夜が明ける理由
女神のキスで目覚めたかった。
徳も恥もなく、無味乾燥な人生を生きているような私だ。だから彼女とは交わる事はこれからもきっと無いだろう。
彼女はとても美しかった。しかし、美しいという言葉だけで、彼女を表す事は出来ない。可憐で、優美で、秀麗で、妖艶な、そして儚げなと、こんな言葉をいくら積み上げてみても彼女の百分の一も表せてはいないだろう。
私の手の中にあるのは空で、彼女の瞳の中にあるのは光だ。それだけで、私たちの距離はわかってしまう。きっともう二度と交わる事はない。
もう二度とである。
「あの、落としましたよ」
彼女は私にそう声をかけた。
「あ、すみません」
彼女が持っていたのは私の財布だった。彼女は少し息が上がっている。走って来たのだろうか。
「ありがとうございます」
私はそれを受け取った。美しい女性だと思った。
「ワンちゃんを飼われているんですね」
彼女はそう言って微笑みかける。財布の中に入れていた犬の写真を言っているのだろう。
「ええ、まあ」
しかし、それは嘘だった。この写真の犬はもう六年も前に死んだ。目も脚も悪くなり、それはとても静かな最期だった。
「なんてお名前ですか?」
「ぴろです」
ぴろは芝犬だった。一応血統書は付いていたが、噛み癖がずっと治らない犬だった。
「ぴろ?可愛い名前ですね。何か意味はあるんですか?」
彼女の笑顔は正しかった。それは正義に近い。私はそれに晒されながら「特には」と答えた。
ぴろという名前に意味はない。ただ語感が良かったし、呼んでいればぴろという感じがした。
私にも名前はあるが意味はわからない。それは親がこう付けたという意味ではなく、私が呼ばれる名前の意味である。
「私もワンちゃんを飼ってるんです」
そう言って彼女はスマホの画面を私に見せた。ギョロ目がちなスピッツだった。白い毛並みはふわふわとしている。
「スピッツですか。可愛いですね」
私はそう答えた。これは本心だ。
「わかりますか。もうおばあちゃんですけどね」
彼女は屈託のない笑顔を見せた。
これが私たちに交わされた言葉であった。それ以来、彼女の姿さえも見ていない。もしも彼女にもう一度会うことが出来れば、私の人生は変わるだろうか。いや、おそらくそれはない。私の人生は誰かの人生を豊かにするほど、自らの人生を認めてはいない。
私はまた犬を飼い始めた。
今度もまた芝犬である。名前はコロにした。これもさして意味はない。なんだかコロという気がしたからだ。コロは大人しい犬だった。
もしかすると、もうこの街に彼女は居ないのかもしれない。
それを知る方法さえも、私にはなかった。
されど、夜は明ける。




