きっかけは、そんなもの。2
仕事を終え、退勤した私はいつもの駅へと続く道を歩いていた。
夏の季節の十七時という時間はまだまだ明るく、そして暑い。
今までエアコンの効いた社内に居たものだから、その温度差に少し立ち眩みを覚え、立ち止った。
途端に汗ばんできて、不快感に眉をひそめる。
目の前には街路樹を見上げる母娘が居た。
五歳くらいの女の子は泣いているようだ。
二人が見上げる街路樹を見れば、なるほど――どうやら風船が飛ばされてその枝に引っかかったらしい。
「ちょっと高いな……」
日本の成人女性の平均身長より、少し足りない私のそれは百五十四センチだ。
あの高さでは私が背伸びをしても、手が届かないだろう。
背の高い男性だったらどうかな、という微妙な高さだ。
女の子は諦めきれないのか、しきりに母親のスカートを引っ張っている。
困り顔の母親はなんとかなだめようとしていた。
諦めなさいと、無理やり手を引いてその場を離れない所を見ると、優しい母親なのかもしれない。
どうにかしてあげたいけど、……ちょっと無理かな。
そのうち女の子は泣き止み、未練の残る視線を枝で揺れる風船に向けた後、母親に頷いた。
諦めたらしい。
母娘は手を繋ぎ歩き出した。
母親を見上げる女の子は、既に笑顔になっている。
ああ、あの子はこの事できっと、少し成長したんだな。――そう思った。
人生において一瞬のようなこの出来事で、彼女は色々なものを学べたはずだ。
諦める事もそうだが、母親を困らすまいとするその思い遣りはとても素晴らしいと思う。
きっとあの子も母親のように優しい子に育つのだろう。
「おめでとう」
少女の背中に、その成長を祝福した私は次の瞬間には驚いていた。
突然、スーツ姿の男性が街路樹に向かって跳びあがったのだ。
「――よっと」
軽々と飛び上がり、枝に絡まった風船の紐を手につかんでいた。
そのまま母娘を追いかけて行き、女の子に声を掛けている。
よく見たら、会社の同僚の田中君だ。
彼も残業は無かったらしい。
母娘にたくさん頭を下げられ、感謝されている姿を見ていると、何だか私も誇らしくなった。
心の奥から、何かがじわりと押し寄せてきた。
気付いたら私は、田中君に近づいていた。
「やるじゃない田中君、見直したよ」
「なんだ、常盤さんか、見てたのかよ」
手で頭を掻いて、視線を逸らして照れる彼は、ちょっと可愛い。
「私ちょっと感動しちゃったよ。だから――」
「だから?」
さっき、じわりと来ていたものが、波となって溢れ出す。
優しさと、温もりと、これは――
この気持ちは――
「だから、ラムネでも奢るよ。好きでしょ?」
――あれだ。