シンジル
「ねぇねぇお父さん、オリオン座、綺麗だね!」
「ああ、綺麗だな。知ってるかい? あの光は、約千六百年前のものなんだよ」
「え? 今光ってるんじゃないの?」
「いいや、違うんだ。宇宙は広過ぎて、光さえも届くのに時間が掛かるんだよ」
「何それ、凄いね! 光の速さを超えたらどうなるの?」
「うーん……。タイムスリップ出来る……とかじゃないか?」
「僕、タイムスリップしてみたいなぁ。タイムマシンが出来たら、タイムスリップ出来るよね?」
「ああ、そうだろうね」
「じゃあ、僕、将来科学者になってタイムマシン作ろ!」
あの頃の私は純粋だったものだ。あれから、何十年も過ぎた。私は科学者になった。タイムマシンを作った。私の人生は上手くいっていた。
そう、タイムマシンができるまでは……。
「やったぁぁぁぁ!!」
五十歳の私は、コンピュータを前にして叫んでいた。
「どうしたんですか? 川越さん」
新川が話しかけてきた。まぁ、コンピュータを前にして一人で叫んでいるのだから、変に思うのは無理もない。
「いやぁ、これを見てください、新川さん!」
そう言って私はコンピュータの計算式を見せた。
「またタイムスリップの計算式が証明されたとか言うんじゃないでしょうね? 何回目なんですか、川越教授」
新川は笑ってコンピュータを覗いた。私と彼は、大学の教授と助教授という間柄だったが、冗談を言い合うほど仲が良かった。
「いや、そのまさかなんですよ! タイムスリップの計算式が証明されたんです! うぉぉぉぉぉ!」
「とりあえず落ち着いてください。……あれ、これ、凄くないですか? え? 計算ミスが見つからない? ……タイムスリップの計算式が証明されたぁぁ! うぉぉぉぉぉぉ!!」
その日は何度も新川と計算式を確認していた。しかし、間違いは見つからなかった。タイムスリップは可能なことが証明されたのだ。
私と新川はすぐに論文を提出したのは言うまでもない。もちろん、世間は大騒ぎだった。会見は何度も開かれ、世界中から取材された。テレビに出ることも多くなり、一年後にはテレビには欠かせない科学者として認知されていた。
私は浮世だっていた。だから、テレビのギャラを使って川越研究所を作り、新川を一緒に連れていくことに何のためらいもなかった。
「新川さん、私と一緒にタイムマシンを作ってくれませんか?」
まるで、プロポーズのような落とし文句だった。
「はい!」
新川も、プロポーズを受けた時の返事のようだった。
あれから十年が経ち、タイムマシンの機体が完成した。もちろん、これはトップニュースとして世間を騒がせた。天才科学者だと持ち上げられることがとても気持ち良かったのを覚えている。
「川越さん、あれから十年が経ちましたね」
新川がしみじみと言った。十年前には実年齢よりも若く見られることの多かった彼の顔も、皺が深く刻み込まれるようになっていた。しかし、彼の表情は柔和だった。
プルル。電話の鳴る音がした。私は電話を取る。
「初めまして、こんにちは。川越さんですね。私は鷹組という組織の、高野です」
「はい、私が川越ですが。何かご用でも?」
「川越さんと二人でお話がしたいのです。時間を頂いてもよろしいですか?」
断る理由は特になかった。
「分かりました。では、十二月の十八日に新宿のカフェで会いましょう」
「はい。楽しみにしています、川越教授」
そういって高野は電話を切った。
私は三十分前行動を意識している。そうすると、心の余裕が生まれるからだ。特に、対談をするような時は、心の余裕が対談を有利に進める鍵となるのだ。
今日もやはり三十分前にカフェに着いた。今もそうだが、予定通りに行動出来るのはとても気持ち良いものだ。
私は三十分をネットサーフィンして過ごすことにした。
“鷹組と鳩組の水面下の抗争激化 何故マスコミは報道しない?”
鷹組のことが載っていた。私は何も思わなかった。
「やぁ、お待たせしました」
高野が来た。
「いえいえ、私も今来たところです」
彼の服装は、ヤの付く自由業のようだった。この時私は、高野に恐怖を感じていた。私がヤクザやチンピラが苦手だからだろう。
「お話というのは?」
「ああ、そうだ。まぁ、端的に言うとですね、タイムマシンをうちの組織のものだけにしたいんですよ」
そんなもんかと思った。こういった類の話は多かったのだ。
「そういう話はお断りしています。タイムマシンは私の夢であり、全人類の夢ですから。商業利用は目的外です」
「まぁまぁ、そんなこと言わずに。私の話を聞いてください」
高野は低い声でゆっくり喋る。聞けば聞くほど、ペースに飲み込まれそうだった。
「はぁ」
「うちの組織は、科学で食っているんです。川越さんと同じですよ。科学技術を特許出願して、許可が出されたら技術を売る。私らはそれの利用料で儲けを得ているんですよ。まぁ、技術者とはWin‐Winの関係ってやつですな」
凄くどうでも良かった。私は、タイムマシンを商業利用させない。それだけだった。話を聞いたところで、何も変わらない。
「あの……もうお開きにしましょう。私の気持ちは変わりませんから」
「そうですか、今ここで話が決まらないのは残念です。まぁ、じっくり考えてみてください。連絡はここに」
そう言って高野は名刺を差し出してきた。返さなければならないので、しょうがなく私も名刺を渡して去った。
私はビルが乱立する、研究所への帰路を急いで歩いていた。その時だった。一人の女性が話しかけてきた。
「あの、科学者の川越さんですよね?」
綺麗な声だった。
「え? ああ、はい」
よく見るととても美しい女性だった。今時珍しい黒髪のショートヘアで、綺麗なアーモンド形の目をしている。スッと通った鼻筋に、ツンと尖った唇。とても容姿が整っていた。この容姿に落とされた哀れな男は何百人いるんだろうか。とっさにそう考えるほどの美しさだった。
「私、ファンなんです。テレビも全部見ています。これ、ファンレターです」
「あ、ありがとうございます」
私は家に帰った後、ファンレターを開けた。そこには、彼女の連絡先があった。積極的な女性だと思った。
「何で高野さんの申し出を断るんですか、川越さん? これほど良い話、そうそうないですよ!」
高野との話を聞いた新川はそう言った。
「そうは言っても……私の技術は皆のものですよ? お金を取るなんて、嫌です」
「川越さん、ここ三年でテレビのギャラがグッと下がったの、覚えてないんですか? それに比例して、川越さんのギャラが下がっていることも……」
「分かっています。それを踏まえた上で、嫌だと言っているんです。私には、あの、高野という男が信用するに値すると思えないのです」
「はぁ……」
新川は溜め息をついた。
「良いですか? アイデアや技術っていうのは、特許を出願しないとパクられて……」
それから、私は三時間ほど新川の説教を受けた。結果、申し出を受けることを決めた。
彼の言い分は正しかった。確かに私のアイデアや技術は、近い将来、心ない誰かにパクられるだろう。その点には納得していた。だから、この決断には今も後悔していない。まぁ、説得したのが新川でなかったなら、私の心は変わらなかっただろう。私と新川は互いに信頼し合っていた。
その後、高野に連絡しようとしては連絡するのを忘れる日々が続いた。私ももう六十歳だった。既に、記憶力に老いが見られていたのだろう。呆れた新川が代わりに連絡をしてくれた。
それと同時に、私はあのとても美しい女性に、行く先々で出会うようになっていた。出会う度に仲良くなり、最終的には愛し合うようになった。トントン拍子でことが進んでいった。
彼女の名前は中村といった。鳩組という組織の者だそうだ。私は、どこかで「鳩組」という言葉を聞いたことがあることを覚えていた。しかし、それがどこでかは覚えていなかった。
「ねぇ、ダーリン? ダーリン、最近研究は進んでるの?」
「ああ、うん、進んでるよ。ハニー、興味あるの?」
「ええ、そりゃもちろん。じゃなければ、あなたに話しかけてないわよ」
「確かにそうだね」
私達は笑った。何故、ここで、彼女の表情がスッと女狐のようになったのに気付かなかったのだろうか。それが悔やまれる。
「私、ダーリンの研究所行ってみたいな」
「良いよ。ハニーは私の一番のファン兼彼女だからね。特別だ」
私は微笑んだ。中村も微笑んだ。
「わぁ、ここが川越研究所ね! 素晴らしいわ、連れてきてくれてありがとう!」
「私も喜んでくれて嬉しいよ」
中村を研究所に連れてきた時、彼女はひどく興奮していたのを覚えている。
「新川さーん、いますかー?」
私が研究所に叫ぶと、新川は奥の研究室からひょっこりと顔を出した。
「あ、川越さん! 噂の彼女さんですか?」
新川はニヤニヤしながら言った。
「あ、はい、そうです。中村さん、こちらが私の研究所の助手をやってくれている新川さんだよ。新川さん、こちらが私の彼女の……」
「中村です、初めまして」
中村が私の言葉を遮って言った。
「初めまして、新川です。中村さんのことは、川越さんからよく聞いています」
「あら、それは嬉しいわ。私も新川さんのことはちょくちょくこの人から聞いています」
その後、この二人の話はしばらく盛り上がっていた。
「ねぇ、一人で色々な所を見て回って良いかしら? あなたは仕事をしてて。私、仕事をしているあなたも見てみたいの」
新川との談笑を一通り終えた中村はこう言った。
私は久しくできた彼女にかっこいい姿を見せたかったのだろう、よく考えずに承諾した。
「やったぁ! じゃあ、まずはあっちの部屋でも見ようかしら!」
そう言って彼女はスッと部屋に消えていった。それから私は、彼女の存在を忘れるほど仕事に没頭した。
「今日はありがとう。これ以上邪魔しちゃ悪いから、もう帰るわ。新川さんも、ありがとうございました」
私は中村のこの言葉で我に返った。
「あ、ああ、うん……。じゃあ、家まで送っていくよ。新川さん、ちょっと出かけてきます。代わりに差し入れを買ってくるので、よろしくお願いします」
「お、差し入れ買ってきてくれるんですか! もう、存分に中村さんを家に送ってきてください! 中村さん、また来たくなったら、いつでも来てください。いつでも待っていますよ」
「ありがとうございます。そんなこと言うと、毎日来ちゃいますよ?」
この数時間で、中村と新川はかなり親密になっていた。中村のコミュニケーション能力には脱帽だ。
「やっぱりダーリンは凄いわね。尊敬しちゃう」
送っている車の中で、中村はこう言った。
「ありがとう。ハニーも、いつでも研究所に来てくれて良いからね」
「ありがとう、ダーリン。……ところで、ダーリン、何で研究所にある時は私のこと苗字で呼んだのよ?」
「それは君だって同じだろう。私のことをこの人なんて言ったじゃないか」
私達は笑い合った。このくだらないやり取りが、とても楽しかった。私は彼女に、自分の生きる意味を見出していた。
中村が最初に研究所に来てから半年後、タイムマシンは実際にタイムスリップをする実験をするところまで開発が進んでいた。
実際に実験をする時が来た。タイムマシンの乗用車は他でもないこの私だった。ここで失敗して死ぬなら、それも本望だと考えていた。実験場には、私、政府の役人三名、新川、高野、中村の七人がいた。
「帰ってきたらレポートの提出をお願いしますよ」
一番小柄だが、目の綺麗な政府の役人が言った。しかし、言っている内容はひどく無機質だった。
「川越さん! 死なないでくださいねぇ!!」
新川は今にも泣き出しそうだった。
「行った先でじっくり考えてください。我が鷹組に技術提供するか。良い返事を期待していますよ」
高野はあくまで事務的だった。
「ダーリン……」
中村はそう呟いて、私に駆け寄ってきた。そして、抱き付いた。
「死んだら許さないから。……それだけ」
「君、今、ダーリンって……」
「うるさい! ぶっ飛ばすわよ!」
「はい、すみません……」
中村はツンデレだった。
実験直前の微調整を終え、私はタイムマシンのコックピットに乗り込んだ。行き先は四十二年前、高校三年生だった私の世界だ。何でよりによってこの時なのかとよくきかれる。その度に私は答える。やり直したいことがあるのだ、と。
「では、いってきます」
私はそう言い残し、タイムワープボタンを押した。皆が何かを私にいったようだが、聞き取れなかった。
周りの景色の一部が、白く抜け、やがて虹色に輝き出した。その輝きは次第にうねり出した。そして、うねりながら、遥か向こうにある一点の黒点へと流れていく。私は初めて恐怖を感じた。あの黒い何かに飲み込まれたら、人生が終わるのではないかと。さっきまでの覚悟は、とっくの昔に音を立てて崩れていた。
しかし、私は声を出さなかった。そこで声を出しても、誰かが助けてくれるわけではないことを知っていた。私は、恐怖を感じながらも至って冷静だった。
「私はやり直す……やり直すんだ……」
ただこれだけ言った。
「……何あの人……倒れてるよ……学校のグラウンドのど真ん中にいきなり出現して、気絶するってどういうことだよ……」
私は、私に向けられている陰口で起きた。周りを見渡した。周り一面、砂のグラウンドだった。少し遠くに見覚えのある、学校の校舎が見えた。どうやら、私は目的の場所に着いたようだ。
「あの、すいません」
いまだ私を見てヒソヒソと言っている人に話しかけた。彼女達は見覚えのある制服を着ていた。
「えっ!? あ、はい、何ですか……」
彼女はいきなり話しかけられて困惑していた。
「今、西暦何年ですか?」
女子高生らは眉を潜めた。顔を見合わせる。
「二千xx年ですけど……。あの、もう良いですか」
二人は私の返答も聞かず、そそくさと去っていった。
少し傷付いたが、タイムスリップは成功したことが分かった。
「では、ことを始めましょうか。早く始めなければ、『あれ』は逃げてしまいますからね」
私は校舎に向かって歩いていった。
『あれ』はすぐに見つかった。将来の夢の話をしているようだ。
「僕は、政府の役人になりたいんだ。政府の役人になって、政治や公的事業を裏から支える。素晴らしいことじゃないか」
大層な夢だった。私は、『あれ』が夢を語っている時に見せる、キラキラした目がとても嫌いだった。今も嫌いだった。見ると吐き気がした。生理的に無理だった。
「へー、素晴らしい夢だな」
適当な返事をしたやつがいた。若かりし頃の私に違いなかった。
「だろ? 川越、君の夢は?」
『あれ』、犬山は私の興味のなさそうな様子には気付いていなかった。無邪気に、川越に将来の夢をきいていた。
「俺の夢か? 俺は、そうだな、タイムマシンを作る。それだけだ」
川越はぶっきらぼうに答えた。
「それは凄いね! もしかして、将来僕達は仕事上で関わり合う立場になるかもしれないね。だって、川越の研究が認められたら、政府の資金で援助するかもしれないからね」
「ああ、そうかもな」
川越はそう言って、鞄を持った。
「じゃ、俺帰って勉強するから」
「ああ、そうだね、お互い、志望校に合格出来るように頑張ろう!」
この時期、そのようなことは教師から何回も言われていた。教師のような、正論かつ綺麗事を言う犬山も私は嫌いだった。
川越が消えた後、犬山は教室に一人になった。あいつは窓を見て言った。
「あ、雪だ」
あいつは今、学校から駅まで一人で歩いている。傘を忘れたらしく、雪が頭に軽く積っていた。
雪というのは不思議なものだ。非現実性からか、寒いはずなのに寒さを感じさせない。魔法の粉みたいだ。科学者の私が「魔法」と言うなんて馬鹿らしいが、少なくとも高校生の時はそう思っていた。
学校から駅までの道の途中に、公園がある。といっても、ここで遊ぶ子どもはいなかった。近くの大きい公園に客を取られていたようだ。
犬山はフラッとその公園に入った。受験生だというのに余裕そうだ。
降り積もった雪に一人の足跡が付いていく。私は、あいつの足跡に一つ一つ足を合わせながらついていった。犬山は気付かない。
あいつは立ち止まった。
「ねぇ」
不意にあいつが話し出し、私は焦った。他に人がいない公園。話しかけるならば、相手は私しかいないと思ったからだ。
「僕に何の用?」
私は口をパクパクさせた。計画が破綻する。
「偶然じゃないよね? 君、いつもは通学路違うもんね」
「ああ。よく気付いたな。雪の魔法ってか?」
川越だった。あの時と同じ、この日、この場所にいた。計画が破綻したわけではないことを確認し、私は一安心した。
「早くしてよ。重要な話なんでしょ?」
犬山は焦れていた。
「ああ。……なぁ犬山、俺達、この九ヶ月間ずっと一緒にいたよな。その中で、分かったことが一つある。お前、死にたがってるだろ?」
「……川越、凄いね。さすがだ」
犬山はあっさり認めた。
「そう、僕は死にたい。この世界には何も希望はないから。友達には裏切られ、いじめられ、人はあくまで自分本位なことを知った。大人も頼りにならなかった。いじめられるのはお前のせい、そう言ってきた。僕は何もしてないのに、ただ普通に生きてきただけなのに!僕をいじめてきた連中は、それが気に食わないと言ったんだ。一方大人はいじめを正当化した。親もだった。僕は自分の耳が信じられなかったね。皆自分が可愛いんだ。自分がいじめられたくない、ハブられたくないって理由で人を貶める。
でも僕ね、三年生になってから変わったんだ。僕は勉強が出来る方だから、たちまち皆に頼られるようになった。それで調子に乗ったんだ。周りを馬鹿にするようになった。川越のことも、内心とても馬鹿にしていた。勘の良い川越のことだ、気付いていたんだろう? 僕も気付かれている自覚はあった。でも、やめられなかったんだ。凄い快感だったから。人を下に見ること自体は僕をいじめてきた連中のしてきたことと同じだ。でも、僕は頭が良い。頭が良いやつが悪いやつを下に見てしまうのは、あたりまえのことなんだ。そう自分を正当化していた。
川越、一学期は部活部活で成績はあまり良くなかったよね。こう言っちゃ失礼だけど、完全に下に見ていた。けど、この前の期末、君は僕に勝った。圧勝だったね。僕は正直不愉快だった。下のやつに負かされるのが、最高に悔しかった。でもこの時気付いたんだ。僕はあいつらと至って変わらなかったんだということに。頭が良い悪いとか関係ない。僕がやったって、あいつらがやったって、人を下に見て馬鹿にすることは人間の屑がやることだ。そう悟った瞬間、僕は手首を切っていた。死にたくなったんだ。でも死に切れなかった。母親が僕を見つけて止血してしまったんだ。良いところまでいっていたんだよ、僕は気絶出来ていたんだ。あのまま死にたかった。あれから母は頻繁にヒステリーを起こすようになった。一時間おきに僕の自室に来る。僕が自殺しないか確認するためにね。だから今まで死ねなかったんだ」
犬山は息切れしていた。興奮しているようだった。目が充血し、歯を剥き出して笑っていた。不気味だった。
「川越、僕決めたよ。今死ぬ。ここから飛び降りて死ぬ。飛び降りた所の人に迷惑をかけるだろうけど、もうそんなこと気にしていられないからね。僕、もう限界なんだ。とっくの昔に狂ってる。しかも、狂ったまま人生を送ったら、狂人の果てまで来ちゃったみたいだ。だからね、死ぬ」
犬山がフェンスをよじ登り始めた。フェンスの向こうには地面がない。下にはアスファルトで固められた駐車場。飛び降りたら、死ぬことは確実だった。
「ま、待てよ、犬山!」
「フフフ、川越も僕に死んでほしいと思ってるだろ? 良いよ、死んであげる」
犬山はもうフェンスの上まで到達していた。
「そんなことない! 戻ってこい!」
嘘だった。あわよくば、犬山に死んでもらいたかった。ひどいだって? それはひどいなぁ。誰だって、嫌いなやつ相手にはそう思うものだろ? 思っていないとしたら、君はまだ世界を、人間を知らないだけだ。
「嘘だ、そんなの嘘だ! 僕は、皆に嫌われているんだっ……!」
「お前、さっきまで将来の夢語って目キラキラさせてたじゃねぇかよ! あの輝きはどうした!? 政府の役人になるんじゃねぇのかよ!」
「あんなのはったりに決まってるだろ!? こんな僕に、政府の役人になれるわけないんだ!」
「んなのなってみなきゃ分からねぇじゃねぇかよ! お前は、そんなことで夢を諦めるやつじゃなかっただろ!?」
川越は必死で犬山を説得していた。しかし、第一の理由は目の前で人が死ぬのが怖かったからだった。少しだけ、少しだけ、あいつに死んでほしくなかった。直前に、そう思ったのが川越の甘いところだった。
「もう、良いんだ、ほっといてくれ! 僕は、独りで死ぬんだぁぁぁぁ!!!!!!」
犬山はフェンスから手と足を離した。
それからはスローモーションのようだった。犬山の顔が泣くように、醜く歪んだ。しかしすぐに再び歯を剥き出して笑っていた。我を取り戻したかのように。
川越はフェンスを掴んでいた。その視線の先には、足が所々で変な方向に曲がった犬山がいた。
「犬山! 犬山! 犬山ぁぁ!!!!」
川越は叫びながら駐車場への階段を駆け下りていった。私も後から追った。
犬山は生きていた。奇跡のような生命力だった。
「川越……。僕、生きてるよ……」
「ああ、生きてる。だから、これからも生きよう。えっと、百十番? いや、百十九番? って、俺今携帯持ってない!」
川越はパニックを起こしていた。
「糞、校則め! 犬山、俺、今から学校に行ってくるからな! 死ぬなよ!!」
川越はそう言い残し、走っていった。
雪が少なからず緩衝材の役割を果たしているようだった。恐らく、犬山が生き延びた理由はそれだ。
真っ白な雪には、犬山の血が染み込んでいた。その染みは脈々と広がっていた。
「……かわ、ごえ……?」
しかし犬山は気を失っていなかった。
「私ですか? 私は、通りすがりのじじいです」
「あれ、見間違いかな……」
「私は、未来からあなたを殺しにやってきました。あなたが死にたいと言うから」
「はい?」
「だから、殺します」
「え、待ってください。意味分からないです」
私はイライラした。
「だから、もう、私は老けた川越ですよ。私はね、高校三年生の時に君を助けたことを後悔しています。本当は君に死んでほしかった。未来でのあなたは、何になってると思いますか? 政府の役人ですよ? しかも、位の高い。それでまた調子に乗って、私を見下してるんです。何なんですかあなたは。学習能力ないんですか?」
「未来の川越……? は?」
さすがに瀕死の犬山にこの状況を理解する能力はなかった。
「ま、まぁ、そうだとして、さっきさらっと言いましたけど、さっきの川越の発言、嘘ってことなんですか?」
「ええ、もちろん。元々プライドが高く、しかも未来では成功を収めている私が、あなたのような政府の犬に馬鹿にされる筋合いはないですから。ということで、さようなら」
私は用意していた包丁を出した。犬山の顔が凍り付いた。
「い、嫌だ、殺さないでくれっ!」
「あれ? さっき死にたいとか言ってませんでした?」
「さっきのは言葉のあやというもので……」
「嘘は言っちゃ駄目ですよぉ、犬山君?」
私は犬山の心臓に包丁の刃を突き立てた。
犬山の悲鳴が響いた。しかし、悲鳴は雪に飲み込まれて誰にも届かない。
私は犬山に何度も刃を突き立てた。
私は返り血に塗れていた。
「ダーリン」
聞き慣れた声がして、振り返った。そこには、中村がいた。
「ハ、ハニー? 何でここに……?」
中村はフロッピーディスクを取り出した。
「前に研究所を見学した時、抜き取らせてもらったわ。そして、鳩組の技術を総結集してタイムマシンを完成させた」
やられた。そうとしか思わなかった。
「君も僕を裏切るのかい?」
「いや、裏切るのとはわけが違うわね。実はね、鳩組は殺害依頼を中心に請け負っているの。それのバックアアップ役として技術部があるんだけど、その技術力はあなたと同等レベルよ」
「殺害依頼か……。私を殺しに来たのかい?」
「ええ、犬山さんに頼まれて」
「あいつ、そんなことを頼んでいたのか。……用意周到だね」
「それにしても凄いわね。高校の同級生と、実験場所で感動の再会だなんて。彼、昔と変わらないわね。小さくて異様に目がキラキラしてるとことか」
彼女は死体となった犬山を見て言った。
「でも、今頃犬山さん、消滅しかけてるんじゃないかしら。過去の自分が死んだら、未来で存在するわけないものねぇ。……ああ、かわいそ」
彼女の言葉には感情が一切こもっていなかった。
「まぁでも? 前払いで報酬は貰ってるし、仕事はするわよ?」
「君は自分の愛す人を殺せるのか?」
中村は馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「ハハッ、愛する人? 私があなたのことを愛していたとでも? 馬鹿なの、ダーリン? 全ては仕事のために近付いたに過ぎないわ。自惚れないでちょうだい」
この言葉を聞いた時、私は全てを悟った。そして同時に、死ぬ覚悟ができあがった。
「そうか。ならば、殺すが良いさ。さぁ、早く」
「私もそうしたいところだけど、犬山さんの指定は未来で殺すこと。ここでは殺せないわ」
「なるほど? では、未来に戻ろうか」
私はここで希望を見出していた。彼女が鳩組制作のタイムマシンに乗ってきたのなら、それに乗って未来に帰る可能性が高い。私とは一瞬離れる。その間に、逃げる。
「何でついてくるんだい? 君には君のタイムマシンがあるだろう?」
「壊れたわ。あなたのタイムマシンに乗せなさい。逆らえば、その場で殺す」
私は偶然を呪った。
「川越さん、お帰りなさい!」
未来に帰ってくるなり、新川が叫んだ。
「ただいま帰りました、新川さん」
私と新川が感動の再会を果たしているというのに、中村はそれを邪魔してきた。
「挨拶してる場合じゃないわよ。犬山さんは?」
「それが、さっき、犬山の体が透き通って消えるという怪奇現象が起きまして……」
政府の役人が言った。
「やっぱりね。今からその理由を話すわ。心して聞いてちょうだい」
「川越さん、本当ですか?」
全てを聞いた新川が言った。
「はい、本当です」
それを聞いた政府の役人二人は少し後ずさった。
「ということで、今から川越を殺すわ。あなた達部外者は去ってちょうだい。他言無用よ。破った場合、殺しに行くから覚悟して」
それを聞いた政府の役人二人は急いで帰っていった。賢明な判断だった。
「いやぁ、驚きましたねぇ、川越さん。あなたに人が殺せるとは思いませんでした」
高野は動じていなかった。
「高野さんは私が怖くないのですか?」
「私にとって殺人なんて日常茶飯事ですから」
私と新川は固まった。
「それにしてももったいないお話だ。タイムマシンの発明者川越を失うということは、世界の科学の発展を妨げることになりますぞ、中村さん」
高野が言った。
「私にとって科学の発展の優先順位は下の下。関係ないわ」
「中村さんには関係なくても、私らには関係あるんですわ。我が鷹組にはね」
「話はチラチラと聞いているわ。でもあなた達が欲しいのは川越ではなく、川越のアイデアと技術力。それは、鳩組と提携すれば手に入るわよ」
中村は再びフロッピーディスクを取り出した。
高野はニヤリと笑った。
「それもそうだ。それがあれば、川越さんは用済みです」
高野の目は冷酷な光を宿していた。
「では、川越を殺しにかかります」
中村が事務的に言った。その時だった。
「ちょっと待ってください! 何二人共川越さんを殺すことで同意してるんですか! 川越さん、警察に自首してください。生きて罪を償ってください。川越さんが戻ってくるまで、私、ずっとここで待ってますから!」
新川が私の前で手を広げ、庇ってくれた。
「うるさい、新川さん、邪魔よ! どきなさい!」
中村は拳銃を構えた。カチャリと音がした。
「新川さん、邪魔はいけませんなぁ」
高野はそう言って、新川を引っ張った。新川はフラッとよろけた。
私は、いきなり自分が死ぬことを予期させられ、色々な感情がごちゃ混ぜになっていた。
「お、俺は死ぬのか? 待て、待ってくれ。ちょっと落ち着こう」
「うるさいわよ。黙って死になさい」
「いや、待てよ、俺はまだ死にたくない! 俺はな、世界が認める科学者だぞ! お前らの命より、何十倍、何百倍の価値があるんだ!」
「あんた、やっと本性出したわね。川越たん、今まで本当の自分を隠してきて、辛かったでちゅかー?」
中村は楽しそうだった。
「さようなら、川越たん」
「良いか、覚えておけよ。中村、絶対にお前を呪ってやるからな。俺を殺したこと、後悔させて……」
パァン。乾いた銃声がした。
「呪いですって。科学者の台詞じゃないわ」
「では契約をしましょうか、高野さん」
「いや、その必要はありません」
「は?」
「鷹組は顧客以外との契約を結ばない主義でしてね。だから、契約は必要ないんですよ」
「だって、このデータ、あなた達が喉から手が出るほど欲しがってるデーでしょ? それがいらないとでも言うの?」
「いや、いりますよ?」
「じゃあ……」
「中村さん、死んでください」
高野は中村の腹にナイフを突き立てた。中村は後ずさった。中村から鮮血が噴き出る。
「そういうことね。分かったわ。そっちがその気なら、こっちも本気出すわよ」
中村が拳銃を取り出した。
「そうよね、私達は敵対関係。お互いに潰し合う機会を伺ってきた。契約なんてしないわよね」
中村は不敵な笑みを浮かべた。
「残念だわ」
銃声が響く。弾は高野の脳天を貫いた。高野は即死した。はずだった。
「なっ……! 何で、まだ生きてるの、動いてるの、私を殺そうとしているの……!?」
「これが、鷹組の執念ってやつだ、覚えておけ」
高野は中村の喉を掻き切った。
「うっ……ごりゅっ……」
中村が天井を見た。焦点は合っていない。
「ぐわぁぁぁぁ!!」
高野が叫んだ。彼の手は脳天を押さえていた。
「ヒュー、ヒュー」
中村は喉をやられて、声が出ない。
「中村、あんたの狙撃の腕……認めるぜ」
二人は同時に倒れた。
私は既に死んでいる。
私の人生の最後は裏切りの連続だった。そんな中、最後まで庇ってくれた新川。彼に、お礼を言わずに死んでしまったことが悔やまれる。私は、新川だけは信じていた。今も信じている。君達も、愛している人や友達に裏切られても、決して人生を諦めないでほしい。誰か一人、絶対に信じることが出来る人に出会えるから。
私自身、今君に語りかけている自分が何なのかはよく分からない。思念体かもしれない。霊かもしれない。それとも、ただの私の幻想かもしれない。ただし、ここに、過去を振り返り、懺悔している川越翔がいることは確かなのだ。それは信じてほしい。事象が、科学的であっても、非科学的であっても。
新川は数台のコンピュータを前にしていた。
「よし、鳩組のコンピュータにハッキング完了。それで、これをこうしてこうして……タイムマシンデータ削除っと」
新川は足を組んだ。
「皆馬鹿だよねぇ。殺し合っちゃって。全部、私が仕組んだことなのに。私の手の平で踊ってたに過ぎないんだよ? 川越も、中村も、高野も、犬山も」
彼は立ち上がって窓を開けた。空は曇っていた。しかし、雲の切れ間からオリオン座だけは見えた。
「うーん、オリオン座が綺麗だねぇ。川越さーん、私のこと見てますかー? 何ちゃって。あの面子の中でも一番川越が馬鹿だったなぁ。最後まで私のことを信じ切っちゃってさ。今頃、あの世で
”新川さんだけは信じていました。私と新川さんは信頼し合っていたんです”
とかほざいてるんだろうな。んなわけないっての、アヒャヒャヒャヒャ」
その時、新川の視界を白いものが通った。
「お、雪だ。ホワイトクリスマスじゃん。サンタさんに何頼もっかなぁ、アヒャヒャヒャヒャ」
オリオン座は雲に隠された。オリオン座は、抗うように一際明るく輝いた。
「信じられるのは、自分一人だけに決まってるだろ? 他人なんて、裏切る『もの』に過ぎない」