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野球少年中学編_sidestory新田智和

作者: 神瀬尋行

1970年代。

何の変哲もない野球部補欠の新田君が3人の姉にいじられながらも野球に奮闘するだけの普通の物語です。残念ながら異世界転生などはありません。

本編は「野球少年」というこれまた何の変哲もない普通の世界の物語があり、本作はそのスピンオフです。

どうぞお楽しみください。

第一章 まかせろ!僕に


「僕は負けたくないんだ」

 そう言った時、お父さんは目を見開いて僕の瞳をまざまざとのぞき込んでいた。そのジェスチャーは、一体どういう気持ちの現れだったのだろう。

 それは、そう。中学にあがる時のことだった。


 僕の名前は新田智和。

 泉川中学の1年生で、野球部員だ。


 小学校時代にも野球をやっていて、公式大会で3度の優勝を果たした。僕は外野のレギュラーだったが、3回目の決勝戦で、最後の最後、ベンチにさがった。僕に本当の力があったなら、優勝の瞬間に僕はグランドに立っていたはずだ。

「最後までグランドに立てる本当の力が欲しい」

 僕はあの時、心の底からそう思った。そして、「フルチン先輩」なんてばかもやるけど、何よりも野球が大好きな仲間たちと、もう少し夢が見たかった。

 そもそも僕は、中学から名門私立学校である中島学園に進学し、老舗料亭を中心としていくつかのホテルを経営する父の唯一の跡取り息子として、進むべき道が決まっていた。なのに「みんなと同じ泉川中に行って野球がやりたい」なんて言ったものだから、僕はお父さんに“ぶっとばされた”。そして跡取りとしての道をしつこく言われた。

 僕はお父さんが嫌いな訳ではない。跡取りが嫌なのでもない。でも僕は、あのまま野球をやめたら、自分に負けそうな気がして、それだけはどうしても嫌だった。

僕は言ったんだ。

「家の手伝いだって、修行だって手抜きしないよ。勉強だって頑張るから。だから泉川で野球をやらせて」

 父はかんかんになって怒った。

「そんなにいくつも出来るはずはない。どれもこれも中途半端で終わりだ。野球はあきらめろ」

 そこで冒頭の台詞が僕の口から出たんだ。


 それから、口をきかなくなったお父さんの代わりにお母さんから泉川への進学を許してもらった。

「本当に、全部ちゃんとできるのね?」

「うん。だって谷山君だってあんなに頑張ったんだ。僕にだって出来るよ」


 そんなこんなで一悶着あったが、僕は泉川中に進み、野球部員になった。

 僕らのチームは強い。というか、「強かった」。小学校まではね。

 谷山君っていう絶対的なエースがいるし、春木君は頼れるキャプテンだし、他にも職人さんのようなメンバーが揃っていた。

 しかし、泉川中の野球部って、おそろしく“弱小”だった。僕ら新1年のチームで、しかも谷山君を温存しても、練習試合で先輩たちに勝ってしまった。谷山君は「オンボロ野球部」って言っているし、監督は本当に酒臭い「ただのヨッパライ」だったし。現に、中島中との初めての練習試合では、ボコボコにされそうだった。紙一重で勝てたのは、途中から颯爽と現れた氷山先輩のおかげだったし、それにやっぱり谷山君の一撃のおかげだった。その打球は僕らの希望を乗せて天高く舞い上がり、テニスコートまで飛んで行った。みんなの歓声に応えてガッツポーズして見せた谷山君は最高に格好良かった。僕だって、いつかはあんな風にみんなの期待に応えられる男になりたい。


 さて、家に帰ると僕には3人の姉がいて、板場での修行があって、勉強があって。野球の自主トレはそれからだ。


 順番に説明すると、長姉は高校3年生。おだやかで優しい性格だ。料亭の女将として忙しい母の代わりに僕の面倒を小さい頃から見てくれた。2番目の姉は、たまに僕をいじり倒そうとちょっかい出してくる。高校1年だ。3番目の姉は中学2年でかなり変わっている。というか僕と年子ということもあり、何かと僕に絡んでくる。小さい頃からよくけんかした。でももう中2女子なんだから、下着はちゃんと着けて欲しいな。僕だって中学生になったんだから。

 次に板場の修行はというと、皿洗いと床掃除が僕の役目だ。別に板さんを目指すわけではないが、現場の下っ端を経験し、その厳しさを体感することが目的だ。そうした文脈から、朝は6時起きで庭掃除、トイレ掃除も僕の役目だ。ちなみに料亭と住居は隣接していて、両方とも僕がやっている。それから、たまに朝早く魚市場への買い出しに同行して荷物運びとかもやっている。

 放課後、野球部の練習から帰るのが8時頃。1時間半くらいの修行、夕食、1時間の勉強、30分の野球の自主トレ。内容はランニング1Km。腕立て50回、腹筋50回、素振り50回くらいかな。校内新聞で読んだ谷山君の内容には全然足りないけれども、今の僕にはこれで精一杯だ。毎日くたくたで、およそ6時間眠る。唯一の安息日は試合と練習のない日曜日だ。お母さんが、「勉強も大切だから」って、料亭の修行を免除してくれた。その代わりがふたつあって、ひとつは本当に5時間くらい勉強しないといけないこと。ふたつ目は僕の代わりに庭掃除を命じられた3女の蹴りが飛んでくること。あいつは、いつかシメてやる。


 さて、野球部の話に戻すと、「三日月の誓い事件」があり、「女子マネージャー入部事件」があり、県大会優勝があり、「ご褒美のつもりが急転直下地獄の合宿事件」があった。その合宿で残念ながら僕は“砂浜組”だった。悲鳴と鬼柴田を罵る声が交錯する中、黙々とダッシュしながらグランドへ行けなかった悔しさをかみしめていた。やはり毎日の自主トレ量が足りないのかな。それとも僕の才能や体格が足りないのかな。

 ダッシュ10本を終え、僕は砂浜に仰向けになって寝転んで一休みした。

 砂が汗に吸い付いて気持ち悪かった。

 はあはあと荒い息はおさまりそうもなかった。

 薄目をあけてぼんやりと空を見上げた。


 やっぱりお父さんの言うとおり中途半端にしかならないのかな。

 谷山君みたいなモンスターにはなれないのかな。

 そう言えば、谷山君はピンチの時よくこうやって空を見上げていたけれど、そんな時って何を考えていたんだろう。今の僕とはだいぶ違うことを思っていたのだろうな。とにかく、何もかも、何かどうでもよくなりそうだった。

 僕は、自分に負けそうになっていた。

 そんな時、彼女は唐突に現れた。そして僕の顔をのぞき込んで声をかけてきた。


「童顔くん」


 って、誰?

 僕のこと?

 そんな呼ばれ方したのは初めてだ。あ、ちょっと待て。そう言えばさっき柴田先生にそう呼ばれたか。


「ごめんね。名前知らないから」


 僕は腹立たしさを通り越して吹き出した。

「ひどいなあ。もう。それって僕はお子様のうえに名前も知らない雑魚って言われているのと一緒だよ?」

「そういうことじゃない」

 新聞部期待の新星という触れ込みの田原さんは表情も変えずにそう言った。彼女は何故か野球部の合宿に密着取材していた。どことなく変わった人だという噂は聞いているが、僕は奇天烈な女先生も、姉たちも知っているから、特別な印象は持っていない。

「で?どうしたの?1軍の取材はいいの?」

「1軍?」

「ああ。グランド組だよ。スターも多いし、あっちの方が記事になるでしょう」

「興味がない」

「記者がそれでいいの?より多くの読者のための記事が大切じゃないの?」

「興味がなければ核心はつけない」

 さっきから顔色ひとつ変えない田原さんに興味を覚えた。僕にとっては新種の奇天烈女だ。

「で?僕に何を聞きたいの?」

「あなたの夢」

「はぁ!?」

 いきなり何を言い出すのだろう。そんな余裕なんてないけど。夢なんて、見る暇ないよ。

「何?」

 何って言われても。

 考え込む僕に田原さんは畳みかけるように言った。

「あなたは、東原ではレギュラーだった。三日月の誓いの時、中島1軍の偵察をして、ノートにまとめた。今ではスコアブックもつけているし、相手選手の癖も細かくチェックしている。そんな選手は他にいない。何を目指してそうしているのか、私には興味がある」

「そうだね・・・」

 そう言えば、何故だろう。東原時代ならスコアブックは田村君がつけていたし、誰からも頼まれた訳ではない。

 頭をフル回転させてひとつの答えを絞り出せた。

「負けたくない、からかな」

 田原さんは黙って聞いているし、僕は次の言葉をつむぎだした。

「そう。僕は負けたくないんだよ。試合にも、自分にもね」

「負けたくない」

「うん。そうだよ。僕は負けたくないからやっているんだと思うよ」

 では何故負けたくないのか?適当に過ごしている人も大勢いるのに。田原さんの次の質問はそんな感じだったと思う。でも、それ以上の答えを、少なくともその時点の僕は持っていなかった。ただ、負けたくないという言葉だけがそこにあった。

 僕は、負けない。

 だから、合宿3日目の紅白戦前に1軍の松崎君が「ボコられても泣くなよ」って言った時、「意外性も野球だよ」って答えてやった。

 結局その試合も、谷山君のワンマンショーだった。

 やっぱり、谷山君は新聞部の阿部先輩が言うとおり、まさにモンスターだ。一体どうやれば、あんなにできるんだろう。彼は勉強だって学年500人中の39位なんだ。天賦の才能って、確かにあるんだな。しかし、僕は、凡人なりの方法を知っていた。それは地味かも知れないが、焦らず騒がず、できることをひとつひとつ積み重ねること。小学校時代の鬼監督の教えだ。おかげで東原時代にレギュラーになれたんだ。僕はそのスタンスを変えるつもりはない。確かにうさぎのような谷山君に対して亀のような歩みかもしれない。

 でも、だからどうした。

 僕は僕の道の途中で逃げ出さなければそれでいいと改めて感じた合宿だった。それに気づいただけでも、お父さんに合宿をさせてもらうため、いろいろと頑張った甲斐があったというものだ。


 で、満足して家に帰った僕を待っていたのは、合宿中ずっと庭掃除をやらされていた3女の跳び蹴りだった。

 そんなへなちょこ跳び蹴りなんて、野球少年の僕に命中するはずはないのだが、今回はやられておこう。


 新学期が始まり、僕ら野球部の驚きというか、みんなには喜びだったらしいのだが、何と社会の小島先生が野球部副部長になった。先生は若くて優しい女性だったが、女性の実態なんて家でさんざんわかっている僕には全く興味がなく、それよりも僕らを高次元で指導してくれる柴田先生の動向が気になった。みんなで頼み込むほど、監督になって欲しかった。それで思わず「柴田先生は?」って聞いたら、先輩たちから口をふさがれ手足を押さえられ、要はたちどころに取り押さえられた。

 何で?そこまで?

 ひどいなあ、もう。


 さて、もうひとつの、そしてこれが僕にとっては本当の驚きだ。

 来年の新チーム構想で、僕は捕手に選ばれた。

「お前は賢いし努力家だからな」

 というキャプテンの言葉は何よりの励ましだった。

 “努力家”

 という言葉は僕の心をほころばす何よりの褒め言葉だ。素直に「よし、やるぞ」って気持ちになれた。正捕手には春木君がいるからレギュラーは無理だろう。でも、与えられた環境で最大限の努力をするなら、僕は多分後悔しない。そう。レギュラーなのが問題ではない。自分に負けないことが大切なんだ。


 それから。

 僕は夜の自主トレで、シャドウピッチングならぬ、シャドウキャッチングを増やした。それに、1kmランニングの半分をうさぎ跳びに変えた。寝る前には、スコアブックを眺めながら、この時こうすればとか、ああすればとか、いくつもの選択肢をシミュレーションした。

体はぼろぼろにきついけど、心の張りは萎えなかった。


「勝つことに貪欲な人は多いけど、負けないことに貪欲な人は珍しい。その線引きはどこにあるの?」


 ある時、田原さんはそう質問した。

 僕は答えなんて準備していなかった。

 生まれ持った僕の地味な性格によるものなのかもしれないな。

 でも、こうは考えられないだろうか。

 勝つこと=攻撃。

 負けないこと=守備。

 とにかく弱点を打ち消し守りきることで1点も与えないなら、勝てる確率はあがる。どんな攻撃も跳ね返す壁が高ければ高いほど相手の攻撃意欲は減る。誰しもが谷山君のような飛び道具ではない。でも、誰だって逃げなければ壁にはなれる。その壁をどれだけ高くできるのかが、普通の人である僕の道なんだ。そうすることで、チームに貢献できるんだ。そのことに気づいた夜。僕はすっかり自説に興奮して布団から飛び起きた。田原さんに電話で知らせようかと思ったが、さすがに真夜中だったので思いとどまった。

「その線引きは?」

 そう聞かれたら、次はこう答えよう。

「凡人ができる最善のことなんだ」ってね。


 それから、中島中との練習試合があり、その1週間後に秋の大会が始まった。思いがけず、先発を命じられたのは1回戦の終了後だった。吉岡君と僕のバッテリーだ。驚きよりも、喜びよりも、どちらかというと狐にでもつままれたような気分だった。

「僕でいいのかな?」

 ちらっとそんな気もした。1回戦で本田先輩と佐伯先輩があんなにやらかした後だけに、谷山君か、せめて吉岡君と春木君でしめた方がいいんじゃないかな。でも時間は待ってくれない。ダブルヘッダーだから、あと2時間だ。

 昼休み。弁当を持ってきてくれた2女に先発のことを話すと、あわてて電話ボックスに走り、家に電話をかけていた。

「どうしよう、お父さん。智ちゃんがキャッチャーで先発なんだって」

 2女も一緒になって慌てていた。

 そんなこんなで浮ついたまま試合が始まり、僕は試合開始の整列時、初めてプロテクターをつけて並んだ。やはり、慣れないからか、落ち着かない。そして後攻の僕らは守備につく。

 ええと、やることは・・・

 頭が真っ白なのに、僕は不思議と当たり前のように、マウンドの吉岡君の所へ行って、相手チームについて僕が知っている範囲の情報を伝え、そして言った。

「大丈夫だよ、あいつらなんて吉岡君の敵じゃないから」

 その後ポジションに戻り投球練習の球を受けながら佐伯先輩がやっていたように「よし!」とか「ナイスピー!」とか、とにかく声を張り上げた。最後の7球目の前、「セカン!いくぞ!」って声をかけた。松崎君が2塁上で、にやにやしながらグラブを掲げて「おー!」って答えているのが見えた。

 吉岡君が7球目を投げた。

 僕は捕球すると、素早くボールを右手に持ち替え、頭の後ろに構え、押し出すように素早く振り抜いて送球した。春木君が受けた指導は、吉永さんと一緒にやったメモの清書のおかげで僕の頭にも入っている。

 さて送球は。

 ちょっとコースが外れたけれど、軽やかなステップで松崎君が捕球し、タッチプレイの練習をして、ショートの田中君にトスした。田中君は1塁神崎先輩へ送球。神崎先輩はサードの山村君へ、山村君はセカンド松崎君へ、松崎君はまた田中くんへ。田中君は再び1塁神崎先輩へ。そして神崎先輩は、ボールを持って吉岡君へ歩み寄った。2〜3言言葉を交わして先輩は定位置に戻った。それを見届けて僕はみんなに声をかけた。

「しまっていこう!」

 みんなもいつものように声を合わせた。

「お〜し!」

 よし。僕のキャッチャーデビュー、先ずは上々の滑り出しだ。

 何かうわついた気分だったけれど、日頃から頭の中で段取りを整理していたおかげで体は動いてくれたようだ。


 さて、僕のリードの違い。

 主に春木君との比較だけれど、あまり慎重ではないと言える。春木君はよほどの時以外は勝負を急がず丁寧に組立てて打たせてとる方法だが、僕は裏の裏をかいて、例えば、外、内、外ではなく、内、内、内と攻める。もうそろそろ外だろうと思わせて内で討ち取る。なるべく効率よく行くには、その方がいいかもって、頭の中で何度もシミュレーションした結果だ。藤井君の時代から丁寧に組立て、のらりくらりに慣れている谷山君なら驚くかもしれないけれど、そういう背景のない吉岡君には意外と合っていて、3回まではそれがぴたりとはまった。


「二廻り目はちょっとあぶないかも知れないぜ」

 4回裏。

 ベンチで一休みしていた僕に松崎君がそう話しかけてきた。もちろん、僕のリード、配球のことだ。

「そうかな」

「攻めが単調になりすぎる」

 僕はちょっと考えた。でもすぐに否定した。

「いや、吉岡君は谷山君とは違うんだ。球数を増やして体力をすり減らすより、勢いのまま勝負した方がいいと思うよ」

「そうかな、見てるこっちがひやひやするぜ」

「吉岡君の球は、今日の相手程度なら絶対勝てるさ。だからおいしいところを引き出して勝負するんだ。確かに今までのスタイルとは違うけどね」

「その、おいしいところは最後までもつと思うのか?」

「ああ、そうだよ。そのつもりで球数を考えながらやっているから」

 松崎君はにこっと笑った。

「お前も言うようになったな。わかった。じゃあ任せるから、しっかりな」

「うん、任せてよ。僕に」


 僕は、谷山君と吉岡君の違いをわかっているつもりだ。谷山君は数々の修羅場をくぐり抜けて来た分、度胸も据わっているし、のらりくらりのような球の出し入れにも慣れているから体力も続く。要は常に安定している。でも、弱小野球部にいた吉岡君は経験もなく体力も続かない。ハイレベルな駆け引きを要求するより、吉岡君のトップギアを引き出して維持することが大切なんだ。そしてそれは中島や北峰のような一流以外なら十分通用する。逆に「のらりくらり」を強要すると、吉岡君自身が窮屈に感じてどんどん萎縮していくだろう。つまり、その人なりの持ち味を引き出すことが大切なんだ。僕は補欠だし、砂浜組だし、決して一流選手とは言えないかも知れないけれど、研究することはできるし、みんなと一緒にハイレベルの戦いを目の当たりにしてきたのだから、そこのところの呼吸はわかる。その感性が僕の持ち味であって、理詰めの春木君との違いだ。意外だが、僕にとってキャッチャーというポジションは、自己表現できる場なのかも知れない。


「ゲームセット!」


 その声を聞いたとき、僕は喜びどころか、緊張の糸が切れて腰が抜けそうだった。いろいろ偉そうなこと言ったけれど、それらは実は後付けであってその時の僕はそこまで整理して考えていたわけではなかった。無我夢中のその先に勝利をつかんだとき、責任を果たせてほっとした。


「よくやったな」


 谷山君が整列後にそう言ってくれた。

 じわじわと嬉しさがこみ上げてきた。

 何とかやり遂げたことへの満足感で満たされてきた。でも、反省点もあった。確かに相手の中心選手には、単純な攻めだけでは通用しなかった。相手の様子を観察して、考えを読み、メリハリをつけるべきなんだ。例えば、僕らのチームでは、内角狙いの時わざと足を踏み出して外角狙いのように見せかけることがある。それが、嘘か本当か、相手の力量を見極めた上で対処すべきなんだ。難しいけど、状況から来る相手の心理状態からわからないでもないから、きっとできるはずだ。僕だってハイレベルな戦いの修羅場をくぐった一人なんだから。よし、これからそんなことも観察の対象に加えていこう。


 試合後、学校で解散となり、僕はランニングしながら家に帰った。もうずいぶんと日の入りが早くあたりは真っ暗だった。

 外灯のともる玄関の引き戸を引いて中に入った僕を待っていたのは、3女の跳び蹴りだった。

「ああ、休みの日だから、またか」

 そう思ってかわすと、今度はヘッドロックされた。

 あれ?何?いつもと違うよ?

「智チン、ちょっと来なさい!」

 3女はヘッドロックしたまま僕を居間に引っ張っていった。

 ちなみに僕は長女からは「智くん」、2女からは「智ちゃん」、3女からは「智チン」と呼ばれている。チンの由来は、姉弟の中で僕だけ変なものが付いているからだそうだ。

さて、ヘッドロックされたまま居間にひきずられていくと、そこには、クリスマスのような賑やかな飾りがあって、そして家族全員が揃ってクラッカーを鳴らした。

「え?何?」

 事情が飲み込めない僕に、半年ぶりの笑顔を見せるお父さんが言った。

「キャッチャーデビューおめでとう!」

 はぁ?たかがそんなことが、こんなことになるの?

「キャッチャーといえば、扇の要だ!チームの差配を任される大役だ!おまえたちのような強いチームにあって、そんな大役をたじろぎもせず無事つとめあげたことがワシはうれしい!」

 そう言ってお父さんは昔のように豪快に笑った。

「智くん、奈央(2女のこと)から聞いたよ。よく頑張ったね。おめでとう」

 長女がそう言った。3姉妹の中では一番の美人だ。それに優しい。

「智ちゃん、かっこ良かったよ。私、本当は谷山君のファンだから時々試合にも行ったけど、今日の智ちゃんは堂々としていてまぶしかったよ」

 え?そうなの?奈央姉ちゃんは谷山君のファンだったの?それで時々応援に来てくれていたんだ。まあ、確かに谷山君は実力もあるし、二枚目だし、勉強もできるし、背も高いし、無理もないなあ。

「おまえは、やっぱり出来る子なんだねぇ」

 お母さんがそう言った。

 うれしいけど、ちょっとこそばいな。こんなに褒めてもらえるなんて。

 家族揃って久々に笑顔いっぱいの夕食だった。

 お父さんも昔のように豪快に笑ってくれたし、今日はお姉ちゃんたちも明るい。お母さんもだ。僕がちょっぴり頑張っただけでこんなに喜んでもらえるなんて思わなかったし、僕もちょっとだけうれしいな。

 やがて真っ赤になって酔っ払ったお父さんが言った。

「まあ、あれだ。お前が言うように来年から軟式も全国大会が始まるそうだ。父さんも知り合いの関係者に聞いてみたが間違いないようだ。そうすると連戦になるから、控えの選手とはいえ、お前も活躍しなければならない。大舞台で自分がどこまでいけるか試してこい。そしておまえたちみんなで日本一を目指せ!」


「日本一って」


 はるかな先、おぼろげに見える光のような気がした。

 そうなんだ。僕らの常勝伝説は日本一になって完結するのだろう。

 ちょっと、こわい?

 僕はかぶりを振った。

 いや、僕たちならこわくない。

 谷山君も、春木君も、それに氷山先輩だっている。

 彼らのようなモンスターが活躍できるよう、僕が支えればいいんだ。情報を集めたり、観察したり、時にはマスクをかぶったり。

 谷山君じゃないけれど、


「まかせろ!僕に」



第二章 日々のできごと


 その後のことは、みんなも知っていると思う。

 そう。“氷山事件”のことだ。

 あの時ほど苦しいことはなかった。

 みんなが後ろ向きになりつつあり、仲違いもあり、春木君だってキャプテンだってまっとうな判断力が低下していた。


 僕も心が重くてしゃがみこみたいくらいだったけれど、それでも僕はある程度情報を持っていたから踏みとどまれた。

 僕の情報集めは敵チームだけじゃない。味方の情報も集めていた。走攻守の分析はもちろん、めいめいの家庭環境にいたるまである程度は知っていた。もちろん、氷山先輩もだ。あの時の真相は、氷山先輩に見向きもしてもらえない不良の女の子が、腹いせに不良仲間を使って氷山先輩に暴行したものなんだ。もちろん、その当時そこまで正確につかんでいたわけではなかったけれど、怒ると何するかわからない女の子が氷山先輩に妙にからんでいるという噂は知っていた。だから先生たちが「氷山は被害者だ」というのにもある程度納得できたし、細かくは言えなかったが「何か訳があるんだ」という言いまわしでみんなにも話した。

 でも、もうこれ以上あの時のことは思い出したくない。

 とにかく、決勝戦を戦えることになって、みんなも再結束できて、満身創痍の谷山君が15回を投げ抜いて優勝をもぎとってくれたんだ。

 そして、田原さんの新聞デビュー。

 仲間の絆をテーマに、僕らボトムの選手たちにもあたたかな視線が向けられていた。

 それにしても田原さんは、普段はぶっきらぼうで冷たい印象だけれど、その文章は饒舌であたたかい。不思議な人だな。


 秋の大会後、ちょっとだけ野球部はお休みだった。

 とある昼休み。

 僕はクラスメイトでもある長尾君と好きな洋楽の話で盛り上がった。

 僕は姉たちの影響で小学校の頃から洋楽を聴いていたし、長尾君はお兄さんの影響でギターをやっていて、とある外人ギタリストのテクニックに心酔しているようだった。ちょっとしたきっかけでそのギタリストがいるバンドの話となって、僕が「それなら全部のアルバムが家にあるよ」って言うと、長尾君が目を輝かせていたので、ちょうど野球部がお休みの今、家に聴きにおいでって誘ったんだ。僕の修行もたまたまお休みだったし。


 長尾君を連れて家に帰ると、庭掃除に逆上した3女の跳び蹴りが炸裂するかと思いきや、普通に庭掃除をしている最中だったので、無事にやり過ごせた。そうか。野球部がお休みなので、まだそんな時間なんだ。

「こんにちは」

 ほうきを持ったまま、3女は笑顔でそうあいさつしていた。長尾君も普通にあいさつを返していたが、3女の瞳の奥に跳び蹴りできなかった悔しさが滲んでいたのを見逃さなかったのは、どうやら僕だけらしい。だって長尾君は「かわいいお姉さんだな」って上機嫌だったから。


「いいのかよ」

 長尾君がそう聞いたのは、僕が2女の部屋に勝手に入ろうとした時だった。

「別にかまわないけど」

 長尾君は鼻の下を伸ばしてニヤついていた。

「噂には聞いていたけど、お前には本当に3人も姉ちゃんがいるんだな」

「うん」

「うん、ってうらやましいな」

「そうかな、うるさいだけだよ」

「でも、俺には兄ちゃんしかいないからな」

「まあ、いいけど。ちょっと奈央姉ちゃんのレコード持ってくるから気になるならここで待っててよ」

「いや、一緒に入る」

 急に真顔になった長尾君は、僕と一緒に2女の部屋に入った。僕がレコードを物色している間、長尾君は辺りを見回して落ち着かないようだった。

「あったよ、これと、これと、これでいい?」

「あ、あ、うん。まあ、それで」

 何やらもじもじしている。

「どうしたのさ?」

「いや、俺はじめて女の人の部屋に入った」

「はあ?」

「何かいいにおいしないか?それにぬいぐるみとか、かわいいよな」

「はあ?」

「男のアイドルのポスターとか貼ってあるし、いかにもって感じだよな。あ?」

「どうしたの?」

「これって谷山の写真?」

 机の上に飾ってあった写真を見ると、確かにそれは谷山君のピッチングの時の写真だった。

「あ、本当だ」

「何で?」

「さあ」

「谷山ファンクラブの一員?」

「さあ。違うと思うけど」

「いいよな、谷山は。今じゃ氷山先輩と人気を二分しているもんな」

「そうだね」

「あ、そうそう。知っているか?最近谷山の奴、高浜とうまくいってないようだぜ」

 それは、ちょっとだけ僕も知っていた。でも、そんな話はしたくなかったからわざと鈍い反応をした。

「ふ〜ん」

「何でも、高浜がバスケ部の先輩といい感じになって、AやらBやらそんな話だぜ」

「そこまでは知らないよ」

「情報通のお前でもか。まあ、高浜もかわいいし、先輩だってほおっておかないだろうな」

「いいじゃないか、そんな話」

「そうだな。まあどっちでも関係ないか」

 そう言って長尾君は笑っていたけど、どうだろう。ピッチングに影響なければいいけど。もともと谷山君は気分屋さんだから。


 それからしばらく僕らは居間でレコードに聞き入り、洋楽談義に花を咲かせた。そして長尾君が帰ろうと玄関まで来たとき、ちょうど長女と2女が帰ってきた。

「あら、お友達?」

 長女の問いに長尾君はまた鼻の下を伸ばしていた。

「はい。おねえさま!」

 って、何?長尾君ってこんなキャラクターだったの?

 2女は困惑の笑みを浮かべながら自室へ向かった。

 長女はさすがに年長さんだけあって動じない。

「野球部の?」

「はい!」

「小学校から?」

「いえ!中学からです」

「そう。泉川って強いね」

「はい!氷山先輩と谷山がいます。あたりまえです!」

「うちの弟はどう?君の目から見て」

「月とスッポンです!」

 穏やかながら、落胆の色が長女の表情に浮かんだ。

 まあ、そうだよね。あの二人と比べれば・・・

「新田の情報にはいつも助けられています!それに、今一番前向きなのが新田です。氷山事件の時もそうでした。月のような輝きはありませんが、一番貪欲で、どう猛なという意味でスッポンなんです!一流には必要な条件です!」

 僕は改めて長尾君を見直した。そんなうまいことが言える人だったんだ。本気?それとも点数稼ぎ?

「君、うまいこと言うわね。話半分としてもうれしいわ。また遊びにいらっしゃい」

「はい!おねえさま!」

 長尾君は最敬礼していた。


 彼の意外な一面を見た気がする。ひょっとすると、上田君以上のお調子者かもしれない。


 長尾君が帰ったあと、僕は2女にしばかれた。

「また勝手に部屋に入ったでしょう!レコードも勝手に使わない!何度言えばわかる?いいかげんにしてよ」

 僕はちょっとからかうつもりで言ってやった。

「大丈夫だよ。谷山君の写真なんて見ていないから」

「あー!」

 2女は真っ赤になった。

 いい気味だ。いつもいつもいじられてたまるか。って、今回は僕が悪いのか。けどまあいいや。

「あんたねぇ。たまには谷山君を連れてきなさい!あんな変な子じゃなく」

 わー、2女の逆切れだ。開き直りだ。長尾君残念。2女からは変な子扱いだ。


 それから。

 枯れ葉が舞い散る季節を越えて、底冷えのする木枯らしの到来とともに、谷山君と高浜さんの仲も一段と冷え切っていったようだ。

 僕の情報ソースは幅広い。日頃からこまめにコミュニケーションをとることで意識的にそうしたネットワークを張り巡らせている。みんな僕にはあまり警戒していないようで、何でも気楽に話してくれる。それには僕の童顔も一役かっているんだろうな。さて、谷山君と高浜さんの話は、複数のソースから出ていたので間違いないだろう。谷山君自身も何か浮ついたようなそんな感じだった。プロ野球でいうところのストーブリーグのこの季節だからいいけれど、シーズン中だったらやっぱりまずいな。あ〜、でもそんな風に野球中心の考え方しかできないなんて僕はおかしくなちゃったのかな。谷山君も高浜さんも友人なんだから、本当はもっと二人の心配をしなくちゃならない。ちょっと自己嫌悪。それじゃあどうしよう。はげましたりするべきなのかな。それともそっとしておくべきなのかな。う〜ん。あ、そうか。2女の言うとおりたまにはうちに誘ってみよう。それで谷山君の思いのたけを聞いてやればどうだろう。そうすれば情報も得られるし、谷山君もすっきりするんじゃないかな。と、僕は純粋に考え、野球のため、友人のため、一肌脱ぐ気になった。僕は名案だと思い、ニンマリしたものの、でもそれが3姉妹を巻き込んだドタバタ劇になるなんて、そこまでは思いつかなかった。


 翌日の朝はめっきり寒く、ところどころに霜が立っていた。それをいちいち踏みつぶして歩くと、ザクリザクリと小気味よい音をたてた。

 学校まであと1キロくらいのところで、白石君に出会った。白石君が先に行っていたので、普通なら追いつくことはなさそうだが、今日の白石君は、とてもゆっくりで、よく見ると顔色がおかしい。

「おはよう」

 そう声をかけても、何か心ここにあらずと言った感じで

「ああ。新田か」

 と言っただけだった。

 僕は白石君の歩く速度に合わせて歩きつつ、訳を聞いてみた。

「じいちゃんが、もうダメらしい」

「じいちゃんって?」

「母方のじいちゃんなんだ」

 母方って言うと、僕の情報ではお父さんが亡くなったあと、物心両面で支えになってくれていた人だから、確かにそれはつらい話だ。

「大丈夫かい?」

「あ、俺のこと?」

「うん」

「まあ、どうかな。でも歳も歳だから。覚悟はしておかないと」

 白石君は遠くを見る目で、そしてうつむいて自分に言い聞かせるようにそう言った。

 白石君って、別れの多い星の下に生まれてきた人だなって、その時ふとそういう気がした。お父さんといい、おじいちゃんといい、僕なんかまだ誰とも死に別れの経験はない。

「あのさ、白石君。何か力になれることがあれば言ってよ。遠慮しなくていいからさ」

「ああ。悪いな。朝からこんな話で」

「そんなこと、ないから」

「お前ってさ、何かいいやつだな」

「はぁ?」

 僕はよほどすっとんきょうな声を出したのだろう。白石君がくすっと笑った。

 そんな感じで僕らがのんびり歩いていると、後ろから「おはよー」と言いながら吉永さんが駆け寄ってきた。

「今日はめっきり寒いね」

 そういう吉永さんに、白石君はぷいっとそっぽを向くように「そうだな」とつぶやいた。その仕草はどことなく照れているようにも見え、白石君は吉永さんに気があるって噂の信憑性を高めていた。

「あのね、二人とも知ってる?」

「何を?」

「北峰中から練習試合の申し込みがあったんだよ」

 情報通を自負する僕ですら初耳だった。

「珍しいね。北峰なんて。どうしてかな」

 僕の疑問に、そっぽを向いたままの白石君が答えた。

「向こうはナンバーワンピッチャーが抜けたからな。新しいエースの腕試しをしたいんだろう」

 推測とはいえ、ありえる話だと思った。

「そうかもね。じゃあ、新しいエースって誰だろう」

「お前でも知らないのか」

「ごめんね。そこまでは手が回っていないんだ」

「どっちみちたいしたことはないだろう。県大会の時、エースが抜けてボコられたから」

「そうだね。でもそんな状態でわざわざ腕試しするかな。あ!」

「あ!」

 声を合わせて「あ!」と叫んだ僕らに吉永さんはびっくりしたかのようにその訳を聞いてきた。

「どうしたの?二人とも」

「新田、お前もそう思うか?」

「うん。きっとそうだよ」

「だから、どうしたのよう」

「ニヤついた男だ」

「誰なの?それ」

「浦上君だよ。センターの。彼は小学校ではエースだったんだ」

「ふ〜ん。で、凄いの?」

「川上って憶えている?中島の小学生の」

「うん。谷山君とわたりあえるって、あの子でしょう?」

「うん。多分彼と同じくらいだよ」

「結構すごいんだ」

「まあね」

「どっちみちぶっつぶすしかねぇな。通過点なんだからよ」

「そうだね」

「球種に球筋は分かっている。あとはスイングスピードだな」

「どうだろうね。彼の成長は。谷山君だって、吉岡君だって成長しているし」

「ああ。この1年、俺たちをつぶすことだけ考えてやってきたはずだしな」

「まず、速さとキレはあがっているだろうね」

「やっぱスィングか。体幹を鍛えないとな」

「地道な努力しかないね」

「ああ」

「ねぇ、二人とも」

「何?吉永さん」

 吉永さんは、こぼれるような笑顔で言った。

「がんばれ」

 白石君は「何だろう」といった感じで吉永さんをのぞき込んでいたが、その言葉を聞いて顔を赤らめてそっぽを向いた。そして先を急ぐように早足となり、「たりめぇーだ」と自分に言い聞かせるようにつぶやいていた。


第三章 谷山君


 さて、その日の放課後。

 僕は練習に出るか、北峰の偵察に行くか迷っていた。どっちも大切なミッションだ。練習に出ないと谷山君をさりげなく誘いにくいし、練習試合は次の週だし。う〜ん。よし!先ずは偵察だ。谷山君の問題は、気にはなるけれど急ぐ話ではない。そう思ってクラスメイトでもある白石君に偵察に行くから部活休むって伝言したところ、「今日は休みが多いな」って不思議そうな顔をされた。

「他にもいるの?」

「ああ。谷山も、山村もだ」

 え?それってイイ男コンビ?何か不思議だ。

「今日は女生徒のギャラリーが来ないなって、長尾が苦笑いしていたよ」

「どうしたんだろうね、二人とも」

「さぁ、ただ二人とも彼女とうまくいってないって話だ」

「そうなんだ」

 そう言ったのは僕ではない。

 吉永さんだ。クラスメイトとはいえ、再びいきなり現れた。その表情には微笑みが浮かんでいたから、吉永さんは谷山君か山村君のどっちかが好きなんだろうというところまで読み取った。で?どっちなのかな?

 吉永さんは長いさらさらの黒髪をかきあげながら言った。

「でも、部活を休むほどなんて、ちょっと気になるよね」

 白石君は吉永さんの顔を見ず答えた。

「さあね。もう子どもじゃないし、ほっときゃいいんだよ」

「そうかな」

 吉永さんはちょっとふくれた。

 で、どっち?

「私はね、胸に大きな穴があいたような気がしたし、心が重くて何も食べられなかったし、何もしたくなかったよ」

 だから、どっちのこと?あの二人はどっちも彼女がいるから、それを知った時のこと?それとも僕の知らない小学時代?

 白石君は、帰り支度をしながら吉永さんの話を黙って聞いていたが、やがて荷物の整理も終わり、雑嚢カバンを肩にかけながら言った。

「どのみち俺らがどうこうできる話じゃねぇよ。じゃあな、部活行ってるから」

「そんな、親友でしょう?」

 ワカッタ!谷山君だ!

「あ?何笑っているんだ?新田」

 え?そう?わかったことがうれしくてつい笑顔になっていたのか。

「あのな、吉永。まだ何も聞いていないし、他人は踏み込まない方がいいことだってあるんだ」

 白石君はそう言って教室を出て行った。

 その後ろ姿を見送る吉永さんは、どんな気持ちだったのだろう。日頃からそうやってどんなささいなことでも読み取る訓練をしている僕でも、よく分からなかった。そんなあまりに微妙な空気が漂っていた。


 ともあれ、谷山君がいないのだから、僕は心置きなく北峰中に向かった。電車に乗って、バスを乗り継いで。中島へのルートはすっかり馴染んでいたが、北峰ルートは初めてで、行き先表示とにらめっこしながらの小旅行だ。バスの本数がなかったり、1系統間違えたり。結構遠いな北峰は。もうあんまり来たくない。

 ようやく着いた頃には、もうだいぶ日も傾き、オレンジ色の光が長い陰をつくっていた。金属バットの甲高い音、気合いを入れる声。それらはやはりどの学校でも変わらない。北峰中はふつうの市立中だから中島ほどガードが固くなく、制服も泉川と同じ黒の詰め襟なので、僕は素知らぬ顔をして校内に入った。ただ、野球部員に見つかると話がややこしくなるかも知れないので、なるべく死角づたいにブルペンに近寄った。思えば初めて投手としての浦上君と対戦した時、僕はまだまだスキルも度胸もなくて、舞い上がっていただけのような気がする。あの頃から谷山君や白石君は今と変わらず落ち着いていたし、僕らをひっぱってくれるエンジンだった。僕も早くエンジンにならなきゃ。こんなスパイみたいなことも平気でやれるようになってきたし、もうちょっとかなあ。まあ、それより今は浦上君だ。

 彼は案の定投手としてブルペンで投げ込みしていた。

 相変わらずニヤついているが、それは生来の顔つきであって、その奥にある気迫は離れたところからでも分かった。

 しばらく何の違和感なく眺めていたが、違和感のない中での違和感というか、何かもぞもぞするような、そんなおかしな感じがした。彼は一流の投手と言っていい。谷山君とも遜色ない。でもどこかが、何かがおかしい。それを自分にうまく説明できずにもどかしさを憶える。よし。ひとつひとつ分解してみよう。振りかぶった。うん、おかしくない。テイクバック。これもおかしくない。踏み込み。これもだ。腕の振り。う〜ん。どこだろう。何か谷山君を見慣れているせいか、一流同士だし、どこもおかしくないのに。

 あ。

 そうか!わかった。それは谷山君の幻なんだ。彼らしくない。

 僕の記憶では、彼は長身をいかして投げ下ろすようなスタイルだったのに、今はしっかり下半身を使って体重を乗せている。それは、谷山君のフォームだ。そいういことか。以前のフォームは悪くいうと手投げみたいなものだった。だから低めにもこなかったし、球質が軽かった。それが今はしっかり谷山君を研究しているようで、体重がうまく乗っている。これは、彼の弱点であった球質の軽さを克服したと言うことかも知れない。もともと体つきはいい方だし。あのしっかりしたお尻から想像するに、そうとう走り込んでいる。もともと才能だけで、いけいけの野球をやっているような連中だったが、今や真正面からひとつひとつ積み重ねているんだ。


 帰りのバス内は、こうこうと灯りがともり、外はもう薄暗かった。行き交う車のヘッドライトの光が時折僕の顔を照らしていた。

 僕は座席に腰をおろし、メモ帳にペンを走らせていた。

 忘れないうちに書き留めておかなきゃ。


 球質=重くなっている。

 球種=カーブ、シュート、キレのいいストレート。

 球速=速くなっている。おそらく100k超。

 制球=やや悪い。

 弱点=変化球の時、腕の振りが遅くなる癖あり。リリースに気を遣いすぎの印象。直球の時、低めに決まる球は少ない。いまだにやや高めが多く、狙うならその直球。低めに決まったら仕方ないとあきらめる。ちなみに「よっシャー」の雄叫びは健在。回数が増えたら調子に乗ってきた証拠かな?


 うん。いいぞ。

 これだけ分かれば、まあなんとかなるだろう。彼は成長しているが、弱点も多い。ほぼ完成されている右の谷山君にはまだまだ及ばない。


「勝てる」

 僕は自信をもってそう言えると思った。わざわざ偵察に来た甲斐があった。

 でも。

 楽には勝てない相手であることも確かだ。

 仮にあのナンバーワン投手にいろいろ教わったにせよ、それをあのレベルでモノにできるあたり、やはりただものではない。

「やっぱり才能なのかな」

 バスを追い越していく車のテールランプを見つめながら僕はそう思い、大きなため息をついた。


 それから数日後。

 土曜日の夕方に、ようやく谷山君を家に連れてくることができた。

 その日は来週日曜が練習試合になったから、振替で今週末の部活が休みになった。

 どうやって誘おうかと頭を悩ましていた僕は、言うに事欠いて「勉強教えて!」って言ってしまった。

 案の定、谷山君は不思議そうな顔をしていた。

 僕は必死で言葉をつないだ。

「今日明日は練習がないから、しっかり勉強しないと怒られるんだ。うちのお父さん怒ると恐いって知っているだろう?」

 谷山君は笑っていた。

「頼むよ。どうしても分からないことがあって」

 僕は不自然なほど懸命だった。

「いいよ。俺でわかる範囲なら」

 そんな感じだった。

 さて、家についた時、3女がもうすっかり観念したかのように庭掃除をしていた。

「ただいま」

 僕がそう言ってもこっちすら見ずに「おかえり」とだけ言っていた。

「おじゃまします」

 そう谷山君が言った時、はたと顔を上げてこっちを見た。

「谷山君?」

 そう言われた谷山君が困惑するのは仕方がない。彼は確かに小学生の頃、野球部の宴会でお店の方には何度か来たけど、まさか名前を知っているなんて夢にも思わなかっただろう。


 その夢にも思わなかった一言が、ドタバタ劇の幕開けだった。


「きゃー!」

 幕開けには、わかりやすい悲鳴がこだまする中、3女は脱兎のごとく家の中に飛び込んだ。

 でも何で?3女もファンだったのか?

 確かに姉さんたちはよく試合を見に来てくれる。もちろん、マウンドに仁王立ちする谷山君は僕が見ても格好いい。

「奈央姉ちゃ〜ん、谷山くんだよー!」

 僕も谷山君も、ただぽかんとしていた。

「僕の姉さんたちは、どうも谷山君のファンクラブみたいだね。でも気にしないで。多少うるさいかもしれないけど」

 僕が苦笑いしながらそう言うと谷山君も苦笑いしてうなづいた。

 とにかく玄関に案内していると、今度は2女が飛び出してきて、谷山君と鉢合わせになった。

「谷山です。こんにちは」

 谷山君がそう言ってさわやかに(と2女には見えたに違いない)笑うと、2女は奇妙なひきつり笑いを見せて「本物だ」と言いながら奥に消えて行った。身内のひいき目で恐縮だけど、僕の姉たちは結構かわいい。それが、あんな奇妙な表情を見せるなんてかえってマイナスだ。玄関をあがり、僕の部屋に落ち着くと、今度は長女が現れた。帰ってきたばっかりのようで、制服のままだ。

「こんにちは。谷山君」

 さすがに年長さんだ。落ち着いている。

「はじめまして。谷山です」

「そうね。でも、私たちは智くんの応援でよく試合を見に行くから、初めてって感じがしないの。妹たちもすっかり谷山君のファンで、球場のファンクラブの子たちと一緒になって応援しているのよ」

谷山君はちょっと照れたようなはにかみ笑いを見せた。

「かわい〜」

 柱の陰でこっちを見ていた3女が言った。長女はちらっとその様子をたしなめるような仕草を見せて、続けた。

「秋の大会の決勝戦も応援していたのよ。たった一人でよくがんばったね」

「みんなが、いたから。です」

「そう。智くんも、かしら?」

「もちろんです。いつも親身に心配してくれています。頼りになる仲間です」

 破顔一笑。その時の長女の表情はまさにそんな感じだった。

「そう。ありがとう。智くんをこれからもよろしくね。で、今日はどうしたの?」

「あ、僕が勉強を教えてって頼んだんだ」

「へぇ〜。谷山君は勉強もできるんだ」

「谷山君は、この前、学年で31位だったから。ねぇ、もういいかい」

「谷山君は何でもできるのね。じゃあ後で差し入れ持って来るから。ごゆっくり」

「きゃ〜、31位だって、学年500人はいるのに。かっこい〜」

 3女がまた柱の陰からそう言って、谷山君はずっと照れ笑いしっぱなしだった。


 さて、序の口が終わって、ドタバタ劇の本編を詳しく話すと、それだけで紙枚がつきるから、ダイジェストでお話したい。


 先ず3女がずっと扉を半開きにした隙間から僕らの勉強の様子を見つめていた。いつもの快活なアクションは全くなく、ただ微笑みながらこちらを見ていたその姿は、まるで幽霊だ。その場を写真に撮ったら十人中九人が、ドアのところにお化けがいるって騒ぐに違いない。もう、せっかくの美人が台無しだって。おい、それより勉強の邪魔なんだって。いやいやそれ以上に、全く谷山君の身の上話が聞けないぞ。


 そして、いつもは落ち着いている長女までが落ち着かず、お茶やらお菓子やら、いっぺんに持ってくれば済むものを、分けて持ってきたり、「おかわりは?」って聞きに来たり。


 で、特大ホームランは2女だろう。

 あれからすっかり舞い上がり、友達にかったぱしから電話したようで、何と4人も僕の部屋に乱入してきた。どいつもこいつも全くハイテンションで、「あ〜」だの「わ〜」だの「かわいい〜」だの、「彼女いる?」だの、「どっかに遊びに連れてって」だの、ほんとうにやかましい。

「いいかげんにしなよ!」

 って僕が叫ぶと、一瞬だけ静まって、やがて何ごともなかったかのように騒ぎ出す。何回か僕が言うと、しまいにはとうとう誰も反応しなくなり、谷山君に抱きついての奪い合いが始まった。ちなみに彼女たちは中島の生徒たちだ。氷山先輩は元中島なので親衛隊があっても不思議じゃないけど、谷山くんのファンクラブも広がっているんだな。それはともかく、彼女たちのはしゃぎぶりは益々エスカレートした。この部屋の騒音はおそらく80d Bを超えているだろう。誰か助けて。僕は切にそう願ったが、助けがくる訳もなく、谷山君は彼女たちに愛想笑いをうかべるだけで、特に積極的でも消極的でもなく、いいように「いじられて」いた。でもその瞳は何か遠くを見つめているような、そんな感じだった。後にして思うと、彼にとってこの騒ぎは、道の途中に咲いたあだ花のようなものでしかなく、その視線の先にあるものが彼の本当の心の居場所なのだ。僕は観察が持ち味なんだとうぬぼれていながら、その事に気づいてあげられなかった。もし気づいていれば、その後に起こる彼の大きくて深い悲しみを少しでも軽くしてやれたと思う。でも、その時僕は、「彼女がいる谷山君の余裕なのかな」「長尾君や山村君とは、落ち着き方が全然ちがうな」くらいにしか思わなかった。本当は彼の心を軽くしたいと思って家に呼んだのに、肝心なところを僕は見落としてしまった。



第四章 佐藤先輩


 何かがおかしいと感じたのは、練習試合の当日だった。

 朝、部室に行ってみると人数が少なかった。

 集合時間まであと15分。

 いつもならみんな来ているのに。

 氷山先輩、佐伯先輩、谷山君、白石君、山村君、その他大勢(の先輩方)の姿がない。春木君もだ。いくら練習試合とはいえ、こんなに少ないのは初めてだ。もうすぐ期末試験だからかな。そんなことを考えているうちに小島先生がやってきた。

「みんな、おはよー。今日も寒いね」

 そう言って笑顔で部室に入ってきた先生に、本田先輩が聞いた。

「先生、氷山はともかく、谷山も晴木も来ていません」

「ああ。そうね、白石君に不幸事があって、谷山君もそっちに行くってゆうし、晴木君は腹痛で、山村君はお母さんから電話があって勉強させるって。期末が近いから他の子もそうかな」


 何かいろいろらしいが、要は僕が先発ってこと?


「でね、みんな。柴田先生からの今日のオーダーをお知らせするね」

 とある先輩が聞いた。

「柴田先生は?」

「先生はね、寝坊したってさ。今起きたから北峰に直接行くって」


 何だそりゃ。まったくもう。今日の相手が中島じゃないからって気を抜きすぎじゃないか。みんな。


「はい。じゃあ今日の先発は、1番センター岩本君。2番セカンド松崎君。3番サード上田君。4番ファースト神崎君。5番ショート田中君。6番ライト長尾君。7番ピッチャー吉岡君。8番レフト佐藤君。9番キャッチャー新田君。以上です」


 軽いどよめきが起こった。起こって当然のオーダーだった。上田君も長尾君も初めて先発で試合に出ることになる。ましてや佐藤君って誰?谷山君が言うところの雑魚キャラ先輩の一人だ。勝てるのか?こんなオーダーで。そんな心配は当然ながら他のメンバーからも聞こえてきた。

「常勝伝説も今日までか・・・」

 そんなぼやきが漏れる中、小島先生は涼しい顔でこう言った。


「みんな、暗い顔してどうしたの?まさか勝てないなんて思ってないよね?」

 みんな押し黙った。

「先生はね、こう見えても県大会3回戦まで行った高校の野球部マネージャーだったから、みんなのレベルが底上げしていることはちゃんと分かっています。だから決して勝てないなんて思いません。いつも通りにちゃんと暴れてくれたら、きっと勝てるよ」

「ちゃんと暴れろって、何ッすか、それ」

 誰かが言ったつっこみに、笑いが起こった。

 横川のアネゴが立ち上がって言った。

「とにかく、私も勝てないなんて思ってないからねー。先日新田君が調べてくれた相手の新エースだって、速いって噂だけど球がホップしていないようだから時速120kは超えていないだろうし、北峰だって新チームなんだから臆することは何もないよ」

吉岡君が、思いがけないところに食いついた。

「先輩、120kを超えるとホップするんですか?」

 横川先輩も思わぬところに食いつかれ意表を突かれたようで、困惑した表情で答えた。

「そう言うわよ。軟式ならね」

 あちこちで漏れてきた。

 ついでとばかりに横川先輩が話した。

「谷山君の右はすごいよ。豪速球なら常に120は超えているし、一番の球なら、140超えていると思うよ」


 そんなの打てない。


 そんな空気が辺りを支配して、一瞬静まりかえったものの、やがて歓声があがった。「谷山が味方で良かった」とか、「俺たちつぇー」とか、全国だって戦えるとか、みんなそんなことを口々に言った。

 小島先生が言った。

「野球は9人でするものです。でもね、それを支える控えの選手が必要で、全員が強ければ強いほど全国でだって戦えます。だから、主力の何人かがいない今日はいい経験です。みんな、頑張れ!」


 天然系の先生だと思っていたので、そのまっとうな物言いに、僕は驚いた。そうさ。僕らがいなければ、主力組だって全力で戦えない。ケガをしたらとか、疲れを残さないようにとか、余計なことを思うと萎縮する。萎縮して、無難なかたちで全国の猛者たちに勝てるはずがない。敵も必死なのだからこっちも常に全力でのぶつかりあいになる。そうすると、やはりケガも力尽きることもあるだろう。そこでレギュラー並みの控えがいればチームとしての戦力は落ちない。あたりまえのことだけど、僕らの目的はチームが勝つことなんだ。


 市電を降りて、北峰へ向かうバスに乗り換えた。

 日曜の、しかも早い時間だったから、僕らで貸しきりのような状態だった。

 僕の隣には、「佐藤先輩」が座っていた。

 その顔は、確かに見覚えがあった。時々田所前キャプテンの先棒を担いで1年生にいろいろ押しつける嫌な奴だ。「さとうじゃなくてサドだよな」って誰かが言っていた。

「おい、新田」

 突然話しかけられた。

 あまり話したくない先輩だ。だから寝たふり作戦も考えたがそういう訳にもいかず、「はい」と答えた。

「ありがとうな」

 はぁああああ???

 まさかの展開だ。おかしい。どこに僕は落とされるのか?全く読めない。

「俺はな、野球が嫌いじゃないんだ。でも、そんなに才能もないから、適当にやってりゃいいかってずっと思っていた」


 いや、その、身の上話ですか?そんなのいきなり振られたって・・・それより落とし穴はどこですか???なんて思いながら聞いていた。


「でもな、今は野球やっていて良かったって思っている。全国の夢だって見られるんだからな」


 どこでサド砲炸裂するんだろうなんて思っていた僕は自分を恥じた。先輩は素朴に思ったことを語っているに過ぎない。初めての先発出場で、しかも相手は強豪の北峰だ。昨年までのオンボロチームだったら、夢想だにできなかったことの一端に触れた感慨なのだろう。


「おまえたち旧東原のおかげだ。お前らは、くそ生意気な連中だったが、今では俺たちの羅針盤だ。もちろん、お前もだ。普段は控えかもしれないが、立派な羅針盤なんだ。今日は頼むぞ」

 前の席に座っていて、話を聞いていた吉岡君が言った。

「俺も夢を見たい一人だ。手を伸ばせば届きそうな全国だ。今日はその一歩だと思っているから、頼むぜ、新田。俺を目一杯使ってくれ」


 ふたりとも。


 そんなに期待されたって、僕は強豪相手の先発ってだけでいっぱいいっぱいなんですけど。だって昨日聞いていたらともかく今決まったばかりでゲームメイクはノープランなんです。そんな心の悲鳴とは裏腹に、

「うん。まかせてよ僕に」

 なんて谷山君ばりのことを言ってしまった。


 さて、今日の先発は上級生が2人で、あとは1年生だけだ。このチームでは珍しくもないが、問題は初スタメンが3名いることと、さっきの話ではないが、控えがいないことだろう。遠い全国の気分から現実の、今のゲームに目を向けなければならない。はっきり言って今日のベンチメンバーは、がくっとレベルが落ちる分、のっけから瀬戸際だ。ひるがえって、北峰メンバーはベストメンバーのようで、池上小時代の要注意人物であったショートはショートに、投手はセンターにおさまっていた。もちろんニヤついた男(浦上)君はピッチャーだ。

 ふ〜うっと息を吐いた。

 心を落ち着かせようとしたのだが、そわそわした気分は収まらなかった。なにしろ僕がゲームメイクしなければならない。そんな気負いと、戦力差による弱気と、何とかなるっていう楽天気分とが目まぐるしく入れ替わっていた。「落ち着け、落ち着け」って何度も命じた。とにかく吉岡君のリードをどうするかだ。弱小相手ではないので、一辺倒の強気の攻めではやられるし、吉岡君ももたないだろう。なら丁寧に組立戦法ならどうだ?いや、それでもつかまる。そんなことあんなことを悩んでいる僕に松崎君が声をかけてきた。

「暗い顔してる暇なんてねぇぞ。とにかくお前はお前らしくあばれりゃいいんだよ」

 そう言って松崎君は笑っていたが、責任の重さを感じて、僕は愛想笑いくらいしかできなかった。


 監督からも特に指示はなく、浮ついた気分のままゲームが始まった。

 僕らは先攻だ。

 1番ガンちゃんが鮮やかに神業セーフティを決めたものの、2〜4番が簡単にひねられた。浦上君お得意の「ヨッシャー」の雄叫びもなく、彼は淡々とベンチに引き上げた。

半ば義務的に僕はキャッチャーをこなしていたように思う。考えがまとまらず、浮ついた気分のままだったからだ。

 しかし。

 吉岡君の3球目に、僕の目が覚めた。

 ボールが、走っている。

 どうも普段の吉岡君ではない。今日のゲームを背負って立つ覚悟を決めた男の球なのだ。

「よし!いける!」

 僕はそう思って、いけるところまで一辺倒作戦で行こうと決めた。そのあとのことはその時また考えよう。

 1番打者である例のショートを三振にとると、彼はまた例のごとくペロッと舌を出して苦笑いしながらベンチに戻っていった。

 そして2番3番も討ち取った時、吉岡君はマウンドで吠えた。


 2回の表も、浦上君の前にあっけなく三者凡退。


 その裏。

 浦上君は4番に座っていた。

 エースで4番か。さすが谷山君のライバルだけはあるなと思っていると、「谷山はどうした?」と、打席に入った浦上君に聞かれた。

「ああ、ちょっと不幸事があってね」

「そうか。それなら仕方ないが、手加減はしねぇぞ」

 そう言って大きく強い素振りを3回やって打席に入り直した。

 それを見て、野手のみんなはわりと深めの守備位置に変えた。そのあたりは、監督や捕手の指示がなくても銘々の判断でやることになっていて、逆に何かある時だけ指示がでる。その何かを僕は見落とした。大きいのを狙うときは力みがあったり、スタンスがつい大きくなりがちだが、浦上君は妙に力んでいなかった。そして、ふわりと三塁線にバントを決めた。

 セーフティだ。

 僕はマスクを飛ばして捕球に向かうが、どうしても意表を突かれた分初動が遅れた。そしてそれは3塁手の上田君も同じだった。浦上君は新顔の上田君は補欠だと断定してそこを狙ってきた。

上田君が捕球して、1塁へ送球。しかし、その球はコースがわずかにずれ、しかもショートバウンドした。いっぱいに身を伸ばした神崎先輩がなんとか拾ってくれたものの、浦上君が1歩早かった。

 松崎君がグラブを掲げて「ドンマイだ」と言った。この場面では、「走ってくるから気をつけろ」の合図だ。僕は気を引き締め、続く5番あのセンターに集中した。彼は元々ピッチャーをやるくらいのセンスがある。肩も強いし、要注意選手の一人だ。定石では外角低めから入る。ならば、それで行ってみよう。ただし、外角いっぱいストライクの速球だ。浦上君が走るのを待つはずだから、手を出さないか、援護の空振りだろう。

 絶妙な速球が来た。そして、1球目から浦上君は走った。

「よし!」

 援護の空振りを避け、僕は球を押し出すように2塁へ送球した。

 春木君ほどではなくても、タイミングドンぴしゃな送球が行った。

 受け取った松崎君がタッチ。

 判定は。

 アウトだ!

 僕らのベンチから歓声があがった。

 滑り込んでいた浦上君は立ち上がり、お尻の埃をはらいながら、僕の方を見た。

「甘くみるなよ!」

 僕はそう思いながら見つめ返した。



第五章 もっとあばれろ!


 その回も好調の吉岡君があとをピシャリと締めて終わった。

 僕はハイタッチでベンチに迎えられた。

 松崎君がにこにこしながら言った。

「いいねぇ、その調子でもっとあばれろよ」

 まわりのみんながドッと笑った。

 え?何?笑うところかなぁ。

 僕がそう思って困惑していると監督が言った。

「ああ。そうだな。新田はただのお坊ちゃんではないってことだ。いいか、新田。お前のがむしゃらなハッスルプレイがみんなを勇気づけるんだ。その調子だぞ」

 横川のアネゴが横から口をはさんだ。

「いいよー。みんな。今日も勝てるよー」

 みんなの表情に喜色が浮かんだ。すかさず吉永さんが言った。

「みんな、がんばれ〜」

 そうさ。例え主力がいなくても、地方のいち強豪くらいねじ伏せる力がなければ、全国なんておぼつかない。それが、思いあがりと言えば、そうなのかも知れない。経験の少ない僕は確かにその時思い上がっていたのだろう。

 ともあれ。

 4回までは吉岡君の球威でも十分北峰打線を抑えることができた。異変を感じ始めたのは5回からだ。それまで0-0。球のキレが目立ってなくなってきた。なんとか浦上君は抑えたものの、あのセンター君に捕まった。打球は左中間を割って、2塁打となった。

 僕はマウンドに行って、吉岡君をなだめた。

「ドンマイ。あとを抑えようね」

 吉岡君は呼吸をやや乱していた。

「分かっているって。いちいちくんなよ」

「ああ。ごめん。でも2巡目だからちょっと目先を変えようと思って」

「ああ?」

「春木君みたいに、堅実に組み立ててみようかなと思うんだ」

「あ?俺の球威がなくなったってか?」

 ずばりその通りなんだけど、面と向かってそうは言えない。

「いや、今日は練習試合だし、攻め方のバリエーションを考えてみたいんだ」

「お前の勉強につきあえってか」

 僕は内心むっとしたが、そう言わなきゃおさまらないと思った。

「そうだよ。僕は吉岡君と違ってそんなに出場できないから」

 吉岡君は乾いた笑みを見せて言った。

「まぁ、いいさ」

「そうかい、じゃ、そういうことで」

 そう言ってホームに戻りかけた僕に吉岡君が言った。

「新田ぁ、頼むぜ。あばれろよ。どんなかたちでもな」

「ああ。まかせてよ。僕に」


 春木君の攻め方は、左右高低、緩急と、とにかく手数が多い。それは、140kmを超えるという谷山君の豪速球を手に入れてからも変わらないスタイルで、手堅く攻めて確実に勝ちに行く方法だ。

この僕にどこまでそれが出来るのかは分からないが、今、球威の落ちた吉岡君で勝ちにいくにはそれしかないと思った。

 6番バッターは、たぶん2年生だから要注意。

 まさかとは思うが送りバントを考えに入れて、先ずは内角高めボールを要求した。最後は落ちるカーブで仕留めるためでもある。けっこうはっきりわかるボールとなって、打者は体ごとボールを避けた。走る素振りはなかったから、まあ大丈夫だろう。次は内角ズバリストライクの速球だ。よし。狙い通り。で、次は高めのボール球。

 よし、これも狙い通りファール。2-1だ。次は内角ボールで、最後は落ちるカーブだと思った矢先、内角球が真ん中高めに行ってしまった。これが内角攻めの恐いところの一つではある。そんな常識を思い出すには十分なヒヤリとする球だった。結果はヒヤリでは済まず、高く弾むゴロが2塁へ行った。普通ならもうワンバウンド待つようなところで、それでは間に合わないと判断した松崎君が飛び込み、無理矢理ショートバウンドで押さえてすかさず1塁へ送球。1塁はアウトとなったが、ランナー3塁となった。無難に攻めるということは、打たせてとるということでもあるので、ここは仕方ない。

「ツーダン、ツーダン」

 僕はそう叫び、ジェスチャーを送った。

 問題は次だ。

 ここは、絶対抑えるべきところなのだ。

 打者は、たぶん1年生。昨年見覚えのある奴だ。

 僕は絶対抑えることを優先したばかりに、肝心なことを忘れていた。そう。昨年の奴らはみんなローボールヒッターだった。そのことを忘れて安易に外角低めから入ろうとしたところ、これも真ん中あたり入ってきて、見事に打ち返された。

「あ、」

 打たれてすぐにローボールヒッターのことを思い出し、何故打たれる前に思い出さなかったのかと後悔しながら、ホームの守りに入った。吉岡君がホームのバックアップに走ってくるが、それと打球の行方が重なって良くは見えなかったが、センター前の浅いところに打球は飛んだ。途中、吉岡君が両手を挙げた。

「え?」

 よーく見ると、岩本君が、頭からのスライディングキャッチをしたようだ。

「すげぇ」

 吉岡君のつぶやきが聞こえた。

「よ〜し!」

 僕も思わず叫んでいた。

 そして、気づいた。

 春木君が何故打たせてとることをやっていたのか。

 それは、バックがいるからなんだ。

 谷山君の豪速球だけが強い力なのではない。さっきの松崎君といい、岩本君といい、信頼できるバックこそが本当の力なんだ。


 それから、鉄壁の守備力を誇るチームメイトたちのおかげで、打たせてとる作戦はなかなかうまく行った。しかし、粗削りだった昨年とは違って、洗練された投球術をまとった浦上君の前に僕らの打線も沈黙していた。何とか得点して吉岡君を楽にさせたかったが、そこはなかなかうまく行かなかった。

 さて、8回裏。

 結果を言うと、ついに僕らは先制された。

 でも、吉岡君は肩で息をしながら後続を断ち、なんとか1点で切り抜けた。

重い空気がベンチを包んだ。

 今日は珍しく親衛隊もファンクラブもいない静かな球場で、勢いづいた北峰選手のかけ声だけが響いていた。

「まだ、これからだと思う」

 誰?

 そう思って声の主を見ると、そこには田原さんがいた。

 何故?

 ベンチの誰もがそう思ったに違いないが、前例もあるし、それより、あまりの現実の重さにつっこむ者は誰もいなかった。

「そうよう。打順は副キャプテンからなんだからね」

 吉永さんもそう言って励ましてくれたが、ここにきての失点は、ダメージが大きすぎた。

「はいはいはい、あんたたち、落ち込んでいる暇はないのよ。神崎君を応援しなさい」

 そういうアネゴの言葉にも誰も反応しなかった。

 グランドでは、ひとり神崎先輩のみが大声出して打席に立っていた。先輩は、さんざん粘った。浦上君の球威も落ちてきているようで、さかんにカットされていた。1球毎に、ベンチのみんなも少しずつ元気を出してきた。

 そして、13球目。

 先輩は僕らの目を覚ます一撃をセンター前に放った。

「よっしゃー!」

 1塁上でガッツポーズする先輩に、ベンチの誰彼となく声を出し始めた。

 ここは大事にいくところだから送りバントかと思い監督をみたが、そんなサインは出ていなかった。

それもそのはずで、今日初スタメンの長尾君が真っ青な顔でネクストサークルにいた。ここは、職人 田中君に期待する他ない。

 田中君も粘りに粘ったが、結局セカンドインフィールドフライに倒れた。

「あ〜」

 というため息も聞こえたが、すぐに「長尾コール」が起こった。いつもニコニコしていてみんなを和ませている長尾君はけっこう人気者だ。僕も声を張り上げた。

いつになく真剣な面持ちで長尾君も粘った。

 ついに浦上君も肩で息を始めた。

 そして9球目。

 浦上君の渾身のストレートに、長尾君のバットは空を切った。

 見逃せばボールに違いないが、それが球の勢いなのだろう。

 続く吉岡君は、力を抜いたフォームで、静かに食らいつくような雰囲気があった。彼は小学時代に4番でエースだった。だからセンスは人並み以上のはずで、それに賢いから、むやみに慌てず騒がず、とにかく、くさい球はカットして虎視眈々とヒットを狙っていた。

 ついに浦上君が根負け。四球だ。

「よし!」

 2アウトながら1、2塁。

 これは、チャンスだ。まだ運には見放されていない。僕はそう思ってネクストサークルで闘志をたぎらせていた。

 打席には佐藤先輩。

 頼みます、先輩。ここでやれればサド冥利につきるってものでしょう。だって、敵に痛撃を食らわせられるから。最低でも僕に回してください!

 僕は、そんなことを思っていた。

 その時、僕らのベンチは歓声に沸いた。

 僕らののぞみをつなぐ、佐藤先輩の打球が力強くぐんぐんと伸びていき、右中間を深々と破った。

 僕もつい興奮してサークル上でさけびながらぐるぐると腕を回した。

 神崎先輩は余裕で生還。問題は吉岡君だ。走塁コーチの腕もぐるぐる回っていたが、疲労困憊の吉岡君に、センターは強肩のセンター君だ。

 矢のような送球はうまいところでセカンドに中継され、すかさずバックホーム。

 息も絶え絶えのような吉岡君は、それでもホームだけを見つめて懸命に走っていた。

 頭から、飛び込んだ。

 土煙があがった。

 判定は、セーフ!

 逆転だ!

 僕らの歓声の中、捕手はすかさず3塁送球。

 佐藤先輩も果敢に3塁を狙って走ってきていた。

 タイミングはセーフのように見えたが、スライディングしすぎでわずかに行きすぎ、塁から離れたところをタッチされてアウトになった。

「あ〜」

 という落胆のあと、どよめきが起こった。

 吉岡君が倒れていた。

 疲労のあまり、立ち上がれないようだった。

 僕が急いで駆け寄ると、またどよめきが起こった。

 僕の横に誰か立っていた。

「ナイスラン」

 その人影はそう言って吉岡君に手を伸ばし、引き起こした。

「おせぇぞ」

 吉岡君が話しかけた相手は、谷山君だった。

「ああ。わりぃ。でも間に合ったようだな」

「ふん」

「安心しろよ。9回は俺がしめるから」

「準備できてんのか?しけたまねすんじゃねえぞ」

「今日は右で行く。右ならいつでもOKだ」

「ふん、好きにしろ」

 そういう吉岡君は駆け寄った雑魚キャラ先輩たちの肩を借り、ベンチにさがって行った。

監督が主審に告げた。

「ピッチャー交代。ピッチャーは谷山」


 結局谷山君はど真ん中豪速球をたった9球投げただけで試合を終わらせた。

 確かに谷その球はホップしていて僕は何球か捕り損なったけど、最後は何とか捕球できたから、一人も出さずに済んだ。その豪速球はやはり僕の憧れであり、僕らの希望なのだ。

 それにしても、この日、何故谷山君は球場に来たのか。

 話を整理すると、夕べ遅くに白石君のお祖父さんが亡くなった。父親亡き後、白石君の家族を物心両面で支えてくれた人だった。だから物心ついた頃から兄弟のように育った幼なじみの谷山君が心配のあまり今日は白石君と一緒にいるはずだった。でも「大丈夫だから試合に行け」と強行に言い放ったのが白石君で、谷山君も意外に元気そうな白石君を見て安心したのか、遅れて試合にやってきたそうだ。

 そこまでは、いい。

 でもどうして封印したはずの右だったのか、僕には不思議だった。

 これは後日仕入れた噂だけど、慌ててきたから、左投げ用のグラブを忘れてきたらしい。本人は一言もそんなこと言ってなかったけど。

 まぁ、そんなこともあるだろうね。

 とにかく、あの9球の豪速球は、北峰に谷山君の格の違いを見せつけるには十分だった。


 さて、最後に僕のこれからのことをお話ししたい。

 僕はこれからも、チームのためにいろいろな情報を仕入れてくるつもりだ。その上でアドバイスしたり、自らの判断材料にしたり。

 それは、僕にしか出来ない、僕の持ち味なんだ。

 そうさ。

 僕は僕の出来ることをやる。もっともっと暴れてやる。

 僕は、負けない!

 そして、日本一を目指すんだ。


 え?僕の情報の中に、谷山君と高浜さんの恋の行方は?って?

 もちろん知っているよ。

 でもそれはまた、別の機会にね。




完読御礼!

ありがとうございました。


*本作品は「エブリスタ」にも掲載しています

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