(閑話)サラの願い
※サラ視点
「ウェスくん、ウェスくん、ウェスくん!」
サラは飛び起きると、薄い扉一枚で区切られた狭いアパルトメントのリビングに駆け込んだ。
時刻は既に昼近く、高く登った日の光が窓から床中を照らしている。
「サラ、随分とお寝坊だったな」
ソファーに足を投げ出していた叔父、ウェスが冊子から目を外しつつ揶揄してきた。
「遅くなってごめんなさい。朝ごはんは食べた?」
用意しておいた朝食の支度を見ると、サラダとチーズは一人分が無事なくなっていた。
ウェスからのんびりした声がかかる。
「お茶とパンの用意は言われたようにして食べたぞ。サラもゆっくり食べろよ」
「わかったわ。ありがとうウェスくん」
家事能力の高くないウェスはポロポロとパンの切りこぼしをキッチンに残しているが、及第点だ。
サラは自分の分のパンを切り分けながら早速ウェスに報告を始める。
「アストライアに行ってきたわ。維緒にもすぐ会えたの。素敵なところだった」
「よかったな。画集のとおりだったか?」
サラは夢のように端から端まで目に焼き付けていた帳面を脳裏に浮かべる。
サラの立場では原本を見ることはできないが、歴史学者のウェスが時間をかけて写しを作ってくれたのだ。
「ええ。ウェスくんが書き写してきてくれたとおりの明るい回廊と、玉座の間と、それに王候補の庭も! 全部見てきたわ」
今にも踊り出しそうな様子のサラに、ウェスは面白そうな目を向ける。
「玉座の間にも行ったのか? 大冒険だな」
「そうよ。王様に会ったわ。偉そうだけど怖くない、門扉の国らしい顔なだけの普通のおじさまだった」
「その目、嫌がられなかったか?」
「多分、大丈夫。誰も顔に出して非難したりしなかったわ。あんなにゴミ虫を見るような目をされなかったことって初めて」
サラはどこに行っても気味の悪い子と顔を顰められ続けてきた。
この金の目『レクセリア・イール』のせいだ。
政権を覆す瞳という言い伝えのあるこの目は、事実言い伝えられるだけの『力』を持っている。
人に忌まれる異能の力。
そのくせ他の人と同じだけの機能は持たない。
サラを受け入れてくれたのはこのひょうきんな叔父だけだった。
それを思うと、アストライアで会った人々の対応は破格のものだと言える。
エトガルは時々複雑そうな顔を向けてきたし、従者候補のうち何人かは巧妙にサラの目を見ることを避けていたが、維緒やヨルンはまっすぐに目を見てくれた。
目を合わせると石になると言われているこの目を。
ちなみに、この目のおかげでサラの渾名は、どこに行ってもメデューサ一択だ。
可愛い女の子につける名前かと小一時間問い詰めたい。
「お前が嫌な思いしなくて済んだなら、よかったよ。周りの人のことは大事にしろよ。少しでも味方を増やすんだ。お前が生きていく助けになるからな」
「うん。いつも笑顔でくよくよせずに、相手の名前をたくさん呼びます! でしょ」
「その意気だ」
ソファーから少しも動く気のないウェスが声だけで対応してくるのに、サラはくすくすと笑った。
「ウェスくん、今日は調子よさそうね」
パンにパクつきながらもごもごと問うと、おー、と返ってくる。
「昼には研究室にまとめた資料提出しに行くからな。少し遅くなるかもしれないから、サラは先に夕飯食べて寝てろよ」
「わかった。薬忘れないで持って行ってね」
「わかってるって」
軽く答えるウェスだが、よく飲み忘れては痛みで飛び起きているのをサラは知っているのだ。
棚に並べられた残薬をざっと見て、今朝の飲み忘れがないことを見てとる。夜の分は出掛けに必ず持たせることにしよう。
サラは決めて、切り替えた。
「ねえ、アストライアの資料見ていてもいい?」
「ああ。できるだけ読んでいけ。古い資料が多いけど、知らないよりいいだろ。門扉の王になってから失伝してる話もあるかもしれないし」
ウェスは仕事で得た知識をたくさん持って帰ってきてくれる。
サラが誰より早くアストライアに行く準備が整っていたのも、ウェスが常日頃からアストライアと円環の国、門扉の国を繋ぐ魔法史を専門にしているからだ。
サラの夢はウェスの夢。ふたりで作り上げてきた夢だ。
ウェスとたくさん話し合った。
サラができることはなにか。それは本当に『政権を崩す』ことなのか。
考えて、考えて、背中を押してくれたのだ。
「ウェスくん。王様にね、来るの早かったね、たくさん練習したんだねって褒められたのよ。それに、円環の古代文字もすぐに読めたわ。ウェスくんが毎日読み聞かせてくれたからね」
こらえきれない晴れがましさにサラがくすくす肩を揺らすと、呆れたウェスが釘を刺す。
「サラが書き取りもさぼらないでやってれば今頃古代文字で自在に円環を描けるようになってただろうにな」
「だーって。古代文字の書き取りなんて修道女じゃあるまいし」
アストライア式文字が主流になった今では、古代言語なんて慣用句くらいでしか使わない。
後は魔法の聖句と円環の祝詞がせいぜいだ。
「古代言語を話すくらいは私はギリギリできるけど、令息の行く寄宿学校でだって古代文字なんて基本文字くらいしか習わないっていうじゃない。書き文字なんてアストライア式と違いすぎてもう異言語って感じよ。円環なんてウェスくんみたいな先生や神殿術師くらいしか描けないんでしょ?」
「他の人には描けないからこその専門職だろ。手に職つけておけばサラも自分で食える可能性が上がったのに」
『ちゃんと』伯爵家の三男である上に、手に職もあるウェスは頭の出来が他の人とは違うのだとサラは思う。
人には得意不得意があるのだ。――――サラの得意が何なのかは今は置いておくことにする。
「だってだって、仕方ないじゃない。たくさん字を読むと目が痛くなるんだもの」
「それは仕方ないな。まあ古代文字じゃなくたって、なんだってできることはある。王様にだってなれるかもしれないしな」
「なれるかも、じゃない。なるのよ」
とりあえず初日はライバルゼロだったし。と前向きに付け加えると、「言ってろ」と投げやりに返された。ひどい。
あまりにも遅い時間の朝食を空にしたサラは、皿の底に溜まった酢と塩のドレッシングを揺らしながら考える。
「ねえウェスくん。昔の王様の話、聞かせて。古代言語にしてほしいな」
「うん? 寝物語が懐かしくなったのか?」
「そうみたい」
サラを引き取ってから、小さな女の子の相手に困ったウェスは当時学び始めていた神話やアストライア史の内容をおとぎばなし風にしていつも聞かせてくれていた。
暁の女神が7つの門を通る試練の話、王様と王配様の夫婦喧嘩の話、円環の国の酢と門扉の国の塩を並べる王様の話――――。
「あれがいいわ。アストライアの聖女と円環の国の勇者の話」
「いいぜ。そうだな……」
ようやくソファーから身体を起こしたウェスが、朗々と語り出した。
世界が今より未熟であった頃
円環の国は大いに乱れていた
海は火山のように熱く
麦は地に伏せカラカラに乾き
赤子は牛のように売り買いされ
男は鉄を打つばかり
聖女は勇者に祈りを捧げる
海をこごらせよ
麦穂を立てよ
潔き心で世を諫めよ
さすれば楽園の果実を与えよう
勇者は大地と海とを平定し
聖女は勇者に感謝を垂れる
さあ楽園の果実をたんと召せ
勇者は聖女の手から果実を貪った
其方こそ王たるもの
二つの国を統べるもの
勇者の頭上に王の証が現れ
この世に最初の王が生まれた
「どうだ? こんなもんだっただろ」
サラにとって一番聞き慣れた国王選定のお話だ。今とは少し形が違うが、部分的に心当たりができた。
「うんうん。こんな感じだったわ。小さい頃は楽園の果実がどうしても食べてみたかったのよね」
果実か、と呟きながらウェスが書棚に歩み寄り古いノートを広げる。
「楽園の果実はオレンジだって説がある。建国の壁画にそんな感じの木が描かれてるってな。実際その時代にオレンジはこの辺りには自生してなかったらしいから眉唾だとも言われてるけど。アストライアにオレンジの木はあったか?」
「たくさんあったわ」
「じゃあ勇者が聖女から王の証を受け取った場所はアストライアかな。この国よりは信憑性がある」
ウェスはサラが王選定で得る知識を研究に活用する気でいるらしい。
立ったままノートに書き込むウェスを見て、サラは違和感を覚える。
「でも勇者は果実を受け取ったときにはまだ王候補でしょ。王候補はアストライアでは何も食べられないのよ」
「そうなのか? ……ああそうか。王候補はアストライアに顕現されてるだけだから、アストライアの物には触れないのか」
「そうよ。だから私、アストライアのお茶飲み損ねちゃったもの」
アストライア風の服も試せないし、がっかりだ。
サラは割と本気でアストライア観光を満喫し尽くせないことに気を落としていた。
「それは残念だったな。でも一応試してきてくれよ。アストライアのオレンジを食えないかどうか」
それくらいなら吝かではない。
「無理でもがっかりしないでね」
サラは念のため保険をかけた。
ウェスの顔が曇るのは見たくない。
サラの気持ちを慮ってか、ウェスがサラの頭をぐりぐり撫でまわす。
「わかってるって。こういうのはなんだってやってみるのが大事なんだよ」
ささやかなスキンシップにサラの気持ちは向上した。
「わかったわ! 明日報告するわね」
「おう、楽しみだ。じゃあ俺はもう出る時間だから」
サラの頭をにポンと手を乗せて、ウェスは流れるようにソファーの下の鞄を手に取った。冊子を詰め込む手際にも迷いがない。
サラはきょろきょろと室内を見回すと、棚の上の薬を手に取った。
「夜の薬、飲むの忘れないでね。気をつけて行ってらっしゃい」
薬を受け取ると、ウェスはポケットに仕舞い込む。
「ありがとな。じゃ」
片手を上げて颯爽と出て行くウェスは屈託のない笑顔だ。
外から施錠される音と、足早に遠ざかっていく足音を聞いて、サラはため息をついた。
「王になるまで4か月。きっと間に合うよね」
ウェスに渡した薬がどの程度効いてくれるのか、サラにはわからない。
伯爵家かかりつけのお医者様が、さじを投げた後に哀れんだ目をして処方してくれた薬だからだ。
「私は絶対に、絶対に王になるんだから」
たったひとりの家族の運命を天に委ねるなんて、サラにはとても許せなかった。