【授業のレポート】内村鑑三についてなんだけど、途中だ!
講義を受けた中で内村鑑三に興味を持った。今までこれほど日本のキリスト教に関わった人物であることを知らなかったからである。 不敬事件で名前こそ日本史に出てきたが、その程度で、キリスト教がその事件に関わっているとは初耳であった。そして内村の過去を振り返っていく中で、内村は普通のキリストの教会ではなく、無教会に心酔していくことが分かった。これは内村が不敬事件によって国内で迫害されただけではなく、海外でも人種による差別を受けたのに対し、無教会は差別なく誰にでも開かれた教会で、ほかの教会とちがい着飾ったり決まりごとに縛られない自由さに心惹かれたようであるが、はたして無教会と内村鑑三の考えとはどのようなものだろうか。本稿は内村の実際に記述した記録から、無教会とその考えについて迫っていくものである。
以上のことから、内村鑑三が信仰心が一番重要で教会は二の次の存在であるが、信仰心を支え合う場としての教会の必要性を感じ、それを体現したかのような教会が無教会であることが分かった。無教会はまさに内村の理想なのである。
ここで内村は、真の協会は迫害からなり、それによって真兄弟、真姉妹になる、つまり協会内の結束力が高まり、さらなる信仰を得られるということではないか。確かに、キリスト教は元より迫害を受けていたユダヤ人の為のものであった。その迫害から解放するためのものであったと言ってもいい。内村がここで言っているのは、迫害は洗礼であるということではないか。同じ道を辿ることは、さらに神の恩恵に預かることに近づくのだ。それ以外にも、迫害が与える影響は大きい。迫害を受けた人々は自分たちで生きていかねばならず、自ずと結束力が高まり、仲間意識も上がり、一致団結して目標へ向かうということがある。そういった意味でも、迫害というのは真の協会にはむしろ洗礼ともいうべきものなのだ。
新教会とはどういうものなのか。内村はこう述べている。つまり内村の理想とする教会は、キリストと神と聖霊とを信じてさえいれば、それ以外はなにもいらないといういたってシンプルなものである。しきたりや形式の多いその他の教会とは一線を画す、なかなか画期的な教会である。その昔、日本でも様々な宗教が起こったが、この考え方は浄土真宗に通ずるものがある。そういった点からも、日本人には入りやすいと考えられる。この考え方でいけば、キリストを信じてさえいれば自然とこの教会に入ったも同然ということで、神の恩恵を授かることができる。広く開かれた教会であることが伺える。
なぜこのように形をあまりなさない教会でいいのか、それは内村の以下の考えによる。端的にいうと、教会がなくなったからと言って天国がなくなるわけではない。神の天国は広いので入らなくても大丈夫だ、ということだ。よく扉は誰にでも開かれているという表現があるが、これはまさに教会に所属していない人でも神は平等であることを示している。教会に所属している必要もないほどであるから、教会は内村にとって最も重要というわけではないのだ。ただ信仰心があれば、それだけでいい。このような考えがあるからこそ、新教会は成り得るのだ。
それはこの言葉からも分かる。これも、言っていることは先ほどと通ずるものがあり、教会自体がキリスト教を作っているのではい、ということを示している。たとえ教会が崩れようと、そこに信仰心がある限り、キリスト教は崩れない。キリスト教に大事なのは信仰心だけであることを切々と説いているのである。
このことから信仰心だけが必要であるといっていい無教会に内村が心酔していくのはよく分かる。しかし、これではまるで教会自体がいらないようにしか考えられない。では、内村にとって教会のあるべき姿とはどのようなものであったのであろうか。内村は以下のように述べている。
友人関係感でうまれるあの感覚、決して無関係な人では分かり合えない心の通じあった上での結束が、元々の教会を作ったと内村は予測している。たしかに人はひとりでは意志を強く持ち続けることは多大なる精神力を必要とする。そして信じるということはとても高度な脳の発達の上で行われることである。知能の低いものは、まず信じるという概念がない。また、信じるよりも疑うほうが簡単である。信じるというのは、知能の発達した人間であるからこそ選べる選択肢であって、さらには疑わずに信仰心を持ち続けるというのはもっと高度なことなのである。しかし時に心の支えが欲しくなる時もあるだろう。人間の精神は弱い。そんな時にできたのが友人間の団体、教会ではないか。互いに支え合いながら信仰を深める、そんな場所として教会ができたのではないか。
しかし今日、このような関係で教会は成り立つのは難しいだろう。なぜなら友人間の関係を超え、もっと教会は広く開かれていっているからである。
では今日の教会に必要なのはなにか。内村はこう述べている。
たぶん、キリスト教学の授業の課題だ!
私の大学キリスト教系だったんですよね。教室に十字架に貼り付けられたキリストがいましたね。
ちなみに続きが書かれていないのは、おそらくこの後はPCで書いたからじゃなかろうか。内容覚えていなかったので熱心そうな文が新鮮。しかし私はいまだに無宗教人間である。(ヒント:課題)




