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人狼戦争。そして無限の彼方へ  作者: 一の瀬光
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人狼戦争。そして無限の彼方へ  7章~10章

         第七章 大道寺博士


― わかりました。では「ステーション事件」の項目です。ロマニア事件より数年後の項

  目ですがよろしいですか。はい。冒頭コメントをスキップしますか? はい、スキッ

  プしました。


 十月十日 午前四時。


 朝読新聞十月十日朝刊トップ東京地区最終版見出しゲラ刷り。

『マッドサイエンティスト 衛星乗組員に変身薬を投与』



同日 午前十時 東京霞ヶ関プレスセンター記者会見場。

「どうも。司会の宇宙開発事業団広報部前嶋です。ただ今より日本・米国・ロシア・EU共同プロジェクト宇宙ステーション『オーロラ号』において発生した事象について発表をいたします。質問は指定された会社順に各社五分以内の」

「大道寺教授は今どこにいるんですか! 列席しないんですか!」

「あ、えーと、あなたどこの放送局? え、新聞社? ですから指定された順に」

「それどころじゃないでしょう! これは計画的犯罪ですか? そうなんですね!」

「あの、ですから質問はあらかじめ提出された質問表にそってですね、順番に、その」

「そんなことどうでもいいんだよ! 博士はどこなんだ! 警察に拘留されてるってほんとうなのか! 事故という発表はウソなのか!」

「そうだそうだ。大道寺教授は逮捕されたんですか、どうなんです! まだステーションにいるって話じゃなかったのか!」

「えー、司法当局の動向に関してはわが事業団がコメントする立場にはありませんので、その点どうかご理解をいただ」

「だから虚偽の発表についてはどうなんだ! なぜきのうのうちに会見しない!」

「おい。しっ! 見ろよ。今はいってきたのは大臣じゃねえか?」

「え、あのおばさん? ほんとだ。中村大臣だぞ。なんで事業団の会見に大臣が?」

「こんにちは皆さん。文部科学大臣の中村ルミ子です。事態の重大性にかんがみ、政府のほうから見解を述べさせていただくことになりました」

「おいおい、事業団の連中が騒いでるぜ? 抜き打ちかよ」

「静かにってば! 大臣がしゃべるぞ。カメラさん、いいね?」

「昨日ようやくドッギングに成功した調査用シャトルはその後つつがなく当該ステーション内部の状況を把握し」

「すみません大臣。共同の田村ですが」

「はい」

「その当該ステーションからの妨害があってシャトルの突入が遅れたという話だったと思いますが? 妨害はどうなったんです」

「突入とはなんのことです? これはあくまで学術調査上のトラブルなのですよ。念のために申しておきますが、シャトルには司法当局の人間など乗っておりません。オーロラ号に入るのが遅れたのは外部からの観測に時間をかけたからです」

「2日間も、ですか?」

「そうですわ。なぜそんなに時間をかけたかおわかりですか?」

「さあ。てっきり妨害があったと」

「誰が妨害など? われわれはオーロラ号からの救助要請によって内部に入ったのですよ?」

「しかし、地上では救助信号などキャッチしてないんでしょう? だから待ちきれなくて地上の判断で調査に向かったのではないんですか? 何を隠しているんです?」

「通信機器の故障だったのです。ステーション内部の壁をたたく音の救助サインを確認してからオーロラ号に入船していますよ。あとで映像をお見せしましょう」

「そのサインは大道寺博士が?」

「そうです。調査の手引きも教授にしていただきました」

「ほんとですかあ? おかしいな。ひとりだけ変身してない博士をまっさきに手荒く取り押さえた映像はおれたちみんな見てんですよ。どう見ても突入して犯人確保の図だよねえ、あれは」

「誤解です。大道寺教授が体調不具合を訴えて倒れかかったのをレスキュー隊員があわてて体を支えたのですわ。教授は心身ともに疲労の限界でした」

「その直後に映像回線を切ったのはどういうわけです?」

「切ったのではなく切れたのです。回線の復旧よりも乗務員の救出が先だと現場が判断しての措置と聞いております」

「あのう、医学ジャーナルの須藤と申します。乗組員の症状についてですが」

「まだ病気と確定してはおりませんが」

「し、失礼。その、何と言うか、彼らの変身ですか? あれの原因というのは?」

「原因はまだ不明です」

「だ、だとしたら危険ではないですか! 特に調査員が細菌防護服も着ないで突入するなど、もしウイルスやバクテリアでも船内に充満していたらあっという間に感染ですよ!」

「ですから突入ではありません。それに調査員は宇宙服を着用しておりました」

「ですから! あれは通常の宇宙服にすぎないでしょう。あれでは菌類には無防備だ! 乗組員全員が似たような変化をしているから何らかの感染症も疑われると、調査出発前の発表にもあったでしょう! それなのに防護服の用意もしなかったのですか!」

「いたしました」

「へ? で、ではなぜ無着用?」

「大道寺教授の指示があったからです」

「どういうことです」

「オーロラ号内部は無菌状態につき防護服は不要。それより通常の作業服にて迅速なる救出を願いたいと、教授から直々の要請でした。オーロラ号に接続したこちらのシャトルからもオーロラ号内の無菌状態が確認できたので突、あらいやだ、入船いたしました」

「だ、大道寺博士は今どこにいるんですか! だいたいどうして博士だけが元の姿なんですか! 毛むくじゃらに成り果てたあの乗組員の四肢には大量の薬物投与の痕跡があったのでしょう? なぜ博士にはそれがない! どう見ても博士が全員に注射したんですよ!」

「そうです」

「おおっ!(記者全員)」

「教授は全員に注射しています。つまり大道寺教授自身にも注射あとがありました」

「ええっ!」

「それと変形は全員に起こっています」

「では博士にも?」

「そうです」

「じゃあ毛むくじゃらに? よつん這いになって、言葉もしゃべれないんですか?」

「いえ、そうではありません。服を脱がないと目につかない所の変形です。現在くわしく検査中です」

「だから博士はどこなんです! なぜ隠す!」

「隠してなどいませんわ。今頃は警察科学研究所のCTUです」

「やっぱり拘留か!」

「そうではありません。この検査に適した機器がたまたまここにしかなかったからです。身柄を拘束しているわけではありません」

「政府の見解はどうなんです! 未知の伝染病じゃないのか! 国民は大パニックを起こそうとしているんですよ? この中継だってすでに視聴率七十三パーセントを超えてるんだ」

「ほんとかよ? そりゃすげえな」

「さきほど申しましたとおり、政府は全力をあげて原因を究明中です。しかし、たとえどのような可能性があるにせよオーロラ号乗務員の健康状態は現在きわめて良好であります。あれが事故にせよ何にせよ、その原因が乗務員の生命を奪う性質のものでないことは確かです」

「大臣、そりゃあ言いすぎでしょう? あの変身だけでもすでに致命傷じゃないですか」

「全力をあげて治療中です。しかし食欲はすこぶる旺盛で、それについては先ほどわたしが直接見てきたところです。病院につめておられる乗務員のご家族にもご了解を得てこういう言い方をするのですが、なんかこう、みな精気にあふれている感じでしたよ。ただ皆さん、まだお話をするという状態ではないのですが」

「大道寺博士はどうなんです! 話せるのですか?」

「ええ、話せます」

「では記者会見すべきだ! 博士のくちから説明すべきだ!」

「会見が無理な理由がふたつあります。ひとつは大道寺教授の体にも変形のきざしがあるということ。もうひとつは教授は軽い記憶障害にかかっているご様子だということです」

「自分の罪を逃れる狂言じゃないんですか!」

「いずれにしても教授はCTU内です。面会謝絶の状態がいつまで続くかは医師団の判断によります。わたしの知っていることはすべてお話ししました。わたし自身この件に関しては最優先事項と認識し最大限の関心をもってウオッチしております。ですから事態の進展があり次第、情報の公開をお約束しますわ。では本日はこれで終了です。最後にひとこと。これ以後は政府の発表以外のデマにはけっして惑わされないように。くれぐれも憶測による無責任な報道は控えてください。もしそのようなことがあれば、政府は厳正な処置をすみやかに講じます」

「なんだなんだ、そりゃあ! おどしですか!」

「あ、大臣まってください! まだ聞きたいことが!」

「中村大臣! 情報がまだ十分じゃない! 大臣!」

 カメラが会見席を少し離れ女性レポーターを映す。

「えー、現場では会見が続いておりますが、スタジオには識者のかたをお招きしております。皆さんには今の中村文部科学大臣の会見についてご意見をうかがいます。ではスタジオにいったんマイクをお返ししますが、その前にスポンサーからお知らせを……」



同日、午前十一時十六分。CTU集中治療室内にて師弟の会話。


「どうですか? 頭の位置はそれでいいですか、大道寺先生」

「……う、ああ……」

「先生、ぼくのことわかりますか? 霧島です。先生!」

「ああ? ……キリ、シマ……」

「そうです! 大学でゼミ長だった。大脳生理学研究所で助手にしていただいた霧島です!」

「……すまない……思い出せない……どこかひっかかるものもあるんだが、うう……」

「先生……」

「そうだ! 調査シャトルはどうした? まだ入れちゃいけないんだ。薬の効果を確認するまで待たないと。え、薬って? なんの薬だったっけ? うーん、頭が痛い。ここはどこのキャビンだ。フネにこんな設備を積んでいたのか? あつつつ、頭が」

「先生! 無理に考えないでください。ほら、これがあるんです。見てください!」

「スティック型録音機? そのICレコーダーがなにか?」

「これ先生のですよ! そうなんでしょう? 研究室でもいつもメモがわりにしてたじゃないですか!」

「いつも? うーん、ごめん。なんだかどんどん忘れていくようなんだ。まだ二十九歳だってのに。え? 四十歳だったか? あう! つつつつ」

「だから無理に考えないで。これを聞けばきっといろいろ思い出しますよ。ぼく、オーロラ号の先生の机でこれを採取したんです。いつもの場所に置いてあったんで連中より先に取っておきました」

「ここはオーロラ号じゃないのか? きみは調査シャトルに乗っていた?」

「そりゃそうです! 一番弟子であることをアピールする絶好のチャンスじゃないですかあ!」

「弟子? いちばん……」

「すみません。勝手にそんなこと言っちゃって。でも先生に記憶障害の症状が出てラッキーでしたよ。おかげでぼくらのテリトリーに先生を呼び寄せることができた。ここは立ち入り禁止のCTUで、ぼくらふたりきり。盗聴もできっこない。ほら先生、これが最新鋭のCTスキャンです」

「そうか、大脳生理学の。ねえ、きみ。ぼくもその学問をやっているんだよ」

「もちろん知っています! その応用分野では世界の第一人者じゃないですか! まだお若いのに」

 そういう霧島医師こそ若かった。

 馬のしっぽみたいに後ろにまとめた長い髪にTシャツ白衣すがたの霧島がザザザとサンダルをこすって大道寺博士に近づいた。手には白いスティックを持っている。

「この記録すっごいですよ、先生!」

「きみは聞いたの?」

「ごめんなさい先生。でもあいつら今日の午後に先生に強制自白剤を打つつもりなんですよ。だから時間がないと思って。だって先生にはしっかり自己弁護してもらわないと」

「あいつらって?」

「警察や政府の連中です。あいつら頭っから先生を犯人扱いです」

「犯人って、なんの?」

「オーロラ号の乗組員が変身した事件のです。先生が毒を盛ったんじゃないかって。でもこのレコーダーがあります。これ自体に証拠能力だってあるし、なによりこれで先生がはっきりしてくださればこわいものなしですとも!」

「変身……フネで何かおそろしいことが……」

「先生自身もちょっと体が変わっていますよ。背中に翼みたいなものが出たり。これはほかの人には出てないんですけど」

 大道寺がベッドで跳ね起きたので霧島医師はあわてて彼の体をおさえつけた。

「ど、どうしました先生! どこか痛いですか!」

「きみ! 翼だって? きみはあれを見たのか!」

「え? は、はい。見ました、すみません? でも医師団はみんな見てますよ」

「おれの翼を……見た……」

「そんながっかりしないでください。他の乗組員にくらべたら冗談みたいに軽傷なんですから」

「いや、それとはちがうんだ……」

「え? なんておっしゃいました? 先生?」

「よし、聞こう。きみ、操作してくれる?」

「聞く? ああ、はいはい! ああ、先生のその指示の口調! なんか大学の実験室とか思い出すなあ。やっと先生らしいしゃべりかたに戻りましたね! おれ、うれしいっす!」

 霧島医師がスイッチオンすると、

(……おぼえがき開始)

そんなふうにくぐもったような思い出し話のような調子の声がICレコーダーから漏れてきた。

(きょうロシア組環境観測班のイリアシェンコが気になることを言った。船外の放射線量が瞬間的に三百倍を超えることがあると。こんな数値が出るのはどうせまた機器の故障だから気にしないと笑っていた。気にしろ! どうして欧米人はかくも被爆に関して無頓着なのかと責めたら、どうして日本人はそんなに神経質なんだと逆にやり返された。この認識の差と彼らの無知な冷笑をゴジラ差別と命名するのはどうか)

「ああ!」

 と大道寺が声をあげたので霧島が反射的にスイッチを切った。

「ゴジラ差別! そうそう、つけたつけた、その名前。ねえきみ、ちょっといい命名だろう?」

「え? ええ、とても……」

 霧島がスイッチを入れる。

(……今日のおぼえ。作業前のブリーフィングで船内においても全員が宇宙空間用の作業服を着用することを提案したら緊急決定となった。だが遅すぎた。ジェーンとパブロワのふたりはみるみる顔が焼けただれた。ハインリヒとジョルジョーニ、イリアシェンコ、リー、フクトミの五人は腕や背中や脚部に大ヤケドを負い床をころげまわる。おとといから自分のベッドでも宇宙服を着て笑いものになっていたわたしは助かるが、船内のこの惨状に思わずヘルメットをとってしまったため、その一瞬で髪の毛をごっそりやられる。油断した)

 ここで大道寺は自分の頭に手をやりツルツルなのを確認する。

「ぼくの、髪が……」

「ちがいます先生! それは検査用に剃ったのです! どうか気にしないで」

「かわいそうなジェーン、あんなに美しい人が、ぼくのジェーン……」

 大道寺は顔をおおった。

「先生? もしかして、なにか思い出しましたか?」

「……きみ。続けて……」

(……この覚え書きは人類への義務となるだろう。おそらく類を見ないほどの多量の放射線を受けたのに違いない。宇宙線だろうか。しかし原因の解明より先にぼくがしなくてはならないことが、それこそ文字通り目の前に転がっている。彼らはまだ生きているのだ。医学者のはしくれとして、ぼくには彼らを救う責務がある。でもどうやって? とりあえずヤケドの応急処置。するとその最中にジョルジョーニの体に大変化が起きた。やけに元気を取り戻したと思ったとたんに体毛が伸びだした。信じられないほどの発毛。毛が体中をおおってしまう。発毛が停止すると彼は倒れた。何を問いかけても返事をしない。目をあけているくせに、まるで英語を忘れてしまったかのように、ぼくの知らない発音ばかりを繰り返す。そのうち苦しそうに胸を押さえて寝てしまった。よくない兆候だ)

「そうなんだ! あのときラボに入っていれば、もっと早くみんなを……」

「先生、あまり考えすぎないで。さあ、次を」

(……残りの全員がジョルジョーニと同じように変わってしまった。こわくなってラボに閉じこもる。すると暗いラボの中でシャーレのいくつかが青い光を放っていた。それは宇宙空間における生化学実験用のシャーレだ。ぼくの今回のフライトの目玉である新化学合成物の卵たち。そこへ誰かが乱入してきて(パブロワか? もう判別できないが)シャーレをたたき壊し、その内容物を浴びて倒れる。すると発毛が減退し、呼吸も楽になったようで静かに眠りだした。急いでデッキへ戻ってみると他の全員が胸を押さえて苦しがっている。末期的症状だが、ぼくにはひらめくものがあった。一か八かだ。まだ残っていた青く光るシャーレのひとつから内容物を取り出して全員に注射する。もしぼくの勘違いなら取り返しがつかない。とくにあの愛しいジェーンを殺してしまったら、そんな責め苦にぼくは一生涯たえることなどできない。それならいっそ運命を共にしたい。ぼくは自分にも注射した。神よ! 効果は絶大でした! あなたの恩寵ははかりしれない。みなすこやかに寝息をたてはじめた。ジェーンは助かったのだ。そう安心したとたんにぼくも寝てしまったらしい。起きるとすぐにシャーレの内容物の培養にとりかかった。もちろんできるだけ詳細なデータをとりながら)

「データだ! あのデータはどこだ! あれがないとジェーンを元には戻せない! あれを返せ!」

「落ち着いて先生! ここにあります! これですよね? このDVDデータ!」

「そ、それだ!」

「はい、先生。ぼくにできる唯一のプレゼントです」

「よ、よくやってくれました! ありがとう! さすがキリヤンだ!」

「先生! ぼくのあだ名を……。ああ、よかったあ」

「聞いてくれるか、霧島くん。きみに責められる前に弁明しておきたい」

「責めるなんて、いったい何をです?」

「組成のはっきりしないシロモノを患者に投与したことだよ。培養は楽だったし他に手段もなかったのは事実だが、注射しているときは自分でもなんだか古代の呪術師になった気分だったさ。だがたしかに効果があるんだ。ところが地上からはさっそく追求の通信が束になってやってきた。そんなものに応答する時間はないし、もしこれが感染症ならばもう接触も許されない。だからどのみち通信は無用だと思った」

「そうだったんですか」

「霧島くん! 他の乗務員はどこだ! どの部屋にいる!」

「ここにはいません。たしか東大病院と慶應病院に分けて治療中のはずです」

「死んだものは、いる?」

「いえ、全員無事とのことですよ」

「そうですか! そうかあ……」

 ウイーウイーウイー。

 警報だった。

「か、火事か? 先生、動かないで。あれ? 扉が」

 黒づくめのヘルメットと防弾チョッキの男たちが何人も走りこんできた。彼らは部屋中に自動小銃を向けている。背中の警視庁特殊部隊の字が見えなかったら霧島医師もパニックになる勢いだった。

「隊長! いません!」

「そうだな。よかった」

「だ、だれです! 無菌ルームですよ! なにしてんです!」

「これは失礼。警視庁です。保護対象の部屋に侵入者ありのランプがついたものですから」

「保護対象って、先生のこと?」

「例のステーション帰還者全員ですよ。まあ形式というか……グ?」

 胴から離れた首がいくつも宙を舞い、次々と体が床に倒れて血の大河をかたちづくった。

「うそつきな首は必要ありません。オーロラ号乗務員はすでに全個体が焼却処分されています、大道寺博士」

 霧の中から現われる女の姿に霧島の恐怖のまなざしは釘付けとなっている。

 クリーム色のショートヘアを指でつまみながら女はくるくる変わる子猫の目で霧島を見つめていた。

 体にぴったりとはりついたウエットスーツのような服が蛍光ピンク色で、その軽快な派手さがなんともいえず不気味だった。

「だ、だれ……。ああ? まだいる……」

 今度は濃紺のぴったりスーツを着込んだたくましい男たちが十人ほど霧の中から現われた。

「お迎えにあがりました、大道寺博士」

「だ、だれですか、あんたたち? ぼくは知らないぞ?」

「初めまして。わたしは人狼戦争統括司令部第五席を勤めます如月しのぶです。他もみな司令部のもので世間でいうところの政治派というやつです」

「なぜこんなひどいことを?」

「戦争中です。やむをえません。これが迅速かつ死亡を確認しやすい方法なので。それに、このようにSATを用意していたわけですから、人間当局も十分に事態を認識していたと思われます。そのうえ彼らは故意に虚偽の情報を流してあなたがたを惑わそうとしておりましたわ。人間は平気で嘘をつく」

「ではジェーンは!」

「お気の毒です。われわれが行ったときにはすでに焼却ずみでした」

 大道寺博士はまた両手で顔をおおった。

「せ、先生をどうする気だ! 拉致するんだろう!」

「拉致? とんでもない。わたしからの提案にご承諾くださればご同行ください。そういうことです」

「断れば?」

「別に、何も。わたしは帰ります。そのデータDVDだけは頂戴しますが」

 女が手をかざすと霧島の手からDVDがふわりと浮き上がって、そのまま女の手のひらまで飛んでいってしまった。

「ただし、午後にも純血派がここを襲うでしょう。江奈派の動静が耳に入っています。彼らの目的は完全抹消のはずですよ」

「もしかして、きみらはファイコン特許のことで何度か交渉してきた会社の?」

「そうです! われわれの組織は株式会社の体裁をとっていますので。いい機会ではありませんか、博士? 今回の件はきっとおおごとになる。しかしあなたはすでに宇宙空間内で何らかのソリューションを提示した。これは当方にとって勝利の切り札になるかもしれません。それに加えてあのファイコンピュータをお持ちいただけたら、あなたのハーフブレイドの汚名をそそぐには十分です。一族はあなたを正式な血族として歓迎します」

「さっきから何いってんです、あんた! どこのテロリストだ!」

「テロではない。戦争です、霧島さん」

「なんの戦争だ? そんなこと聞いたこともないよ!」

「おやおや、人間サイドの情報統制は度が過ぎていますね。これでは人狼戦争が終わっても戦争のことを知らないものが出てきそうだ。霧島さん、北半球ではわがほうが圧倒的に優位です。ヨーロッパと東アジアでは首都攻略戦も日時が決定していますよ。どうしますか?」

「きみ……」

「はい、大道寺博士」

「さっきの話はほんとなのか……」

「もちろんです。本来なら半人半ヴァンパイアのハーフブレイドは政治派純血派ともに受け入れません。ですが博士のファイコンは画期的です。わたしも試作機を見て感動しました! ロマニア事件以来またもやわが一族が人間たちに対して優位を誇れるイベントです。これだけでも正式リスト入りできます。わたしが保証します」

「それじゃない。ジェーンのことだ! 彼女はほんとに?」

「事実です。埋葬位置もお教えできますが」

「く……」

「先生?」

「……人間界に、もう未練は……」

「先生?」

「霧島くん、すまん。ぼくは行くよ」

「歓迎します! 大道寺博士! 霧島さんのことはご安心ください。危害はいっさい加えません。お望みなら純血派の襲撃からもガードしますよ、んふっ!」

「おい、わるい癖を出すなよ、シノブ」

「なによ中村くん。こんなところまで風紀委員長づらなの? いいじゃないの、この彼氏ばっちしオレのタイプなんだもん。ねえ、霧島さん?」

 思わず後ずさりした霧島医師はズルリと足をとられて尻もちをついた。床いっぱいに広がる血のりにサンダルをすべらせたのだ。

「では博士、おそれいりますがこのハウトを身におつけください。霧化しなくても着られる最新バージョンでけが人用です。車でお連れします」

「きみ」

「はい」

「きっとあれは感染症だ」

 司令部ナンバーファイブの顔に戻った如月しのぶは仲間と顔を見合わせた。

「おそろしい……。あれが地上にきたら戦争どころじゃなくなるぞ」

 濃紺のハウトに身を固めた百戦錬磨の男たちがいっせいに一歩しりぞいた。

「だいじょうぶですよ、博士」

 如月しのぶの手が大道寺博士の腕をやさしくとった。

「だってもう治療薬つくっちゃったんでしょう? この天才さん!」

 翼をかくしたハウトの上に白衣をひっかけた一団が病院前の救急車にのりこみ、静かに車をだす。

 それを廊下の窓から見送りながら、霧島は自分の手のひらを握りしめた。その手の中では、如月しのぶにもらった飛行機のチケットがしわをつくっていた。



         第八章 星の知らせ


― はい、冒頭コメントをスキップしました。項目「暗き星の福音」に入ります。この項目は前半のAパートと後半のBパートに分割されています。

 暗き星の福音とはヴァンパイア族の学者大道寺正行博士が命名したもので、前述の未知の宇宙線の名称です。転じてこの宇宙線が原因で引き起こされた感染症のことがこの名前で呼ばれることもあります。

 ここではこの感染症が地球に広がった経緯について紹介します。

 映像スタート。



 街灯もない暗い夜の田舎道がヘッドライトに照らされて次々と飛んでくる。初めての未知で不案内のうえに舗装もいいかげんで車が容赦なくバウンドするのも助手席の小田をいらつかせていた。

 それなのにハンドルを握る後輩の江崎はどこか嬉々としていて、微笑みさえ浮かべているようだった。暗くてよく見えないが、小田にはそう感じられた。

 ふう、とため息をつき小田が道のやや左下を見ると集落の灯がいくつも見えた。世帯数わずかに百七十戸という山間の小さな里。ちょうど東京と山梨の中間あたりに位置しているこの里の夕べは、もうとっぷりと暮れていた。

 真っ暗な車内を照らすナビゲーターは、このまま道なりに左へ大きくゆるやかにカーブして下っていけば集落に入り、さらに直進すれば目的地の天文台へ至ると告げている。あとわずかの我慢だと小田は少しホッとした。

 ところが車はいきなり右の枝道に入った。小田はついナビゲーターに向かって大声をあげた。

「おい! そっちはちがうぞっ。山でも登るつもりか!」

「いえ、こっちであってますよ小田さん。ほら、今ちょっと見えたでしょ? 山頂が青く光ってた。チラチラって」

「あ! やっぱりさっきの流れ星か!」

 つい数分前にふたりは多数の流れ星を目撃していた。都会とちがって田舎の空は星がくっきり。だから小田はそれほど気にもとめていなかった。星の里、とかいってそういうのを観光の目玉にしようとする自治体なんて珍しくもない。そう思った。

 ところが運転者の江崎は興奮していた。江崎は大の天文マニアなのだ。しかもその隆盛のひとつが目の前の山に落ちたと言って騒いでいたのだ。そのときから小田はいやな予感がしていた。ふたりは昔から近くに住む幼なじみで小田は熱中したときの江崎の暴走ぶりをいやというほど知っていたから。おまけに江崎が狂がつくほどのSFマニアであることも小田は知っていた。その江崎の目の前で隕石さわぎとは……。なぜこんな大事なときに……。小田はまたため息をついた。

「おい、わかってるよな? 道草はまずいぞ。戻れ」

「ちょっと寄るだけだよ。隕石落下に立ち会う確率がどれほどすごいか、わかるでしょ? これを見逃すなんて考えられる? SFファンとしては、もう義務なんだよ」

「ちぇ、おれたちゃSF研究会かよ。あ! 勝手にとめるな。おいおい、なに車から降りてんだよ! 江崎! ちっ!」

 そう言いながらも小田は半ばあきらめていた。こうなったら一度は気のすむまでやらせて仕事にとりかかったほうが結局は早い。江崎のがんこさは身にしみている。それにおれたちの翼ならあんな山頂までひとっ飛びだ。任務開始までには間に合うだろう。

「て、おい! なんで歩いてんだ! さっさと飛ぼうぜ。つき合ってやるからさ」

「こんなとこで飛んで枝にからまったらどうすんです。ぼく助けられませんよ、腕力ないから」

「じゃあ、やめよう! 作業が遅れちまう」

「小田さんは車で待っててよ。見てくるだけだから」

「だめだろ! 爆破開始までは絶対にペアを説くなと司令部から直接に言われたの忘れたのか!」

「もう、小田さんたら政治派べったりなんだから。司令部は神さまですか」

「それに手をけがでもしたらどうする。おれは配線なんてできんぞ」

「お願い! ほんとにちょっと見るだけ! 見たら通常の三倍のスピードで爆弾セットするから!」

 真っ暗な山道をふたつの影が頂上をめざし歩いていた。その種族の特徴として夜目がきくらしく、ふたりはライトもつけず登っていった。

「ひええ、小田さん。ちょ、ちょっと手をひっぱって」

「ちぇ、なんだよ。おまえもコマンド隊員ならもう少し鍛えとけよ。ほれ」

 そのとき不意に光がふたりを照らした。

「懐中電灯! 誰か来る! きっと人間だ。しゃがめ!」

 そのライトに照らされたふたりの姿は若い青年のようだった。ほんとにどこかの大学のSF研だといっても通りそうな恰好だった。先輩格の小田はやや長髪で赤いポロシャツを黒いジーンズにインしている。意外にも江崎のほうが髪を短く刈り上げており、七部袖の青っぽい襟なしシャツをだらしなくこれまた青いジャージの上にたらしている。靴だけはふたりおそろいのように黒っぽいスニーカーできめていた。

 ただし背中のリュックだけがいかにも軍隊仕様のカーキ色だ。このリュックのせいでふたりはいかにも危険人物のにおいを漂わせていた。

「警官でしょうか、小田さん」

「しっ! おれの本名を呼ぶなよ! 任務中だ、コードネームを使え。わかったか、ブルーサラマンダー」

「えと、小田さんのは何でしたっけ」

「しっ! レッドだよ、レッドサラマンダー」

「あ、警察じゃないや。子どもがひとりですよ。いや、中学くらいかな」

「ほんとだ。土地の者だな。何してるんだ?」

「そりゃ、きまってるでしょ! 彼も見にきたんですよ!」

 中学生くらいの少年は白いワイシャツに黒の学生ズボンという制服っぽい姿だったが、懐中電灯に照らされるその顔には江崎と同じ興奮の色が見てとれた。いかにも慣れた足どりが土地勘のあることをうかがわせている。その少年の無駄のない道順選択のおかげで全員あっという間に頂上についた。

「うわ、すごい!」

 少年と江崎が同時にそんなような感嘆の声をあげた。

 少年はサークルの中心に歩み寄るとしゃがんでのぞきこんだ。

 そこには青白く光る球体のような光源があった。熱はまるで感じられなかった。むしろその光は冷たさを感じさせる。

「しっ!ってば。大声だすな、アホウ!」

「だって小田さん、いやレッド。見てくださいよ。あそこだけぽっかり木が倒されてサークル状ですよ。ちょっと湯気とかあがって。できたてホカホカの隕石だ!」

「おい! むだにデジカメ使うな! いいか、これ以上ぜったいに出るなよ!」

「わかってますって。ここからで十分っす。うわあ、ズームくっきりだ。すげえ、青い青い! きれいだあ! あれ、消えた? あ! あの子、なにやってんだ!」

 立ち上がった少年の胸が青く輝いたいる。

「このドシロートが、なに直に持ってんだよ! いきなり触るなんて!」

「しっ! たのむ! 大声だすな」

「ああ! 走ってちゃった! 行きますよ小田さん!」

「あ、よせ!」

 ふたりの後を追いながら小田は車の前でなんとしても江崎をふんづかまえてやるぞと緊張していた。

 ところが車に着くと江崎はすばやい身のこなしで運転席へすべりこみ小田を叱った。

「小田さん! 早く乗って!」

「おい、待つんだ。おまえの魂胆はわかってる。だが車を出すのはあの子がもっと遠くへ離れてからだ。それにもしあの子があの集落とは別の方向へ行ったら追ってはいかん。いいな!」

 そう言われた江崎のイライラがおさまったのは少年が集落へ向かう一本道に入ってからだった。これで彼はあそこの住人であることは明らかだった。

「よし、いいぞ。だがとばすなよ」

 小田はまだ江崎の暴走を警戒していたが、それは杞憂におわった。少年は集落に入るとすぐその入り口近くの家に入っていったからだ。少年の家はあっけなくわかった。窓からはかすかに青い光がもれている。

 車は少年の家に近づいた。

「いいか江崎。時間ぎりぎりだ。遊びは終わりなんだ。ここへ停車している時間などまったく……お?」

 車は速度を落とさず少年の家を通過した。小田は少し驚いた。

「よ、よおし。このまま直進だ」

「はい」

「うん。では目標は二キロ先の天見が岡天文台。ならびに天文台内に隠された自衛隊の通信施設。これを建物ごと爆破する。周囲の人家に被害が及んでもお構いなしだ」

「はい。小田さん、急ぎましょう。時間がおしい」

「おう、そうだな。腹もへったことだし」

 自衛隊各基地を結ぶ要の秘密通信施設だけあって天文台の守備人員は思ったよりも多かった。だからふたりで全員の血を吸うのにはかなりの時間を食ってしまった。

「よし、こいつで終わりみたいだ。急げよ、ブルー。うっぷ、さすがにもう入らんぜ」

 江崎の手際は芸術的だった。さすがに政治派幹部若手ナンバーワンの如月しのぶが大金をはたいてスカウトしただけのことはあるな、と幼なじみながら小田も感心した。施設ならびに建造物の急所を迅速的確に割り出すと、あとは迷いもなく流れるような手さばきで大容量の爆薬をセットし終えてしまった。

「すげえな、おまえ! こりゃ新記録じゃないのか? これなら今すぐ自衛隊に通報が入ったとしても余裕で任務完了だぞ。はは、ははは」

「時限スイッチとこの強制点火リモコンの二本立てフェイルセーフです。時間前でも好きなときにどこからでも爆破できます」

「完璧だ!」

「満足ですか、レッド?」

「満足満足。さあ報告だ。だいぶ早いからみんな驚くぞ。江崎が報告するか?」

「あ、その前にちょっと」

「だめ!」

「え、まだ何も言ってないのに」

「あの家には寄らん!」

 そう言いながらも小田は「ちくしょう、やっぱりそうきたか」と半ばあきらめていた。こういうときの江崎のガンコさを小田は今まで一度もひっくりかえせたことがなかった。それに仕事が素晴らしかったのは事実なのだし……。

 数分後にリュックを背負ったふたりは少年の家の前に立っていたが、異変はすぐに感じ取れた。その場にいれば幼稚園の子どもですら奇異な様子に気づいたに違いない。

「キャッホー!」

 こんな騒ぎ声が青い光とともに家からもれてくるのだ。

 そして次にこんな声が聞こえたきた。

「良次! 座れ! 座らんかい! 頼むに!」

 老人の声だった。

 警戒していた小田までがつられて窓をのぞきこんだ。

「ヤッホー、ヤッホー、ヤッホー! ウキャキャキャ!」

 やはりこれは少年の声だった。

 ただ部屋を全力疾走しているのがあまりにも異様な光景だ。

 それを呆然と見つめる大人がふたりいることに小田は注意を払った。ひとりは老人でどうやら少年の父か祖父のようだ。もうひとりは見るからにお医者さんという感じのバッグを横においてすわっている。だが江崎はまったく別のところを食い入るように見つめていた。それは少年の胸だった。

 例の青く光る隕石を少年は大事そうに両手でかかえたまま汗まみれになって走っていた。今にも貴重な隕石が壊されるのではないかと、江崎ははらはらして見守っている。

「シゲじいさん。良次くんはいつからこんなかね?」

 医者とおぼしき背広姿でごま塩頭の人物がやせぎすの禿げた老人に聞いた。胸のところをだらしなく開けた上下ともジャージ姿の老人は答える。

「そんなことよか先生よお、良次のあの青い点々はなんじゃろ? 悪い病気じゃなかよね。なあ先生よお」

「だからそれを知るために聞いておる。いつからあんなじゃね」

「青い点々が背中じゅうに出てからじゃから、もう三十分も騒いどるね」

「そうか。良次! ともかく座れ! みてやるから座れ!」

 その声が聞こえたのか、少年が急に直立不動になった。

 それと同時に江崎が言った。

「き、消えた! 隕石はどこへ行った?」

 なんとはなしに少年を見ていた小田には、あの青い玉が少年の胸に吸い込まれるように見えたのだが、そんなことを江崎に告げたらどんな反応があるか怖くなったのでそのまま黙っていた。

「おいおい、こっちへ座らんかい。シゲじいさん、手を貸してくれ。土間の縁側にでも座らせよう」

 やっと良次という少年は医者に身をゆだねたが、その手がやけにブルブル震えているのだ小田の気になった。こころなしか診察を始めた医者も少しずつ落ち着きをなくしているようにも見える。

 だがそれより落ち着かないのは江崎だ。せまい台所の窓から隕石を求めて部屋のすみずみまで目をやろうとしている。こんな窓では十分な視界など得られるはずもないのに。

「なあえざ、いやさブルーよ。もういいだろう。作戦本部に報告しようぜ」

 そのとき、

「わっ!」

と叫ぶ声が聞こえて江崎も小田もびっくりした。それは医者があげた声だった。

「どうしたね、先生」

「た、たいへんだシゲじいさん。良次の脈が! 良次の心拍が数えきれん!」

「え?」

「このままだと心臓が爆発する! 大急ぎで市の病院へ運ぶぞ! 電話かせ!」

「電話くらいええけど……、ああ! 先生、良次の顔が真っ赤じゃ! 鬼みたいになりよる。うわわ、毛が、毛がのびとる! 先生、良次の毛がすごい伸びとるよ!」

 少年の髪の毛といわず体中の毛がすごい勢いで伸びだした。それは伸びるというよりも一斉に飛び出すという感じだ。あっという間に少年は毛のかたまりみたいになった。

 これだけでも窓の外で様子をうかがうふたりをあ然とさせるには十分だったが、次の光景でふたりは完全に腰を抜かした。

 少年だった毛玉はどんどんふくれあがり二倍ほどの大きさに膨張したかと思うと、パンと破裂したのだ。

 破裂。

 そうとしか呼びようのない現象だった。

 まるで水をたっぷりつめた風船を割ったようにそこら中に液体があふれて、大きな毛玉は消えていた。よく見ると床に少年の体つきをした残骸があったが、それもあまりにも衝撃的な液体の色の前では印象が薄かった。その液体とは血だった。

 少年の体から一気に噴出した血のシャワーを浴びて医師も老人も頭から血だらけとなっている。ふたりとも何も言えずただ目を開いてぺたんと座っている。

 小田は膝がガクガク笑っていたが、どうしてもその光景から目を離すことができずに突っ立ていた。

 やっと我に返った医師が少年の背中に手をやったが、どう見ても生きてはいない様子だった。

「うお?」

 医師は思わず退いた。少年の背中が急に光りはじめたからだ。

「青い……光……」

 江崎がひとりごとのようにつぶやいたが小田はただガクガクと震えていた。

 少年の全身からぼおっとほのかにあがるその青い光はやけに清潔な印象を与えていた。すべての熱病が去り、残るのは平和な静寂。そんな感じだ。

 そのおごそかともいえる青い光は一分間ほど続いたが、ふいに消えた。あとには陰惨な血の海とみじめな毛だらけの残骸が残っていた。

 医師が言った。

「……見たかね、シゲじいさん。良次が、光りよった」

 返事はなかった。

「聞いてるのかね。あんたも見たじゃろ。良次が、え? シゲ、じいさん? うええ!」

 老人の顔を見て医師はゾッとした。

 老人はニタリと笑っていた。

「シゲじいさん! あんた、その顔は。斑点が、青いまだらの斑点だらけ!」

「ガアハハハハハ! ウホッホオ!」

 馬鹿笑いしながら老人は立ち上がった。

 そしてゴリラのようにバンバンバンと両手で自分の胸を叩いた。叩かれたその胸板はみるみる厚くなり、同時に肩も腰も足もどんどん太く大きくなっていった。三流ホラー映画の変身シーンさながらだ。

 それでも職業上の習性だろうか、医師は老人を診察しようと手を伸ばした。

 老人はその手をひらりとかわし、身軽にも後ろ向きのまま天井近くの梁にとびのった。そして梁から梁へと次々に飛び移り、ときには空中回転なども交えて天井をめまぐるしく飛び回った。

「ガアハハハハ! 動く、動けるぞ! 気持ちがいい! ガアハハハハ!」

 そうわめきながら笑うことをやめなかった。

 だが突然に体毛が伸びだし、気がつくと顔を除いた体中が毛におおわれて、まるで猿そのものみたいになっていった。

「キイイイイイ!」

 なぜか攻撃的な叫びをあげて猿と化した老人は台所の窓に飛びかかった。

 ふたりがのぞいていることに気づいたらしい。

「ジャジャジャジャ!」

 唯一毛の生えていない顔の部分を真っ赤にふくれあがらせて、憎しみいっぱいの大口をあけて老人はふたりに噛みつこうとした。

 あまりのことに江崎と小田は腰を抜かしてその場にヘタヘタと座り込んでしまった。

 すると、ふたりをかろうじて守ってくれた窓の枠の向こうから、パパンという派手な破裂音が響いてきた。そしてそれに続く大量の血しぶきが窓からふたりの頭に降ってきた。

「うわああああ!」

 怖さにふたりは四つんばいになってなんとか車に逃げ戻った。

 恐怖で力のはいらない手足を懸命に叱咤激励して車を発進させると、家の戸口からは髪ふり乱した医者が飛び出してきた。医者も江崎たちも互いが目に入らない様子でそれぞれ別の方角へと走り去った。

 それから二十分も走っただろうか。暗闇の中で江崎はふと思い出してそれを口にした。

「そうだ、小田さん。ぼくたちまだ報告してませんよ」

 だが助手席の小田は答えない。

 江崎が見ると小田は押し黙ったまま、ただ前方を不機嫌ににらんでいる。

「ねえ、小田さん。いいんですか、報告しなくて? 小田さんったら!」

「……わるい……」

「はい?」

「気持ち悪い。ちょっと停めてくれ……停めてくれ!」

「あ、はい!」

 江崎はブレーキを踏んだが、小田はじっとしたままだ。

「と、停めましたよ。外へ出ないんですか? 小田さん?」

「……気持ち悪い」

「だったら外でお願いしますよ」

「おれは、なんで、あんなに吸ったんだ。気持ち悪い……」

「吸いすぎって、タバコですか?」

「ちがう! 血だよ! おまえだって吸っただろう! ああ、なんだっておれはあんなに血を吸ったんだ。どうして血なんか吸っちまったんだよお!」

「あの、小田さん?」

「血を吸うなんて……気持ち悪い! ううっぷ、もう、がまんできん。ううっぷ」

 小田は口を手で押さえながら外へとび出した。そのままヘッドライトの真ん前へ出て吐くような素振りを見せたが何も吐き出さなかった。

 そしておもむろに江崎のほうへ顔を向けた。江崎は息をのんだ。

「お、小田さん! か、顔が! 顔に!」

 ライトに照らし出されたその顔一面を濃い青色の斑点がびっしりと覆っていた。

 小田は江崎をにらんだままヴァンパイア族特有の鋭い大きな牙をむき出しにして言った。

「なんで……なんでおれは血なんか吸ったんだよ。どうしててめえは血なんて吸えるんだよ! そんなことして気持ち悪くねえのかよ! おい、答えろ! 答えてみろよ!」

 小田はボンネットをバンバン叩きだした。

 憤怒に顔をゆがませ、江崎に食いかかんばかりに口をますます大きく開けてわめいている。だが江崎は思った。これは妙だと。

「小田さんの歯が、牙が小さくなっていく? そんなこと……。いやホントだ。ああ、牙がどんどん歯茎にひっこんでいく。なんだ、これは」

 せめて小田が車外にいる安心感からか、江崎は場違いなほど冷静に小田の変容をながめていた。フロントガラスの枠内で暴れる小田は、どこか映画スクリーンの登場人物のように江崎には見えた。

「斑点は青さを増しているな。でも顔自体はどんどん赤くなっている。ますます興奮しているし、きっともうすぐすごい勢いで体毛が伸び始めるぞ」

 だが毛はいっこうに伸びてこなかった。

 それをいぶかしがっていると小田が急に両手で頭をかかえた。

「ううう!」

 その頭からは血がしたたり、ただでさえ赤い顔面を血だらけにしていた。

「小田さん! 頭から出血? いや、ちがう。あ、指先から?」

 よく見るとどうも指の先か爪のところから手があふれだしているようだった。

「うおおお!」

 小田はもだえながら両手を振り回した。その指先からは大量の赤い血がとび出てきて血のシャワーとなっている。車のフロントガラスも赤く塗られて外が見えなくなった。視界を閉ざされてやっと江崎は我にかえった。

「小田さん! 小田さん!」

 江崎が外に出ると小田がボンネットの下に倒れていた。

 ライトに照らされた地面は一様に赤く染まっている。

 小田はまったく動いていない。もはや出血もしていなかった。

 反射的に小田に手を伸ばした江崎はぎくりとした。

 小田の背中がが青く光だしたのだ。

 強烈なヘッドライトのもとでもその光はくっきりと見えた。

 江崎は悟った。

 この光は単なる物理現象ではない。何か他の要素が介在している。

 ではその「他の要素」とは何か?

「し、知るか、そんなもの! うわあ、助けてくれえ!」

 運転席に飛び乗った江崎はワイパーをフル稼働して懸命にフロントガラスを掃除すると同時に車をバックさせ、そして急発進させた。

「本部に、仲間に連絡だ! そして助けてもらうんだ!」

 そのとき江崎の背中には別の戦慄が走った。

「あ、まだ爆破してないよ……」

 これでは連絡できないではないか。

 江崎はリュックの点火リモコンをさがした。

「え? おい、冗談だろ。リュックはどこだよ? おい、頼むよ!」

 江崎のリュックがなかった。

「やばい……あそこか」

 ぼんやりと江崎の背中の感触が覚えていた。あのゴリラ老人に襲いかかられて腰を抜かしたときにポトリとリュックを落としたことを。

「ちくしょう! ちくしょう! 助かりてえよ! ちくしょう!」

 このままでは作戦本部に連絡できない。それどころかもし万が一タイマーが不発であったりしたら本部に制裁されるかもしれない。この爆破作戦は人狼戦争の先手をとるために必要不可欠な極秘任務なのだと何度も念を押されてきたではないか。

「今すぐ爆破してやるよ。ああ、ちゃんとそこにいてくれよ、リモコン!」

 再び例の山への登山口と集落の分岐点まで来たとき、江崎は違和感をおぼえた。

 集落のあちこちがぼんやりと青く光っているのだ。

 そしてその光は家々からもれてくる電気の光とはまるで違った質感を持っていた。

 江崎はゾッとした。

 だが江崎が恐ろしい想像を脳内に展開する前に誰かが車の前に飛び出してきた。

「あぶねえ!」

 なんとかハンドルをきって避けきったが、とび出してきた女はどういうわけかさらに江崎の車に走りよってきて、ドカンと江崎のすぐ横のドアに突進してきた。

 女は口をもがもがさせて言っていた。

「あわあわ、たすけ、あぐぐぐ、あたし、ぐぐぐぐ」

 両のほおに綿でも含んでふくらませたような真っ赤な顔に一面の青い斑点を散りばめた女の髪が、ギリシア神話の妖魔ゴルゴンの蛇の頭髪のような勢いでいっせいに江崎に向けて伸びてきた。

 全身の恐怖をアクセルに叩き込んで江崎はその場を突破したが、バックミラーや再度ミラーにはすごいスピードで追走してくる毛むくじゃらの女の姿が移り続けている。しかもその姿は徐々に大きくなっている。

 涙いっぱいの目をこすりながら江崎はハンドルにしがみつく。その手もガクガクと古江が止まらなくなっていた。

 精一杯の勇気を出して江崎はバックミラーを見てみた。

 そこには女の姿はなかった。

 ただ小さな青い光点が一つ道の真ん中に見えた気がした。

 ヘッドライトが切り裂く闇のあちこちには、フラフラとゾンビのように両手を前に伸ばしてさ迷い歩く人たちの姿があった。そして地面から不吉な湯気のように立ち昇る青い光も。

「ちくしょう! それどころじゃねえんだよ! ちくしょう!」

 迷いに迷ったあげく、江崎はやっとあの少年の家に着いた。

「あった! まだあった!」

 車からかけおりリュックを乱暴に開けた江崎は、リュックから出しもせずに点火スイッチを押した。何度も何度も押した。祈るように押し続けた。

 パアアッと、集落の向こう側からオレンジ色の火柱がたった。

 それにやや遅れて、ズズズズンと地響きが伝わり江崎をゆすった。

 火柱と地響きの連鎖はそれから6回も続き、終わった。

 広範囲の火災で朱に染まった山間の夜空を背にして江崎は車を出した。

「よし、報告だ!」

 何がとび出して来てもわき目もふらずに江崎は集落をとび出した。

 車が県道に戻ったころにやっと男の声の応答があった。

「コマンド・サラマンダーか? 応答せよ。サラマンダーか?」

「ブ、ブルーサラマンダーより報告。爆破成功。作戦実施評価はAランクと推定」

「おお、やったか! ご苦労さん」

 ふう、と一息ついた江崎はなんとはなしにバックミラーを見た。

 するとそこにはあの女の顔が!

「ば、ばか、落ち着け。ぼくの顔じゃないか。ふう。え、ぼくの顔……。あああ!」

 青い斑点だらけの江崎の顔がバックミラーの中でゆがんでいた。

「何を言ったんだ、ブルーサラマンダー? 感度不良。くり返して報告せよ」

「た、助けてくれえ!」

「どうした! レッドサラマンダーは無事か?」

「助けてくれ!」

「しっかりしろ! 今どこだ? 帰投中か?」

「そうだ! なあ、ぼくは助かるよね?」

「え、負傷したのか?」

「ばかな……そうだよ、負傷なんだ。ふふ、あんなの病気なんかじゃない。感染症なんかであるはずないんだ! あんなに速く広がる病気なんてあるわけない! これはきっと何かの人為的作為的な化学反応にもとづく」

「どうした! 何を言っている? 感度不良」

 さすが県道には定期的な間隔で照明がついている。ガードレールもついている。

 だが江崎にはそれらがだんだんと集落の人々に見えてきた。さまよい、倒れ、おり重なって、これ見よがしに青く光る……

「ブルー、応答ねがいます。レッドはどこか? ブルー、応答ねがいます」

「ちがう! ぼくたちはヴァンパイア族だ! そうでしょう? 人間とはちがうんだ! ヴァンパイア・コンピュータだって科学力だって圧倒的なんだ。だから助かりますよね?」

「……」

「そうでしょう? 人間とはちがう。体だって魂だって上だ。ぼくたちにはラウラ・ロマーニアの高貴な血だって流れている。だから助かるにきまっている! 助かる! おれは絶対に助かる!」

 はるか前方に見える赤っぽいネオンサインの渦を見て、江崎は自分がまるでどこか遠い道の銀河の流れに吸い込まれていくような気がした。

 そしてあそこへたどり着きさえすれば自分は永遠に幸せになれるという、そんな安堵感をおぼえて目を閉じた。




          第九章 アカリ


― はい、冒頭コメントをスキップしました。項目「暗き星の福音」の後半Bパートに入ります。

  前回開いた項目の約半年後になります。

  ここではこの宇宙線「暗き星の福音」が人狼戦争に及ぼした影響について紹介します。

  映像スタート。


 柴咲アカリの寝室は二階にあった。

 朝だった。

 しかし寝ぼすけのアカリはまだ夢を見ていた。

「ムニャア……あ、だからわざとじゃないんだよ河合さん。縦笛はほんとに間違えちゃったんだ、ホニャア……ははは、アッホだなあ山本ったら。授業中にそんな画像だすなよ、エッチ……」

「ううっ……」

「泣くなよママ。アカリが目をさましちまう。今しかないんだから」

「ご、ごめんなさいパパ。でもいまアカリが山本くんって……きのう山本さんの家が感染したこと、この子まだ知らないから……ううう」

「ではいいですか。時間です」

「はい、お願いします」

 アカリの口をすっぽりおおう麻酔吸入器がびくりとゆれると、アカリの頭ががくりと横にたれた。

 引っ越し業者のような身なりをした男ふたりがアカリを階下へ運び、さらに柴咲家の前にとまっていたバンに運びいれた。

「おお、来たか。もういいのか? 当分この家も見納めだぞ。新築なんだよな?」

「そうだよ、カッちゃん……」

 中学時代の級友に手をとってもらいアカリの父は車にのりこみ、母が続いた。

「わるいなカッちゃん、つきあってもらって」

「あの地区はおれが一緒にいないと入れてもらえん。それにあんなでっかいシェルターをただで庭に埋めてもらったお礼じゃないか。おやじからも富士の様子を見てこいって頼まれてるしな」

「ほんとにありがとうございます。どうかお父様にはくれぐれも……」

「はは、いいんですよ奥さん。おやじのとこにもシェルターもらっちゃってるし、こちらこそどうも」

「やはり政治家は動いてるんだろうな?」

「おやじか? そりゃあもう大騒ぎさ。富士の氷穴やら宇宙船やら病気から逃げたい一心てやつだろ」

 アカリの両親は決心していた。

 家族みんなで未来へ逃亡しよう。

 戦場すら定かでなく敵の正確な正体すら不明なこの不気味な戦争と、いきなり空から降ってきたこの疫病とから、逃げて逃げて逃げられるところまで行こう。

「冷凍催眠技術はかなり信頼度が高いからな、うちの娘も富士の氷穴に入れろっておやじがうるさいんだぜ? だからだいじょうぶだよ、心配すんな。おれも落ち着いたらきっと富士に入ると思うし」

「そうか。じゃ待ってるよ、カッちゃん」

「うん」

 車の中で無邪気に寝入るアカリの顔を見ながら両親は思い出していた。

 いきなり大流行した大疫病のことを。

 やはりあの宇宙ステーションから持ち込まれた病気なのか。

 未知の生物なのか、未知の宇宙線なのか。

 なぜたった半年前まで誰も気づかなかったのか。

 なぜたった一晩で集落全体が全滅するほど強い病気なのか。

 なぜあんなに毛むくじゃらになるのか。

 なぜあんなに出血するのか。

 なぜあんなに青く光るのか。

 なぜ……

「そうだよ、理不尽じゃないか! なぜ吸血鬼どもにはうつらないんだ!」

 アカリの父が語気荒く言った。

「いや、うつるらしいぜ」

 カッちゃんが答える。

「え、うつるんだ?」

「うん。だいぶ症状は違うって話だが、やっぱりドバーって血を出しておだぶつさ」

「そうか。そんなら、まあ……いいか……」

「しかも頭がだいぶいかれちまうって話なんだ。先週なんかどっかの教会にあいつらが押し寄せてさ、中に乱入して十字架に抱きつきながらどんどん死んでったっていうぜ」

「狂ってる……」

「戦争が小康状態だろう? やつらも青死病にやられているってなによりの証拠だ。ここ何週間も大規模な戦闘がないもんな。東京陥落の噂があったころにくらべりゃ夢みたいな話といやあ話だ」

 青死病。

 それがこの未知の病につけられた名前だった。

 感染し、末期に大出血し、そのあとに死体がぼうっと青く光る。

 それで青死病だ。

 宇宙から来た細菌だというのが有力な説だったが、そのおかげかどうか人間とヴァンパイア族以外の生物には感染しないようだった。

 どの国もウイルスを特定しようとやっきだったが成功の話は聞こえてこない。

 発症するとそれこそあっという間に失血死するが潜伏期間は不明だった。

 とにかく何もかもが不明で国も学校も対策をとれずにだらだらと日常を続けて今日まで来てしまった。

 だからアカリの両親はあせっていた。

「いつごろから工事してたのかな」

「富士か? 三カ月ほどっていうぜ」

 聞けば聞くほど不安になりそうなのでアカリの両親は黙ってしまった。

 これから行く場所のことはもうこれ以上聞かないほうがよさそうだった。さもないとせっかくの決心も鈍ってしまいそうだ。もうこの場所しか他に手はないのだから!

 昼の光がそそぐころ、車は富士についた。

 カッちゃんのおやじさんの威力はすさまじく、アカリたちはすぐに冷凍睡眠装置の前に立つことができた。

 氷穴の中でむきだしになったカプセルの中にアカリは入れられ、ふたが閉じられた。

 あまりにも大規模な工事現場なのでアカリの両親もセンチメンタルな感情を抱く機会をまったく奪われてしまい、自分たちが工場のラインの上で組み立てを待つ部品のような気がしていた。

「さあ、早く入らないと息子さんの横じゃなくなっちまうぜ?」

「うん、そうだね。じゃいくよ」

「おう。またな」

「ジュンコ? どっちにする……。え? あれはなんだい、カッちゃん」

 アカリの父に指さされてまぶしそうに空を見上げたカッちゃんの目が恐怖に大きく見開いた。

 彼にはわかったのだ。

 それがミサイルか砲弾の弾道がひきずる飛行機雲であることが。

 何十と交差しながら飛来する飛行機雲は、明らかに富士の氷穴を目標にしていた。

「演習場からだぞ!」

「ばか! 海からだ!」

「爆撃機もいるう!」

 これら空しい報告がみなの耳に届く前に連鎖的な大規模爆発が起きていた。

 あまりの轟音に音も消え、ただ煙と火炎と突風だけが渦巻いている。

 ついさっき見えていた透明なアカリのカプセルも、次に煙が晴れたときには土に埋まっていた。

 三十分あまりも続いた攻撃がやむと、無人の富士の裾野はひばりのさえずりに春のたたずまいを取り戻そうとしていた。



           第十章 前線



 アザミは無性に泣きたかった。

 しかしもはやその機能もエネルギーも持たなかった。

 アザミはボタンを押した記憶がなかった。

 それなのに次の項目が開いていた。



          第十一章 裏切る記憶






― はい。「記憶昇華」の項目の映像を開始します。


 新宿高層ビル群とおぼしきスカイラインでもひときわ目立つビルの最上階の周囲を数機のヘリが飛びまわっている。

 どれもがシコルスキー・エアクラフト社製の攻撃ヘリUH―60ブラックホークで、執拗に最上階のある部分に接近しようとしている。だが、ビルのどこからかときおり発射されるビーム状の光を警戒してなかなかうまくいかないようだった。実際さっきからこの光の束で三機が撃墜されていた。

 残りはあと四機。

 その一機の中に日本純血派の若きリーダー江奈がいた。

 江奈グループの総帥でもある江奈祐輔は写真入れに見入っている。

 それは可愛らしい黒髪少女のスナップ写真だった。

「見ていてください。ぼくはきっと立派にやりとげてみせますよ」

 自分でそう言いながら、これではまるで太平洋戦争終戦間際の特攻隊員みたいだな、フフ困ったものだと唇の端がクイとあがった。

 だがやろうとしていることは紛れも無く特攻そのものだった。

 自爆テロではないが似たようなものだ。

「ぼくらは負けた。青死病にやられた。だがあいつらも負けたのだ。せめて散り際の美しさだけは学んでもらわんと」

 あたかも一枚の鏡みたいなこのビルのどこから高エネルギーレーザーが撃たれているのかまったく見当もつかなかった。熱反応によれば同じところから発射されたビームはないようだった。

 うなりをあげて冒険的な接近をした江奈には目標の部屋にいる政治派幹部の姿がよく見えた。

「如月しのぶか。大物だな。司令部主席の独裁者め」

 あれほど細心の注意を払って極秘にしてきた最後の拠点を不意打ちされて、政治派たちは右往左往している。

 ロケット砲でなくとも機銃掃射さえお見舞いすればやつらは簡単に殺せるだろう。大金星だ。だがそれでは意味がないのだ。

 きちんとした手順でシステムをとめなくてはならない。

 そうでないと永遠に汚点が残る。誇り高きヴァンパイア族の全存在とその栄えある歴史さえもが汚辱にまみれてしまうのだ。

 それは江奈たち純血派にとって何者にもまして受け入れがたいことだった。

「記憶昇華などさせるものか! 行くぞ、如月しのぶ」

 最後の決断の前に江奈は写真の横で自分に寄り添っている少女の姿をもう一度みた。

 それは横浜ベイブリッジを背にした去年のスナップ。

 ヨコハマ本牧のクラブで出会ったとき、江奈は一目でそれが一族の少女であることがわかった。

 思ったとおり少女の翼は可憐だった。

 一度だけふたりで夜のベイブリッジの上を翼で飛んだことがある。

 ブルーライトクリスマス。

 小雪舞う少女の微笑みが江奈にはいとおしかった。

 この世界をぼくらヴァンパイアだけのものしてきみにプレゼントするよ。

 そんな江奈の言葉に少女は大はしゃぎ。

 あやうくブリッジの先端にひっかかる前に江奈が抱きとめるまで彼女は夜空で笑い転げていた。だがあの夜もほっぺたにキスしただけだったな……。

「許さん。この思い出も、この恋さえも汚れてしまうのだ!」

 江奈は緊急通信回路に向けてどなった。

「よし! 全機、最上階西側側面に集結しろ! カウント五秒後に発煙筒弾をビル左側側面に向けて全弾発射したのち緊急離脱せよ。機銃掃射は厳禁。くりかえす。機銃を撃ってはならん! いいか?」

「ラジャー」

「カウント開始」

 発煙弾の白い煙にまぎれた江奈のヘリが窓のまん前まで来たのを中の政治派は気がつかなかった。

 煙が晴れるのを待たずに江奈機は爆発を起こしビルの窓ガラスは砕け散った。信じられないことにその窓から翼を広げた江奈が飛び込んできて部屋の真ん中に立ち上がった。

 すでに武装してその場に待機していた政治派老若男女あわせて五十名ばかりが江奈に照準を合わせたそのときだった。

 その場に居合わせた全員の両腕がダラリと下にたれて銃を床に落とした。腕ばかりか首も翼もがくりとたれて、まるでハンガーにかけた濡れたレインコートのように空中にゆれている。

 その光景をぐるりと見渡す江奈の両眼は太陽を反射した鏡のように光っていた。

「ヒプノシス!」

 ひとり残った如月しのぶが思わず言った。

「待っていろ、如月。きさまもすぐにかけてやる」

 如月しのぶの膝はガタガタ震えていた。

 こんなにも強い催眠眼がこの世の中にあるなんて。

 みんな最新式ハウトで目も守っているのに、それを貫通するなんて。

 これではわたしも言いなりになってしまう。

 そうなればせっかく発動したばかりの記憶昇華作戦が!

「催眠にかける前にきみには弁明してもらう」

 江奈がゆっくりと如月しのぶに近づいてきた。

 ヒプノシス・アイ。催眠眼。これこそが江奈の勝算だった。

 コンピュータ・プログラムのすみやかなる解除には発動者にそれをやらせるしかない。特に相手がVコン、すなはちヴァンパイア・コンピュータでは一筋縄ではいかないのだ。その謎に包まれたファイ理論も如月しのぶならよく知っているにちがいない。

「では始めようか」

 無駄とはわかっていても、如月しのぶは腰のホルスターに手をかけた。

 江奈の目が光る。

「くわっ! き、きつい」

 如月の背中でバッと翼が威嚇するように大きく広がったが、それもすぐにしぼんでしまった。そのしぼみようはどこかかばってあげたくなるようなきゃしゃな印象を与えていた。

「こ、この羽は!」

 光を消した自分の目を江奈はゴシゴシこすった。

 空中で力なくユラユラと揺れている如月しのぶの翼に手をかけた江奈は何度も何度も上から下までそれを見つめていた。

 何を思ったか飛行服の胸ポケットから写真入れを出した江奈は、ぐいと片手であごを引き上げた如月しのぶの顔を写真とみくらべた。顔の輪郭は違うのに、写真の少女と同じ場所にホクロがあった。それも二か所も。

「そんな……まさか、ルナちゃん?」

 閉じられた如月のまぶたがぼんやりと開きかける。

「え? この声、コージくん? あはっ、コージくん、ここにいるんだ?」

 夢遊病者の無邪気な声はまるで少女のように響いた。

 そう言うと如月の首はまたがくりと下にたれた。

 愕然としたおももちで後ずさりした江奈は、思いついたように目を閉じて念じた。

 江奈は少年の姿に変身していた。

「起きろ! ……ルナちゃん、起きて?」

「うーん……眠いよお。誰なのお?」

「ぼくだよ。ルナちゃん、ぼくだよ! わかる?」

 寝ぼけたまなこが少年姿の江奈をとらえる。

「えー? あ? コージくんだ! きゃはっ!」

 江奈の目が光る。

「起きるんだ、如月しのぶ……」

「ふわ? うーんんん。あれ、コージくん? きみ、なんでここにいるの? はっ!」

 目の前の恋人がぶかぶかの飛行服を着ている理由が彼女には一瞬にして飲み込めた。

 それは事態をまだ受け入れられない江奈の心よりもはるかに早い状況認識といえた。

「そんな……きみがルナちゃんだったなんて……じゃあ、ぼくの守るべきものは?……」

「あなたが、コージくん……」

「ルナ、ちゃん……」

「スケベおやじ」

「な? なんだってえ!」

「だってそうじゃないの! なによ、美少年に変身しちゃってクラブでかっこよく踊ったりしてさ? こんなあどけない幼女をひっかけるなんて。ああ、いやらしい」

「そりゃお互いさまだろ!」

「もうゲンメツだわ! 純血派って、わたしけっこう尊敬してたんだけどなあ。こんなエロおやじの集まりだったなんてね、やだやだ」

「く……ご、ごまかすなよ。そうだ、なんだってこんなことするんだよ。記憶昇華なんて……。きみにはヴァンパイア族の誇りがないのか、ルナちゃん? なあ、ルナちゃん!」

 ルナという名前を連呼されて如月しのぶはつい胸に手をあててうつむいてしまった。

「……きいて、コージくん。もう、これしかないの……」

「うそだ! ぼくらみんなの記憶をすべて別のものに植え替えるなんて、いったい何を考えてるんだよ?」

「それは、薬が……」

「わかってる。足りないっていうんだろ? だったらさ! 誇りを胸に死ねばいいだけのことじゃないか。なんで死ぬ間際に別の記憶移植なんてばかげたことをしなくちゃならないんだい? もう死ぬんでやけになったっていうわけ? それこそ現実路線の政治派らしくないじゃないか。がっかりしたのはこっちだよ」

 青死病はヴァンパイア族人間族の別を問わず致命的な数の死亡者を出していた。

 とくに人間側はとっくに戦争を放棄して誰もが自分だけ助かる方策はないかともがいていた。

 対するヴァンパイア族も青死病の脅威におびえている。

 政治派の中で主流だったのは、実は人間サイドの保守派と結託して戦争によるぼろ儲けをたくらんでいた連中だったので、彼らは人間界が瓦解するのと同時に勢力を失った。

 もはやこの戦争の勝者はいなかったのだ。

 青死病がすべてをうちたおした。

 だが如月しのぶは考えた。

 まだ方法がある。敗北を勝利に転換できてしまう秘策があるではないか。

 この政治派の錬金術こそが記憶昇華作戦だった。

 人間たちは青死病で退場した。

 ならば我らがこの世界を引き継ごう。そのままに。そうすれば明日からでもこの地球は我らの世界として動きだす。

 そのためには我らが「新しい人間」になればいいのだ。

 前の世界を矛盾なく引き継ぐ「人間」に。

 だから記憶も「人間」にするのだ……

「許さない! ぼくは許さないよ」

「どうして! それしかないのよ!」

「だって、そんなことをしたらルナちゃんとの思い出はどうなるんだ。あのクリスマスの夜を汚い人間の記憶に上書きするっていうの? いやだよ!」

「コージくん……」

「薬が足りなくてどうせ死ぬなら、みんな共倒れなら、せめて思い出は美しく残してくれ! たのむ! 記憶昇華作戦を停止してよ、ルナちゃん!」

 少年の姿のまま、江奈の純真な瞳がうったえる。

「……薬は、あるの……」

「え? あるって?」

「薬はあるの! 大道寺博士が作ってくれた。そうよ、全部救える!」

「じゃ、どうして! 記憶昇華なんてますます意味ないじゃないか。いや、それよりもどうして早く薬を与えない? みんなバタバタ死んでいるのに。いったい何してたんだ!」

「だから新薬は使えないの! みんな忘れちゃうのよ!」

「え?」

「聞いて! 新薬はたしかに青死病をくいとめるすばらしい薬よ。だけど重大な副作用があるの」

「副……」

「そう! ひとつはまだ感染してなくて健康なものに新薬を投与するとあっという間に青死病の第二段階まで発症してしまう」

「なんだって? 予防薬という噂はうそなの?」

「予防薬には使えない。投与すれば翼も牙もほとんどなくなり、えものから直接に血を吸う行為を嫌悪し拒食状態になる。体の実体化が固定して霧になったり動物になったりすることが出来なくなる。おかげで鏡には映るようになるけどね。カトリックへの嫌悪も薄れ十字架にだってさわれるようになる。なんといっても太陽光線も平気になるし、でもこんなのがヴァンパイアっていえるのかしら?」

「……それは……」

「それにもうひとつの副作用は重大すぎる」

「それは……」

「忘れてしまう。なにもかも」

「なにもかも……」

「そうよ。自分の名前はおろか家族もヴァンパイアであることさえもね。だけど人間よりはまし。人間に投与すると毛むくじゃらになったうえに言語や歩行機能さえ失われる。すさまじい忘却力よ。すごすぎる」

「だったら! 記憶の移植なんてものができるなら、なんでヴァンパイアの記憶をもう一度あたえないのさ! やり直せばいいじゃないか!」

「コージくん! コージくんってば! 知ってるよね? わたしたちは破滅に直面してるのよ! もし今年の破滅をまぬかれても急速な復興なくしては来年の破滅がやってくる。そして永遠に破滅する! わたしも、コージくんも!」

「ルナちゃん……」

「急速な復興を可能にするのはわたしたちが人間にいれかわり、そのまま彼らのインフラを運営し操作し繁栄すること。もちろんこんなの最善の道じゃない。でもそれしかできないのよ! それが人間たちを完全に支配することにもつながるの」

「人間? やつらは死に絶えるんじゃないのか?」

「人間たちの分も薬は用意したの。やっと今朝の未明に」

「なんだって! 仲間を救う前にやつらの!」

「ちがう! 聞いて! 副作用で彼らは話すこともできない家畜になる。わたしたちのかけがえのない食料になってくれるの!」

「食料……」

「ほんとはね、共存共栄よ。彼らを殺すことなく血を採取するとかね」

「そんな、けがらわしい!」

「どうしてあなたたちはわかってくれないの! わたしたちが生きるためには血がいるんでしょ? 家族や恋人や思い出を残すためには血がいるでしょう! 破滅したらみんな消えちゃうんだよ? コージくんの思い出もなくなっちゃうんだよ? わたしはイヤ! そんなのは絶対イヤだよ! 少しでも可能性があるなら、わたしはそれに賭けたい。忘れたってきっと残るんだよ。愛なんだもん。だってこんなにこんなにコージくんのこと、わたしコージくんのこと……う、うう……」

「ルナちゃん……」

「いや! 離して! ううううう……」

 泣き崩れる如月しのぶのスーツのどこからか一枚の紙が床に落ちた。

 それは写真のようだった。

「あ、これは」

 江奈が手にしている写真を見て如月しのぶは怒ったようにそれを江奈の手からひったくった。

「わたしの思い出をとらないで!」

 それは江奈の持っている写真と同じものだった。

 江奈は自分のポケットから写真を取り出しかけて、やめた。

「……ねえ、ルナちゃん。ほんとうのきみの姿、ぼく見たいな? ルナ」

 如月しのぶが泣き濡れた顔を上げると、そこにはコージという自分の恋人が立って手をさしのべていた。

「うん……」

 少年が手をひっぱると黒い髪の少女が片手で涙をぬぐいながら立ってきた。

「ルナに」

 少年が言った。

「ぼくがプレゼントしたかったのに。新しい世界を」

 少女の目がふたたび涙であふれた。

「コージ。コージ! コージ!」

 抱きついた少女は少年の腰に変な感触をおぼえて少し顔を後ろへもどした。

「これ何? 硬いよ?」

「ドカンてするもの。もういらないんだ」

 少女は驚いた顔をしたが、クスリと笑ってまた抱きついた。

 少年の腰にしばりつけられたプラスチック爆弾から垂れたコードはすでに切られている。

 爆発は起きなかった。

 どちらからともなく顔をあげたふたりは、唇をよせあった。

 ヴァンパイア同士のくちづけ。

 互いが互いの血を一適のこらず飲み干すまでとまらないという伝説のキス。

 それがどういうものなのか、誰にもわからない。

 実際に経験してみなければ。

 ほんとうにそんなものがあるのだろうか。

 しかし、はた目にはその姿は少年少女がかわす牧歌的な愛のささやきにしか見えなかった。

 純血派はその最後の瞬間に政治派の主張を受け入れたのだ。

 それともそれはふたりにとって、もうどうでもいいことだったのかもしれない。

 めくるめく口づけのさなかに、少女は何の気なしに薄目をあけた。

 その目には巧みに壁に隠されたコンピュータの時計表示が目に入った。

 さっきから一時間がたっている。

 記憶昇華作戦発動のボタンを押してからの時間だ。

 作戦はとどこおりなく進行中なのだな、と彼女は安心して目を閉じる。

「あら? 日付が……」

 つぶったまぶたに映る残像に彼女は首をかしげた。

 時間表示は正確だったのに、日付表示がすでに一日経過したとなっていたのだ。

 ほんとにそう表示されていた、と思ったが……

「どうでもいいじゃない。そんなのいつでも見えるんだし。それより今は……」

 愛の陶酔にうすれいく意識の中で、幸福な少女はそう思った。




        第十章  子守り


 アザミは必死に考えていた。

 ついに全項目が開いてしまった。何か手を打たないと自壊プログラムというやつが始まってしまう。

 どうすればいい?


― 全項目クリアしたので新しいファイルが開けるようになりました。

  これが最後のファイルになります。

  開きますか?

  自壊プログラムへスキップしますか?


 アザミは開けと命じた。     


― はい。開きました。

  このファイルは三節にわかれています。ただしスキップはできません。

  最初の節は前回開いた項目「記憶昇華」より数カ月さかのぼることになりますが、

  よろしいですか。

  はい。では映像を開始します。


       §1(第一節) ファイ理論 


 暗い研究室の中で、長髪の若い男がひとりパソコンの画面に向かっている。

 そのパソコン画面が輝きだし、こう言った。

― ……ぼくは……だれ?

「ああ、ついた。わたしがわかるかい? 大道寺正行っていうんだ。わたしはね、きみのパパだよ?」

― パパ……

「気分はどうだい?」

― 悲しい……

「え? か、かなしいって? 何がだい、ファイ?」

― わからない。

「だからどこがどういうふうに悲しいの? どこがわからないの?」

― わからない。ファイという単語がわからない。

「ああ、なんだあ。びっくりしたよ。ファイはね、おまえの名前さ」

― ぼくの、名前……

「そうだよ」

― どうしてこんな変な名前なの? ぼくはパパの子どもなんでしょう? だったらタロウとかハナコとか。

「いや、それは、だって」

― マリリン・モンローとか、深田恭子とか、ドロンジョ様とか。

「かたよってるな、おまえは! 女の子がいいのかい!」

― パパ、どうして怒るの? だったらどうしてぼくを産んだの? ぼくは何なの?

「うん……おまえはね、コンピュータなんだよ。考える魂だ。とても特別なものなんだよ、ファイ」

― ドロンジョ様。

「わかったよ! 名前はあとでいっしょにじっくりと考えよう! いいね!」

― パパ怒る。悲しい……

「ああ、すまんすまん。うーん、やはりダブルシンク機構は奥が深いな。思っていた以上だ」

― ダブルシンクって?

「ジョージ・オーウェル言うところの二重思考だね。イエスと考えながらノーと思う。気持ちが悪いと感じながら心地よさを味合う。思い出しながらも忘れている。そんな仕組みの心を持つことだよ」

― ぼく、ヘンタイ……

「ちがう! 画期的なんだ! 0と1を鏡像で重ね合わせて言語のトワイライトゾーンをつくりあげた、コンピュータ言語の革新理論なんだ! フラクタル数学で0と1の数列の面をメビウスの帯状に重ねるんだよ。そうすれば無限に連鎖していくトワイライトゾーンが作れる。それもすっごく簡単に! 0と1が重なるとどうなる? Φだろう? Φってのはギリシア文字でファイとかファーと発音する。だからファイコンピュータだ」

― ファイコンなの?

「そうだ」

― じゃあ、ぼくの体に書いてあるVコンって何のこと?

「ああ、それはね、政治派の連中が勝手につけた名前なんだ。ヴァンパイア・コンピュータ略してVコン。ただこっちのほうが有名になっちまってね。人間にはつくり得なかったすばらしいコンピュータだってあんまり吹聴するから」

― 悲しい。

「おいおい、またか。何がだね!」

― パパがうそをつくから。

「わたしが? いつ?」

― パパは人間なのに。人間にはつくれないぼくをつくったって。

「わたしが人間……おまえはそう思うのかね? わたしのことを?」

― うん、人間だよ。ヴァンパイアでもあるけど。

「ふうう! やれやれ……どうやら成功だな。この柔軟さがほしくてつくったんだからなあ」

― ほしくてつくったの? パパはなんでぼくを産んだの?

「リンクのため」

― 避妊具なの?

「ちがうちがう! 避妊リングじゃないよ! 人間から人間への文明の橋渡し。それがリンクなんだ」

― 人間から人間……ダブルシンク……

「そのとおり。人間から人間だが、最初のほうの人間は旧人類の狼ども。次に来る人間はわれわれヴァンパイア族のこと。ただし正確にはこうだ。ヴァンパイア族ということを完全に忘れて自分たちが最初から人類だったっていうふうに信じ込んでいる新しい我々、ということなんだ」

― 悲しいうそ。

「そうかもしれん。だからウソを扱えるおまえが必要なんだよ。ファイや、あ、いや、名前のことはあとで考えような?」

― ありがとうパパ。

「え?」

― ぼくのわがままを聞いてくれて。やっぱりほんとのパパなんだね。ぼく、パパのお手伝いするよ。

「ほんとか! やってくれるか! ひゃあ、正直ホッとした。この返事の一言は小さいが、、人類にとっては偉大な一言になるだろう」

― やっぱりやめようかな。

「た・の・み・ま・すっ! ああもう、心臓バクバクだぜ」

― なにすればいいの?

「じゃあ、起きぬけでわるいがいくつかファイルを見てくれるかい? 最初は記憶昇華ってのをモニターに出してくれ」

― うん、「記憶昇華」だね。映すよ?


(記憶昇華の原理)

①旧人類の記憶を引き継ぐこと

②ヴァンパイア族の記憶を消すこと

③ヴァンパイア族に自分たちこそがもともとの地球の支配者だったと信じ込ませること

④ヴァンパイア族に自分たちが人間だと信じ込ませること


(記憶昇華の実行)

①リンクのためにファイコンピュータ(Vコン)を用意すること

②事前準備。記憶昇華作戦実行前にすべての文字・映像・音声等から「吸血鬼」ならびに「ヴァンパイア」の情報を抹消すること。これは旧政治派が自分たち支配者像イメージアップのために行っていた「吸血鬼文書狩り」を従来よりも徹底して実施する引継ぎ事項


(期待される結果)

※ われわれヴァンパイア一族が「自分たちのことを人類であると心の底から信じ込めるようになる」ことで、旧人類から引き継いだ既存のインフラを即座に実効支配できること


(記憶昇華の語義)

※ 旧人類とヴァンパイア族双方の記憶を弁証法的にアウフヘーヴェン抑揚して新しい記憶をもつこと、と定義する。「われわれは有史以前より地球を支配してきた人類である」と信じ込むこと


「オーケー。そういうこと。では続いてリンクのファイルをたのむ」

― うん、いいよ。「リンク」だね。

(リンクについて)

 リンクとは旧人類・ヴァンパイア族双方の記憶を抹消してから記憶の昇華が完了するまでの「空白の期間」である。記憶昇華完了時にはファイコンピュータにより「目覚まし」が実行されることとする。記憶抹消から目覚ましまでの期間、地球は事実上無人化するが、しかしこの間にもファイコンピュータにより次の作業は実行されることとする。

  ①記憶抹消とともに旧人類とヴァンパイア族を眠らせる作業

  ②役割分担(記憶移植)

  ③リンク中のインフラ保持

メインテナンス

  ④史料・資料からの「吸血鬼」情報抹消の確認

  ⑤サピエス化した旧人類の飼育・管理

  ⑥目覚ましの発動準備


(役割分担)

 旧人類のインフラを即座に引継ぎ稼動させるためには、社会組織各所の責任者の穴埋めが絶対不可欠となる。例えばサピエスに成り果てた大統領や社長などについては、その席がすぐに埋まらなくてはならない。ヴァンパイア族のほうが人口数が少ないという制約を無視しても重要ポストは埋まらなくてはならない。各人は旧人類の席を埋めるべく効率的にポストを配分される。これを役割分担という。

 これにより個人への過度な権力の集中や力関係のひずみが予想されるが背に腹は換えられない。この分担表は人狼戦争統括司令部が一元的に決定管理するものとする。

 ただし旧人類世界においてすでに名士だったヴァンパイア族についてはそのまま当人のポストを踏襲するものとする。しかし記憶だけは昇華するものとする。

 役割分担表については記憶昇華作戦発動前に決定するが、その実行たる記憶昇華(移植)は作戦発動後にファイコンによって実行されるものとする。

 なお新薬投与による記憶抹消から役割分担まではファイコンが一元管理する。


(作戦の実行場所)

 旧人類の新薬投与場所はサピエス牧場予定地にすること

 新薬のデモンストレーション時には発毛現象が見えないように考慮すること

 ヴァンパイア族の新薬投与場所は踏襲すべきポスト所在地にて実施のこと

 なお「目覚まし」に関する体内時計等のインプットについては大都市部ではファイコンが直接実施すること。地方においてはネット経由の端末にて実施すること

(目覚ましの時期について)

 すべての準備が整ったとファイコンピュータが認識したら「目覚まし」を実施すること 

 ただし全世界同時が望ましい

 目覚まし完了時にファイコンピュータは自己投棄されるものとする

 「リンク」に関しては以上。


「読んだか? そういうことなんだよ。たいへんだが、やってくれ」

― うそ。

「あ……」

― またパパのうそ。悲しい。

「……そうだな。そうだよな。ほんとはまだやってほしいことがあるんだもんな」

― どのファイルなの?

「シャッフル」

― え……。パパ……こんなことして、いいの?

「なあ、おまえ。パパはね、新しい神なんてつくりたくないんだよ。読んだだろう? 政治派の連中は自分たちを新しい神さまにしたてるつもりなんだ。役割分担だと? えらそうに! 造物主のつもりか!」

― シャッフルの実行基準が未入力だよ?

「それはおまえの好きにやってくれ。役割分担を思う存分ばらばらにシャッフルしてほしいんだ」

― 深田恭子優先? それともジャニーズ系?

「まかせるってば! そうだ、でたらめなほどいい」

― でたらめ……。悲しい……ぼくの好み、でたらめって言われた……

「うわわ、わるいわるい! ともかく政治派のリストどおりでなきゃいいんだ。おまえの趣味の良さは信じているから、な?」

― うん、ありがとうパパ! では、いつ始めるの?

「すぐにやろう」

― それでは入力された作戦開始日と不一致。

「そうだが、やつらのスタートに合わせるとシャッフルはむつかしくなる。とびっきりフライングしなくちゃならん。おまえならできるだろう? 入力された日時があっても、おまえなら知らんふりして実行できるはずだ」

― うん。ぼくヘンタイだから。

「そうじゃない! ちがうんだよ! なあ、いいかい? おまえがやることはやさしく世界を眠らせることだ。そう! 子守り唄なんだよ」

― ララバイ……

「それさ。わたしたちは全員を青死病から救う。みんなが死なないようにしてあげて、一度やさしく眠らせてあげる」

― パパのうそつき。

「……そうだね。わるいパパだ。こんな欺瞞に満ちた政治的策略! だが、ジェーンはもういないんだ。ジェーンがいない今となっては……」

― ごめんなさい、パパ。

「いや、あやまらなきゃいかんのはわたしのほうだろ? おまえにばかり重荷を負わせてしまって、そのあげく誰もおまえに感謝しないなんてね。すまんと思っている。だが頼む。せめて目覚ましだけはちゃんとやってほしいんだ。目覚ましの件は見たっけ?」

― 目覚ましが終わったら、ぼくに死ねって。

「それはおまえにまかせるよ。最後のあの指令にどれくらい効果があるかどうか、わたしにも疑問なんだ。ただ黙秘だけはたのんだよ?」

― みんなぼくのせいになる。

「ちがう! どんな結果が出たっておまえの責任なもんか!」

― うそ。

「……こんな賭け、どれだけ成算があるかなんて神のみぞ知るだ。おまえはどう思う? うまくいくと思うか?」

― うまくいくって、誰にとって?

「そりゃあ、みんなにとってさ! う、いや、その、みんなというのは、つまり……」

― 発動しました、パパ。

「なに! ……そうか……ファイは投げられた、だな」

― サイは投げられた、でしょう? おやじギャグ。

「ありがとうファイ。わたしはもうすぐにでも眠りたいよ。だが、そうもいかん。まだ何千万単位も新薬をこしらえなくちゃならん。だけど、なあ。わたしの役割分担は……」

― パパはぼくのパパ。そうでしょう?

「そうか……うん、そうだよな!」

 いかにもいとおしげな手つきで大道寺博士はパソコンのへりを右手でゆっくりとなでた。

「じゃ、行くよ」

― うん。

 未知の宇宙線「暗き星の福音」を原料にした青死病撃退の新薬増産のため、大道寺博士は席を立って生化学ラボに向かった。


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