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【大学のレポート】戯曲『恋愛恐怖症』について

これ切なくていい話なんだよね

『恋愛恐怖症』における歌の意義


《序論》

岸田國士の『恋愛恐怖症』(第二幕)において、印象的な場面のひとつとして挙げられるなかに、日没前後の海を見下ろす小高い砂丘の上で、たわいもない話をしていた男と女の女が、急に歌を歌いだす場面がある。そこでは男はそれに対して応えるように呼ぶ真似をしている。そしてこの歌は、戯曲の最後に女に想いを素直に告げられるず男が恋愛から逃げた後の場面でも歌われており、男が前半部を歌うと、どこからか後半部分を遥かから歌う女の声が聴こえ、これに恐る恐る腹這いになっていた身を起こして聴き入り、そこで幕が締まっていく構成となっている。この二つの場面に登場する歌には、ただならぬ意味があるのではないであろうか。本稿はその意味を考察していくものである。


《本論》

まず場所は最初の場面も最後の場面も海を見下ろす小高い砂丘の上である。時間は最初の方は日没前後であるのに対し、最後は朝になっている。状況としては、最初は「なんでもない同志」という感覚が保たれた状態であったのに対し、最後はお互いの気持ちを知った上で告白することもなく、しかも女は別の男と結婚してしまい砂丘にはいないという状態になっている。


次に歌の意味を解釈した上で、歌を歌った前後の男と女のやりとりや行動について考えていく。歌はいかのものである。


波の底に

呼ぶ声あり

われあらずば

誰か応へん


前半部の「波の底に呼ぶ声あり」まではそのままであるが、「われあらずば誰か応へん」はこのままでは分かりにくいので現代語訳すると、「私でないのであれば、誰が応えようか」ということになる。つまり波の底の呼び声は、「私」にだけ語りかけているものか、「私」にしか聞こえない、「私」ひとりしか聞いていないものなのである。どちらにしても、「呼び声」が語りかけている対象は「私」なのである。これを踏まえて、最初の場面と最後の場面について考察する。


最初の場面では、南京豆が食べたくなっただの靄がこっちへ来るだのお尻が冷たいだのととりとめのない話をしている中で、男は「今日はなんだか重大な日だ。」(p.4/l.2)といい、女は「あたしは、なんだか知らないけれど、喉がかわくの。」(p.4/l.4)と言ったあとに急に歌いだす。喉が渇いているのに急に歌いだすのは、とても違和感がある。女はそこまでして歌いたいなにかがあったのだと推察される。歌いたいなにかとはなんであろうか。女は「喉がかわいて」しまうほど緊張しているのではないであろうか。それは、第二場にでてくる別の男が語るっている。



「彼女は、人知れず、君に心を傾けてゐたらしいんだ。」(p.45/l.7)

「しかし、彼女は、その気持を、君に見破られることを恐れてゐたんだ。と云ふよりも、君に先手をうたれることを恐れてゐたんだ。なぜなら、彼女は、君の告白を冷かに聞き流す勇気がないことを知つてゐた――と、まあ、彼女は、さう云ふんだがね。従つて、自誡を破らなければならない。だが、それは、彼女の自尊心が許さない。」(p.45/l.10)

「そこで、彼女は、一策を案出した。つまり、君の腕から逃れる為に、自ら君の腕に飛び込むと云ふ戦法がそれなんだ。」(p.46/l.8)

「早く云へば、こつちから持ちかければ、向うが逃げると見たんだ、彼女はね。」(p.47/l.2)



以上のことから考察するに、彼女は逃げられるために、男に気持ちをそれとなく伝えるという覚悟を決めていたことが分かる。これが「喉がかわいて」しまう程、緊張していた理由である。ここから女は、目的を果たすために常にそのことを考えていたということが推察される。これを鑑みると、直後に歌いだした歌に想いを重ねているのではないかと考えることができる。歌は「私」目線で歌われていることから、女が自分を重ねたのは「呼び声」を聴く「私」である。一緒にいる男は、男の友人の妹品子と泳ぎの練習の際に、手を握るのを躊躇うほど奥手であるのに、女とは友人として普通に接している。品子の手を離した為に品子に怒られた今、男の周りの女はこの女以外いないと言っても過言ではない。これはどこか歌に共通するところがないであろうか。男の話を聞く、または呼び声を聞く女はこの女ひとりなのである。

そして男は歌の意味には気付かずに、これを受けて「オーイ/オーイ」(p.5/l.7)(/は改行)と「呼ぶ真似」をしている。先程の歌の解釈からすると、この「呼び声」は波の底の声ということになる。ここで男の「呼ぶ真似」に対し、女はやや長い間を空けた後に「朗らかに」笑っている。これを男は「女の友達つていふものは、どうしてかう、妙に相手をはぐらかすのかなあ。」(p.5/l.7)と言っていることから、男は返答して欲しかったのではないかという予測ができる。ここで、この「呼び声」であることが確定する。ここで女の「私」はこれに応えない。これは女の考えを反映しているのではないであろうか。女は男を好きでありながらも、男の気持ちに応えるのは「自尊心が許さない」から応えることができないのである。


最後の場面は、女がどういった過程や考えを経て、別の男のものになったかを知った男が、別の男が去っていくのを見送った後、腹這いになり沖の方に小声で歌う。前半部分を歌うと、どこからか女の声がして後半部分を歌い、それに恐る恐る半身を起こして聴き入っている。男は小声で沖に向かって歌ったのであることから考えるに、この女の声は実際はしない、前の日の記憶の女が重なっただけの幻聴である。後半部分に女の声することから、ここでも「私」は女を指し、「呼び声」は男を指している。応えるはずのない女の声に聴き入るのは、応えて欲しかったからであり、しかしそこに女はおらず、応えはない。彼女の気持ちをしった臆病な男は、今度は彼女に呼びかけることすらできない。最初の場面を懐古的に思い出させ、余韻に浸らせる効果を持っているのである。


《結論》

以上のことから、戯曲中の歌は男と女の見えない心理的部分を象徴したものであり、その応対に二人の関係性を反映している。そして最後には臆病と自尊心故に叶わなかった恋の余韻に浸らせる効果を持って歌われているのである。


(2525字)

私、レポートをスマホで書きすぎじゃないか?


さて、みなさんはご存知ないかもしれない岸田國士(きしだくにお)ですが、劇作家の芥川賞と言われる岸田國士戯曲賞というものもある有名な方です。小説も書いているけど、戯曲の方が有名です。


戯曲はね、演劇用の台本です。ト書きされてたりするの、見たことないかな? なろうだとお笑いのネタ書く時書いたことある人いると思うけど、それで劇の台本書いたものですね。小説より端的な文が多いです。


けれど戯曲の真骨頂はやはりが劇になった時なので、見られるなら劇見た方が早いですね。

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