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逃げる?

昨日が来る。昨日は今日は犯し、そのうち僕たちの明日を奪って行く。いつからこうなったのかは、誰にもわからない。なんでも、数年前アフリカの地層が隆起したのを発端に、この世界から突如ハトが居なくなり、静かな夜が誰のものでも無くなった時、アメリカの研究団体がある装置を開発したと言う。それは恒常性フィルムと言うものだ。はっきり言って何のことだかはわからない。ただ、透過性の強いこのフィルムをオゾン層の数10cm下に設置し、地球を覆ってしまおうと言う計画らしい。それで人類は救われるのだ。そうニュースで言っていたのを今でも覚えている。

しかし、人類はまだ自分たちの手で自分たちを救えるほど有能ではなかった。恒常性フィルムの効果は、自分たちが思っているほどはるかに大きかったのだ。

時間が後ろから追って来た。

おおよそメソポタミア辺りからの時間が逆流し、様々な時代を飲み込みながら大きな波として現代を襲おうとしているのだ。過去は時間を規定するだけの遺物ではない。ピラミッドがパラパラと砂のようにこの世から消え、パルテノン神殿は巨大な石の塊に変わり、ピサの斜塔は垂直に戻った。

アメリカの研究団体は莫大な費用を使って設置した恒常性フィルムを更に莫大な費用をかけて外したが、時間はもうすでにそこまで迫っていた。

とうとう、人間が消え始めたのだ。

僕たちの遥か上の世代、曽祖母や曽祖父にあたる人間たちが忽然と消え始めた。老人ホームは無人となり、年金は唸るほど余った。しかし、政治家たちがこの世から消えた時、世界は本当の恐怖に襲われた。僕たちはどうなってしまうのか。それは、ただの中学生である僕たちの誰にもわからなかった。

「ハル、今日はどんな調子?」

「空は穏やかだよ。雨も下から降ってない」

ユキは少し不安そうな顔をした。

「どうしたの?ユキ」

「逃げない?ここから」

ハルは戸惑った。

「逃げる?どこへ?」

「ここじゃないどこか」

どこか。そう聞いてハルは何も思いつかなかった。この世界に逃げる場所などあるのだろうか。

「私、もう嫌なの。毎日時間に怯えながら過ごす生活」

「でも、これは残された僕たちの仕事じゃないか」

「これが?」

ユキは呆れたような表情を見せた。

この施設は僕たちの上の世代にあたる高校生たちが守ってきたもので、その高校生たちは更に上の世代である大学生たちから譲り受けた。元々は慶應大学と呼ばれていた学校らしいが今は気象や磁場を観測し、分析する施設となっている。この世から何かが消える時、この世界に何らかの空間的な歪みが生まれる。それをいち早く見つけるのだ。

「でも僕たちがこの世界を見守っていないと……」

「見守っていないと何?」

「え?」

「世界はどうなっちゃうの?どうにもならないわ。そうでしょう?この施設は時空の歪みを発見してそれを消し去るために出来たのよ?」

「それは……」

「でも結局それは誰もできなかった。誰もできないまま、みんな消えちゃったじゃない。それで、私たちにそんな知識がある?」

僕たちはまだ本当の意味でも世間を知らない中学生だった。ハルは返す言葉がなかった。これほどまで、彼女が追い詰められていたなんて思わなかった。

「ごめん」

「何が?」

ユキは泣いていた。

ハルはなんでも無いと言った。

人間は弱い。何者よりも弱かった。

「逃げよう」

「え?」

「ここから、そうだよ、逃げるんだ」

「本当に?」

僕ら二人で。

ハルはユキの手を取った。研究室の扉を押し開けるとモリが驚いたような顔をした。

「どこ行くの?」

「どこかへ!」

ハルは気分が良かった。ユキも、笑っていた。

外へ飛び出すと太陽が僕たちを照らしている。カラスが一匹雲の中に入ると出てこなかった。また一匹この世界から消えた。

「行きたい所は?」

ハルは聞いた。ユキはもう泣いていなかった。ただ、少しだけ赤らんだその瞳が彼女が過去にいた証だった。

「どこへでも!」

二人は手を繋いだまま走り出した。草木が茂るアスファルトに、二人の足音が小気味良く鳴った。

「ハル!」

ユキは叫んだ。

「大人になったら、結婚しましょう!」

もちろん答えはイエスだった。

僕たちは結婚するその日まで、この迫り来る時間から必ず逃げきってやろうと思った。


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