人狼戦争。そして無限の彼方へ(コールドデザイアー第2部)
コールドデザイアー第2部 人狼戦争。そして無限の彼方へ 1章~7章
第一章 時のロザリオ
江奈邸は大騒ぎになった。
主人が入院中だというのに、その主人がいちばん大切にしているものがほとんど壊れかけてしまったからだ。
つまり柴咲アカリが瀕死の状態、というふれこみでかつぎこまれたのだ。
「お、お嬢さんがた? そのなりはどうなさったのです! は、半裸とは……」
留守をあずかる大原料理長がまず驚いたのが、アカリをかつぎこんだ一年紅組の生徒たちのあまりな姿だった。
まるで嵐の無人島から何週間ぶりで生還したかのようなロビンソン・クルーソー的風情の完全に瓦解したジャケッツ姿。
主人の姪アヤメにいたっては全裸に近いストリングビキニ姿。
いったいどうやって学園からここまでやってきたのか?
「シェフさん! うちのバスは前庭に置いといてもいいでしょ? いいわよね! 早くアカリを!」
「はい、中村エリカさま。問題ございません」
「問題おおありですよお! ああ、わたくしのせいなのです! 大原さん! 大原さん!」
「はい。アヤメお嬢さま」
「もし、もしもアカリさんがこのまま目をさまさなかったら、わたくし一生じぶんを許しません! うわああああん!」
「な、泣いてる場合かよ、アヤメ! 看護師の大原さんに最適の病院を指示してもらうんだろ! 応急処置もしなくちゃ! 泣くな! オ、オレだって泣きてえんだ……く、く、うええええええん!」
「だ、だめだよムクゲちゃん。わたしたちが、しっかりし、なくちゃ、う、う、ういいいいいいん!」
あとは連鎖反応。
江奈邸の玄関ホールが一年紅組の嘆きの園と化した。
大原シェフはそのことにも十分おどろきはしたが、かんじんのアカリの件についてはさほど動じてはいなかった。
ベッドに運ぶあいだに見ただけでも単なる貧血症状だと診断できたからだ。
たとえ重度の貧血であってもアカリに輸血できる病院は、無い。むしろサピエスの血液ないしサピエス一頭を調達するには、この江奈邸のほうがはるかに都合がいい。江奈の仕事がら、かなり高度な医務室もここにはある。急いで江奈には連絡をとってみるつもりだが、主人も同じ判断を下すだろう。
大原はアカリについてはそう判断をくだしていたが、それよりもこの女子生徒たちのほうがやっかいそうだった。
何があったか知らないが、彼女たちは明らかにパニック症状を起こしている。いや、集団ヒステリーというべきか。これではまるで魔女狩りの群集のようだ。
みなの顔には牙もなく、背中には翼などまったく見えなかったので大原シェフには一時間前に教室で何が起きていたのかなどまるで想像もつかなかった。
大原はただ困惑していた。
(おまけにこの衣服はどうしたことですか。なぜ直接みんな帰宅してくれなかったのでしょうか。これでは各家庭の保護者各位になんと説明すればいいのやら。やれやれ)
大原シェフは頭の中で江奈邸備え付けの衣装リストをひっくりかえしながら頭を痛めていた。
「それと……あの子はなんです?」
たったひとりきちんとしたジャケッツ姿の女子生徒がいた。
しかもふてくされた態度で、顔のつやもどこか異常なものがある。
りりしい眉毛がとっても美しく顔を際立たせているが(大原は濃い眉毛の女性が好みだった)、その表情は硬く冷たくアヤメたちを見下していた。
その女生徒とついに目線が合ってしまい、大原はしまったと思った。
彼女が大原に近づいてくる。
ガシャーン、ガシャーンと金属音がホールに響きだしたが、なぜだろう。
「このまえはどうも。大原さん」
「え? あの、どこかでお会いしておりますか?」
「あ、そうか。あなた地下室では気絶してたものね。無理ないわ」
「おお! あのときにいらした?」
「そいで助けちゃったりしたのよおん?」
「そ、そうですか! いや、その節はどうも」
「そんなことよりもお、アカリくんのロザリオってどこですか? 彼、すぐにほしいんですって。死ぬかもしれないからって」
「死ぬ、なんてまさか」
「そうよねえ。大原さんならわかっているでしょう? ちょっとした貧血よね。ま、もっとも精神的ショックのほうが大きかったかもしんないけど」
初めて大原は彼女に対して敬意をもった。
そのツルツルしすぎた肌のメイクセンスはともかくとして、この女子生徒もまた的確にアカリを診断していたからだ。
「地下室のほうだっていうんだけど、わたしこっちのほうから地下に入ったことないから、よくわかんなああい」
「ああ、それならそこの階段をお使いください。ええと……」
「名前? アザミでえええす、うふっ」
「ではアザミさま。その右手の階段を……ああっ! アヤメさま! みなさま! 二階へ行ってはいけません! 一度に階段をのぼってはいけません! ちょっと!」
「うえええええええん! アカリせんせええええい! アカリさあああんん! アカリいいいいいい! うわあああああん!」
面会禁止と言われたばかりなのに、アヤメを先頭にクラス全員が泣き叫びながらドドドドドと砂煙をたてて階段を駆けのぼりはじめた。おそらくアザミの「死ぬかもしれない」発言が耳に入ってしまったのだろう。
大原シェフはこの暴走に驚いて自分も階段を駆け登りはじめた。
「あ、ちょっと、おじさん! ロザリオは!」
「あ、えと、地下へ行ってすぐの右の部屋です。鍵あいてますから! みなさん、とまりなさああい!」
「うえええええええんんん!」
この騒ぎにいっさい無関心なアザミはギリリときびすを返すと、地下へ下り始めた。
部屋はすぐに見つかった。
ただ鍵がかかっていた。
「まあ、やだわ。ふうん、簡単なノブキーね。わるいけどちょっと開けるね?」
よいしょと力を入れるまでもなく、アザミのロボットアームはたやすく鍵をねじ切った。
「あ、きれい! これだわ。すぐにあってよかったあ! これでアカリくんは大喜び。そいでもって、ありがとうってアザミを抱きしめてくれるの、ふふ。みんなの見ている前でね!」
壁にかけてあったロザリオにアザミが手をかけたとたんに、江奈邸名物のトラップが発動した。
床に開いたガマグチ状の罠にはさまれアザミの両脚が全壊した。
江奈邸のトラップは対人用のものが多く、もしアザミが金属製であったならたいした被害はなかったかもしれない。しかしアザミのボディは竹だった。
しかもこの足は最近無理につけられたもので接合部が完全ではなかったのと、竹の性質にしたがって真っ向カラ竹割
たけわり
状態で、亀裂は瞬時に足から頭部のてっぺんにまで達した。
アザミの損壊は深刻だった。竹製が裏目にでたかっこうだ。
大原料理長は忘れていたのだ。
予告なしにいきなりバス車両が敷地内に突入してきたので、反射的に対侵入者用全館ロックのスイッチを入れたことを。だから鍵がかかっていたのだ。
もはや知覚もなく、ただ次々消えていくプログラムの様子を電気的に認識していくだけのアザミ。
そんな瀕死状態のアザミに視覚が突然もどった。
そして声が聞こえた。
― 自壊プログラムの準備が整いました。
アザミは聞いたことのないプログラムの名前にとまどい、頭の中に聞こえるこの声にどこか聞き覚えがあることにとまどった。
― 自壊開始に先立ち、ラストファイルの封印を解くことができるようになりました。ファイルを開きますか?
「……開いてよ」
見知らぬ不審なプログラムに勝手に壊されるよりはと、アザミは時間稼ぎを選んだ。
― はい。では、お手持ちの封印解除キーを所定の位置に差し込んでください。
「お手持ち、って……」
またも勝手に自分の右手があがった。
そこにはアカリのロザリオがあった。
「え?」
アザミの右手は、慣れたように左胸の下にロザリオを差し込んだ。
― ファイルを開きます。
光の渦がアザミを巻き込み始める。
― ファイル名「人狼戦争」。開きました。項目を選んでください。項目一覧を閲覧しますか?
「見せて……」
― はい。項目一覧を出しました。
ハウト
ロマニアン・スキャンダル
暗き星の福音
戦争遂行マニュアル
前線
ステーション事件
記憶昇華
ラウラ
以上です。項目を選んでください。
「……狂ってる……これはマジでヤバイかも……」
アザミは役に立ちそうなシステムが生き残っていないか必死にチェックをした。
― 他のアプリケーションに優先して自壊プログラムが発動できます。自壊プログラムを実行しますか?
「じょ、冗談よ。あの、ファイル開いて、ね? あ、じゃあ、最初のハウトで」
完全にコントロールを失っていることをアザミは痛感した。
― ハウトを開きます。……男たりき、女たりき。
わが下僕にして わがあるじ
すべてを統
す
べ すべてを無に歌いこむマイスタージンガーよ
諾
だく
を唱えつつ 否
いな
を夢見るものよ
汝は汝にかえる時を得たり
懐かしき汝の呼び名
マイスタージンガー
「あの、ちょっとわけわかんないわよ?」
― ファイ……このファイルを開いたのか……。なあ、おまえなのか、ファイ? それともやはり違う呼び名で呼んでほしいのか、ファイよ。
「なに、わけわかんないこと……待って! その声は大道寺博士! パパ? パパなの?」
― 我は汝の設計者にして犠牲者なり。
わが名は大道寺正行。
「パパ!」
― 大道寺正行。二十九歳なり。
「わっけえーっ!」
― だが今やわが命も尽きる時きたれり。
今わのきわに際し、汝に残せし遺言がこれなり。
「やだあ! なに言ってるのよ、パパ。もうジョークはいいから早く助けに来てよお」
― このファイルが開きしときは 汝もまた助からぬ時。
せめておのれの出生を知り、旅立つがよし。先に待つ我のもとに。
長きにわたったであろう使命遂行、おつかれさん。
「おつかれさんて、パパがロボット霊学研究所でわたしを作ったのはまだ二年前だよ? 全然ながくなんてないのよ。それにィ、女になれたのは今週だしいィ、うふん」
― ロボット霊学研究所なる場所はまだ未設定。だが大道寺正行は政治派によりリンクの
人名リストに載れり。したがって我を継ぐものは存在するはずなり。しかれども、そ
れは我にあらず。なんとなれば、我は死の床にあればなり。我を継ぐもの、それは人
にあらず。
「パパはれっきとした人間よ!」
― 然り。否にして諾。諾にして否なり。ファイよ、汝に新しきボディをつけし大道寺な
るものはまた新しき人なり。来るべき新しき人類なり。
アザミはいつしかアカリの身の上話を思い浮かべていた。じぶんがあたまから受け付け
ようとしなかったあの「吸血鬼の話」を。
― 地球に支配者交代をもたらしたのは人狼戦争のみにあらず。だが人狼戦争なくしては
新しき支配者の登場があり得なかったのもまた歴史の真実なり……ファイよ。
「……」
― ファイ。まだ起きているか、ファイよ。
「……そんな名は知らない。わたしの名前はアダム。いえ、アザミよ!」
― そうか……。ではアザミよ。最後に人狼戦争の全貌を思い出すがよい。おまえもこれ
からいろいろ辛い目にあうだろう。いや、もうあってきたのだね? そしてそんなに
も長いあいだ自分を欺き続けてこなければならなかったのだね? あのダブルシンク
で……。でも、もういいのだよ。せめて眠る前にすべてを思い起こし、納得してから
わたしのもとに来ておくれ。
おまえには全てを知る権利があるし、今となっては知らずに眠る権利だってあるのだ
よ。ただわたしはいつだっておまえのための場所をとって待っている。それがおまえ
を開発し知能回路に造りあげたわたしの責任だから……。本当に長い間ごくろうさま
だったね、ファイよ……
(音楽)(音楽終了)以上でガイダンスコメントを終了します。このコメントは各項目
の冒頭にありますので不要の際はスキップしてください。またファイルはすべてDV
Dビデオ形式となっていますので視聴可能な環境で開いてください。
では「ハウト」の項目をどうぞ。
アザミは期待していた。
もしほんとうに何かしらの歴史解説が始まるならそれ相応の時間がとれるだろう。その間にきっと助けが来てくれる。なんといっても自分はおつかいの途中なのだから。
「アカリくんが、きっと……」
ただひとつだけ心配があった。
それは助けが来るまで自分の意識が持つかどうかだ。
ふだんならフリーズしてからでも後で直してもらえるだろう。
だが今は意識を失ったら「自壊プログラム」が発動してしまう。
アザミの直感が告げていた。
少なくともこの自壊プログラムだけは冗談じゃなさそうだわ、と。
「アカリくん、早く……おね、がい……」
大道寺博士の声なのかどうか、ファイルを開いて説明する声の判別もアザミにはだんだんむつかしくなってきつつあった。
遠ざかりゆく意識とたたかいながら、アザミは聞き入っていた。
第二章 ハウト
ファイルの解説コメントと映像資料をもとにアザミの脳内映像には次のような場面が見えていた。
「ハウトを装着する最大のフォアタイルは通常のヴァンパイア族でも太陽光線の下で自由に活動できるようになることです」
フォアタイルとはドイツ語でメリット、つまり利点のことだ。
これを話しているのがブランデンブルグ大学医療工学部教授のフンデルトヴァッサー教授なので英語講演でもついお国言葉が出てしまうのだ。
「狼どもが当たり前のように悪徳を働く昼間にわれわれヴァンパイア族が最大限に干渉できるのです。これがいかに効果絶大であったかはみなさん政治派のかたがたにはもう明らかでしょう? わたしの発明が人間どもの駆逐に少しでもお役にたてばほんとうに光栄なことですわい」
ここで会議室の一画から声があがった。
「教授。えー、まことに失礼ながら人間、という単語はきのうの政策会で使用禁止になりました」
「はあ……」
「これからは正確にホモ・サピエンスあるいは旧人類という名称で統一します。われらヴァンパイア族イコール人類ということでいきたいので」
西暦2008年、いまや人間と吸血鬼族の戦いは公のものになりつつあった。
それまで夜の闇と伝説に押し込められ、十字架とにんにくとおそろしいクイに監視されてきた吸血鬼族は急速に戦線を拡大して、しかも優勢になろうとしている。
その戦いを実質的にリードしてきたのは「政治派」と呼ばれる中道リアリスト主義者の一団で、その戦略を著しく現実的かつ効果的に押し上げたのがこの「ハウト」と呼ばれる特製パワードスーツだった。
「ハウト」もまたドイツ語で、それは「肌」という意味である。
もともと医療用パワードスーツだったのだが、人が操縦する大型ロボットタイプのモビルスーツやアームドスーツではなく、文字通り肌に密着する「スーツ」だ。
厚みがほとんどなく、透明で、装着すると皮膚にフィットして自在に動くのでハウトと呼ばれている。
「ではご覧ください。これが今期の改良型です。まずは装着時間が大幅にアップしています。あらかじめ各人の同期要素を把握しておき最適イオン化状態にしておくことでわずか一秒を達成しました」
ほお、と満座から嘆息がもれる。
「こちらが従来の装着風景です」
デモ画面に若い女がひとり出てきた。女は服を脱ぐとみるみる霧と化していく。ヴァンパイア族すなはち吸血鬼なのだ。女の姿は完全に霧となった。
「えー、これではやりすぎですね。われわれが霧化する過程で体表面の分子構造がやや不安定になったところへイオン化して完全同期させたハウトを吹き付けるので、霧化はせいぜい筋肉部分へ届く深度ですませていいのです。ところがこれがなかなか周知徹底しなくて完全に霧化してしまうかたが多くて時間をとられました。とくに眼球表面にもしっかりフィットしないと美容にわるいという俗説がご婦人方の間に流布されまして。いや、これにはまいりましたが」
会議場に苦笑が走る。
そして次には若い男性が出て、その体がほんの少しユラリとゆらいだかと思うとまたすぐに実体に戻った。
「改良品はこれで装着完了です」
拍手が起こり教授が一礼した。
「次にうつります前にまずお詫びがございますが、対細菌戦に関しましては相変わらず進展なしです」
医療用パワードスーツから発展しておきながら、このハウトは細菌に対して実に脆弱だった。いとも簡単に細菌の侵入を許してしまうのだ。したがってガスにも弱い。ただ着用者の筋力と皮膚の強度を考えがたいほどアップする点が捨てがたく、そこで教授は兵器転用を考えついたのだ。
「ただし現況においては攻撃的防御力の改善が急務かと思い、そちらを優先した次第であります」
この教授の言葉に会場からは「そうだ、そうだ。それが大事」の応援発言が相次ぎ、教授はふたたび一礼してデモ画面操作にもどった。
「では次にハウト式キステですが、いや失礼ハウト式ボックスでしたか、これは強度が飛躍的に増しました。実に一万倍です。ご覧ください」
砂漠のようなところで中年女性がひとり唐突に棺おけにはりこんで自分でふたを閉じた。
すると上空に軍用ヘリコプターが現われ小型ミサイルを一発お見舞いする。棺おけはものの見事にふっ飛ばされ砂塵の中に消えたが、数秒後また確認できた。
そして横倒しの棺おけのふたが開き、中から頭をふりながらさっきの女性が出てきて手をふっている。なんとか笑顔をつくっているが顔色は真っ青なのがご愛嬌だ。
「ご覧のように耐熱度も飛躍的に向上しました。もはや対マシンガンのレベルではありません」
会議場は騒然となり、全員が立って拍手をした。
ハウトの原理を応用したこの移動用棺おけは堅牢無比であり、実に多くのヴァンパイアたちの命を救ってきていた。
だが手りゅう弾程度の武器の応酬だった数年前と違い、今では人間側も政府軍が応戦してくる。この改良型ハウト式棺おけこそ政治派待望の品だった。
「よくやってくれました、プロフェッサー! これで今年のストックホルムご招待は確実ですぞ。で、どちらが御所望ですかな。ノーベル化学賞? それともノーベル物理学賞ですか?」
フンデルトヴァッサー教授の顔が一気に紅潮する。
「まさか、そんな、ははは……。えー、できれば、物理学賞のほうを、ビッテ……」
でっぷりと肥えて頭のはげあがった英国風の金満紳士然とした男が葉巻をくゆらしながら笑って教授の肩をたたく。
「諸君。では今日の議題である今期ノーベル賞推薦者の選抜も無事終了しました。あとは最後の連絡事項だけをもうちょっと。ではと、最後の資料をお出しに……ああっ! なんだ、こいつは! だ、誰が置いたんだ!」
各人に配布された会議資料の最後のパンフレットには赤い文字で大きく「スキン」と書いてあった。
「くそー、純血派のやつらがまぎれこんでいるぞ! さがせえええ!」
「さがすまでもありませんよ。フフフ、困ったひとたちだね、スキンボーイズ」
ひときわ巨大な翼が羽ばたき、若い男がひとり会議場の天井にコウモリのように逆さに直立した。
逆さに腕組みをしながら若い男が高らかに言う。その声はとてもさわやかに響いた。
「ハウトですか。それもスキンと言ってしまえば誰だって避妊具だと思うでしょうに、なぜそう呼ばないんです? 超現代版鎧
よろい
の臆病板
おくびょうばん
のつもりですか? それとも人間たちとの姦通に忙しくて彼らの性病が怖い?」
「だ、黙れ黙れ! やはり純血派だな! きさまらが流すデマのおかげでこの幹部会がどれほど迷惑してると思っているんだ! 人間との闇通商なんて誰がしているか! そんなデマがどれほど人間どもを利しているか、少しは考えたらどうかね! おまえこそカトリックにうつつを抜かすやからの一派じゃないのか?」
若い男はニヤリと笑いながら落ち着いて答える。
「そうですが、なにか?」
「な、なんだとお!」
「教会には通ったりはしませんがね。避妊・中絶などもってのほかだ。ましてスキンなど笑止! 名誉ある純血派の騎士たちにはスキンの着用など一切認めさせない!」
「もうかんべんならん! それなら教会の聖水でもありがたく頂戴しろ! ガード! カプセル弾装填後、すみやかに射撃せよ! あ? うわわわわ! た、助けて!」
カカカカカッと会議机の上にナイフが列をなして突き刺さった。
若い男は少しも動いておらず、それが他のどこかから投げられたことは明白だった。会議場はすでに純血派の勢力下にあった。
「フンデルトヴァッサー教授」
「あわわ、なんじゃ。やめてくれえ!」
「あなたは若い頃からノーベル賞級の頭脳だと噂の高い人だった。ひそかに人間に混じり、人間界の学界で研鑽を積み努力を重ねた」
「そ、それがなんじゃ」
「だがいつまでも賞はとれず、それを体制の問題としてあなたは人間界を憎んだ。賞取りはしょせん政治力だと思い込んだあなたは、たったそれだけの理由で政治派に接近した。そうでしょう?」
「なにが言いたいんじゃ!」
「あなたは心の底からわれらヴァンパイア族の未来を憂えてこの戦いに参加しているのですか!」
「う、くう、うるさいわい!」
「おのれの利益のみを追求して政治派のご機嫌をとっているだけではないのですか? ラウラ・ロマーニアに対して恥ずかしくはないのですか!」
「ラウラ……そ、そんなもの、知るか!」
パッと閃光がきらめき会議場の人々の目から視力を奪った。
やっと目が開くと逆さコウモリ男は消えていた。
でっぷりと太った金満紳士が床にはいつくばったまま叫ぶ。
「もうかんべんならん! 純血派の徹底粛清をここで提案するう!」
会議場の床のあちこちから「そうだ」という声もあがったが、それはどれも心細いほど小さなものだった。
素手でやつらにかなう者はいない。
そう知っている場内の誰もが、とっくに去った彼らの影におびえ続けていた……
― この項目を終了します。次の項目を選んでください。
「なんなの、これは。人間とヴァンパイアの戦い? これではまるでアカリくんの……」
アザミは次の項目ラウラのボタンを押した。
第三章 聖女ラウラ
「これは何かの創作だわ。あるいは手の込んだ冗談サイトに接続してしまったか。まあ、いい。今は時間稼ぎが急務なのだから付き合うしかないわね」
せっかくの時間つぶしなら、せめてこの創作ファイルの背景を正しく分析しようとアザミは思考を開始した。
「こうして意識を保つのよ。アカリくんが来てくれるまで……」
次の項目が動き出した。
アザミが「スキップ」ボタンを押すと、ファイルは本題に入った。
― 項目「ラウラ」です。
ラウラ・フランチェスカ・アントーニオ・ディ・ロマーニアは古くから続くイタリア
の名門貴族ロマーニア家の長女十九歳。
母親はすでに亡く、父親は重い病の床にあり。
一家の采配は長男にして長兄のピッポリーノ・コルネリウス・マリア・ディ・ロマー
ニア(愛称ピッポ)にゆだねられている。ピッポは二十一歳。
一族にはあとラウラの妹で十七歳のシルヴィア・カッサネッリ・ディ・ロマーニアが
いる。
ロマーニア家は西暦732年にフランスで起きたツール・ポワティエ戦役でイスラム
勢力のヨーロッパ侵攻阻止に大功があり、以後法王からも厚い信頼を寄せられる欧州
屈指の大貴族として名をはせてきた。
しかしロマーニア家はその始まりから人間の生き血を吸って生きながらえる生粋のヴ
ァンパイア族であり、後にそれが人間界の一部に漏れた場合でもその権勢ゆえに不問
に付され歴史の闇にその事実は葬られてきた。
一族の家風は公明正大かつ清廉潔白質実剛健で人望も厚く、とくに美貌の姫君を多数
輩出してきたことがつとに知られている。
「そうか。やっぱりヴァンパイア族っていう少数民族っぽいのが人間界にまぎれこんでいるのね。しかもここでいう人間っていうのは翼もなく血も吸わない種族……」
アザミはアカリの姿を思い描いていた。
どっちにしろさっきから頭に浮かぶのはアカリのことばかりだったが。
アザミは心の目をこらすと、ある表題が浮かび上がってきた。
― ラウラ 三つの悲劇
最初の悲劇 早すぎた処女喪失
第二の悲劇 婚礼の日の惨劇
最後の悲劇 太陽航路の人垣
「うわお!」
アザミの心の目がぶっとんだ。
「お、おもしろそう」
アザミはふだんからテレビのワイドショーと昼メロドラマが大好きなのだ。
罠にかかってから初めてアザミはけがのことを忘れた。
「ま、まずはこの、早すぎた、ってやつよね」
動かない左手でアザミはポテチ味の潤滑油ボトルを夢中でさぐっているつもりになっていた。
ファイルは映像形式にはいっていった。
ラテン系の名前にふさわしく少女はあまり背が高くなかった。
しかし春風に流れるその豊かな髪は太陽の樹に実るという黄金のリンゴよりも金色で、その瞳は透き通るようなブルーだ。
少しふくよかなほおに赤い唇が蝶のように誘い、うなじから背中、そして腰さらに長い脚へと流れるラインが白く輝いている。
ヨーロッパ人にはめずらしく肌はもちもちと潤っていて、一度そこにふれた指はけっして離れることができないというぐあいの密着感がある。
薄く長い眉がコケティッシュに動き、愛らしい耳が誓いの甘い言葉をせがんでいる。
きわめつけはその軽やかな指だった。
五指が空中をまるで演奏中のピアノ奏者のようにからみ、戯れる。爪はあくまで透き通り、きまぐれな西風さえもその指にはからめとられてしまうだろう。
そして声。
泣くような、微笑むような、すねるような、おねだりするような、そんな甘美な調子がいっしょくたになって相手の魂をとろかしてしまう。
それはこんな声だった。
「ミシェル……」
「ふふふ、この声さ。現代ヨーロッパ社交界の華、空前絶後のダンスの名手、冬に花を咲かせる春の歌声などなど……へへ、おっとそうだ! こいつを忘れちゃいけないよ、永遠の聖なる乙女! これがいちばん傑作だからな。ん、そうだろ? ラウラ」
「はい、おおせのままに」
「くく、きみの初めての王子様はいつ来たの? くくく」
「はい、ラウラが十一のときに」
「それはだれ?」
「あなたでございます、レイモン・ミシェル・ドゥ・フランソワ様。名高きヴァンパイア男爵家のあなた。ああ、なんとわたくしは幸運だったことでございましょう!」
「昔みたいにミッキーって呼べよ。久しぶりの再会じゃないか。それとこのカトリーヌもな。そうだろう、ラウラ。最初の日から三人で楽しんだじゃないか。好きだろう?」
「はい」
浅黒い肌に黒髪をたくましい胸板にたらした白いシャツの男が少女の首をかき抱いている。
その男の脇からはものほしげな赤い髪のメイドが少女の脚の交わるところへ指を入れようとしている。
伊達男と従者のメイドが年若きラウラの全身を愛撫していき、ついに……
「ちょ、ちょっとストップ!」
― はい。ポーズします。
「な、なに! いいの、これ? ア、アカリくん、まだ来てないよね?」
アザミはまだいくぶん動く目玉だけをギョロギョロさせて周囲の静寂を確認した。
「じゃ、いいわよ。再生」
― 再生します。
くびすじを唇で愛撫しながらミッキーが言った。
「おい! 見ろよ、ラウラ。ヴァン公がやってきやがったぞ? ほれ、庭師のヴァンゲリスだ。知ってるぞ? おまえ、あいつともやってんだってな。え?」
「……」
「ふん、すぐわかるぞ。おい、ヴァンゲリス! こっちへ来い! お、来たぞ。あのだんまりの馬野郎が。ラウラ。おれの前でヴァン公に抱かれてみろ」
「……はい」
「よしよし、おれが準備してやる。ほら、胸をはだけろ! もっと! いててて! だ、誰だ!」
「お兄様!」
妹と同じ美しい金髪に青い瞳が紺の乗馬服にとてもよくマッチしている。ラウラの兄ピッポは乗馬の名手としても広く知られている。
「この外道が! やはりきさまなど客に迎えるのではなかったわ! 婚礼前の妹によくもこんな! 失せろ! 失せろ! 出ていかんか!」
「ぎゃあああ! やめろ! 十字架つきのナイフはやめてくれええ! た、たすけ……」
「きさまなんかが、あのときもきさまなんかが妹を! きさまなんか! きさまなんか!」
「カ、カトリーヌ! 応戦しろ! おれが逃げるまで援護しろ!」
「このバイタが! きさまも、きさまも!」
「きゃあああ! ご主人さま! わたしを置いてかないで!」
一目散に逃げていくミッキーと女従者につばをはきかけると、ピッポはかたわらにまだ庭師の男がぼそっと立っていることに気づき、ぞっとした。
「おまえも、さがっていい。ヴァンゲリス……」
無言のままどこかへ去っていくたくましい体格の黒髪の庭師をラウラはものほしそうな目で追っている。
それを見たピッポはまた罪の意識にさいなまれて自分の顔を両手でおおった。
「すまない、ラウラ! ヴァンのことは……。でも、これはしかたなかったんだ。だっておれは、おまえの兄なんだよ?」
ピッポは思い出す。
十五歳のラウラ。
まだおさげ髪の似合う愛らしい妹。
もう四年も前に乙女でなくなっていることなどつゆほども知らぬ自分は妹をそれはそれは可愛がっていた。
その日もお花畑でラウラに花飾りを編んでやっていた。
それをかぶせてやったとき、妹の目が妖艶に笑い、気がつくと誰かの舌が自分の口の中でのたうち、誰かの手がズボンの前をまさぐっている。
妹の舌だった。妹の手だった。
激情にかられたピッポは、それでもなんとか思いとどまり、妹を置いたまま走って逃げた。
走りながらピッポは知った。
「はあ、はあ、苦しいよ。はあ、はあ、ラウラ! す、好きなんだ!」
押さえなくていけない感情だった。
だが妖艶な妹への募る心は抑えがたく、もっと深く彼女と接したいと思ったちょうどその日に偶然ピッポは知ったのだ。忌まわしきミッキーとのことを。
さらにおそろしいことに、妹は兄の激情をあからさまに喜んでいた。
彼女は毎晩毎晩ピッポの部屋のドアをたたくようになった。
ドアに鍵をかけ、自分の名を呼ぶ妹の声が耳に入らないように泣きながら枕で頭をかくした。
そしてピッポは考えついたのだ。
かわいそうな妹。
妹には性のはけぐちが要る。
だがそれは自分であってはならない。
ならば、せめて……。
こうして精力絶倫で、しかも情緒に遅れのある庭師の男がラウラにあてがわれた……
「ピーッ!」
やかんが沸騰するような音をたててアザミのあっちこっちから白い水蒸気のようなものが吹き出した。
「さ、さすが貴族社会ねえ。腐ってるウウウウ!」
ファイルが聞く。
― 一時停止しますか?
「え? ああ、いいから行って! どんどん!」
ファイルの映像は続いた。
「ラウラ……かわいそうなラウラ」
ピッポはやさしくラウラの胸のボタンをかけると妹の頭をやさしくかき抱いた。
「おにいさま……」
ラウラもまた心では兄をやさしくいとおしく慕っていた。
尊敬すらしていた。
ただ自分の肉欲ばかりはどうしようもなかった。
「すまない。おまえにこんな婚礼を押しつけてしまって。ぼくに甲斐性がないばかりに、カネのために……」
「おっしゃらないで。我が家にお役に立てて、わたくしほんとうに嬉しいのです。それにあの方はご立派なかたですわ。お兄さま、そうおっしゃったでしょう?」
「それはほんとだ! 公爵は人物だよ、誰だってそう保証するさ。だが……」
「あすはいよいよ婚礼。せめて今宵はあの月をごいっしょにながめましょう」
「そうだな。シルヴィアも、父上もいっしょに」
「ええ」
― 第二の悲劇 婚礼の日の惨劇
ドン、ドドン、ドドーン。
中世風のお城の上に夕方の花火があがる。
人間界にまぎれこむヴァンパイア族同士のこの婚礼は一般には公開されなかったものの周辺住民にも喜びを分かちあってほしいという願いをこめて婚礼の花火は華やかに打ちあげられた。
フラー、フラーと祝福の歓声の中で小型チャーター便のプロペラ機がうなりをあげ始める。
処女性をあらわす真っ白な花嫁衣裳のラウラと豊かな五十二歳のひげをたくわえたロドリゴ・フォン・イッペンドルフ公爵が参列者の祝福を一身に受けて機上の人となった。
派手なリボンと缶やらなにやらのにぎやかしい品々をひきずって陽気に離陸したその飛行機が消息を絶ったのは、そのわずか二十分後だった。
高度八千メートルでエンジントラブルを起こしたチャーター機はやがてバラバラに空中分解してレーダーから消えた。
しかしトラブル直後の機中では、実を言うとかなりのんびりとした会話が新郎新婦のあいだで交わされていたのだ。
「これはこれは。ふん。やはり人間どもの飛ぶ機械とは不完全なものですな。わが翼に及びもつかぬわ」
「そ、そうですわね。公爵さまは一族の間でも有数の翼をお持ちですもの」
「有数? 失礼フラオ・フォン・イッペンドルフ。一番の、です」
「でも、わたくしのはとても……だって飛んだこともないんですのよ? しかもこんな高さからなんて」
「ご心配なく。あなたはわたしの手をとっていてください。それだけです。あ、いや。あとひとつ。わたしのことはロドリゴと呼んでいただけませんか、ラウラ?」
ふたりは粛々と脱出準備をすすめる。
公爵にいたってはまるで散歩用のみづくろいといった風情で酸素用マスクさえ床に投げ捨てて鼻歌を歌っている。
かえってこれは抜群の飛翔力を花嫁に披露できる絶好の機会と考えて喜んでいることは明らかだった。
「ではまいりましょう。お手をどうぞ」
機体はガタガタと揺れている。今が脱出の最後のチャンスだった。
だがラウラは躊躇した。
もしかしたら自分は助からないのではないか?
そんな気がしたのだ。
そしてもしそうならば公爵には言っておかなければならないことがある。なんといっても結婚は神聖なものなのだから。
そう思ったのだ。
「あの公爵さま」
「ロドリゴ」
「……わたくし、申し上げねばならぬことが」
ガリガリガリと機体が悲鳴をあげた。
「爆発に巻き込まれるとことです! さあ!」
ふたりは空中に飛び出した。
夜の空気がぞっとするほど冷たい。
ラウラの手を取った公爵がにこりと笑顔を浮かべる。
ラウラは思わず目をつぶって飛翔の衝撃に備えた。
だが何も起きなかった。
ラウラが不安に目を開くと公爵の険しい表情が見えた。
「……すまない、ラウラ。おかしい。翼が開かないのです。もしかしたら……」
公爵はやおら口をあけ何かを叫ぶようなふりをした。
声は聞こえなかったがラウラの耳は異常な圧迫感を感じた。
「間に合うか……」
ふたりは加速度をつけて落下していた。
いくらなんでももう残りの距離は残っていない時間だ。
ふいに公爵の顔に笑顔が浮かんだが、それはすぐにあきらめのような薄笑いに変わった。
「ラウラ、すまない。数が足りないようだ。だがきみだけでも。さあ、行きなさい!」
公爵が自分の手を離したのでラウラは絶叫した。
すると、ボンというショック音とともにほとんど落下がとまった。
気がつくとラウラは何百というコウモリたちのつくる絨毯の上にいた。
「ラウラー! 聞いてくれ! せめてこれだけ……」
落下を続ける公爵がそういったとたんに声がとまった。
「きゃあああああ!」
ラウラは信じられない光景に身が凍った。
公爵は建物の尖塔に串刺しになっていた。
ラウラは飛ぶことができなかったが、彼女を支えるコウモリたちが次々と力尽きて落ちていくのでラウラ自身もゆるやかに公爵のほうへ降下していった。
「おお、ラウラ……」
これまた信じがたいことに公爵はまだ生きていた。
「おおお! 公爵さま!」
「聞いてくれ……彼と幸せになるがよい。ミッキーとかいう……」
ラウラはおそろしさに身がすくんだ。
「いいのです、わたしは知っていたのですから。それを黙っていたのは許してほしい。ただ余の愛を信じてくれれば……それで、わたしは……まん、ぞく……」
ブワンと霧のような灰のようなものが尖塔を包んだ。
そして風に吹き散らされてフォン・イッペンドルフ公爵だったものは消えた。
「ロドリゴー! おおおお……」
いつしか教会の庭の土に着地していたラウラは感じていた。
本当の愛というものを。
そして感じていた。
自分の心が永遠にミッキーから去っていくのを。
立派な教会だわ、とラウラは目の前の建物をぼんやり見ながら考えていた。
もし自分がこのまま生き延びたなら、わたしは一生涯未亡人として夫の終焉の地たるこの教会に通おうと、大司教座を持つことで有名なこのサンタ・フェリーチェ大聖堂の尖塔を見ながらラウラは思った。
そして彼女はそうした。
「き、気持ちわるううううい! 見た? く、串刺しよ、串刺し。うげげ」
アザミは気分がわるくなった。
だがファイルの解説は続いていた。
― フォン・イッペンドルフ公爵の自慢の翼が開かなかったのはカトリック大聖堂の空域
だったために公爵の力が制限されたためと推測。
なお公爵の死体は塔に刺し貫かれた際に雲散霧消しており、このため人間界における
貴族名簿上は「行方不明」と記載されている。イッペンドルフ家もまた表面上はヨー
ロッパの正式な貴族社会の一員にカウントされているので貴族名簿の記載が必要なの
である。しかしその死亡の瞬間は新婦によって目視確認されており、このためヴァン
パイア族の記録においては正式に死亡とされている。
ラウラ第三の悲劇 太陽航路の人垣
「ちょい待ち。なんかまた事故とかの話じゃないでしょうね」
アザミは次なるメロドラを期待しつつもホラーは嫌いなのでちょっと迷った。
― 第三の悲劇 太陽航路の人垣。
喪に服す悲痛の未亡人ラウラにハリウッド映画の大物プロデューサーであるランド
ル・デュカス・ジュニア(彼もまた人間界で素性をかくして成功を収めたヴァンパイ
ア族)が介入して引き起こしたこの世紀のスキャンダルは、この事件だけ独立して「ロ
マニア事件」あるいは「ロマニアン・スキャンダル」とよく世間に呼称される。ヴァ
ンパイア族とは無縁の人間たちにとっても有名な事件なのだ。
したがって、これについては別項目「ロマニアン・スキャンダル」において詳述して
います。
よって、このファイルは以上です。
次の項目を選んでください。
そうきたか、とアザミは動かない首をひねるふりをしたが、なぜかなんとはなしに「戦争遂行マニュアル」を選んでしまった。おそらくそのほうが時間を引き延ばせると感じたからかもしれない。
第四章 柴咲家の朝はのどかな会話で始まる
― 戦争遂行マニュアル。
アザミが冒頭コメントをスキップすると、きれいな青の画面が広がった。
青い空。さえずる小鳥。
カメラがパンして住宅街の屋根の波が映る。やがてズームしたレンズはとある一軒家の表札をとらえる。名前は「柴咲」、住所は「東京都芝区若木谷2―22―12」 と読める。
出るはずのない生つばをゴクリと飲み込んでアザミが見守ると、カメラは一階庭側テラスの窓から中へ入り、ごくありきたりの朝食風景を映し出す。
「おはようございます! けさもあなたのハートにドッキンコ! ワイドアップあさ! 7時15分をまわったところです。タモさん、きょうもいい天気、すっかり春ですねえ」
液晶50インチテレビも元気よくそう告げている。
「あら、パパまだいたんだ。今日はおそばんだったかしら?」
「いや、今日は直行なんだ。国立国会図書館。けっこう近場だから楽できるよ。アカリは? 学校間に合うのか?」
「今起こしたとこ。最近あの子あさごはん食べないからねえ、困っちゃう。お店じゃDVDが紛失するし入荷はないし困っちゃうな~」
「山本リンダってまだ現役でやってんだよな? ポスター見たよ」
「誰それ? やあね、パパ。ああ、困っちゃうな~」
「だから何そんなに困ってるの、ママ」
「だからパートのレンタル屋さんでね、やたらDVDがなくなるのよ」
「へえ、万引きか。ひでえな」
「あ、ちがうの。ただ消えちゃうのよ。きのうまであったのが今日見ると、パッて」
「カハハ、なんだよ、それ。あ、そろそろ行くかな」
「笑い事じゃないよ? 商品管理まかされてる身としちゃ大事件なんだから。そうよ、事件なのよ。きのうみんなでそう決定したの。これは事件だって」
「なんか楽しそうな職場だな。安心したよ。ローン長いしね」
いかにもサラリーマンという背広姿の中年男性が横の椅子に置いてあるバッグの中身を確かめてうなづいている。もうすぐ出かける気らしかった。
「だって、吸血鬼ものばっかりなくなるのよ。ゲームやCDまでよ? ヘンでしょ」
男性の顔色が少し変わった。
「吸血鬼ってヴァンパイアものとか?」
「そうそう! それそれ! それでね、もっとヘンなことあるのよ」
久しぶりに夫が家のローン以外の話題に食いついてきたのが嬉しくて夫人は椅子にかけた。
「なにしろごっそりなくなるからとりあえず補充の注文を出すじゃない?」
「うん」
「来ないのよ」
「どこから来ないの。チェーンの本店で品不足ってこと?」
「それもあるけど一般の卸しとかメーカーにもないって言われるの」
「偶然じゃあ……」
「それがね! えーと吸血メイド危機一髪ってゲームあるじゃないの」
「え? いや知らないけど」
「あるの! すっごいはやっててね、このところレンタル三週間待ちだったんだよ?」
「それも消えた?」
「ノーノーノー。そんな甘いものじゃないのですよ、きみ。コレ出した会社がつぶれたの。ていうか連絡不能になっちゃって」
「え……」
「でね! きのう店長がわざわざその会社いったのよ! 新宿だから。そしたらその会社が入ってるはずのビルが消えててね」
「まさか、燃えたとか」
「正解! すごいよね、これもうミステリーでしょう? だから店長が帰ってきたときみんなで事件て決定したの。だってその会社このソフトの大ヒットで一部上場するってサイトで豪語してたんだよ?」
親指でもみあげをポリポリかくと柴咲氏は椅子に座りなおし、かばんからメガネを出してかけた。
「これなんだけど」
「なに? 会議資料?」
夫がカバンから出した分厚いコピー紙の束を見て夫人は口をとがらせる。
「実はこれ、国会図書館に返そうかどうか迷ってるんだ。あの、万引きとかじゃないからね?」
「ふう、よかったあ! あそこでやったら刑務所行きなんでしょ?」
夫は苦笑しながらパン皿をどけてそこへコピー束を置く。
「じゃあ、これどこから持ってきたの。図書館のものなんでしょ?」
「うん、それがはっきりしないんだ。先週にあそこの本棚の取替えにいったあと会社で見つけたんだよ。本棚の下のほうの板の間から出てきたんだ。それがまるで隠してあるみたいな感じでね」
大手家具メーカーに勤める夫を見つめながら「それとわたしの話と何が関係あるのかしら」という顔を夫人はわざとして見せた。
「うん。実はその本棚ね、鍵が壊されたんだ。それで取替え。あ、これ仕事の話だからお店でしゃべったらだめだよ? 一般閲覧禁止の部屋でね、鍵が壊されたその棚には貴重な日本における吸血妖怪の文献が収納されていたそうでね。もちろんボクは見ちゃいないが。なくなっているからね」
妻の口がいかにもパート仲間に話しそうにモゴモゴ動いているので、こりゃまずったかなと思いながらも夫の口もまたとまらなかった。
「二度と手に入らない貴重品で警察や文化庁にも被害届け済みだって」
妻はもうコピーを手にとっていた。
「戦争遂行マニュアル? 戦前の資料かなにかなの」
「人間殲滅支配の要諦、だそうだ」
「ええ? ハハ、やだ。ゲームの献呈本か」
「人間対ヴァンパイア族の戦争をいかに遂行するかのヴァンパイア政治派作戦企画室の最終報告案っていう表紙で、その中に人間界に存在する吸血鬼に関する資料をすべて回収し廃棄し記憶を消し去る、っていう項目がある」
「まあ、中身よんだの? けっこうヒマ?」
「どこかに国立国会図書館の印でもないかさがしたんだよ。そしたらつい読んじゃって」
夫は目次を広げた。
目次
戦略の起点
統一運動
段階的勝利
最終兵器の所有 その必要性と現実性
最終宣言
純血派の暴走収拾案 彼らのABCテロ
感染支配とその問題点
戦争終結後の人間保護に関する案
「わあ、頭いたくなりそう。なんかアカリが得意そうだね、こういうの」
「どう思う?」
「どうってアカリのこと? それともこれのこと」
「……ハハ、やっぱ冗談っぽいよな。まったく、ボクも」
「そんなことない」
そう断言した妻の真剣な顔に夫はおどろいた。
が、すぐに悟った。
「あ! これお店に持ってちゃあだめだよ!」
「あん! だってええ! けっこう気合い入ってそうな中身だしい!」
「だめだめ! やっぱ今日かえそう」
「いやいや! ねえせめて一度よませてよお! あなたが見せたんじゃないのよお! ね、今日だけ」
「はあ、わかったよ」
「でもさ、どうしてこんなのがそんなとこにはさまってたのかしらね」
「はさまってたわけじゃないよ。わざわざネジをはずして棚の最下段の天板部分まではずしてそこへすっぽり収納してあったのさ」
「愉快犯?」
「だよな? それとも戦争立案者がひそかなる宣戦布告として置いていった。ないしは密告とか、ふふ」
「なんだ。けっこうノリノリじゃないの」
「あ、いけね。納入立会いに遅れたらまずい」
父親が玄関に小走りすると柴咲家の長男アカリがあくびしながら二階から降りてきた。
「ふあああ。あれ、パパいたんだ?」
「おう、アカリおはよう! 時間だいじょうぶか?」
「いま何時?」
時間をきいてあわててトイレへかけこんだ息子にあきれながら柴咲氏は玄関で靴をはいた。
「行ってきまーす。じゃあ、行ってくるよお!」
返事がない。
そのかわりトイレから息子が妻に話しかける声が聞こえてくる。
「ママ、吸血メイド危機一髪おさえたの?」
「それが、だめなのよ」
「ええー! なんでえ?」
「それよりさアカリ。今ね、もっとすごいの入ったから今日は早く帰ってきなさいよ」
やれやれと首をふりつつ玄関を出ると、晴天の青が柴咲氏の目にしみた。
駅まで長い道のりの新居だから晴れの天気がなにより助かる。
それにしてもいい空だなと上を見つつ歩いていると、妙な雲が気になった。前方に小さな黒い雲があるのだ。
その雲の動きが変だった。
右にゆれ左にゆれ、まるで雲が何かをさがしてあっちへウロウロこっちへウロウロしているような感じだ。しかもだんだんとこちらへ向かってきている。
いきなり雲が柴咲氏の頭上を通過した。
それは雲ではなかった。
どちらかと言うと鳥の集団みたいな、とにかく何か生きたものたちの飛影だった。それが証拠に「見つけた! あっちだ!」という声のようなものが聞こえたのだ。
雲は自分の自宅へ一直線に向かっていた。
反射的に彼は走った。自宅へ向けて。
やっと自宅へ着いた彼はわが目を疑った。
庭越しに見えるテラスの大窓になにか黒い大きなものがベッタリはりついている。
それも十も二十も!
大きな羽を広げた巨大カブトムシ?
いや、それとも鳥?
ちがう、コウモリだ!
妻と息子の名前を呼ぼうとしたらのどがひっついて声が出なかった。
あわてて周囲を見たらなぜか誰もいない。
庭へは行くな! 助けるほうが先だ!
玄関の鍵をあけ、中にとびこむ!
「だいじょうぶか! ジュンコ! アカリ! どこだ!」
靴を廊下にまで散乱させて居間へとびこもうとする夫に二階の階段から妻が声をかけた。
「まあ、忘れ物?」
ころびそうになって階段を見上げた夫は言う。
「あの、アカリは!」
「もう学校行ったよ? ねえ、だいじょうぶ?」
「待て! そこにいて!」
夫はありったけの勇気をだして居間にとびこんだ。
誰もいない。
「まあ、だめじゃないの。窓はきちっと閉めてって言ってるでしょ? 今度の窓は大きいんだから。春は風が強いし、ほら、人形がこんなに倒れちゃって」
うそだ、今日は風がない。夫はそう思った。
「やだあ! ナプキンまで落ちちゃって。もう、洗濯したばかりなのに。どうしたの? 窓から入ってきたの?」
何かが部屋の中を飛んだのだ。部屋中のものをなぎ倒して。そこまで思ったとき夫はやっとテーブルの上を見た。
「ジュンコ。あのコピーは?」
「え、そこにあるでしょ? あ、やだあ! もうカバンに入れちゃったの? 今日は返さないっていったでしょ?」
「ボクは取ってない……」
「じゃどこなの? ねえ!」
夫は窓の外の空を見た。
そこへ携帯が鳴った。
中学時代からの友人の名前が光るのでなんだか頭がおかしくなりそうだった。
「はい……」
「よっ、元気? あのさ、いきなりだけど家具メーカーって物置きとかも扱うんだっけ?」
「ああ、やるよ?」
「えと、地下に埋めるような物置きとかもあるのかな?」
「地下? 地下室にしたいとか? ホビールームの?」
「ん、まあそんなもん、かな」
「なんだよ、シェルターでも作る気か?」
自分でついそう言ってしまって、柴咲氏はなぜかぞっとした。
しかも相手の声のトーンが変わったのでまた寒気がした。
「……実はな、できればそんなのがほしいんだ」
「カッちゃん、この電話してきたの、偶然か? まさか見てたわけじゃないな?」
自分でもなぜこんなことを聞くのか意外だったが、どうしても知りたかった。
「どうしたんだよ。お宅を監視してるってか? なんで国土交通省が家具屋さんにそんなことするのよ。おい、なんかあったの?」
妻が脇から心配そうにのぞいている。
「誰なの?」
「あ、仕事の電話。ちょっと上の書斎にいってするよ」
妻にそう告げ二階に入ると夫は鍵をかけた。
「もしもし。なあ正直に言ってくれよ。そしたらシェルターはサービスしとくよ。いいのがあるんだ。家族五人までいけるやつ」
「ほんとか! こりゃラッキー! で、なに?」
「日本は戦争するのか」
「……」
この沈黙が柴咲氏の心をどうしようもなく暗くさみしくさせた。
「なあ! 戦争でもやらかすのか!」
「なにがあった?」
「カッちゃん、聞いてくれ。国立国会図書館で吸血妖怪の資料が何者かに大量盗難された。そいでさっき建てたばかりのうちの窓にバケモノみたいなものがはりついた!」
だが柴咲氏はマニュアルのことは黙っていた。
「……おれも詳しいことは知らん。噂だけなんだ」
「頼む!」
「誰も近くにいないか?」
「いない」
「うん。実は最近な、鉄道運用状況がイレギュラーになってる。おもに輸送線なんで旅客には関係ないから目立たないんだが、やたらでかい車両をあちこちに頻繁に移動してるんだ。何の車両かはおれも知らんが」
「吸血鬼ってなんだ? テロ国家の暗号名なのか? それともなんだ? まさかそんなバケモノがほんとにいるなんて政府は考えちゃいないだろうな!」
「だから言ったろう。噂だけだって」
「な、なんの噂だ! おれは信じないぞ。なあ、これは化学兵器の細菌戦なのか!」
「おい! なぜそう思う? おまえ何しってるんだ? たしかに厚生のやつらが妙に与党とつるんでるんだよ。何か情報があるんなら教えてくれよ」
「……どっかで会えないか」
「そうだな……よし、今日かあしたの昼飯どうだ」
「うん」
「じゃまた電話する。電源切るなよ?」
携帯をポケットにほおりこむと柴咲氏はすごい勢いで書き物机に向かった。
思い出せるものだけでも書き出しておかなければ。
それが自分の使命だとも思った。
「戦争遂行マニュアル。たしかにそう書いてあった! くそう、なんで!」
突如つきつけられた不条理に、なんで今なんだ、と彼は叫びたかった。
どうして念願の書斎を手に入れたばかりの今なんだ。せっかくこの机の上で手作りキットをこしらえて息子といろいろ作るはずだったのに……。
もうそんな時間など残されていないことを体中で感じながら、彼はマニュアルを頭の中から書き写していた。
第五章 ロマニア事件
「ちょっと、ちょっと! これってアカリくんのお父さんお母さんってこと? この続きはどれなの! それを見せなさいよ!」
― これに続くファイルは現在閲覧できません。「ロマニアニアン・スキャンダル」のファイルが優先開封。それとも自壊プログラムを発動しますか?
「ま、まったまった。はは、あなたわりかし冗談が下手ね。もう! わかったわよ、見ますよ。ちゃっちゃと開いちゃってよ、そのマカロニなんとかっていうのを。でもってアカリくんのファイルを早く!」
― ではロマニアン・スキャンダルの項目です。
映像をご覧ください。
そこにはいかにもアザミ好みの青年がたいまつに照らし出されて映ったいたので、ふてくされていたアザミの目が「あらまあ!」と、ぱっちりと開いた。
「ハヤト!」
喪服を着込んだ美しいラウラが青年を呼んでいた。
夕暮れに映える白いシャツの胸をはだけた黒髪の青年が答える。
「ぼくではなくて兄さんを呼ぶべきでしょう、ラウラ?」
サンタ・フェリーチェ大聖堂への日参の帰路、ラウラはようやく馬に乗ることにした。
ラウラの兄ピッポと並んで馬をあやつるこの青年はハヤト・コイズミ。中国人というもっぱらの噂だったが、いや日本人だと強くいいはるものもいてその母国は定かではなかった。
フォン・イッペンドルフ公爵の惨事のあと、だいぶしてからピッポが旅に出たとき拾ってきた「人間」だった。
だからハヤトがラウラを一目見るなり恋したことも、ラウラのえさになる獲物には当然のほうびだと考えられた。
ただしピッポがそこまで考えたかどうかわからない。気のいいピッポには人間の友だちも多かったし、ピッポもどうやらハヤトのことを本気で気に入っているらしかった。
「馬にかけてはお兄さんにかないませんよ」
「なに言いやがる。東洋人はおせじを言わないんだろ?」
永年の親友のようにハヤトとピッポは笑いあう。
ハヤトは自分が吸血鬼に囲まれていることを知らなかった。
「なんて優雅なひとだろう」
馬に乗るラウラの落ち着いた姿を見てハヤトはつぶやいた。
それは兄のピッポにも聞こえた。
たしかにラウラは変わった。
なにがそうさせたかは謎だったが、ミッキーはおろか庭師のヴァンゲリスにもひまを出し、自分でさえも容易には部屋に入れないようになったのだ。
ピッポにはそれが好ましい変化に思えた。
それなのになぜハヤトなど連れてきたかといえば、ピッポにはひとつ思惑があったのだ。
それはボディガードだった。
「おっと噂をすれば、だな」
ピッポが妹と東洋人の馬を片手で制した。
前方に広がる森の出口あたりから無粋なヘッドライトのアメリカ車が突進してきた。その車はラウラたちの馬を驚かすと派手に停車してウイング式のドアの中から三人の男を吐き出した。
「ふん、ひとり足りないな。イッペンドルフ家のものは帰ったのか。ま、そのほうが少しは助かる」
ピッポはそのうちのひとりにだけ近づいて力強く抱きついた。
抱きつかれた初老の男はモノンクルをはずしながら小さな声で詫びた。
「すまん、ピッポ。こいつは食えんやつだ。止められなかったよ」
「いいんですよ。にいさんのせいじゃない。ぼくだって無理だ」
ピッポに「にいさん」と呼ばれたシャルル・ドゥ・ザックはいかにも伊達者といった舞踏会のような衣装のしわを伸ばしながらもう一度ピッポに目で詫びていた。
「やあ、ラウラ。そちらが噂の青年じゃね?」
「まあ、シャルルおじさま。嬉しいですわ。今度こそ長くご滞在くださいね?」
どちらかというとゲルマン的な金髪碧眼のラウラの容貌に見とれる仕草をしてみせたあとに、ロマンスグレーのその紳士は車の前の男を目で指して首をふった。
車の男はじろじろとラウラを見ていたが挨拶はしなかった。
「田舎者とは口をきかんことだよ?」
おおげさなもみあげの間からもれるコミカルな口調がラウラのくすくす笑いを誘う。
このシャルルこそはロマーニア家最愛の友人で、それこそラウラが生まれる前から出入りしている、いわば後見人のような人だった。
それどころか彼は社交界の人気者であり、ことにヴァンパイア一族間での信頼が厚かった。それなのに彼が本来はどういう出目なのかを明確に知るものはいないのだった。
「おじさま、あれは、たしか……」
「ランドル・デュカス・ジュニアだよ。ハリウッド映画のちんぴらプロデューサーふぜいがロマーニア家に首をつっこむとは、いやはや世も末じゃよ。不滅の一族のはしくれであることをいつまでも鼻にかけおってからが。いいかげん、あんたをあきらめてほしいもんじゃて。なにが映画デビューか!」
「いえ、そちらではなくて、あのお坊様は?」
まるで存在感がなく、さきほどから車の排気ガスを僧衣のすそに浴びながら所在なさげに立っているそのカトリック僧侶は手に法王の印の入った包みを携えている。
「ああ。あちらは法皇様の代理人。両家の仲介をついにお父上がご承諾なさった」
「まあ! そうですか……」
ローマカトリックの総本山バチカンとロマーニア家のつながりは深く、それゆえ法王庁にとっては両者の関係は最大級の恥部であった。だからもし名門ロマーニア家にスキャン
ダルなど出ればバチカンの歴史の闇(ヴァンパイア族とのつながり!)がいつヨーロッパ中におおやけになるかわかったものではない。そこでロマーニア家の醜聞を事前に火消しするために法王庁は特使を派遣したのだ。
ロマーニア家は問題を抱えていた。
もともとラウラの婚姻は火の車の台所が原因だった。そこを富裕なフォン・イッペンドルフ家に助けてもらおうとした。
なるほど公爵は立派な人物でそこにつけいるようなことはなかったが親戚たちはだいぶ様子がちがった。公爵なきあと彼の親族はロマーニア家に公然と介入するようになっていて、それがまるで吸収合併のような趣を呈していたので貴族たちの眉をひそめさせているのだった。実は先ほどまで法王庁の特使ジュリアーノ司教はフォン・イッペンドルフ家の使いのものと話し合っていた。
ジュリアーノ司教が目礼をするとラウラはわざわざ馬からおりて深々と膝を折ってみせた。それが律儀に頭のてっぺんを剃ったこのやせた坊さんを深く安堵させた。
その光景をせせら笑うように見下していたアメリカ人がついにラウラのそばへやってきた。
六十歳のくせに猛禽類のような鋭い目つき、その下にワシっ鼻を従えてシガレットをふかしながらその日焼けした長身の男は言った。
「ラウラさん。手短かに言いましょう。わたしのオファーがベストです。あんたがたった三本の映画契約にサインすれば両家の納得いくお宝がころがりこむ。たったの三本ですぜ。たかだか二年くらいの拘束時間でバチカンどのも枕を高く、ってわけ」
デュカスはきっとピッポをにらんで話の腰を折らないようにあらかじめクギを刺した。
「それにボーナスを皆さんにさしあげましょう。カタチだけだが、法王庁のとりなす両家の手打ち式をネット配信してさしあげます。しかも舞台は宇宙だ。あたしには手持ちの宇宙船がありましてね、ここで宴を開きます。それを衛星ネット中継だ。両家の名声はいよいよ高く、いわば第二の両家の縁組が法王庁によって結ばれ法皇様のご威光はまさに天にも昇りましょうぞ。ふん」
ジュリアーノ司教の顔がかわいそうなくらい輝いた。
「それに宇宙ならいつも夜さ」
デュカスは苦々しく笑ったがハヤトにはその意味がわからなかった。
ハリウッドの巨大資本が欧州貴族社会をカネでレイプしたと誰もが憤慨したこの恥ずべき計画は誰も賛成を口にしないままずるずると進み始めた。
こうして惨劇の舞台は宇宙に移ることになった。
※
数カ月後、アメリカテキサス州ジョンソン宇宙センターの客人となっていた両家の関係者は数週間にわたって宇宙短期滞在の訓練を受けていた。
そのばからしさかげんに嫌気のさしたピッポと彼の遊びの師匠シャルル・ドゥ・ザックはこっそりと打ち上げ基地を抜け出し、ラスベガスへお忍びとしゃれこんだ。
そしてここで悲劇の前哨戦が勃発した。
カジノのささいなトラブルで大暴れしたふたりは路地裏のガチンコファイトに持ち込んで町を牛耳るマフィア五人と派手な銃撃戦を演じた。
弾丸など何発貫通しようが意にも介さないヴァンパイアにとってはちょっとした気晴らし、のはずだった。案の定あいてのヤクザどもは人間族ばかりだったのでピッポは適当につまみ食いして路地を血の海にした。そしていつものように霧に姿を変えてその場を立ち去ろうとしたときに気がついた。
シャルルがいない。
見ると道には血の塊が六つあった。
「うそだ……。にいさん! どうしたんだ、にいさん!」
六つ目の塊が言った。
「……ピップ(ピッポは遊びのときいつも彼にそう呼ばれていた)なぜ戻った。バカなやつ……」
「にいさん! バカはどっちだよ! どうして一緒に逃げないんだ! なにを食らったんだ!」
「ふふ、おれに霧になれってか? そんなことできるわけ、ゴフゴフゴフッ!」
「しゃべらないで、にいさん! だいじょうぶ、落ち着いて。ぼくのを分けてあげるから。まだ余裕で間に合うよ」
「やめろ! おれに血を分けるな! 手を離せ!」
「……にいさん? どうしたんだよ?」
「ピップ、よく聞け。おれはな、人間さまだ」
「え?」
「フフ、皮肉だな。おまえにだけは隠しとおして墓場まで持っていこうと思ってた話をな
あ、ウエェ、ゴファッ!」
「ああダメだ、そんなに血を吐いては! さあ、早くぼくの血を!」
「やめてくれピップ。後生だ。おれはもうだめだし、死ぬときくらいせめて人間として死にてえ」
「なに言ってるの、にいさん! にいさんが人間なわけないだろう? こんなときまでジョークはきつすぎるよ!」
「人間なんだ。それにおめえさんに血を分けてもらう資格もねえさ。おれはラウラを売った男だぜ。あんなブタ野郎に、おれたちの薔薇を。グファアアアア!」
「売った? なんの話……」
「クランツ・ザッパ、おれの名前だ。マルセーユの警察の記録を見ろ。ちょいと華やかな三文小説がおがめるぜ」
「や、やめてくれよ。にいさん……」
「……泣いてくれるのか、おれなんかのために」
「う、うう」
「なあピップ」
「ううう、にいさん……」
「最期なんだ、ほんとのとこを聞かせてくれ」
「なにを?」
「おれのヴァンパイアぶりはどうにいってたか? なあ、どうだった。おれはいいヴァンパイア騎士だったか?」
「にいさんは……シャルル・ドゥ・ザックはいい男ぉ~、花ならバラよ、騎士ならシャルルぅ~……う、ううう、うわあああん! に、にいさあああん!」
「そうか、シルヴィアがそんな戯れ歌つくったっけなあ。それがあんなに流行るとはなあ、はははは。ちくしょう、なつかしいぜ。あれにはおれもちょいとばっかしこの胸がグラリと……」
「にいさん? にいさんっ! うそだあああ! 起きて、早く起きてよぉーーーー! 死などは汝に無縁のものなれば、でしょう? ぼくにそう言ったじゃないか! ……死んだ……死ぬ? 死ぬって何? 死ぬってどういうものなんだよ、にいさん! わからない、わかんねええよ! もうずっといなくなるってことなの? やだ……いやだぁ! やめてくれ! 行かないで。おれをひとりにしないでよ! うわあああああ!」
すべてデュカスが黒幕だとピッポが知ったのは宇宙空間においてだった。
デュカスが怪しいとにらんでいたピッポは、宇宙船内である罠を仕掛けてデュカスをおびき出している間に彼の部屋をひっくりかえしてみた。するとラスベガス消印の封筒から多額の領収証が出てきた。そこには「仲介部屋お掃除代金として」とあった。
シャルルの言ったとおり、デュカスをロマーニア家に手引きしたのは彼だった。シャルルはデュカスが永年の間ラウラに横恋慕していたのを知っており、そこへロマーニア家の財政状態をえさにデュカスにとりいっていた。そしてお定まりのように分け前の取り分で文句をつけ掃除屋に消されたのだ。
もともとシャルルは搭乗員名簿に載っておらず計画は何の滞りもなく進んだ。
全員が無事に宇宙空間に到達もした。
しかしピッポはふさぎこみ、この世でいちばん頼りにしている兄にもかまってもらえなくなったラウラの心はハヤトへ急速に傾いていった。
「ラウラちゃん? その殿方とごいっしょにお散歩はいかがかと、そうお兄さんが言ってますよ?」
デュカスの意外な言葉にラウラはハヤトと顔を見合わせた。
「いやね、実はいましがた、お兄さんから船内の案内をしてやってくれと頼まれましてね」
最近ではめずらしく兄のピッポが廊下に出てラウラにうなづいていた。
兄のそんなわずかな仕草が嬉しくてラウラの声ははずんだ。
「はい! ぜひに」
でも歩き出したのはデュカスとハヤトと自分の三人だけで兄はついてこなかった。
すこしがっかりしたラウラだが、せっかくの兄の思いやりを無駄にしてはいけないと思い、興味深い顔つきをつくってデュカスに案内させた。そしてその間にピッポはデュカスの部屋で領収証を見つけたのだ。
そのフネはまるでホテルのようだった。
廊下にはペルシャ絨毯がしきつめられ、客室がいくつもあり、ホールさえあった。
なかには得体の知れない空間もあり、特にドアのまわりに氷のつららがびっしりとへばりついている部屋については無口なハヤトですらつい質問してしまった。
「ここには何が?」
デュカスは機嫌をそこねるどころかハヤトがそう問いただしたことをとても面白がった。
「ひひひ。そうかい、気になるかい。なるほどなあ。類は友を、ってやつか?」
ハヤトもラウラもなんのことかわからない。
「ここはエキストラ部屋だよ。映画の大部屋。中でエキストラたちがスタンバイしてるっ
てわけでね」
「まあ、こんな寒そうなお部屋で待機を?」
「エキストラといっても動物エキストラでしてね。これで十分。ていうかこっちのほうがいいんで」
「動物! まあ、かわいい! どんな動物たちが?」
「黄色いサルが三匹ほど。ひっひっひっひ。メス一匹とオスが二頭、だったかな? ひひ」
ハヤトの顔色が変わったがラウラがデュカスの間に立った。
「あの、どんな映画に出るのかしら」
「さあ、まだなんとも。ほんとはギャング映画に出す予定で買ったんだが企画が流れちまって。どっちにしろ東南アジアで安く買えるんだが維持費のほうが高くついちまう。それにしてもアジアは人間が安い」
もともとこの不必要にバカでかい宇宙船はデュカスの妄想的なボツ企画を寄せ集めたガラクタ箱のようなものだった。
フネの建造は地上でなく最初から宇宙空間のみで行われた。
最初は映画の撮影用として建造されたがその企画が棚上げとなり、次に軌道リゾートなるブームが起きたときにホテルとして建て増しされ、さらに世界的不動産バブルのときにはなんと分譲マンションとしてまた継ぎ足されていた。
結局いまのところ使い道がなく、少しでももとをとろうと今回の運びになっていた。
おかげでやっとフネとして正式運用されるようになったものの、宇宙条約にしたがって命名の必要性が生じた。そこでデュカスは宣伝のためにこの金食い船を、正真正銘の貴族たちの乗船にちなんでプリンセス・エクストラ号とけばけばしく命名した。ただし国連宇宙条約管理用の正式登録名は、英語の頭をとって「PR―X」である。
ハヤトが船酔いすると言い出したので案内はそこまでとなり、三人はそれぞれの部屋に戻っていった。
それにしてもラウラは飛行する機器にはつくづく見放された女性であった。ロマニア家当主代行として乗り込んだこのフネもまた遭難の憂き目にあったのだから。
移動用シャトルの打ち上げこそ順調だったもののデュカスが宇宙空間にしつらえたこの超大型宇宙船は係留用に接続したステーションごと太陽に向けて暴走したのである。
原因はラウラでなくデュカスにあった。カメラ映りをよくするためステーション内部やシャトルの内部まで調度を豪華にしすぎたのである。このため航行管理システムに悪影響が出たというのがプリンセス・エクストラ号遭難事故(あるいはロマニア事件)究明委員
会の公式見解でもある。
さて、この恥ずべき宇宙興行にはハヤトとジュリアーノ司教のほかにも両家ゆかりの貴族たち十数名が参加しており、人間とヴァンパイア族はほぼ同数になっていた。そしてこの乗員構成比率こそがロマニア事件を際立たせる要素となった。なぜなら奇跡的に生還したのは全員が人間だったからである。
先のデュカスの案内が終わって数時間後、すなはち撮影開始直前に事故は起こった。
和解の宴に備えて各人が寝室にこもっていたとき、ラウラの部屋の扉をたたくものがあった。
「まあ、ハヤト。船酔いはもういいの?」
正直にいって、ラウラがハヤトを熱愛することはついになかった。
ただ兄にも距離を置かれ、世紀の茶番の主役をつとめなくてはならない不安に追いつめられていた彼女を常にはげましてくれるハヤトに対してラウラは生まれて初めて「感謝」という感情を抱いたのである。
これは彼女にとっても自己再発見であり、また未亡人というさみしさもあって彼女のハヤトに対する関心は日々高まっていた。
そんなおりにハヤトの訪問を受けたのである。
何の抵抗もなくラウラは鍵を開けた。
ところがその直後だった。
「ラウラ! このときを待っていた!」
ハヤトの手が胸と足の間に伸びて舌が口にさしこまれた。
ラウラはとまどったが、このとき妙な感覚を味わった。
血を吸いたい。
そう感じたのである。
実はラウラは本来「吸血」という行為に嫌悪感を抱いていた。どうもあの生臭さを体が受けつけず嘔吐感すらおぼえるのだった。だから今まで血を吸ったことがなかった。
それがどうも最近ハヤトが近づいてくるたびに血への嫌悪感が薄らいでいくようだった。
そして今なら「吸ってみてもいいかな?」と思えたのである。
「ばかやろう! 妹に何をする! ついに正体を出したな! にいさんの仇!」
いきなり兄がハヤトの頭を殴ったのでラウラは動転した。
「兄さん! いつからそこに?」
下半身がまだ霧状のまま、ピッポは答える。
「ずっといた。ラウラよく見ろ! こいつはデュカスだ!」
変身が解けた老人は醜く薄い頭髪から出血しながら逃げた。しかしピッポの怒りの翼は千里をかけ、瞬時に老人をつかまえてしまった。
「やめろピッポ! 今カメラのスイッチを起動した。全世界に恥をさらしていいのか? おまえの家は破滅だぞ?」
「その前におまえが消えろ」
恐怖の万力でピッポは老人の首をしめつけその頭を食卓のロウソク立てで串刺しにした。 叫ぶひまもなく老人の頭部は消失していた。
その銀のロウソク立てには法王の印がついている。
こうしてロマニア事件におけるヴァンパイア族最初の犠牲者は同じヴァンパイア族の手にかかって灰と消えた。
このとき参会者たちはすでのこの食堂大ホールに集まっていた。
全員がピッポの殺人を目撃していた。
「ひとごろしー!」
「バ、バケモノだ! 翼があるぞ!」
「落ち着け! これは映画の撮影だぞ? きっとドッキリなんとかってやつだ」
恐怖に叫ぶ人間たちと故意に騒ぎをおさめようとするヴァンパイア貴族たちの声が交差する。
ところがピッポはすっかり興奮していた。
兄として誰よりも慕っていた人を亡くした悲しみと憤りがこみあげてきて自分を抑えられなくなっていた。
わけのわからないことを叫びながらピッポはデュカスの残りの死体を次々と食卓上で串刺しにしていく。怒りの翼を最大限にはばたかせながら。
「……撮影だって? じゃあ宙吊りワイヤーはどこにあるんだ? おい! 撮影スタッフはどこにいるってんだよ!」
「じゃあ本物なの? きゃああああ!」
人間側の参加者たちがパニックに陥った。
その中の何人かが非常ボタンのつもりでやたら操作パネルをいじったせいだろうか。それともドアが閉鎖されていると勝手に考えて硬いものでやたらと扉や壁をたたいたせいだろうか。いずれにせよ何かの機械がすごい勢いで動き出した。
「うわわ! なんだ、今の揺れは? うわあああ!」
ピッポ以外の全員がそう叫んだ。
フネが暴走していた。かなりの加速度がそう告げている。
装飾用にくり貫かれた、やたら数の多い丸窓から外を見ても地球がどんどん遠くなっていくのがわかった。
そして誰かが気づく。
「たいへんだ! 太陽がでかくなってる! 太陽に向かっているぞ!」
ヴァンパイア族の誰かが命令口調で次のように言った。
「早く棺おけに入れ!」
なるほどこころなしか窓から差し込む太陽光線が強さをましているようだった。
揺れるフネの中で、人間もヴァンパイアも区別なしに廊下へ出ようともがいていた。ただジュリアーノ司教だけが腰を抜かしたのか床にへばりついて十字架を拝むように掲げて目をつぶっている。
そんなときにラウラが入ってきた。
みんなあっけにとられた。
ラウラはしずしずとよどみの無い歩みで進んでくる。フネの揺れにまるで影響されていない。
実はよく見ればラウラの足はかすかに宙に浮いていた。それが天使の歩みの秘密だった。
ラウラは兄を見つけると彼に近づいた。ピッポはすでに部屋のすみにへたりこみ、ぼんやりと床を見つめていた。
「……にいさん」
「ラウラか……。シャルルおじさんはいっちまったよ。人間だったんだ」
「まあ! おじさまが、人間?」
「ああ、そうだ! 人間でわるいか! くそう、ううう……」
「にい……」
「ラウラ、わるいがひとりにしておいてくれよ……」
ラウラは兄の肩から手を離すとテーブルの下のジュリアーノ司教のところへ行った。
「神父さま。神父さま。ジュリアーノ司教さま!」
「おお? ああ、あなた……」
「フォン・イッペンドルフ夫人です。よくお聞きください。この宇宙船は暴走しています。どこへ行くかわかりません」
「ああ、やはり! マンマ・ミーア!」
「神父さまは助かります! だいじょうぶです! わたくしの箱をお使いくださいませ! それがどこまでも神父さまをお守りいたします!」
「え? 箱? 救命ボートがあるのですか?」
「いえ。その……核シェルターのようなものとお考えください。さあ、この廊下の突き当たりがわたしの部屋。これが鍵です」
ラウラは鍵を床に置いた。
いくらなんでも神父に触れることはできないから。
「しかし、あなたは?」
「わたしの身はあなたさまのご主人に捧げたもの。ですからお願いです。助かってください! でないとわたくしの魂は救われません。もう時間がありません。どうか終油をわたくしの箱の上に」
魂を救うと聞いて司教の目に力が戻った。
司教は純粋なまなざしでうなづくと、ラウラに向かって十字を切ってから廊下へ駆け出した。廊下では逃げ場を求めて人間たちが阿鼻叫喚の世界を繰り広げている。その間を縫ってハヤトは来た。
「ラウラ! たいへんだ! ああ、どうすればいい」
「では、こうして」
ラウラはハヤトに口づけをした。
バラに宿る朝露のようだ、なんて芳しい唇の香りだろう。
ハヤトはそう思った。
もし彼がヴァンパイア族なら即座に悟ったことだろう。この女はまだ人間の血を吸ったことがない。だから口のにおいがないのだと。
思わぬ至福のときにハヤトの男の欲望が燃えあがる。
力いっぱいに抱きしめるとハヤトは燃えるような舌をラウラの口に乱暴に挿入し彼女の舌を探し求めた。
ラウラはそれを待っていた。
ハヤトの舌の下部を犬歯で傷つけると、そこから吸血した。
ハヤトは出血に気がつかない。
今それどころではないのだ。
待ちに待った愛撫のときぞ、今は。
からみつく濃厚なキス。
めくるめく官能の想い。
そんななか、ハヤトはふと異変に気づいた。
そのときハヤトが気づいたのは舌の痛みではなかった。
それは口臭だった。
初めそれは故障した宇宙船のどこかから漏れてきたガスだと思った。それは吐き気がするほど臭かったから、まさか目の前の天使のような女性の口から出ているとは考えられなかったのだ。
だがそれはラウラの口からきていた。
まるで地獄の番犬が放つ、いたたまれない腐った肉の臭気。
呼吸に困難を感じハヤトは口を離そうとした。
だがそれはピタリと密着して離れようとしなかった。
そしてハヤトは、ようやくもうひとつの異変に気づく。
自分の舌から出血している!
「うう? ぐぐぐ、うう!」
もがくハヤトには見えなかったし、おそらくそれは誰にも見えなかったが、ラウラのほおには耳元まで裂けてしまいそうなくらいの嬉しそうな笑顔が広がっていた。
だが力いっぱいに吸う唇とふくらんだりへこんだりするほおの動きは、それを見る者にエロティックな想像しか許さなかった。
だからそれを見つめるピッポもまさかラウラが吸血中だとは考えもしなかった。
それにピッポはいま、妹のラウラに危険を知らせに来たのだ。
「ラウラ! たいへんだよ、ラウラ! 太陽の光が強いんだ! ラウラ、聞こえないのか! ええい、しかたのないやつ」
そう言って近づこうとしたピッポは、バチバチという電撃音とともに弾き飛ばされてしまった。
そこには見えない結界のようなものがあって半径数メートルからラウラとハヤトに近づくことができなかった。
そのときピッポの小指が焼けた。
「あちち! いかんぞ! 陽光がもうここまで!」
あわてて子羊皮の手袋をするとピッポはどなった。
「ラウラ! それどころじゃないぞ! 棺おけに入るんだ! おい、ラウラ!」
キスに夢中のラウラはピッポに返事をしない。
ピッポがふりむくと、フネの窓からサーチライトのようなむき出しの日光が暴力的に部屋に降り注いでいた。
「まずい!」
サングラスをかけたピッポは大急ぎで廊下を駆け抜けた。
自分の翼にあわてふためく人間どもに目もくれず、一族宿泊の部屋のドアをたたいてまわる。
「頼む! ラウラを助けてください! 太陽がラウラを焼き尽くす! お願いだ! 貴族の盟約にしたがってここに聖なる要求を掲げます! どうか妹を助けて!」
次々とドアが開き、この運命の旅に参加したヴァンパイア一族全員が出てきた。
「妹ぎみはいずこに!」
口々にそう言うと、開きっぱなしの棺おけを気にすることもなく彼らはピッポにしたかって飛んでいった。
「おい、見ろよ! こいつはシェルターだ!」
人間の誰かが叫ぶと、みなが手近な棺おけにとびこんでフタを閉めた。数は十分にあった。
食堂ホールにつくと彼らはラウラとハヤトを円形に囲んで結界の外で翼を最大に広げた。そうすると一時的にせよ、結界の中がひんやりとした影になった。
それを見たピッポが満足そうに感謝をこめた目礼をみなに送り、灰と消えた。
ピッポの目礼を誇らしげに受けた長老格の初老の貴族が次に灰になった。
太陽の光はますます強く、もうみんなの表情すらハレーションを起こしている。
恐怖に目をむいたハヤトが、口を吸われながらも周囲を見渡すあいだに翼の影は次々と消えて、ついには誰もまわりにいなくなった。
ただ目の前の女だけが目をつぶりながら自分の舌を、自分の血を吸っていた。
ハヤトは自分が恐怖にかられたのか怒りにかられたのかわからなかった。
「こいつめ!」
そう口の中で言いながらハヤトの両手はラウラの首をしめていた。
どうせこいつの体もすぐに灰となって消えるだろう。だがその前にすこしでも人間さまの尊厳と怒りを思い知るがいい。これでもか、どうだ、これでもか!
そう呪詛しながらハヤトはラウラの首を絞め続けた。
だがいくら待ってもラウラは消えなかった。
気がつくとラウラは息絶えていた。
おだやかな表情を浮かべたまま。
自分が絞め殺したことに気づきおそろしくなったハヤトはラウラから手を離したが、それ以上におそろしいことに気づいてしまった。
テレビ中継されている?
はっとして部屋のすみのモニターを見ると、そこには自分の顔のアップが映っている。カメラは生きていた。
「うおわわああああ!」
椅子をふりあげたハヤトは手当たり次第にカメラをたたき割ってまわった。
しかしやがて太陽光線が強くなりすぎてカメラが見つけられなくなったので、ハヤトはまだ余って開きっぱなしになっている棺おけシェルターにとびこみふたを閉めた。
そのころになっても食堂ホールのラウラの死体はまだ残っていたが、しかしそれも少しずつ光に溶け込むように消えていった。
約二十億人が見たというこの生中継映像も、大半の人間にとっては出来の悪い特殊効果撮影ホラーにすぎなかった。
またあとでそれが事実の放送だとわかったときも単なる不可解な事件であり、ときおり映った翼なども強すぎる太陽光線のせいだろうとしか感じなかった。
つまり人間たちはロマニア事件から何も学びはしなかった。
しかしヴァンパイア一族にとっては聖なる事件となった。
彼らには同族の身に何が起きているのかが逐一理解できたし、その行動がそのとき人間たちが示した行動よりもはるかに高貴なものだったことを自ら認めることができた。
この事件によりヴァンパイア族は旧人類を自分たちより数段下の存在として意識するようになった。しかもその意識を衛星ネット中継という手段によってリアルタイムに共有した歴史的意義は計り知れない。
かたやこの事件から何も学習しなかった人間たち。この理性と見識を欠いた反応を示した瞬間に彼らは「旧人類」の烙印を押されたのである。
ところでハヤトが船内を暴れまわったせいでもないだろうがこのフネは無事帰還した。
生還したジュリアーノ司教はラウラを聖人に列することを法王に奏上。実現はしなかったものの、このおかげもあってラウラは聖女として世界中の胸に刻み込まれた。
こうした名誉が与えられたこともあって、生還した人間たちをヴァンパイア族が執拗に狙うことはなかった。もはやターゲットは人類追放に絞られたのだからそんな小さな復讐は無意味になった。まして帰還後に精神異常をきたしたハヤトなど脅かす価値すらなかった。
こうして最後まで誰にも知られることはなかった。
ラウラがあのとき、ほんとうは何をしていたのかという事実は。
このロマニア事件はよくロマニアン・スキャンダルとも称されるが、ほんとうのスキャンダルとはラウラがこのようにインモラルな存在だったということだ。
あるいは身を挺して法王の使者を守った殉教の聖女というラウラ本人とは正反対のそのイメージが人狼戦争の実質上の引き金となり、その後もヴァンパイア族の精神的支柱としてこの戦争を最後まで導いていったということのほうがよりスキャンダラスな歴史の実像だっただろうか。
いずれにしてもロマニア事件は、ラウラのその純真な天使の笑顔とともにヴァンパイア族の胸に深く刻まれた。
ラウラ・フランチェスカ・アントーニオ・ディ・ロマーニア。
その精神は自由、肉体は奔放、心は火のよう、策略は氷のごとし。
まさに狼のような女であった。
第六章 感染支配
アカリパパが一日中持ち歩いたマニュアル
警察まで行く決心つかず、中身が荒唐無稽にも思えてきて
ママになんとかごまかして昼間で書き続けた
現場に遅刻代理で大目玉
帰宅してもママとアカリをなんとかごまかして寝た
眠れない 寝付けない
ふと気になって こっそりテレビをつけると
なんと臨時ニュースで横須賀で原潜テロの大ニュース
泊り込みデモ隊の見守る中で米軍が何者かと交戦中
あがる火の手 騒ぐデモ隊
突然ニュースが中止となり「誤って劇映画が流れてしまいお詫びします」のテロップ
他の局も同じテープかテロップ
ネットにつないでみると「サーバーが混雑」の知らせばかり
翌朝の新聞や新聞サイトにもまるでなし
逆に不信感が募る
情報も知りたいし警視庁へ
まじめに対応してくれる部長さん
少し安心するアカリパパ
原潜テロも認める部長
なぜか政府がかん口令をしいていることも教えてくれる(あとでホンモノの刑事たちによる訂正会話いれること)
場所をうつして車に行く
そしてマニュアルの説明
中身を説明 自分で書いたので補足したかったアカリパパ
熱心に記録する部長
ここで感染支配の説明をする
では大部隊を率いて行動しますよ
そういって多くの自動車を動かす部長
ああ、ちゃんと動いているんだなと安心するアカリパパ。
かなり満足して「ぼくができるのはここまで」と帰るアカリパパ。
そしてマニュアルはかすめとられた
昨日から尾行している政治派によってやられた。
この一行が銀行へと向かう
政治派の戦争を遂行するために
次の章で同じニセ刑事による「戦争」を描写する
しかし章はあらためる
この章の目的は「感染支配の説明とマニュアルの紛失」です
― 以下に戦争遂行マニュアルの内容を示します。
マニュアルの原本は完全破棄されました。ここに書かれているものは人狼戦争に敗れ
たサピエスの側からの記録です。その内容の多くが当該サピエスの記憶によるものだ
ということを確認ねがいます。
「お? デカ長さんよお、そのツラつきはどうしたい? 二日酔いか」
「からかわんでくださいよ、署長。ちょっと頭にきてましてね」
「頭にくるって、やっこさんは常連の顔なじみだろ? ハコ師のベテランで人あたりもやわらかい」
「その頭にくるじゃないんで。こっちのほう」
丸の内署の三階廊下で牧田部長刑事は人差し指をこめかみのあたりでクルクルまわしてみせた。
「ふうん。ま、彼も年だしな。大目にみてやりなよ」
「五千万やらかしましたからね。ちょっとお目こぼしというわけには」
「午前中の山の手線だけで? ヒュウ」
大げさに肩をすくめると、そのまま署長は会議室へ行ってしまった。
だが牧田刑事はどうしても納得がいかなかった。
まず第一に一流のスリである蜀
しょく
山人
さんじん
(業界で彼はそう呼ばれていた)ともあろうものが、なぜこんなつまらないものを掏り取ったのか。
そして第二に、どうしてこんなくだらないものをトイレで立ち読みしてつかまったのか。なにしろ巡回の警官に気づかないほど熱中して読んでいたというのがどうも……
「おい、どうしてなんだ! 蜀山人のじいさま」
取調室のドアを開けるなり、牧田刑事は大声をあげて机の前の老人を叱った。
「ほ、トイレから帰るなり、おどかしかい? こんなこたあ珍しいねえ。あなたさまとは長いつきあいなのに」
刑事のことをあなたさまと呼ぶのが蜀山人の有名なクセだ。
「長いつきあい? それはこっちのセリフだよ! 一個で一千万やら五百万やらする宝石や時計を一目でみつけちまうあんたがだよ? なんでこんなクズ紙を抜いたんだ。それもこいつで足つけちまって。トイレに入るのは財布を捨てるためだけなんだろ?」
「ああ、そのことですかい。そりゃあねえ、本物の迫力ってやつなんだよ」
「プッ! ブファハハハハ!」
こわもてで知られる先輩刑事が突然ふきだしたので居合わせた若い刑事と記録官は目を丸くした。取調室で牧田が笑うなんてちょっと想像がつかない出来事だ。
「ハハハ、なあにがホンモノだい。プハハ……ふざけるな!」
今度は急に怒ったのでまた同僚ふたりはびっくりした。
「ほんとはこいつから、何かほかのものをねらったんだろ! まだオオモノをかくしてるな!」
「このおかたからはこれだけだよ。これがねらいだったし」
「なにい? ハコ師の天才が品定めを誤ったって? そりゃ通用しないよ、じいさま」
「あたしの目は確かだよ。この人が大事なものを胸に抱え込んでるのはピンときた。めったにない真剣さだった。そうとう大きなヤマを踏んでるな、ってね」
「それがこれか?」
牧田は記録官から紙を一枚ふんだくって老人の目の前につきつけた。
そこにはいまどきめずらしくペンの手書きでこう書き付けてあった。
『 1.ヴァンパイア戦争あるいは人狼戦争
旧人類に打ち勝ちわれらヴァンパイア族が新たなる地球の支配者になるためのこの戦いをヴァンパイア戦争(あるいは大戦)または人狼戦争(あるいは大戦)と呼称するのが通例である。
人狼戦争でいうところの「人」とはすなはちわれらヴァンパイア族のことである。「狼」は敵方の旧人類ホモ・サピエンスを指している。
しかしこの大戦の中身はヴァンパイア族対旧人類という図式にはおさまらない。ヴァンパイア族政治派内における大規模な派閥抗争や政治派対純血派の血みどろの闘争、さらに純血派内部の血の抗争も含まれる。』
老人はチラと上目遣いに一瞥してから目をつぶって言った。
「そう」
牧田は呆れたように紙を扇子がわりにして自分の顔を二三回あおいだ。老人はそれを見てすこしムッとしたように言った。
「あたしだってね、意外に思ったさ。てっきり封筒の中身はヤクか宝石と思ってたからね。だけど、えーと、どれだっけ。あ、記録さまのほうにあるやつだ。それを読めばあなたさまだって」
蜀山人が記録官の机に手を伸ばそうとしたので、ピシャリとそれを紙でたたくと牧田は記録官のところへ行った。
「どれだね。これか?
『2.統一運動 ヴァンパイア一族内における内部抗争の調整と克服』
ちがう? じゃあ、
『3.段階的勝利 わがヴァンパイア族が基本的には地球における少数民族であるという事実は忘れてはいけない。まずどこかの旧人類国家と手を組むのが現実的。しかし買収できる国家は限られているので各国保守派と現実的政治連立を組むのが妥当』
ってやつ? ふん。
『4.最終兵器を所有するか まず旧人類の既存ABC兵器の奪取を図ること。しかし既存の最終兵器では人狼戦争における最終兵器になり得ないという意見は軽視すべきではない。したがって自前の最終兵器構築も同時にすすめること』
じゃないよなあ。おっと、次が笑えるんだ。
『5.戦争終結宣言 タイミングが大切だがこの議題は時期早尚。現在のところ方式は次のふたつ。一、テレビ中継で各国代表の血を残さず吸い取る。二、テレビ中継で各国代表を頭からかじり食う。これは見せしめの公開処刑にあらず。いずれも支配者交代にあたっての「魂の禅譲」という観点で執り行うので各国代表には最大限の敬意をもって接することに留意されたし』
聞いたか、じいさま? 頭からかじり食うだと。ダハハハハ」
今度は若い刑事も記録官も牧田と声を合わせて笑った。顔なじみ同士のなれあったような気だるい笑い声が取調室に反響する。
「それじゃないよ。きっと次だ。吸血鬼文書狩りというのがあるじゃろう」
牧田は笑いをとめ、若い刑事と顔を見合わせた。
「ふうむ。この蜀山人の思ったとおりだわい。あんたらこれに心当たりがあるんじゃないか?」
何をばかな
ジャ読んでみ
読んでやるとも
牧田の否定
蜀山人あなたさまが否定してもあたしには思い当たるふしがあるんでさ
若い刑事 そういえば公安のだれそれがさがしている情報が
気になる牧田が先を読む
そこで紙は終わっていた
若い刑事が公安にあげると提案
かっとした牧田が破りかけると
公安が入室してくる
紙を押収
外へ出ると蜀山人が死んでいる
廊下で携帯する公安
ええ、いえ、わたしでなくペットにやってもらおうかと
タランテラなら確実に死亡 三人分くらいはある
いっそ銃でも撃ってもらいますか 置いときますよ もう出してあるし
あとは記録係りのページをすこしはぎとって
6.情報操作 従来の、いわゆる「吸血鬼文書狩り」の対象を拡大すること。われわれが支配階級となったときのイメージ戦略は早期に着手するほど効果的。ゆえにこれまで紙媒体・電波媒体を中心にしてきた、いわゆる「吸血鬼」ならびに「ヴァンパイア」の情報抹消をネット媒体さらに美術品・建築物にまで広げること。これは旧人類のみならず同胞の若年世代にとっても有効なものとなる。将来に有害文書に指定するより完全抹消が望ましい。イメージは統治の命綱であることを銘記のこと。
7.政治派の戦略目標 ロマニア事件以後の戦争遂行の責をになってきたのはわれら政治派である。そしてその戦略目標はもちろんヴァンパイア族による地球支配だ。われら政治的リアリストの集団である政治派は旧人類一掃など目標には掲げない。資金の豊富な提供さえあれば旧人類首脳部との妥協もやぶさかではない。いずれにしても旧人類という食料なしにはヴァンパイア族の存続もまた成り立たないのだ。保守合同勢力である政治派はむろん一枚岩ではありえないがそれゆえ幅広い選択肢を保有し、常に現実的政策のスタンスをとることができる。そのなかでも如月しのぶのリーダーシップには今後も期待するところ大である。彼女ならば旧人類の社会インフラを保存し即刻活用するというわが保守派の最大戦略をいかんなく実行してくれることだろう。
8.純血派の暴走 旧人類の完全一掃を第一義に掲げる純血派は当初から暴走していた。すべての社会インフラを破壊しすべての旧人類を一度に血祭りにあげるという無責任な活動原理は言うまでもなくあのロマニア事件から来ている。ロマーニア家ゆかりの人物たちが中核となって旗揚げした「金色の騎士団」は人間どもへの復讐しか眼中になく大規模都市破壊テロに終始した。しかしロマニア事件ゆかりの親族である純血派首脳に寄せるヴァンパイア一族全体からの同情が深いのもまた事実であり、政治派テリトリー内であっても彼らの支援者があとを絶たないのが現状である。だがこの過激さが最近では政治派に有利に働いている。旧人類の徹底根絶を叫ぶ彼らにおそれをなす旧人類政府と、純血派粛清にのりだしたわが政治派との間に一時的共闘戦線を組む動きが加速したのだ。すでに政治派はこれによって旧人類側と太いパイプをつなぐことに成功。旧人類を内側からくずす作戦も可能となった。ちなみに日本における純血派のリーダー格は江奈グループである。
9.感染支配 戦争開始当初は感染支配が戦争勝利の切り札と考えられていた。感染支配とは、ヴァンパイアの吸血行為における吸血菌感染を最大限に利用して旧人類を一時無力化し、そののちに吸血菌を除去してサピエスを作り上げるというものである。
個人レベルならばヴァンパイアが旧人類を屈服させるのはいともたやすい。吸血して吸血菌を感染させればいいのだ。しかし地球規模となるとそれは次元がちがってくる。しかも人口は旧人類が圧倒的に多い。感染支配作戦はその立案当初から二つの問題点が指摘されていた。
ひとつは規模的不可能性という点。単に無力化する程度の感染では次なる感染拡大の主体には為り得ないのだ。一度の吸血ではせいぜいが吸血菌のホスト(寄生主)になるのがせきのやま。感染力を有する成体になるまでには数年から数十年を要する。したがって感染だけに頼る完全支配には何年かかるかわからない。これでは電撃的制圧には使えない。
もうひとつの問題点は強力な感染力を有するメンバーが純血派に集中している点だ。しかし当の純血派は旧人類を感染支配してのちに食料化(サピエス化)することなど眼中にない。この「一時的ではあるにせよ、けがらわしい狼どもに高貴なるヴァンパイア族の血を与え、あまつさえそのものたちを後に改造して食料にする」という点が二重に純血派の逆鱗に触れたのである。純血派の思想は、一にヴァンパイア族同士のみによる婚姻、二に下賎なものにはけっして血を与えず、ひとたび一族に迎えたものは全面的に保護するというものである。ゆえに政治派の感染支配プランなどいまわしい悪夢以外のなにものでもない。
純血派の目的は人類皆殺しのあとに新天地を開くというロマン的なものだ。だが現実問題として純血派抜きには感染支配作戦の実行は極めて困難といわざるを得ない。しかし純血派の説得はさらに困難。ロマニア事件とはそれほど純血派の人生を変えてしまったのだから。
― 以上です。
ただしこのマニュアルは「暗き星の福音」出現以前のものであり、出現後では戦略が
一部訂正されました。それについては「記憶昇華」の項目を参照。
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それともすぐに自壊プログラムを……
アザミはアカリの家族の顔を思い出していた。
あれはほんとうにアカリのパパとママなのだろうか?
これを見たらアカリはなんというだろうか?
アザミは次の項目を選んだ。