
私はピアノの前に座る。
ドキドキするけど、それは緊張感からではなく、どこか高揚感がある。
ワクワクしている。
イケる。
確信がある。
そうだ、思いっきりやってやる!
つまんないって、言わせない。
居眠りする暇なんて、与えてやるもんか!
だって、私はヒーローなんだから。
あいつのヒーローなんだ。
でも、あいつが私のヒーローなんだ。
こうして私のデビューは、華麗な演奏でステージを彩るのでした。