7話 天使と天使?
午後、リンネはベットとともに屋敷の清掃を行っている。
「ーーそれで、昼食を抜きになったのか」
「はい……」
渋々肯定するリンネを、ベットは「ははは!」と軽快に笑った。そして、ポンポンと肩を叩く。
「まあ、初めてのミスだからね。喜んだ方がいい」
「どんなフォローの仕方ですか」
「気にしないでくれ。それで、お腹の具合はどうだい?」
「リュックにちょっとだけ残ってた干し肉を齧ったんで、まあ、夜までは大丈夫です。夜は食べさせてくれるみたいなので」
言いながら、リンネの背丈ほどもあろうかという窓を台に乗って丁寧に水拭き、そして乾拭き。
リンネは右を無意識に向いて、まだ同じ大きさの窓が見えている範囲にあと七個あり、これが廊下の分だけあると考えて、空腹も相まってげんなりした。
リンネが掃除の手を早める。
「うん。早く終わらせようとするのは良いけれど、まだ遅いね。あと、もうすでに雑だ」
「あっ、すいません」
水の拭き残しに気づいて、リンネは急いで拭き取る。
リンネの仕事ぶりを確認しながら、ベットは自身も掃除の用具を手に取った。
「それじゃあ、さっさと終わらせちゃおう。俺はあっちからやってくから、リンネはこっちから丁寧に拭いてってくれ」
「はい、わかりました」
リンネは背伸びをして、窓の上の方へ手を伸ばす。ちょうど上を向いたところで、日の光が目に入り、眩しくて目を細めた。
今の窓を吹き終えて、リンネは次の窓に移るべく台を降りる。ふとベットの方を見ると、ベットはすでに三つ目の窓に取り掛かっているところだった。
仕事の早さに、リンネは純粋に驚嘆する。さすがに、長いことここにいると言っているだけのことはある。
リンネは若干の焦りを感じながらも、丁寧に行うのを心がけることを忘れずに、掃除を続けた。
「あの、なんでこんなに丁寧に掃除をするんですか? 人も全然いないのに」
「うーん、そうだなぁ」
ベットは四枚目の窓を拭きながら話す。
「正直に言ってしまうとね、ここに来る客人は、みんなわけありなんだ。あととてつもなく偉い。だから、その万一の時のため、かな」
「こんな秘境みたいなところを訪れる方がいるんですね」
「そりゃそうさ! なんて言ったって、世界のフィエム様の御屋敷なんだからね」
「世界の、ですか」
「ああ、誇張無しにしても、主様は世界一の作家だからね。リンネも読んでみるかい? フィエム様の作品」
「興味はあるので、読んでみたいです」
「よし、なら、あとでリンネの部屋に持っていくよ」
リンネの隣、六枚目の窓を吹き終えて、ベットは爽やかな笑顔で言う。
リンネも、それに応えるように三枚目の窓を拭き終えた。
ーー ーー ーー ーー ーー
空腹のリンネは、ベッドの上に倒れ込む。途端に腹の虫が威勢よく鳴いた。
「やっちゃったなぁ……」
腹の虫にため息で応えて、リンネはゴロリと横を向いた。
今から夕食までリンネの仕事は無い予定だ。だから、なんとか仮眠でもとって、空腹を紛らわせようと考えた。
しかし、空腹は仮眠を圧迫して、ついには消してしまった。
おもむろに立ち上がってリュックの中を漁るが、もう干し肉の欠片のひとつもない。諦めて、再びベッドの上に横たわった。
その時、コンコンとドアがノックされた。
「はーい」
重たい体を起こして、リンネはドアを開ける。すると、二人の少女の姿があった。ノルンとメープルだ。
「お疲れ様です」
「こんにちは!」
そして、メープルの手の上には……。
「こんにちは、って、メープル、それは……?」
「ふふーん。メープルは、昼食抜きの可哀想なリンネにご飯を持ってきたのだ!」
そう言って、メープルが差し出したのは、ハムとエッグのトースト。
まだ少し温かいそれを受け取ると、リンネの鼻先をタンパク質と油の香ばしい匂いがする。それと同時に、リンネのお腹が大きく鳴った。
それを聞いてリンネは顔を赤くして、ノルンが笑う。
「ふふっ、大きな音ですね?」
「うっ、お恥ずかしい……」
笑いながらトーストを持っていない方の手で頭をかく。そして、ドアの前から少し下がって、
「入ってってよ。食べながらいろいろ話したいな。特にメープルと」
「やったー!」
メープルが大袈裟に思えるほど喜んで、リンネのベッドに飛び込んだ。ノルンがそれに苦笑いをして、リンネのベッドの端に前のように腰掛ける。
リンネは窓に向かって置いてある机の椅子を持って、二人の前に置いて腰掛けた。
「それにしても、ありがとう。すごい助かったよ」
「それ、作ったのメープルなんですよ?」
「へえ、すごいなぁ」
「えっへん!」
メープルが胸を張って顎を上げた。鼻が高く伸びて見えるようだ。
リンネは早速ハムと卵とトーストが重なっている一番美味しいところに口を付ける。そして、
「……め、メープル」
「なにー?」
「これ、味付けってさ」
「塩だよ?」
リンネは確かめるために、もう一口、さっきよりも小さく齧る。
「……砂糖だね」
「えぇ?!」
「メープルちゃん、間違えちゃったんですか?」
「うう、ご、ごめんなさい……」
「あはは、まあ、これはこれでクセになるというか……」
モグモグと残りの甘いトーストに口をつけながら、リンネはメープルに笑いかける。
メープルは視線を床に向けて、少し悲しそうな顔をしていた。
これは意地でも食べきらなければいけない。そんな意図の視線がノルンからリンネに向けられている。
リンネは喉に突っかえる甘いハムを気合いで押し込んで、そうしてなんとか吐き出さずに普通に食べきってみせた。
「ふう。美味しかった。ありがとう、メープル」
「え、あ……うん」
「ありがとうって言われたんですから、どういたしまして、でいいと思いますよ?」
ノルンにそう言われて、メープルは太ももの間に手を挟んで、少しモジモジとして、それからリンネの方を見て言った。
「ど、どういたしまして!」
純粋で無邪気な子供の笑顔。リンネは、その表情をさせてあげられたことに安堵した。
「それにしても、リンネも昼食が抜きだったんですか?」
「え? “も”って……どうして?」
「実は私も昼食は食べさせて貰えなくて、理由は教わってないんですけど、別に悪いことをしたからとかじゃない、ってハタさんに言われて……」
それはどういうことだろうとリンネは考える。その答えがでることはなかった。
なぜならーー
バンッと勢いよくドアが開かれる。
「飯の時間だ」
「うわっ?!」
やって来たのは、調理服に身を包んだハタ。
あからさまに驚いた様子で、リンネが固まる。ハタは、リンネ、ノルン、そしてメープルと視線を移動させ……。
「おい、メープル。この二人に昼飯なんて食べさせてないだろうな」
そう言って、元から鋭い目付きをさらに尖らせてメープルをじろりと見た。メープルは血の気が引く感覚を味わう。
メープルもリンネと同じく固まっているのを見て、ハタは大きくため息を吐く。
「……なんのために昼食を抜きにさせたと思っている新人の歓迎会だぞ。リンネへは本気で怒りを感じたが飯を抜かすなんて馬鹿なことはそれでもしない。さあ、ついてこい」
早口でそう言って、ハタはスタスタと部屋を出ていってしまう。三人は無意識に顔を見合わせて、そして大急ぎでハタの後を追った。
その途中で、メープルが何やら不穏なことを言う。
「ハタが早口……。お、怒ってる……。でも歓迎会……美味しいご飯……」
そばかす少女は器用にも、満面の笑顔で怯えた表情を作って見せた。
それがおかしくって、ノルンはふっと吹き出す。気づいたリンネも、控えめに笑った。
二人が笑った理由がわからないメープルは、きょとんとした表情をした。そのメープルに追い打ちがかかる。
「メープル。今日は、お前のデザートは抜きだ」
「ええええええええ〜〜〜〜?!?!」
「冗談だ」
そう言って、ハタがにこりと下手な笑顔を作った。