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ラボφ ~クリスマスの決闘~ 後編

作者: 私掠船 柊

  ──コロッセオ──



「な? 今、俺たちに指図したのはどいつだ!?」

 フランソワを掴みかけたところで勇者は、止めに入ってきた声の主を探し求めた。見ているだけの群衆も、声の方向を振り向いた。

 勇者のところへ、黒いロングブーツと赤いミニスカートのサンタクロースが近づいてきた。


「ここは、人を殴って楽しむパーティー会場なのか? 見ていて気分が悪くなったぞ」

 警告を含める言葉を告げたサンタクロースのカザカ。マイマスクの中で目を吊り上げていた。

「ああ? なんだそこのサンタ! てめえは誰だ?」

 勇者たちの一人が、啖呵を切って二歩、三歩とカザカの前にすすみでる。彼は平ったい顔で、首から下は赤い全身タイツ。アメコミのヒーローに扮している。そのヒーローがサンタをなめあげてにらんできた。

「おまえ、名前はなんていうんだ?」

 彼は口の端を吊り上げて名をふたたび問う。周辺の正装や仮装している学生たちも耳をすましてサンタの返事を待った。


 フランソワも倒れたままじっと見守る。


 サンタはアイマスクを丁寧に取った。


「ぼくは、“男の娘”という名前だ」


 返答を聞いた三人は束の間、互いに目を合わせる。すると次はそれぞれに白い歯があらわれて吹き出した。

「へえー。おまえはさっきドレスを着ていたオカマじゃないか?」

「なるほど。オカマだから同類の味方をするってことか?」

「おいおい、俺たちに喧嘩売ってただで済むと思っているのかよ? いったい、どういう了見だ? ああ?」

 侮蔑と脅しの言葉がサンタへ投げ込まれた。

「“義のたすけ”、と言いたいところではあるが、ただの物見遊山の、通りがかりだ。クリスチャンはそうやって人に暴力をふるうのか?」

「それとこれとは別だよ」

「そうか、そうだな。そういう感覚だろうな。だが、どうであろうと、そのような悪行、断じて許さん」

 カザカは目を細めた。いたずらっけを見せる目ではない。言葉の通じない生き物を、どの時点をもって仕留めようか、とする目の形である。

「いま見ていて気づいたことがある。きみたちは、人間の着ぐるみを着たサルかもしれないな」

「な、なにを!?」

「人間は意志疎通のために話し合うとしても非言語的要素を六十五パーセント以上使うと言われているが、きみたちの場合、百パーセントに近いようだからな。知性の片鱗もない」

 もはやカザカも挑発を返すばかりとなった。


「おうおう、可愛い顔して口は憎たらしく達者だな! ぶん殴ってやる」

 彼女に一番近いアメコミ・ヒーローが、拳をにぎりしめる。

「おい、矢島、ちょっと待ちな」

 ヒーローの後ろから、太い声が止めに入った。リーダー格の異世界勇者である。

「おまえ、さっきも見たが、なかなか綺麗な顔をしているな?」

 勇者が前にすすみ、ヒーローと代わって話しかけてきた。

「だから? なんだいボスさん」

「取引しないか?」

「ふむ、どんな取引だ?」

「このフランソワは見逃してやる。その代わり、おまえが今夜、楽しませてくれないか?」

「いやだ。腐っている匂いがするもん」

「なんだと?」

「魂の腐ったにおいがすると言ったんだよ」

「……おまえなあ」

「間違えた。魂は存在しない」

「そうかい、どうやら、おまえは、死んでから天国より地獄を選びたいらしいな」

「ふふ、事実を言っておくけど、天国も地獄も存在しない。きみたちに、魂とやらもない。死んだらそれっきりだ。きみたちは、無いものを、あるように演技して一度しかない自分の人生をもてあそんでいるだけなんだけど」

 男三人の頭から湯気がたち昇ってきた。

「てめえ! よくも、ここでそんな事を言えたな」

「無神論者は成敗してやる!」

「サンタちゃん、状況がわかっていないようだな、おれたちはな、ボクシングをやってるんだぜ」

 彼等の言葉には、まるで自分たちが被害者になったかのような怒りの口調が混ざっている。

 とはいえ、アメコミヒーローが、球の形にした右手をパンパンと左手の中に放り込む。チンピラが喧嘩をする前によくつかう威嚇の意思表示だ。

「へへへ、どうだ? 怖いだろう? このコブシはな、すげー強いんだぞ。ケンカすると凄く痛いぞ。おまえなんかすぐ泣いちゃうからな」

「なるほど、ボクサーくずれか……」

 カザカはひかない。

「けっ、オカマなりに口はたっしゃだな。気持ちが悪いんだよ。フランソワのことを知らないアホなやつだな、伊藤、矢島、そいつと遊んでやれ!」

「イエッサー!」

「ヤボール!」

 勇者から命じられた男子二人が、楽しそうに兵隊気取りで返事した。


 一人がカザカの右方へ、思惑ありげに移動した。彼は、勇者とアメコミ・ヒーローとはまた違う仮装である。上下は秋の落ち葉を想わせる迷彩色の軍服だ。重ね着している下の上着に襟章が付いている。ナチス・ドイツの武装親衛隊が使用していた野戦服である。

「おうちょっとまてまて、矢島、俺がレフェリーになるからよ。おまえ先にやれよ。なあ、いいだろう? サンタちゃあん? あは、グヘヘ!」

 歪んだ口であざわらう親衛隊は、手のひらを見せた。格闘技の試合でポーズをとるレフェリーになったつもりらしい。


「だ、だれか止めないのか?」

「先生も神父も、どこに行ったんだよ!?」

「どっかへ隠れたんだよ」

「あんなかわいい子が、男三人を相手にケンカだなんて無理だよ」

「佐野くん、止めてあげて、話は上手なんでしょ?」

「でも……ぼくは、平和主義者だから、無理だよ」

「ほっとけばいいんじゃない」

「巻き添えは御免だね」

 取り巻く群集から、心配する声はわずか聞こえるものの、相変わらず関わりたくない空気だ。


 燭台の火に照らされているマントルピースのマリア像は、口を結んだ顔に揺らめく影をつくっている。だがそれは誰も見ていない。


 ソファーで横になっていたメイドの理奈は、身を起こして両腕を前に組み、成り行きを見守っていた。

 彼女に寄り添う魔法少女は、不安げだ。ハーモニカを握りしめ、目を閉じてしまう。

 メイドは、魔法少女の肩にそれとなく手を置く。

「心配しないでこずえちゃん。黒いブーツの方が勝つわ」

 メイドが結末を保証すると魔法少女は、こくりと首を縦にふった。


 カザカの黒いブーツは、男たちへ背中を見せることなく一歩一歩と後ろへ引く。歩き方は踵が軽く浮き、足の親指の先は床との間に紙一枚を挟んだようにすべる。足音もなく、頭は上下左右に動くこともない。一見して後退にみえるが、ネコ科の捕食動物が草原で獲物をしとめるために忍び寄る足取りにも似ていた。彼女は、倒れているフランソワから離れていく。男たち三人と存分に戦える空間へ誘い込む狙いのようだ。


「ここでいい」


 カザカは呟く。近い周辺に何もない場所でその足が止まった。


「お、いいねえ、サンタちゃん、かわいい顔して、やる気なんだ」

「俺たちの流儀にあわせて楽しみ方を知っているようだな」

「お手並み拝見、がんばれよ! ガハハ!」

 レフェリーを気取る武装親衛隊は、自分が格上で全てのことを知っているといったふうに白い歯を見せた。

「それじぁ、はい、レッツファイト!」

 親衛隊が声と共に右手を高くあげて降り下ろし、戦いの合図をとった。



  ──第一戦──



 はじめに、カザカの前に立ったのは、赤い全身タイツのアメコミ・ヒーローである。胴が太いわりに手と足が細長く、体格のバランスが妙に悪い。クモを連想させるが本物のヒーローとは比べること自体に無理がありそうだ。身長はカザカよりもある。

 眼に増悪をみなぎらせた全身タイツは、前に突きだした顔の正面に、両の腕を盾にしてかかげる。ボクシングのガードをとっているらしい。グローブをはめていない状態でのガードがどこまで有効なのか疑わしいが、肩の三角筋は力をみなぎらせて脹らみ、とにかく今の状況が楽しくてたまらない笑顔をカザカへ見せつけてきた。


 カザカへ距離をつめてきた。いつでも怖いパンチを出してやるぞと言いたげな握りこぶし。


 対向するカザカは、左足を前。右足の位置は、ほぼ肩幅の長さで後ろ。そして半身のかまえ。右手は腰にためて正拳突きの準備をする。だが硬くにぎってはいない。むしろ力を抜いてゆるく開いている。左手は“刻み突き”の用意で前方に軽く伸びていた。力むアメコミ・ヒーローとは対照的である。だが、目の輝きは隙もなく冷酷に鋭い。爆発前の静かさだ。


「へっ、なんだよその構え方、ボクシング相手にノーガードかよ? ふざけやがって」

 侮蔑な言葉をはいたヒーローは、ドタドタと足を踏み込みながら、自分のパンチの距離に詰めてきた。頃合いで、野球のピッチャーが振りかぶるようなモーションを入れて右のパンチを振るう。

「うごっ!?」

 その瞬間、奇妙な声を発したのはヒーローだった。彼は身を後ろへよろかせて危うく尻餅をつきそうになる。カザカの右足ブーツが、長槍のごとくヒーローの“水月”につきささったのである。


 カウンターの前蹴りだった。


「こ、このお!」

 怒声を発したヒーローは、犬歯を牙のように光らせた。ふたたびカザカに接近し、まったく同じモーションで右パンチを繰り出す。

「ぎっ!」

 今度は声になっていない異音がヒーローの口からもれた。カザカの固められた左手の甲が、弓から放った矢のごとく、ヒーローの鼻下の急所“人中”へピンポイントに命中していた。またカウンターによるものだ。


 少女の被る赤いトンガリ帽子が、先端についている白い玉を揺らせる。


 直線に伸びきったカザカの左刻み突きがさっとひいた。長いニードルが、木製のボールを槍のごとく刺し貫いて引き抜いた。そう例えられる。しかも刺すのも引き抜くのも速くてよく見えない。


 一撃ののち、カザカは離なれて“残心”の構えもとっていた。


「ナイス上段!」

 後ろに控えたマユミが思わず大きな声をかける。

「は、歯が……歯が……」

 赤いアメコミ・ヒーローは、弱々しい声をもらした。ひとたまりもなく口をおさえて、その場にうずくまってしまう。それは、ストレートジャブの重い撃力だった。



  ──第二戦──



 レフェリーの武装親衛隊は目を丸くする。

「ええ? おいおい、なんだよ、サンタ、通信教育か格闘技の映画で勉強したみたいだな。でもな、マグレは続かないぜ」


 次にカザカの目前に立ったのはナチス親衛隊である。

「へへ、可愛いサンタちゃん、おれはボクシングをやってるんだぜ」

「それはもう聞いたよ。チンピラ」

 カザカは舌なめずりして軽く答えた。

 親衛隊の背丈は、アメコミ・ヒーローよりは低い。迷彩服にガンベルトをかけている。だが銃器のホルスターはない。髪は長めで、本当の軍人であれば、だらしがない。

「オレのオヤジはな、格闘技をやっているんだ。だからその血を受け継いでいるんだよ」

「そうかい、サラブレッドのつもりか? よかったね」

「ほらほら、サンタのガキ、遊んでやるぞ。Hey! Come on!」

 口のアピールが好きそうな親衛隊は、肩を左右にふりはじめた。どんなパンチもボクシングの技術で避けてみせると言いたげだ。カザカは、しずかに初戦と同じ半身のかまえをとった。

 親衛隊はニヤッと笑う。

「ほらほら当ててみろよ」

 その挑発を受けて、カザカは左刻みづきを相手の顔面へと飛ばす。が、固めたガードに阻まれてしまう。

「それみたことか、へへへ、げっ!?」

 余裕の白い歯を見せた親衛隊、だが、次の瞬時、笑った口の形をしたまま背中からひっくりかえってしまった。


 親衛隊が自惚れた隙、床の少しうえを、カザカの右足が大剣を振るようにスイングして、彼の両足をはじき飛ばしたのである。


 左刻みづきはフェイントだった。


 彼は、尻餅をついてしまう。


「あっはは!」

「うふふふ!」

「へええ、スゴお~い!」

 場内から、どよめきや笑い声がわきあがった。

「先輩! ナイス下段ばらい!」

 マユミは、また彼女なりに判定を発する。お尻の尻尾が真っ直ぐに立っていた。

「こ、このおっ!!」

 悔しさの怒声を飛ばした武装親衛隊は、床に手をつき立ち上がろうとした。頭に血がのぼって、顔は血色の悪いまだらに染まっている。

 周囲を取り巻いて面白がる観戦者の視線。

 親衛隊は黙らせようと睨みまわした。そのときカザカから目を離す。


 それは、ほんのコンマ何秒だった。


 次の一刹那、鈍くて硬い衝撃の音が会場内にひびく。


 木槌で丸太を叩いた音にも聞こえた。音の震源を見ると、少女の左ブーツが、親衛隊の顔の右半分にめり込んでいる。面相の全体が内部の頭蓋骨ごと歪んでいるようだ。


 重いハイキックの炸裂である。


 それは親衛隊という戦闘車輌にとって、繁みに隠れていた対戦車砲の放った徹甲弾が、音速を超えて直撃してきたように感じたのかもしれない。


 カザカのしなった左足は、赤いミニスカートがめくれて白い太ももの奥にあるパンツまで見えてしまいそうだ。


 ハイキックは、さきのパンチとは異なり着弾の直後引くことはない。切りつけた長剣のごとく、フォロースルーをかけている。これでは脳を形作るニューロンの繊細なネットワークに、破壊的な衝撃波が高速で突き抜けたはずだ。


 親衛隊は、白目をむいた。


 糸の切れたあやつり人形のごとく、妙なヒザ関節の曲がり方で、床に崩れ落ちた。


「きゃああ!!」

「おおっ!」

「やめてー!」

「すげえ~!」

 ここで場内からまた歓声があがる。前とは違って悲鳴も混ざる。笑い声もあるが怯えが入っている。

「先輩! ナイス上段! 綺麗な左ハイキック!」

 ふたたび応援の声をあげたマユミは、握りこぶしを頭上に突き上げた。


 親衛隊は頭を床に横たえている。白目のまま、口を開けっ放しにした姿は水辺に打ち上げられた魚のようだ。


 最後の一人となった勇者が、倒れている二人を棄てられたゴミを見るように一瞥する。

「たいしたサンタ・クロースだな。ここまでやった以上、土下座しても遅いぞ……」

 リーダー格の勇者は、脅しの言葉をはいて、カザカの前へ進軍した。

 彼の身体は紫の服が体格の大きさを誇らしげにしている。暴力を栄養源に成長してしまったふうの、骨が太い体つきだ。

「聞いてひれ伏すなよ。今日の俺は『士師記』の勇者ギデオンなんだよ。おまえはさっき、魂は存在しないとか言ったな。おい! みんなも聞いただろ? とんでもないやつだよな!? 神に従わない者は裁いてやる!」

 勇者にとってここはホームグラウンドだ。信者が崇めるギデオンを名乗り、愚かな民衆を味方につけて誘導する。


「ちょっと待ったあ!!」

 空気が彼の有利に流れようとしたとき、観衆の中にいたマユミが、大声で制止した。小走りで、カザカと勇者ギデオンの間に割り込んできた。

 勇者は拍子抜けしてマユミを凝視する。

「な、なんだそこのチンチクリン!」

「ギデオンとやら、邪魔はしないっす。これから起こることを見届けたいだけっす。ちょっくらそのまま……」

 マユミは、急いでリュックからケータイを探り出した。手早くボタン操作する。

「今度はわたしが審判っす。先輩! これがせめてもの、わたしの加勢っす。ひとたび、戦いとなれば、相手に情けは無用っす。Now we start!」

 準備を整えたマユミは、ケータイを頭上にかざして音楽を鳴らしはじめた。


 頭のネコ耳がピンと立つ。



  ──第三戦──



 高くかかげられたケータイから、オルゴールの軽やかな音色が流れはじめた。


───言うことを聞かない、腕白な子どもが、オルゴールの旋律に聞き入り、瞼を重くしていく。


 旋律は波紋のように広がり、パーティーの群衆は、手を止めて息を潜めた。


 どこから出したのか分からないが、マユミはスティック形のスナック菓子を一本、葉巻のように加えた。白い歯を見せて加える彼女の表情は、残忍に笑っているようにも見えた。


 子守唄のオルゴールに代わって、トランペット。死神の降臨を歓迎する音色を高らかに奏ではじめた。


 イタリア制西部劇の決闘場面に流れるラテン系のしらべである。


 勇者ギデオンは、衆目が気になる。床へ唾を吐いた。自分の末路を予期したらしい。額には脂汗がひかっている。無理に作ったうすら笑いが、かえって怯えた影を浮かび上がらせる。両の握りこぶしも汗を含んできた。その溜まった汗をにじり取るように指が落ち着きなく動く。


 メキシコに近いアメリカ西部の汗と砂ぼこりの匂いが、この空間に殺意と混ざってただよってきた。


 サンタガールの黒いブーツは、まったく動かず、目は敵をじっと見据えていた。


 天井の電灯が、乾いた荒野を照りつける太陽となって、目に刺さってくる。


 対決する二人の影が真下の床に落ちていた。


 カザカが静かに動いた。今までと同じ構えを取る。伝統派の空手がよくとる基本的な構え。口に紙一枚の隙間を作り、“丹田”で深く呼吸する。


 どうやら、死神が降りてきたらしい。「どちらでもよい、早く死ね。死者よ我と共に来い」と手ぐすねをひく。


 トランペットからそしてまたオルゴール。


───寝りについた子どもが息を引き取り、冷たくなっていく。


 流れていたラテン調の音楽は、糸が一本、また一本と切れていくように止んだ。


「うおーっ!」

 その瞬時、勇者ギデオンは、唸り声をあげながらカザカへ急接近した。彼は右のパンチを放つ。だが、モーションが大きな力んだパンチ。


 カザカの反応がはやい。後方へ機敏にステップ。相手の射程からわずかに離れてみせた。


 勇者のパンチは、わずかに届かない。


 続いて繰り出した勇者の左パンチ。そしてすぐに右のフックが続く。しかし、腰が回転していない切れ味の劣るフックだ。いずれの二発もカザカの前でからぶってしまった。おそらく。自分よりも格段に弱い者を、常に相手として身につけた技術である。


 カザカは、前後左右にステップし、機会をうかがうものの、不用意に敵の制空権へ入ることはしない。


 突然カザカの足が止まった。


 それをとらえた勇者は決着を急いだ。思いきり前に踏み込んで力任せな右パンチをカザカの顔面に打つ。握りこぶしは歪んだ軌道を描いている。

「はごっ!?」

 勇者から妙な声が立った。少女の右こぶしが勇者の顔にめり込んでいる。


 カザカは、相手の右パンチを左手によりはらう。と同時に右正拳突きを食らわしていたのである。


 先を予測した“受け即極め”である。


 それは、顔の前十センチメートルの空中で、別次元から鉄の球が突然現れて飛んできたように見えた。ヒザをやわらかくした足腰によって撃ちはなたれたノーモーションによるパンチだった。


 正拳突きを命中させたカザカは、勇者から離れてまたも残心をとる。


 勇者ギデオンの鼻から赤い液体がポタリと一滴、二滴と流れ落ちた。彼の目は充血している。

「こ、殺してやる!」

 殺意を口にした勇者は、闘牛のごとく直進してきた。腕を前方に伸ばしきっている。ボクシングのガードではない。組技に持ち込もうとしているのだろうか。


 そのときカザカの身体が高速で勇者のふところへ飛び込んだ。あっという間に、左の刻み突きが二連発、勇者の顔面に飛んでいく。男の、腕のすき間を通り抜けて顔面に炸裂した。


 と、そこで勇者の体が大きくよろめいた。パンチを食らった自分の顔へ注意が向いた隙に、カザカの主たる攻撃が下段に行われていたのである。勇者の片足にきつい打撃が入っていた。カザカの内股蹴りを応用した右足ばらい。それで、勇者は上半身のバランスを失った。


 だがここで終わらない。カザカの左右の足がトトンと瞬時にスイッチした。バランスを崩した大きな男の腹へ、追撃の左ミドルキックが入る。


 肉の塊を、なまくらな大剣で打ちつけたかに聴こえる低い衝撃波が、勇者の体全体から放散した。


 ギデオンの腰に下げていた角笛が、キックの衝撃により吹き飛んでしまった。歴史に実在したとすれば、ただの狂った殺戮者であるが、聖典に書かれている事が真実と受けとる者の目には、英雄と写る。


 その象徴としての角笛が、カラカラと音を立てながら床に転がっていく。


 カザカはここで慈悲など見せない。離れたと見せてまた急接近による左ストレートジャブ。合わせてすぐに男の左脚へ重い右ローキックを打っていく。


 戦斧、バトルアックスが、肉の柱を斬り刻む。


 その直撃で男の左ヒザは、不自然な方向へ一瞬、折れ曲がった。


 ところで、どうやらギデオンができるまともな技は、ボクシングを自慢にしていた事からもパンチだけらしい。たとえ蹴ることはできても、稽古でキックの打ち込み練習を重ねたカザカと比べるべくもない。すなわち、足技による下段の打撃戦、特に防御についてはどうすればよいのか彼はまったく分からないらしい。顔に怯えの一片すら浮かんでいるのである。

「な、ちょっと、待てよ」

 勇者が戦いの中断を誘った。


 しかしカザカは黙殺する。それどころか、泣き言をもらした敵の左脚インサイドへ、インローキックをはなった。次に再び、中世ヨーロッパの戦斧を振るごとく、右ローキック。


 まだまだカザカにはスピードに持続力がある。フットワークも衰えていない。


 勇者の顔が青くなる。


 ローキックを主たる兵器としているカザカ。その狙っている場所は、左ひざ関節のやや上のようだ。足で上半身を支える事ができなければ、もはや威力のあるパンチは出せないのである。


 敗北を皮膚で感じた勇者が、慌てて反撃のパンチを一発、二発と振るった。しかし、足にダメージを受けたために、いずれも力なく宙をからぶる。


 ギデオンは渾身の力で三発目のパンチを打つ。カザカは、カウンターの左前蹴りを返した。黒ブーツの長槍を腹に食らった勇者は後ろへ弾き飛ばされる。尻餅をついてしまった。親衛隊とは違いすぐに立ち上がった勇者。


 だが苦痛にゆがむ顔。


 そこへカザカはインステップで急接近。軽やかに左ストレートジャブを二連発で男の顔面に浴びせた。

 そしてお約束の大木を斬り倒す戦斧、右ローキック。

「なっ、やめてくれっ!」

 勇者が悲鳴に近い声を発した。

 だがこの場におよんで何を言っても無駄である。カザカは敵の防御が弱いところへ攻撃を、練習のごとく反復する。アクション映画などによく見られる物理的にあり得ないハデな演出とは違って、堅実的で泥臭い攻め方を続けている。


 カザカのペースが上がっていた。三連発の重い左ストレートジャブをしつこく食らわせた。まるで肉の塊に二十ミリ機関砲を連射したようだ。もはやボクシングガードにすらなっていない防御の腕を突破して、男の顔に全て命中していく。


 青い顔の皮膚が、黒ずんで腫れ上がっていく。


 さらにカザカは主力のバトルアックスである右ローキックを残忍なほどに打っていく。このとき撃力に体重をかけた。ダメージを加算させる計算した技である。


 もはやヨタヨタと歩くだけの勇者。一歩すすむたびにヒザが痙攣している。

「あ、ああ、がは、クソおー!」

 叫んだギデオンは、片足を引きずりながらも、頭から突進してきた。


 闘牛が死中に活で、角を突き刺してくる様にも似ている。が、蒼白な顔で、勇者のくいしばった口のはしから泡がでていた。

 努力のかいあって、よたりながらも両手でサンタガールにしがみつくことはできた。


 突如、重い打撃音が勇者の頭ではじけた。


 勇者の後頭部は、カザカの片手で上から抑えられている。

 下を向いた勇者の顔面中央に、彼女の左ヒザが、深くめり込んでいた。ヒザ蹴りの迫撃砲がゼロ距離で撃ちはなたれていた。

「おお、先輩! うまい!」

 マユミは、ネコ耳と尻尾を立てて感激していた。チョーカーの鈴も鳴る。

 それとは反対に、見物客らは、その凄惨な光景を目の当たりにして、すっかり声もなく青ざめていた。中にはトイレへ駆け込んで行く姿もある。



  ──勝利者インタビュー──



 その場にヒザまづいた勇者。鼻頭はつぶれている。

 マユミが勝者のカザカにかけよる。

「カザカ先輩! いいもの見たっす!」

「うーん……レベルはまだまだだよ。ちょっと攻撃に幅がなかった」

「一つ質問、気合いは出していなかったっすね?」

「それは試合の時だけだからね」

「それにしても、伝統派とフルコンタクトの組合せ。コンビネーション。見事っす」

「いやいや、三人が同時連係して攻撃してきたら危なかった。いい流れの中で有利なまま戦いがすすんで良かったよ」

「でも先輩のスピードは体の大きな敵を凌駕していたっす」

「力学的運動エネルギーは、質量を二倍にすれば、二倍だが、速度を二倍すれば二の二乗倍になる。今後の稽古に役立てるがよい」

「オスッ!」

 勝利者インタビューをしたマユミは、あらためて、空手の十字を切って答えた。



  ──光を灯した異端──



「ああ、むらさき、村崎トオル。トオルくん……」

 倒れていたフランソワは、生徒会長の手をかりて、ようやく立ち上がりかけていた。彼は、たどたどしく勝利者の名前を呼ぶ。


 少年の青い瞳は、はかなげに影を含む。


 紅い服を身にまとう少女の首に、汗がひとしずく、つたい流れてきらめく。


 カザカの前で倒れていた三人の男が、それぞれ、顔を苦痛に歪めていた。


 アメコミ・ヒーローは、口から落ちた白い欠片を、周辺の床で探し回る。


 ハイキックを受けた武装親衛隊は、腫れあがった顔つきが妙に蒼白である。

「あれ? あれれ? 俺、どうしてここにいるの? マ、ママどこ? ……も、もうご飯の時間?」

 あとはよく聞きとれないうわ言が続いている。どうやら彼は、脳に受けた衝撃で記憶が混濁してしまっているらしい。


 今年のサンタクロースのプレゼントは、無慈悲な公開処刑となった。


 豪華な料理の香りに代わって、血と汗、潰された肉の臭いが漂う。


 剣を背に抱えた紫色の勇者、ギデオンは、ハンカチで潰れた鼻を押さえていた。よろめきながら、なんとかして立ち上がろうとする。しかし、ヒザが震えていた。その哀れな動作は、産み落とされたばかりの小鹿の様だ。それでも、一呼吸してから歯をむき出した。


「こ、この! 今のは、今のは痛かったぞー!! おまえの首を神さまに献上してやるー!!」

 殺意を叫んだギデオンは、背中のロング・ソードをぬいた。


 刀身が電灯の光を受けて鈍くかがやく。


 会場がまた騒然となった。

 だが、カザカは冷ややかな目だった。

「武器なんかいらないだろう? なあ、ギデオン」

「うるせー!」

「ぼくみたいな男の娘を相手に武器なんかいらないだろ? 勇者ギデオン! 本当は素手でぼくの綺麗な顔をメチャクチャにしたいんだろ。さあ、こいよ!」

「武器なんかいらねえ! お前なんか! お前みたいな、女みたいなのは、この素手で汚してやる! メチャクチャにしてやるう!!」

 挑発に乗った勇者は、泣きそうな顔でロング・ソードを床にほうり棄てた。

 一見すると二人の、滑稽なやり取りは、アクション映画で往生際の悪い悪漢を煽ってみせる場面を連想させる。


 見物していた女子の一人が、口をふるわせる。

「や、や、やれー!」

 叫び声が上がると、別の女子も拳を振り上げた。

「そうだ、倒せえ!」

 別の場所に立って見ていた男子も声を荒げはじた。

「こ、殺せー!」

 そして方々で炎が広がる。

「殺せー!」

「やっちまえー!!」

「やれー!」

 会場の群れが、一斉に吠えまくった。


 パンのひとかけらが、勇者の血まみれな顔に当たる。そして果物も。

 彼の眉間にシワがよる。

「てめーら! 今、俺にものを投げたのは誰だ!?」

 彼は怒鳴って威かす。しかしまた、別の何かの塊が、勇者の後頭部に当たった。飛んできた物はあっという間にコップ、スプーンにフォーク、皿と、何十、何百に増えた。

 三人のチンピラへ、そこらじゅうから一斉砲撃がはじまった。

 恐怖の支配に甘んじていた家来や民草らは、主君を裏切り、反乱を起こした。しかし、それは良心に目覚めたからではない。部外から出現した一人の少女による孤軍奮闘を目撃したお祭り騒ぎ。それは一時の熱にうかれた狂想曲であって、決して、よくよく談義した上での、体制を変えるための革命とは異なっている。


 狂乱の中、一つ深呼吸するカザカを見つめる、魔法少女が立っていた。二人の目が合う。


 何かを言いたそうで居たたまれない悲しい顔がカザカを見つめている。魔法使いの杖は、どこかに置き忘れたらしい。両手は、胸の前で祈るように握り固めていた。口をきつく結んだまま、まだ流れてもいない涙を飲み込むようにごくりと喉を動かす。そうして、やっとのことで起き上がったフランソワのところへ駆け寄っていった。


 突如、カザカの方にもな何かが飛んできて肩に当たった。

「帰れ!」

「出ていけ!」

「余所者!」

「パーティーをぶち壊しやがって!」

「異端者め!」

 罵声はサンタの少女にも飛び始めてきた。

 マユミは、カザカの背中を後ろから指でつつく。

「先輩。どうします? 大人は止めにこないっすね」

「こういうところは、決まって大人は見て見ぬフリさ。会場の空気をよんだろう? このチンピラたちを前からよく知っている反応だ。ということは、平和をよそおって、今まで野放しにしていた……」

「そうっすね。ここは腐ってるっす。もう帰るべきかと。豪華な料理もこれでは口に入れてもなんの味かわからないっす。先輩と上海亭でラーメン食べてた方がよっぽどましっす」

「うむ、帰ろうか」

「では、これにて」

 マユミはまたケータイを取り出してなにやら操作する。今度は頭上にかかげることはしない。


 落語の打ち出し太鼓の音が、ミッション・スクールのパーティー会場で鳴った。そしてサンタクロースとネコ耳少女は手をつないだ。



  ──贈り物──



「きっと、ニューロンのナトリウム・ポンプか、カルシウム・チャネルに不具合があるんす。だからすぐに大声を出したり手を出すっす」

「乱暴で礼儀を知らない男子は困るわね。わたし、今の学校にいてよかったわ」

「気を付けないといけないのは、人が集まりを作ったとき、その集まりへ暴力が好きな人間が入り込こむ事っす。声を大きくして周りを威圧していく。仲間をつくって自分の縄張りを築く。無能なリーダーは知らないフリ。おかしなルールが次々に作られる。それで全員、その空気に逆らうのが怖くて従う。出ていく者が少しずつ現れる。代わりにその暴力に協力する人間が入っていく。その悪循環が繰り返されてついに。……珍しいことではないっす」

 マユミと理奈は、今夜の出来事について反省会を開く。ただし小声を使っていた。ときおり、二人はカザカの顔をうかがい、話しを続ける。

「カザカちゃんが怒るのは無理ないと思うのよ。幼なじみだから、わかるのよ。そういうのが一番嫌いなのはカザカちゃんだから」

「理奈先輩も、わたしもそうっすね?」

「なんでだろうね? ところで、年末に即売会があるの」

「BLっすか? やっぱり二次創作っすか? たまにはオリジナルを創ったらどうっす?」

「エヘヘ、考えてはいるのよ」

「期待してるっす。それで、とかく表現に文句をつけてくる、大人に気をつけてくださいっす。 あいつらは、相手が弱いと見ると噛みついて、反撃されると被害者を演じるのがうまいっす。 いわゆる、ナントカ協会とかナントカ団体とか、文化人Aセンセイとか、知識人Bセンセイとか、運動家Cセンセイとか、………変な大人の無限級数ができそうっす」

「そのときはマユちゃんが守ってね。マユちゃんは一生懸命、空手の道場に通っているのよね?」

「……わたしは押して忍んで、先輩と稽古を重ねて、一撃で倒せるように、もっと強くなりたいっす。でも、もっと怖いのがいるっす」

「あなたのお友達ね。一度、ターゲットにされると、本人ばかりか、親、兄弟、子どもから、親類縁者、友人、恋人、ただの顔見知りまで、本人の一生のみならず、末代まで。徹底的にやるのよね?」

「そうそう……」

「伝説を聞いたことあるわよ。本人は信じていなくても、その誰かの中で宗教を信仰している人がいて、それで発狂してしまって、結果、本人を含めてボロボロになってしまったって」

「敵に回すと怖いっす」

「でも今夜は、王子様一人で片付いたわね。その王子様は、もう一人の王子様を三悪人から救ったのよ。フランソワという名の王子様を! ルーベンスの絵の前で再開したいわ。わたし、挨拶していなかったもの」

「また、その物語っすか、でもルーベンスの絵は三枚あるうちの二枚は、銀貨が一枚ないと見せてくれないという話っす」


 マユミと理奈が立ち話を続けている場所は、夜風もない帰りのバス停である。電柱の灯りが三人の姿を明々と浮かびあがらせていた。


 密度の濃い雲が低くたれこめている。


 二人の会話に加わらないカザカは、パーカーのポケットに両手を隠す。頭は被っているフードの影の中だ。


 パーカーが元気をなくしたカザカを慰めるために温かく包み込んでいる。


 星々の輝きも、月の明かりも、どこかの遠くへ消え去っていた。


「招待してくれたこずえちゃん、怒ったのかなあ……」

「理奈先輩……シーッ!」

「あっ、ごめん」

 理奈が不用意な一言をもらし、マユミがネコ耳を立てて注意した。


 そこへ道の向こうから、女の子の高い声が飛んできた。


「カザカさぁーん!」

「あれ? こずえちゃんだわ」

「おや?」

 呼び声を聞いたマユミと理奈は驚いて振り向く。


 黒いマントが翼のように波うっている。魔法使いの帽子は、空気の抵抗で頭から落ちてしまいそうだ。途中で転びかける。


 息を切らせたこずえは、カザカたちの前に立った。魔法少女の手に杖はない。代わりに手さげ袋をぶら下げている。

「こずえちゃん、どうしたの?」

 凝視して尋ねたのは、カザカである。頭に被っていたフードを取った。

「……カ……カザカさん、さきほどはありがとうございます」

「ええ?」

「ありがとうございます。フランソワさんを助けてくれたお礼を言いたくて、それで、これを受け取ってくださいな」

 魔法少女はカザカへ手さげ袋を渡そうとする。

「いやいや、無理しなくていいよ」

「いえ、ぜひ受け取ってください。フランソワさんもきっと喜ぶと思います」

「あの、美少年が? かなり周囲から良くない目で見られていたようだけれど」

「ええ、ですから、受け取ってくださいな」

 手さげ袋がもっと強く差し出されてきた。

「……どうしようかな……」

 カザカは戸惑った。こずえは、唾を一つ飲むと話はじめた。

「あの人は、みんなから白い目で見られているけど。でも本当は、フランソワさんは、他人の心が分かるとても優しい人なんです」

「……ほお……」

「わたしが一人ぼっちでいるときに、持っている詩集を詠んでいただいたのがきっかけです。温室に誘ってくれて、そこでフランスの昔話を聞かせてくれたり、悩みを聞いてくれたり、一緒にサンドイッチを食べたりも……。……わたしは、花のお世話をしていたのですけれど宿舎のダイニング・ルームに飾ってある花が枯れていると、彼は悲しい目をしていました。怖いときには、守ってもくれて、でも……わたしは何もしてあげられなくて……いえ、何をしたらいいのか分かるんです。でも……うまく言えなくて……」

 こずえは、贈り物を落とさないようにして、ポケットの中から小さなものをつかみ出した。夜道の灯りで銀色にきらめく。

「……ハーモニカをいただのです。だから、少しでも早く、上手に吹けるように練習をしているのですけれど……」

 魔法少女はハーモニカを抱くように握りしめる。瞳に薄い涙がたまってきた。


 外灯が瞳のうるおった表面をゆらめかせる。重たそうな魔法少女の帽子。しかも、支えとなるべき桃色の星が輝く杖はない。


 ハーモニカを抱きしめる手に、もう一つ、メイド服の手が添えられた。

「こずえちゃん、皆を代表して言うけど……。わたしはフランソワさんの人柄を見抜いていたわよ。ということだから、カザカちゃん、騒ぎになってしまった事でもあるし。快く受け取りなさいな」

「はい、では、よろこんでいただきます」

 畏まったカザカは、こずえの贈り物を受け取った。


「ではこれで、みなさん。あっ、そうそうカザカさん、ちょっとよろしいですか」

 別れ際で、こずえはカザカの耳に口をよせてヒソヒソと話し始めた。

「え? ええ? ひ、フヒヒ。ふふふ……」

 こずえの小声を耳に入れていくカザカは、くすぐられたように笑い声をもらした。それをマユミが怪しく見つめる。

「うーん、なんだか、先輩の笑顔、悪企みに見えるっす」

 そして、マユミはぼやいた。

 少しの間でカザカに吹き込みを終えたこずえは、三人へ別れの会釈をした。

「と、いうことで、みなさん、それでは今日はおやすみなさい」

「こずえちゃん。ちょっと、ちょっと、耳をかして……」

 踵を返そうとした魔法少女を、理奈が呼び止める。今度は、彼女が魔法少女に耳打ちしはじめた。

「こずえちゃん、転校を考えてね。フランソワさんも一緒に」

「……ええ……でも……」

「今のあなたのいる学校、何が起きているのか、大体分かっているから」

「……でも……」

「そんな心配そうな顔にならなくていいのよ。これは既に乗りかけた船。なあ~に、大丈夫、カザカちゃんは黒幕でね。いろいろと凄いのがいるんだから。“我ら母なる学園”で、これから策を講じるわね」

「え?……」

 こずえは、きょとんとした。


 魔法少女が帰って、ふたたび、三人はバスを待つ。ようやく道路の向こうからライトが近づいてきた。


 メイドはうっとりした顔で宙の遠くを夢うつつに眺めている。

「ああ、やはりわたしは、名画の前で昇天する運命なのよ。おほほほ」

 理奈の笑い声を前にしたマユミは、冷淡な三白眼になった。

「理奈先輩の企みには、どうやら、腐ったものが隠れているっす」

 今の一言を聞いた理奈が、ネコ耳少女を睨んだ。

「な、なによ!?」

「いえ、同じ腐るでも、あのパーティー会場の学校は、ただ何も産み出さない腐敗っす。理奈先輩の種類は、醤油やパン酵母などの有益な発酵っす」


 バス停の灯りの前を、白い花びらが一片、舞い落ちる。地面に着くとやわらかく溶けた。そしてまた低い雲から。



  ──姉弟──



「ううう、寒い寒い!」

 夜空から雪が音なく降っていた。古いこじんまりとした木造家屋の屋根にも小雪が積もりはじめ、屋根瓦を隠していく。玄関に駆け込んだカザカは、靴を放り投げるように脱いだ。

「ただいま、お母さん、トオルは?」

「二階で勉強しているわよ」

 カザカは、姿は見えずとも台所にいる母親から、弟の居どころを聞いた。急いで階段をかけ上ろうと一段目を踏む。

「カザカ! 感心しないわね、外から帰ってきたら、手を洗ってうがいをしなさい!」

「テヘッ!」

 現れた母親の怖い目を前に、カザカはそこで足を止めて舌をだす。


「……この問題は?……う~ん……」

 部屋のカーテンは閉じられ、壁ぎわの勉強机には、スタンドの灯りがついていた。教科書とノートをスポットライトのように照らしている。中学生の少年はシャープペンシルでノートに書き込みを続けていく。


 途中でペンの動きが、止まった。少年は片方の手で頬杖をつく。視線はじっと、開いてある教科書の中。


 睫毛の長いまぶたが一つまばたきした。


 ひとつため息。


 ペンを置いて一冊の参考書を取ろうとした。そこへ、ドアをノックする音が、初めは二回、すぐにまた三回。

「どうぞ。お姉ちゃんでしょ?」

 声を返すとドアノブがゆっくりまわる。扉が中途半端に開いた。影の向こうから女の子の顔が半分あらわれる。白い玉の付いた赤い帽子を被っていた。

「入っていい? 入っていいよね?」

「うん、お帰りなさい、お姉ちゃん」

 訪問された少年は、快く迎え入れた。

 カザカは、赤い靴下でそろそろと部屋に入ってくる。


 彼女の姿態は、ミニスカートのサンタクロース。なぜか、汗の香りが漂ってくる。


「……勉強中にごめんね……」

 頭をたれるカザカは、それでいて押さえきれぬ笑顔を隠さない。

「どうしたの? お姉ちゃん? 今夜は、友達のクリスマス・パーティーに行ってきたんだよね?」

「……うん……」

「その衣装で参加してきたの? 楽しかった?」

 トオルが今日今までの事をたずねると、カザカはねっとりした眼で首を横にふる。

「……それがね、行ってきたんだけど……」

 口ごもったカザカの眉が歪む。立ったままの彼女は、腰の後ろで何かを隠し持っていた。

「トオル、あのね、お姉ちゃんのプレゼント、受け取ってくれる?」

「ぼくに? でも昨日もらったよ」

「ううん、もうひとつあったのを忘れていたの。だから、今」

「そうなんだ。ありがとう」

 何かを仄めかしているサンタクロースの雰囲気。トオルは、瞳に影を落としている睫毛をまばたきさせた。

「それで、サンタクロースになってるんだね。お姉ちゃん」

「そうそう、そうなの、そうなんだよ……こっちに来て」

 微妙な照れかたで少年を誘い込むカザカ。弟は椅子から立ち上がって姉の顔を見つめる。するとサンタ姿の後ろから、華やかな包みが彼の前にあらわれた。

「ありがとう、あとで開いてみるね」

「……今、ひらいて、どうしても……」

「……え?」

 要求する姉の目は、不自然に笑っている。トオルは束の間、戸惑ってしまった。少年の薄く艶やかな唇が曲がったかに見えた。

「ささ、ベッドに座って」

「う、うん……」

 トオルは、返事をつまらせてしまった。ベッドをソファーがわりに座ったトオルは、プレゼントの包みを開いていく。ほとんど開いたところで桜色の爪が止まった。

「……あれ? これは?」

 弟の口は、ポツンと丸く開いた。


 いつの間にか隣にサンタガールも座っている。彼女は自分の肩を、無防備な弟の小さい肩に寄せた。

「パジャマだよ。着ぐるみパジャマ。とても、高くついたんだよ」

 楽しそうに説明した姉の真横で、トオルはしばし、包みの中に折り畳んである茶色のパジャマを眺める。


 黒くてまん丸の目が、包みの中から少年を見つめ返していた。


 細やかな指がふたたび動きはじめた。包みを閉じていく。

「ありがとう、お姉ちゃん。あとで着てみるね」

 トオルの手にカザカの手が重なった。

「いやいや、せっかくのプレゼントだよ。今、着てみようよ」

「ええ、ううん……どうしよう……」

 悩んでいるトオルのために、カザカの顔から、笑みがみるみる色褪せてきた。

「……分かったよ。お姉ちゃん、ちょっとまって」

 カザカが待つことほんの数分間。


 窓の外は、とても静かである。道路を歩く人や自動車の気配すらない。雪が降り積もっているからか。


「わああ……いい……可愛いいいい!」

 一人で感激するカザカ。

 部屋の真ん中に立っているのは、ダブダブの茶色い脚。袖も茶色で長すぎるために白い手の先がやっと見える。赤くなって恥じらう少年の顔は、動物の口の中。頭にまん丸の黒い目が二つ、小さな三角の耳も。短いしっぽがお尻についている。


 リスの着ぐるみパジャマである。


「は、恥ずかしいよ、お姉ちゃん。そんなに見つめないで」

「うふ、それでは記念に……」

 邪悪な笑みを見せたカザカは、カメラを出して写真を取ろうとした。

「撮っちゃだめ!」

 顔を赤らめた大きなリスは、あわてて部屋の灯りを消した。


 こうして、カザカは、想いを込めたプレゼントを、弟へ贈ることができたのである。



──Fin──  




 この一帯は、背の高い者が一望すれば有機粘土質の地面も点在していることが目に入るのである。


 しかるに、枯れ草も混じり、敷き詰められたような緑の草の上で、顔に幼さを残す一人の男が弓を手に横たわっていた。羽虫が不快な音を鳴らして彼の動かぬ顔をかすめていく。


 死臭をかぎとったのかもしれない。


 だが、その体はまだ暖かそうだ。


 すでに命の輝きを失った青い目は、暗雲が彼方まで広がる上空を見上げたままもはや動くことはない。


 その屍の傍らで、革製のブーツを履いている足が、爪先を屍に向けたまま動かずに影を落としていた。


 茶色の髪を、後ろへ三つ編みにたばねているたおやかな女性の顔が、横たわる彼の死顔を冷ややかに見下していた。しかし、目のふちどりは憂いがこもっていた。彼女の握っている剣の先端から、血が草葉の緑へしたたり落ちている。


「まだ、若いのに……」


「へへへ、それだったら、その若僧弓兵に一つ祈ってやったらどうですかい?」


「わたしは、魂のことなど、興味がない……」


 牧人も牛もいない牧草地。空高く飛び交うカラスの鳴き声が風景に紛れる中、男女二人の、どちらかといえば男の方が声を投げかける。


 遠くなだらかな丘陵の向こうは、絵の具の数に限りがある人間にはそのままを描くことなどできない風景が広がる。大地と、屋根のごとく広がる雲の隙間で薄い黄色が輝いている。その地平からの神々しい灯りが死んだ者を眺める男女二人の寂しげな姿の輪郭を影絵のように浮かび上がらせていた。


 傍らにかがめる男は、長チュニックの上に頭巾付きの茶色い外套をはおり、虚無感をただよわせた笑い声を混ぜて祈りを、彼女に勧めてみたものの、返ってきたものは実に無情な口調だった。


 彼女の返す一言は、しかし、そのすぐ後が無言となった。


 草原は風でなびく。


 草の波は二人の間と周りを通りすぎ、これから更に鼻をついてくるであろう死臭をさらって、離れた森の中、霧がまだらに漂うその奥深くの暗い所へ、狼や得たいの知れない存在が身を潜ませていそうな果てのない空間へと流れて消えていく。


 人間の営みなど余所事として木々の葉と葉は、浜辺のさざ波にも似た音を奏でた。


 茶色の髪を後ろにまとめた彼女の顔を、風の手が誘惑ぎみにさわっていく。ほぐされた髪のひと束が汗でしめったしなやかさでたわみ、若い女の頬にまとわりつく。


 草がなければ波打つ風は見えない。


 飾り気のない厚手の長袖、長ズボンを着古す彼女の胸には、安っぽい金属板の甲冑がただ一枚、すすけた鈍い鉄色を暗雲たれこめる遠くのものを火影としていた。


 女の手袋が長剣をにぎり続ける。


 彼女の剣先には血糊がべっとりとついていた。その赤く汚れた剣先を今見下している死体の服にこすりつける。落ちている頃合いなボロ布の塊を使って、ちょっとした道具の後始末をするように、二度三度、丹念に血液を拭いとった。それは日々の食卓で、ナイフを使ってパンにジャムを塗りつける何気ない動作を連想させる。


 彼女の周囲は、他に埃と泥、そして血にまみれた数体の屍がところどころで横たわっていた。いずれも兜や甲冑、中には鎖帷子を身につけ、手に剣をにぎったままか、斧や棍棒を転がさせ、それとも草を鷲掴み、あるいは無駄なことにも斬られた腹をおさえたままの姿を無惨にさらしていた。


 彼女の唇から、一仕事を終えた空気がため息のごとく漏れ出た。


 ところが、話しかけた男は、彼女とはまた別の“物”を眺めていた。


「へへへ、こりゃいいや。それじゃ、仕事を続けさせてもらいますぜ」


 彼は、女剣士から離れて、別の屍を前にしゃがみこむ。顔を地面に着けた屍の後頭部に手を伸ばし、乱れた髪の毛をつかむ。引っ張り上げて草と土に汚れた死に顔を眺めた。


「へへへ、いい顔して、よく死んでやがる」


 やさぐれた笑顔に白い歯を覗かせた。その手には武器はない。すでに硬貨の金属的な音をジャリジャリとたてる小さな皮袋がしっかり握られている。彼は空いてるもう片方の手で死体のあちこちをいじりまわした。


「死人は金を使えないからな。わしが野盗の相続人になってやろう」


 死体の上着の内側やポケットを探り続ける男は、自分自身を納得させるための、もっともらしい大義名分をつぶやく。剣の先を眺めていた女は、その目をかがんで仕事をはじめた男へ向けた。


「あさるのも、ほどぼとにな。修道士」


「何を言ってますかい? あなた様の軍資金を調達しているんでございますよ。ほら、見ておくんなさい。今夜の宿賃にはなりますぜ。エレナさま」


 死体あさりを揶揄された男は、その目的がいかなるものか返した。女剣士は、腰に手を乗せて困った顔を作る。


「毎度毎度助かっているよ。でも、おまえの酒代も計算に入れているのだろう? 泊まる宿を選ぶとすれば良いビールを出す寝室付きともう決めているのではないのか?」


「えっへっへっ。よくお分かりで。疲れた体に酒よりきく薬はございませんで。この通り、エレナさまの剣技に守られていますから。傷ひとつありゃしません。なにせ、深傷を負えば、それまた酷い目に合いますからね。わしは方々の教区で見てきたんですよ」


 酒好きな点までを指摘された修道士は、苦笑をまじえて、一つ二つと話題を替えてきた。女は視線を森の向こうへ投げかけたところで眉をしかめて考えにふける。それは束の間でまた男を見る。


「霊魂が肉体を支配しているという『精気論』に基づいた医術によって、治療をほどこされてしまうと、死ぬまでの時間をただ苦痛で伸ばすばかりだからな」


「そうそう、よくご存知で、そうでごぜえやす。その点、医術に長けた牧人やら薬草に通じる昔ながらの村の老女が頼りになりますからね。それなのに、エレナさまも知っておられるでしょうが、教区のカテドラルでふんぞり返る司教がそれを妬んで他の異端者どもにしたことと同じく、魔女裁判にかけて火刑にしちまったところなんか、よく見ましたよ。丹精込めて作った村外れの薬草園を灰にしちまって。気の毒なもんさ」


 男は、さまざま目の当たりにしたことを触れ、そしてまた、エレナを中心に草原で散らばる別の死体へ歩み寄っては、ただの拾い物でもしているかのように身を屈める。


「へえー、こいつも、よく死んでやがる」


 男はできたばかりの死体の切り傷を見下ろした。次に片手を使い自分の額から胸へと縦に線を描き、すぐに横の線を交差させる。すなわち十字を描き、祈りの姿勢をとった。格別、込み上げるものもない表情を浮かべながら。


「主よ、この迷える子羊をどうかあなたさまの分け隔てぬ愛により、天国へ導きたまえ。……そして、今日も、魂が去った後のこの脱け殻から、糧となる収穫を得たことに感謝いたします。……アーメン……ヒヒヒ」


 男の口から祈りの言葉が、どこまで心を込めたものなのか疑わしいほどに流れた。女剣士はそのしぐさを目で笑う。


「ふっ、クソ坊主が。祈るしぐさだけは一人前だな」


「修道院にいたころの名残というか職業病でございます。……戦争で負傷して死にそうな奴、病人、災害、飢饉で苦しんでいる人間。それに怪我人、そう怪我人です。でっかい教会を建てるときは、事故がしょっちゅうありましてね」


「ふむ、建築の仕事もしていたのか?」


「へい。短期の雇いで修理などもやっておりましたよ。サン・サヴァン教会の礼拝堂は脇の窓から光がよく入り五十八の場面が描かれている天井画は、それはそれは見事なものです。プロヴァンスの三姉妹の長女、ル・トロネ修道院はとある一徹な築城監督の後について見学しましたが、そのときはとかく暑かったけれど、あれは建築家にとって聖地でしたね。モワサックのサン・ピエール教会はご存知ですか?」


「入口のタンパンは、それまでになかった大きなキリストの彫刻があるのだろう?」


「おお、知っていましたか」


「どこかの高名な修道僧が、つまらない信仰心を口にして様式のことでこと細かく造形の描写をもって文句を言っていたが、私は中でも柱頭彫刻で描かれた異形の物たちの造形は、どれもプラトン的な世界観の空想から来たものだとはいえ、魅力的だと思っている。どうした? 今、浮かぬ顔を見せたな。言ってみろ」


「今また事故の光景を思い出しましてね。積み上げた石が崩れ落ちた日には日雇いの手や足、頭が潰れて悲惨な最後でしたよ。人間よりも重たく大きな石が砕ける音の中で聞こえた悲鳴声は、今も耳に残っていましてね。その夜に飲んだ蜂蜜酒の味は忘れられねえ。……それをただ何もせず見ているだけだと悪人にされちまうことがありますが、祈れば魂を救済したことになって、たいそう深い善意を持つ人間に格上げされますからね。原資不要で利益があがるんで、祈りは実に便利ですぜ。おっと、こんな事いっちゃいけねえな。世界中の神父がみんな思っていることをついつい口にしちまった。違いますよ。みんなみんな、誠心誠意、全身全霊で主の御心に従ってね、美を追求しているんでございますよ……へへへ。どうです。エレナさまもひとつ神さまの心に届くお祈りを一つでもね。へへへ」


「フッ、神の心か……それは、人間の自然に対する道理の暗さゆえ……」


 頭皮の中心を剃刀で剃ったその男の、聖職者らしい風体の、口からでる上品とは言い難い言葉は、にもかかわらず、耳にしたエレナは冷笑と思わせ振りな独白の中に埋めるばかりである。


 そこで、男は彼女の言葉に気を止めて眉尻を歪めた。


「なんです? その分かったようなセリフは? エレナさま、天界の事でもご存知ですかい? 神様がわれわれ人間をどう見ていらっしゃるかご存じなんですかい?」


「存在しないものの視点など知らぬ。だがきっと、土から造った動く肉の人形と見ているのだろうな。たぶんこうだ。“ああ、なんてことだろう、全知全能なはずの私は、不完全なものをこしらえてしまった”と、だから、私はこう答えよう。おお神よ、自らの間違いを反省する器量もないお前を哀れんで涙を流してやろう。少なくとも偉そうにしているお前と違って私は泣くことができるのだ」


「ああ、なんてこと言うんですかい。罰があたりますぜ」


「是非とも神罰にあたってみたいものだ。例えば不忠義なおまえに対してはこうやって……」


 エレナの返す言葉が途中で止まる。


 修道士と呼ばれる男からの嗜め気味な忠言にエレナはふと笑顔も失せ、彼に歩みより始めたのである。


「な、なんですかい? 何をなさるんで?」


 尋ねた修道士は、エレナの近づく足取りに目を見開いた。と同時に、ふざけた笑いは霧消してしまう。代わりに頬が強張ってきた。


 エレナは、眉尻を吊り上げて、修道士にむかって剣を構えかけた。怒った顔で殺気と共に刀身が、遠く地平からの空の明かりを受けて鈍くきらめく。


「あ、あわわ、エレナさま! や、やめ……」


 男が恐怖にかられて尻餅をつき、後ずさる。刹那。エレナは、視線を自分の背後へと転じて、白刃を水平に振って斬りさいた。その回転する動きにしたがい、彼女の長い三つ編みも揺れる。


 肉を切り裂くいびつな音。エレナは、長剣の先を彼方へ向けたままの残心をとる。


「ぎええええっ!!」


 斬撃の直後、悲鳴が上がる。緑の草地へ鮮血の飛沫が散った。


 この束の間、修道士と呼ばれている男が見ていたのは、エレナの背後だった。二人が話している隙に草の中から影が立ち上がり、握っている剣でエレナの背中を今まさに斬りつけようとしたのである。だが、それはかなわず、女剣士の返り討ちにあってしまった。敵は紙を切り裂く悲鳴をあげて草の上に倒れてしまった。


 さっきまで得意気に問答まじりの会話を続けていた男の顔は、やおら冷や汗が吹き出た。


「す、すごい! 今のは驚かされましたぜ。稲妻のようにズバッとまあ、早すぎて剣のさばきが見えなかった! わしの首が飛んでいても気づかないくらいだ。くへえええ、エレナさま、お見事!」


 そして、怯えの混じる感嘆の声をあげた修道士は、エレナの剣さばきを今ここではじめて見たかのように、羨望の眼差しを彼女に向け続けた。


 エレナは、格別、勝利にひたることもない。むしろ斬り倒した敵を、どこか残念そうに見下ろす。


「やれやれ、死んだふりのままでいれば見逃してやったのに……」


「なんで、今、そいつが後ろからあなた様を襲ってきたのが分かったんですかい?」


「おまえの瞳に、背後で立ったこいつの姿が写っていたのだよ」


「本当ですかい? にしても、今のはわざとらしい演技を使い、隙を作ってわざわざ背後へ誘い込んだようにも見えましたが?」


「さあね」


 そっけなく答えたエレナは、膝を折ってしゃがむ。枯れ草を一握りすると、また立ち上がり剣についた新たな血糊をそれで拭き取りはじめた。修道士は、彼女の笑いかけたような目を見て首を横にふる。


「食えないお方だ」


 一言の揶揄と共に修道士は、マントの中から紐の付いたヒョウタンをつかみ出した。尻餅をついた姿勢のままヒョウタンの栓を抜き、中に入っているものを一口する。袖口で口元をぬぐった。


 エレナは、枯草で剣を磨きながら、まだ肝を冷やしている修道士を一瞥する。


「そんなことより、仕事の手を休めていいのか? 今死んだやつの懐は見ないのか?」


「え? ああ、ではさっそく」


 エレナが赤く汚れた剣を拭いている間に、男は新たに造られた死体へ歩みより、あちこちを探り回す。


「毎度毎度、ふむ、服の中には金目の物はないな。こいつはわしよりもいい袋を肩に下げているな」


 修道士の作業は革袋の中身へと移る。


「あれ? なんだこいつ、こんな物を」


 修道士の手が止まった。剣のきらめきを確かめていたエレナは、このとき不意に上がった男の疑問を呈する声に振り向いた。


「何か珍しい宝石でも見つけたのか?」


 修道士は金の入った袋をまた見つけて無くすことのないよう脇に置いていた。ところが、注目していたのは別で、新たに見つけた二本の巻いた羊皮紙を手にして、みいっていたのである。再び手が動きそしてまた袋から一冊の本を見つける。


「いやね、ちょっといい服を着ているから、やはり、こいつしこたま金を持っていたんですけど、それと一緒に二枚の羊皮紙と本を。ただの野盗が大切に持っているなんて」


「それは? 何かの書簡のように見えるが……」


「ちょっと待ってくださいよ。修道院にいたおかげで文字もそこそこ読めますからね。昔は、一時期商人の家で徒弟奉公もやったんです。ローマ数字は算術に向かないもんで算盤も少々と、ああ、盤はここにはありませなんだな。とにかく広げて何が書いてあるのか読みます。ちょっと待っておくんなさい。ほお、やはり俗語で書かれている。ほう、一枚は大陸のブルージュからコッツウォルズへ送られた、羊毛の買い付けを求める指令書です。それと次に、これは写本だな。書いたばかりのようだ、新しいですぜ。中身は、ええっと、算術に関するものだ。あともう一枚の羊皮紙は使い込んである。ほおほお、体裁は公証らしく書いてある。へへへ、エレナさま、見てくださいよ。これは借用書だ。とんでもねえ利息で貸し付けてやがる。こいつ高利貸しですぜ」


 二枚の羊皮紙と一冊の本のうち、修道士は、離れて立つ女剣士にインク文字がこと細かく書き込まれ、手垢に汚れた一枚の羊皮紙を手渡そうと腕を伸ばす。彼女は剣を鞘に納め、腰をおろしている修道士に近づき、羊皮紙を受け取って文字にざっと目を通した。しだいしだい目が笑う。


「それはよかったな。これで借金の取り立てから解放された奴がいたことになる」


 皮肉を口にした彼女は、記されている負債者の名前を一つ一つ眺めてから、借用書を修道士へ返した。修道士は、またあらためて文字へ視線を流し、その次に斬り倒された持ち主をみやる。


「ぬかったな、わしらに手を出さなければ、地道に儲けていたものを。急ぎ働きを企てたようで、バカな奴らだ。死んだらあの世へ金は持っていけねえのによ」


 明け透けなく悪罵をつぶやいた修道士は、借用書と写本、買い付けの指令書をまとめて背中に下げる薄汚れた革の袋にしまう。腰にはさらに小さな頭陀袋も下げている。


 これでその借用書の持ち主との用はなくなったかといえば、修道士はまた手で探りまわる。彼の表情がかわった。


「おや? こいつ贖有状も持っていやがった」


 修道士は手にしたものへ重々しい眼を注ぐ。エレナが一声かけようとした先に、修道士は首を横にふった。


「あばよ」


 そして、無慈悲な別れの挨拶に合わせて、片方の手を使い胸にまた十字をきる。腕を振り上げた。贖宥状を役にも立たない紙屑と見なしたらしい。かなたに向かって投げ捨てたのである。どこに落ちていくのかも見届けない。すでにその目はエレナに向いている。


「エレナさま、御料林に潜んでいたこいつら、本当に野盗だったんでしょうかね? 鹿を目当てにした密猟者かなあ?」


 尋ねられたエレナは、このとき修道士の力強い投げ方に目を丸くしていた。たずねてきた声が小さかったものだから聞き逃しかけた。が、急いで修道士の質問を反芻する。


「そいつの服装は一番身なりがいい。武具も金をかけてある。おそらくそいつが頭目だろう。他の者は、ほとんど古着を着ている。全体として貧相な服だ。眼差しの絡み合う閉ざされた狭いヒエラルキーのなかで、喰うか喰われるかで手下は頭目の力による支配に従っただけ。互いの目配せ、手ぶりと振る舞い、発話の内容と音調、立ち位置の取り方などで分かった」


「ほほう、先の斬りあいのとき、エレナさまが一見して無駄にいくつも話しかけて、相手が思わず応じていましたが、それを探るためだったんですかい?」


「そうかも知れぬし、そうでないかも知れない」


「……凄いな……」


 目を白黒させる修道士ではあるが、感嘆の一言は覇気のない低さである。その自分の声に合わせたかのように瞠目は顔からすぐに失せた。彼は頭目と思われる横たわる男の身体に目をじっとすえる。頼り無く開いた口に、不揃いな歯が見えるのは、聖職者らしい哀愁の表情だろうか。


「やっぱり、毎度毎度、最後に斬られるのは親玉かよ。ともかくエレナさま、それだとこいつらは動物の群れと変わりませんぜ。神様は他の生き物を支配できるようにと人間を賢く造られたんでごぜえやすのに。罪を背負わせもしましたけどね」


「それはどうか。ときに動物は人間より賢く振る舞う」


「そうですかね?」


「例えば、狼は、悪魔や魔女の使い、禍々しい怪物の化身という伝説が村々にある。が、実のところ狼は、生きていく上で必要な食べ物を得るために狩りをするだけであって、同類の仲間との争いを含めて無用な殺生はしない。狩りをするときはルールもある。人間がこしらえた神より、実在する様々な動物から学ぶことは、実に多い」


「そんなもんですかねえ、ローマ教会へのロヤリティがまったくない、神による平和を願う者が聞けば毛を逆撫でられる、実に愉快で不敬なお言葉で、へへへ」


 宗教をぞんざいに説いたエレナへ修道士は、呆れて返した。しかし、エレナは視線を変えて考え込んだ目をつくった。


「ところで、修道士よ。合点のいかぬことがある。そこの若い弓兵。他とは違う志のある面構えだった。とても金品目当てとは思えない。下は農奴の服装だな。ほころんだ灰色のチュニックにズボン、足首を紐で結んだ革製の靴にゲートル。だが上に着けている甲冑は良いものだ。鷹の紋章まで描かれている」


 語気を変えたエレナは気になる一角へ指を指す。さっきまで彼女が血のしたたる剣を持ち、哀れんで見下ろした若い弓兵の亡骸だ。修道士はかしこまった。


「わしも気になったんですよ。そいつ、ちょっと可哀想だったなあ」


 悼んでみせた修道士は、それでいてやはり今までと同じく身を移動させ、弓兵の屍のわきで膝をおる。さきほどエレナが物悲しげに見下ろしていた立ち位置である。修道士は形ばかりの祈りを急いですませてから、持ち物をあらためる。次々と品物が出てきた。


「見てくださいよ。小銭が少々と、ほう、こんなものが。書写板が二枚と鉄筆が一本。子どもが街の学校で読み書きを教わるための道具ですぜ」


 修道士の革袋を背負う背中は、目新しい昆虫か植物を採取しているかのごとくまるまっている。エレナは、その彼のあとに近づいて教師のように立った。


「ふむ、文字を勉強していたらしいな。しかし、農民なら、羊皮紙、インクは高くて、簡単には手に入らないだろうに」


「ああ、印象があります。ほら、エレナさま」


「見せてくれ」


 男から印象を受け取ったエレナは、その円形の面の中心に刻まれている象徴図形と周辺に描かれた文字をしみじみとして眺める。


「農民が証書を作成するときに使う印象だな。盾にバラの紋章? 名前は、トマス……コリンソン。しかし、使われた形跡はない。真新しい」


「なんで、こいつらと一緒なんですかね? こいつは野盗じゃないんじゃないかな」


「さっき見せてくれた、頭目から奪った借用書を確かめてみろ。名前はないか?」


 エレナから印象を返してもらった修道士は、すぐに背中の革袋からしまったばかりの羊皮紙を一枚取りだし広げて何が書いてあるか読み込んだ。


「へい、ええっと、コリンソンね。コリンソン、コリンソンと、おや、トマス・コリンソンがいました。でもここに書いてある年齢は三十六歳とあるが、その小僧、十六歳にしか見えませんぜ。まだ返納していませんが、印がありますぜ、次男を一人買い取ると」


「それを見せてみろ」


 エレナは修道士から借用書を受けとり、文面を見つめる。その間、修道士は弓兵のふところを探りつづけ、また二つの羊皮紙をみつけた。修道士はそれを読んで鼻頭と唇がくっつきそうな表情をつくる。


「これはどこにでもありそうな騎士物語ですな。それと、これはまた、驚いた。格式のある書面が一枚。コリンソン家の先祖は騎士だったようで」


 修道士はそれら二枚の羊皮紙も、エレナへ順番に手渡した。エレナは借用書を返す代わりに、一つ一つを受け取って読み、眉間をひそめた。彼女の表情は、このときばかり若齢の女性とは思えない、老学者が図書館で資料を読みとく眼差しに似ていた。書類を渡したり、返してもらい仕舞ったりする修道士もこのときだけは、調べものを忙しく手伝う学士のような振る舞いと顔つきになった。とにかくエレナの目が文章の中で止まったり動いたりする。


「この一枚は、本人宛ではないが、国王が騎士コリンソンを叙任した命令書だな。ラテン語で書いてある。して、もう一つは俗語で書かれた騎士物語か、ふうむ、この隅に物語本文とは違う文章が書かれている。筆跡も違うな」


「なんと、ありやすか?」


「復讐を決して忘れずして、コリンソン家の栄光を絶やさんがために……」


「と、いうと、どういうことなんでしょう?」


 エレナは、まず弓兵の持ち物だった二枚の羊皮紙を修道士に返した。


「すまないが、また、野盗の頭領が持っていた借用書以外の書類を見せてくれ」


 修道士は、急いでブルージュからの指令書を渡す。エレナの視線はなめらかに流れた。


「ううむ、関連はないように見える」


「そうですかい」


「一応、その算術の写本も見てみようか」


「へい、どうぞ」


 迷った顔のエレナへ、修道士は手際よく次に算術の写本を、ブルージュの指令書と取り違いに渡した。写本を開いた彼女の顔に、しばらくして微妙な変化があわれた。修道士がその表情を逃さない。


「なにか、分かったんですかい?」


「写本と騎士物語に添えられた文章の筆跡は同じだ」


「どうことですかい? それは頭目の所持品でしたよ」


 答えを請う修道士の前で、エレナは、黙して算術の写本を閉じた。真新しい写本は修道士の手元に戻される。彼女は手のあいた片手で、ほつれた自分の髪の一束を整える。頭の中で考えていることを表すような指の細やかな動きである。返事を待つ修道士のぼんやり開けた口を見つめ返して唇をひらいた。


「つまり、その弓兵は、没落騎士の子孫で今は農奴の次男ということだ。そして父親は借金返済のために、長男ではなく次男一人を売りに出した。しかるに、その騎士コリンソンの子孫は、普遍学校を目指し写本を書くことで資金を稼いでいた。写本は商売にたけた頭目が預かり方々の街や修道院などで高値をつけて売る。それは、輝かしい過去を取り戻そうとして……というところかな。これは推理ではなく想像を交えた見当の段階だけれども」


 話を聞いた修道士は、剃りあげてある自分の頭頂部を片手で二度三度となでる。


「エレナさまの嗅覚は並外れていますからね。でも、その通りだとすると格別奇異でもなく、ときどきある込み入った話でございますな。でもこの小僧、自らすすんで馬上のエレナさまへ弓を放ちましたぜ。実に勇まく手慣れた弓矢の扱いだったものだから、そのときは、わしもヒヤッとしましたけど」


「たしかに、朴訥な農民とは言いがたい。色々といわくありげだな。自ら選んでこやつらの企てに身を投じ、抜き差しならぬ役割を引き受けたと見た。先祖の栄光の残照から情熱とわずかな自由を得たかったのかもしれない。しかも、そいつの空を見上げる目を見ろ。絶望はなく熱意の眼差しが色濃く残っている。……その責任を引き受けた結果、矜持と自由をどこかで感じただろうか……」


 考え込んだエレナの姿勢に、修道士も主人に付き従う下僕のごとくそれに習い、膝をかがめた姿勢でエレナと同じ顔で弓兵の、空を見上げる生命のない顔を眺める。


「仰向けになって空を見ているその小僧。エレナさまがさっきまで悲しそうに見ていたのを、わしはちょいとしげしげと見ていたんです。いや、私がただそう感じただけですけどね。そのときのエレナ様の背中を見たら感じたんですよ。で、その小僧、たしかに弓矢の扱いがとかくうまかったように見えましたよ。それだけに、エレナ様へ弓を引いたのが運悪かった。思うに、その小僧、いい縁の巡りがあって二年あれば、心がけも変わっていたんじゃないんですかい?」


 修道士は思うところを淡々と話し、エレナから返してもらった戦利品、といってもそれはほとんど書類であるが、その一つ一つを確かめ、革袋へしまっていく。彼にとって特に利益を生み出すこともないと予想されるものだろうけれども、エレナが気に止めたものは、彼自身が取って集めた金品の中に含める心掛けであった。


「たったの二年で人の性根が変わるものか……」


 間をおいて、彼の背中の方から、エレナの不意な言葉が発した。それは彼に返事をしたというよりは独り言のようであった。そのときもまだ、修道士は革袋の中に納めた戦利品をのぞきこんでいたのである。返事は来ないものと思っていた修道士は、顔をあげて何気にエレナの顔を困ったように見返す。


「というと、どのくらいで?」


「百年かな……」


「そりゃ人間の寿命より長いですぜ」


「ふざけたように聞こえたか? 今の世は成人したら死はすぐやってくる。優れた情報網も物事を見分ける十分な知識なども民衆の生活の中にはなく、教会は、壁画やステンドグラス、聞きざわりの良い言葉による幼稚な手段で単一の物語を説く。過酷な労働の中で死後、天国へ行くという夢を見せてくれるという情報のみ。それらからのmoralisを拠り所とし、さらに自然の理解に乏しいゆえ、……人間の間で培われるものも道理の暗さを避けられない……しかも、他者からのまなざし、承認がなければ生きられない。他有化を乗り越えられず、自由の受難だな」


「それは、誰の言葉ですかい? 宣教でも聞いたことがない。とにかく、厳しいね。……エレナさま、一々厳しいね。まるで悪魔から世の在り方を教わった魔女のようだ。あ、これは誉め言葉ですぜ。他の場所で言いうでもすれば司祭やら領主の耳に入って拷問付きの異端審問、その末に火刑にかけらちまう。でもエレナさまなら、そういう異端狩り、偉そうに平和を口にして暴力を使うやからが大嫌いだから、ことごとく成敗なさりそうですな。わしは一度でもいい、それを拝見したいもんです。へへへ、そう、そうだね。いつも思うのだが、あなた様は特別だよ」


「そうかな?」


「へい、そうですとも。普通、修道女にでもならないかぎり、女には無理がある。あなたのように、どこで勉強したか知らないが、読み書きができて大学で学ぶ知識など身につけることなどできやしない。それに、女に戦いは向かない。エレナ様もその武具を売り払って、金をかけたコットを着こなせば、豪農、いや領主の子女と偽って都市貴族かギルドの有力者に取り入ることができますぜ。そうしなくとも普通に暮らしていれば向こうから婚約の申し出があってもいいくらいの美人なものだし」


「そこで坊主の暗躍か? 主人が無能であればなおのこと策は思いのまま。そして、主人が亡くなったときの相続に一役かうとか?」


「おお、よく分かってらっしゃる。歴史をよくご存知のようで。やっぱりあなた様は特別だ。他の女には真似できない。ブルージュの事で思い出したけど、ベギンたちがあなた様の男らを無惨に斬り捨てる華麗な勇姿を見たら卒倒するでしょうな。へへへ」


「そうでもないぞ。話を聞くかい? かなり違う時代の、遥かな遠い場所でのお話だよ。たいそう荒唐無稽に聞こえるかもしれないが」


「へええ? 是非とも聞かせてくだせえ」


「夢から生んだ空想かもしれないぞ」


「へへへ、所詮、人生は夢ですよ、エレナさま。この世は悪夢ですぜ」


「世の隅々を渡り、悪夢にうなされてみるか。ここは、もうじき暗くなる。宿を探そう。そこで暖かい食事をとりながら、お話をたっぷり聞かせてやるよ。その次に旅芸人を捕まえて音楽を聴く。あとは、そう、遍歴職人に出会えば、彼の手に入れた俗語で語る民衆の日常を描いた物語に武勲詩。しかし、聖職者や国王がラテン語で書いたレスプブリカ・クリスティアーナの『世界年代記』とか、ただし、聖オールバンズ修道院で書かれた『大年代記』の一節は笑わせる。とにかく、作為的な偽史文書などは消化に悪い」


「へい、ですがトロメウスの『年代記』はどうですかい? 人民の自治を認めていますが?」


「あれは、プラトンやアリストテレス、キケロの影響はあっても神が主権者となった人民支配を説いているのであって、人民が人民の社会を治めるのとは違う」


「それは、手痛い評価ですね?」


「ところで、その高利貸しの文書も俗語なのだろう?」


「へい」


「その弓兵の持っていた王の命令書も合わせ、あらためて読み解き、世の中の真相を調べてみようではないか。そこにパンと焼いた肉にチーズ、湯気のたつスープがあるといい」


「それはいい、温かい飯が食いたいところでさあ。いい夜になりそうだ。ついでに生娘を抱ければ極楽ですぜ。おっと、入浴もしなけれりゃな」


「修道士は入浴を贅沢な行いとして蔑んでいるのではなかったか?」


「死臭が肌にこびりついてますからね。鼻の中にも。だからたっぷりと香水の利いた生娘のみずみずしい肌に夜通し暖まるには体を清潔にしとかないとね。その最中に垢まみれにもなって嫌われるなんてぞっとしますぜ。食べ物も気を付けないと。昔、仲間にライ麦パンばかり食べていた奴がいましてね。麦角の毒にやられて無惨な姿になりやした。それこそ悪夢だ。これでもわしは繊細なんですぜ」


「そうだったのか? そうは見えないぞ」


「ああ、それは傷ついたな。綺麗な柔らかい肌の女と、夢心地に一夜を過ごせば、その時だけは天国の夢が見られますからね。ご領主さまのように他人の新婚妻へ初夜権があればと思うときもないことはない。あ、でもエレナさまは別ですぜ。あなた様の悪魔のように冷たい甘美な目が、わしの内臓の奥にある一つ一つを貫いて温めてくれるんでさあ」


「ふふ、私の肌は血の匂いがしみこんでるぞ。とにかく、体力を使って腹も減った。雨も降りそうな雰囲気だ。では宿へ急ごう」


 るいるいと転がる死体を余所に、修道士と話し込んでしまったエレナは、人差し指と親指を唇にあて、笛を吹いて馬を呼ぶ。


 離れた場所に黒毛の馬が一頭、背中に鞍をかけた姿で気ままに草をはんでいた。指笛の鋭い音色を耳にしたとたん首をもたげてエレナの方を見つめた。両の耳もパタパタと振るわせる。その次に蹄の音は立てど、嘶くことも首を振ることもなくエレナの元へかけよる。


 牡馬と比べても遜色のない、皮膚の中は筋肉が詰まった四本足の、毛づやは黒く輝く体躯。


 馬は、はにかんで瞼を閉じる。頭をエレナの頬にすりつけてきた。エレナはお返しに頬や鼻頭をなでてやる。


 修道士は、その様子を見てやさぐれた顔を変える。子どものような目で笑い、鼻で笑う。


「馬は人を見るからな……。エレナさま、あなたの言うのも分かる気がしてきましたぜ。いえ、ちょっとばかりなんですけどね」


 彼の言葉を耳にしたに違いないエレナは、何も答えず鐙に片足をかけ鞍にまたがった。一本のみの長い三つ編みが揺れる。それは、何かを振り払う動作にも見え、しかしその動作の中に重苦しさは微塵もなかった。


「……さてと……」


 エレナは、手綱を握りつつ転がっている死体を見納めのようにながめた。苦い顔を垣間見せた。


「盗賊を相手に、無用な時間をかけてしまった……」


「ここで言うのも変ですが、エレナさま、こいつらの亡骸どうします?」


「坊主のお前が埋葬するのが良いのでは?」


「それは、葬儀屋の務めでございまして、色々と商売として分業しているんでございますよ。この近くに墓ほりでもいれば。それに良い棺おけを探さないと」


「およばず、後かたずけは、あいつらがしてくれる」


 頭上たかく、大きな羽根を広げて元気よく羽ばたかせているカラスが数羽。黒い影で旋回し、弧を描いていた。そのさらに上は重たく巨大な怪物のように垂れ込めた雲。鳴き声をかけ合う数羽にまた一羽が加わる。


「行くぞ、修道士。集めた物を落とすなよ。さらば、草原で永遠に眠るゲスどもよ」


 エレナは修道士に背を向けて手綱をさばいた。


「お、ちょっと! 待っておくんなさいエレナさま。宿賃はわしが持っているんでござんすよ」


 黒馬を緩やかにすすめるが、大人の男性が歩いてついて行けるギリギリの速さである。彼女のあとに着いていく修道士は、長チュニックの下に見える靴を忙しく歩ませる。その歩みを一旦は止めてヒョウタンの飲み物を一口飲んだ。それから腰に下げた頭陀袋を軽く叩いて、親につき従う子どもじみた足取りで馬の尻と女剣士の背中を見ながら後についてく。


 楽しそうな表情で彼はただ、彼女の後をついていくだけだった。そして、残されたのは金銭と書類などを抜き取られ、埃と泥、そして血にまみれた死体のみ。


 やがてその冷たく柔らかい寝床に、森は、潜ませた霧を、白いかけものとしてつつんでくれた。しかし、カラスにつつかれて眠りを妨げられてしまうかもしれない。血で汚れたところも、雨が降れば洗い流してくれることだろう。





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