維緒の力の使い道
アストライアに来た維緒の目に入ったのは、満点の星空と、その下で円環に背を向けて素振りを行うルートガーの姿だった。
一振り一振りに力がこもっていて、それを振るうのが大柄なルートガーなので迫力がある。
集中しているのか、暗闇に光る円環はなかなか目立つはずが、こちらを向く気配はない。
(そういえばここに来るたびに昼間に当たるから、そんなものかと思ってた。活動しやすいように現実で夜だとアストライアが昼間になるようにリンクしてあるってことかな)
それなら、今のアストライアが夜なのは納得だ。
うたたねする前は春の日差しが気持ちのよい午後だったから。
維緒が一歩踏み出すと、ルートガーが剣を持ったまま振り返り、剣を水平捧げ持つようにして頭を下げた。
「失礼いたしました。いつもいらっしゃらない時間なので気を抜いておりました」
「邪魔してごめんなさい。お昼寝しただけなんですが、来ちゃったみたいです」
「昼寝でしたか。それであれば、サラ様はいらっしゃらないでしょう。お部屋にお連れしますので、お寛ぎください」
ルートガーとは、まともに会話するのも初めてだ。
見る限り、どんなときでも眉間の皴が取れないのは仕様らしい。
剣を鞘に収め、石畳に置いていたランプを手に取ったルートガーが、維緒を先導して歩き出した。
「すてきな夜空ですね、ルートガー。今は何時くらいですか?」
「夜半を過ぎたところです」
「夜半っていうと、真夜中かな? こんな時間に対応させてすみません」
向こうは3時頃だった。
いつもアストライアを夕方に立ち去って目覚めると6時半であることを考えると、10時間前もしくは14時間後くらいと考えると妥当だろうか。
「いいえ。お越しがなくても門扉側と同様、お待ちしていますから、いついらしても問題ありません」
ルートガーが指差す門扉の前には、小さなランプの灯りが揺れている。
「どこの従者も大変だ」
「来宮に気付かずおひとりにさせて、何かあってからでは遅いですから」
「らいぐう?」
「こちらは女神アストライアの宮殿の外宮と言い伝えられています。ですから、外からいらっしゃることは、来宮といいます」
「宮殿なんですね、ここ。どおりで空も建物も綺麗なはずです」
今は暗闇の中だが、アストライアは自然も建物も非常に美しい。
中庭に面積が多く取られ、建物の中にいても様々なところから花々が見られる作りも、女神様の宮殿だというなら納得だ。
「聞いたことがありませんでしたか? 一種の神殿ですから、あちこちに祈りの場があるのです。こういった曲がり角や突き当たりにある飾り棚もそうです」
「小さな女神像があるのね。気付きませんでした」
「灯り置き場も兼ねているので、夜の方が気付きやすいでしょう」
無口担当だと思っていたルートガーだが、維緒が退屈しないようにか意外と話をしてくれる。時間を慮って、小声でにはなるが。
そしてあっという間に部屋に着いた。
「侍女を呼びます。エトガル卿とヨルンも呼び出しますので、少々お時間をください」
当たり前のようにルートガーが引き返そうとするので、維緒は慌てた。
急いで腕を掴んで、早口でひそひそする。
「みんな寝ている時間ですよね。そのまま寝かせておいてあげてください。私、おとなしくしてますし、小一時間で帰りますから」
「では侍女だけお呼びします」
「侍女、いなきゃ駄目ですか? こっそりやってみたいことがあるんです。危ないことはしません」
勢揃いしてしまっては、わざわざ昼寝してまでサラのいない時間を狙った意味がなくなる。
ルートガーがどのくらい融通が効く相手かわからないが、維緒は正攻法で頼みにかかった。
「侍女も排して行いたいことに、私は立ち合わせていただけるんですか?」
「やってみないと何とも言えませんが、部屋の外に出ていていただきたいです」
この言葉はヨルンよりもむしろ、付き合いの浅いルートガーに対する方が言いやすい。
ヨルンに困り顔をされたら気持ちが揺らぎそうだからだ。
ルートガーは、維緒の決意で固まった顔を見て、扉に手を掛けた。
「表で控えています」
「ありがとう」
ルートガーはいい人。維緒は心に刻んだ。
それよりも、と維緒は当初の予定通り、ゆったりしたワンピースのポケットに手をやった。
今日は寝る前からしっかり意識した。
服装はダークグリーンに白の水玉のワンピース。右のポケットにはビスケットを一枚。
左のポケットには千円札が一枚。意識しただけで実際に入れてはいない。
「さて。確認から始めますか。ポケットの中にはビスケットが一枚……あるある。左は、うん。間違いなく千円札だね」
広げて観察するが、寝る前に思い浮かべるのに使った千円札と折り目も汚れ具合も一緒で、シリアル番号も覚えている限りは同じ。
畳み直して、ポケットに戻す。
「ポケットを叩くとビスケットが――――うん。二枚だね」
知ってた。
そんな気持ちになった。
これは維緒が、夢が本当に夢かどうかを確かめる常套手段だからだ。
ちなみに頬を抓るあれはやらない。痛くても痛くなくても納得してしまいそうだから。
維緒は続けて左のポケットも叩いた。
「千円札が、一枚のままかぁ」
畳み直して再度ポケットへ。
「私のポケットに入れたのは千円札だけど、次に開いたらマジックみたいに一万円札になってるからね。諭吉さんだよ、いいね」
ぶつぶつと自分に言い聞かせて再度取り出すと、紙幣が一万円札になっていた――――なんてことはなく、千円札だった。
無言でしまい直す。
「大体、寝る前にイメトレしたからって、実際にポケットに入れてもいない千円札が入ってるのっておかしいと思わない?」
どうか廊下のルートガーにまで聞こえていませんように。おかしな独り言を言うやつだと思われていませんように。
でも口に出すのが、暗示には一番効果的なのだ。
「この私の身体が日本から単純に召喚されていて、起きるときに日本に戻るなら、起きたとき私のポケットに千円が入ってないといけないよね。でも入ってたら千円札が増えてることになるわ。それって紙幣の密造ってことにならない?」
もう一度紙幣を取り出してみる。
「――――ない。入ってない」
ポケットからは、一万円札はおろか、千円札さえも出てこない。
「やっぱり、私が信じられるかどうかが鍵になるのかな。今までの夢でも、私が叶わないだろうって思った願いは実現しなかった」
維緒の理性が、さすがに紙幣の密造や偽造は嫌だと判断したのだろう。
「もうひとつ、いつものやってみようかな」
今度は、維緒が今まで開けたことのない鏡台の前に立って、考える。
維緒が追われる夢や急いでいる夢でよく使う方法だ。
「ルートガーが、アストライアには祈りの場がたくさんあるって言ってたな。じゃあ一番大きな祈りの場に、鏡台の鏡部分は繋がってるの。私を連れて行って」
強く願いながら鏡台の扉を開くと、映っているのは覗き込んでいる維緒の姿ではない。
木造の長椅子、たくさんの蝋燭、そんなものが見える。
「人はいなさそうね。さすが深夜。……うん、少なくとも腕は通せるみたい」
鏡台の鏡の中に腕を差し入れてグリングリンと動かしてみるが、問題は感じない。
神殿側から見ると腕だけ浮いているのだとすれば、かなりのホラー展開である。
「ちょっとお邪魔しまーす」
慣れた動作で鏡台に乗り上がり、鏡を潜った維緒は、躊躇いなく『一番大きな祈りの場』の床に足をつけた。




