白銀の妖精
「マスター、マスターお目覚め下さい!」
少し焦ったような聞き慣れた声が耳に響く。それが誰であったか、名前は出てこないというのに確かにここ最近毎日聞いていた声であるという確信があるから不思議なものである。
「転移の影響が想像以上だったのでしょうか?マスターの場合、通常より長い期間をかけて慣らしたはずなのに、どうして……」
声に悲壮なものが混じり始めたのを感じて、泥酔した時のような酷い酩酊感に襲われながらも、瞬はどうにかこうにか目を開く。すると、目に入ったのは目に涙を浮かべた白銀の妖精であった。
「ああ、マスターお目覚めになられたのですね!このミユキ、一日千秋の思いでこの時を待ちわびておりました」
喜色満面の笑みを浮かべて、その小さい体を瞬に摺り寄せた。
「ミユキ?……!」
どこかで聞いた名前。そして、白銀の長い髪をポニーテールにしてた髪型に白磁の如き白い肌、透き通った2対の羽に人ならざる者特有の美貌。それは瞬がエティア英雄譚において、師の一人から与えられた使い魔というか、案内兼説明役だ。自分で説明するのが面倒になると、彼女に丸投げする師が居たのだ。なので、いわゆるナビゲートピクシーという奴だと瞬は思っていたのだが。
―――――いや、待て。なぜゲームの中のNPCが目の前に実在しているのだ!
ミユキの体から伝わる確かな感触と体温から、そんな根本的な疑問に辿り着き、瞬の混乱は頂点に達した。そも、ゲーム画面のキャラクターに溶かし込まれるなどというトンデモ体験だけでもお腹一杯だったのだ。そこにゲームのキャラクターが実在していましたなど、到底受け容れられる事実ではない。
「?!……!!!?」
そんな瞬に美雪が焦った様子で何かを言っているが、今の瞬にそれを斟酌してやる余裕はなかった。今はただ考えを纏め、現状を正確に把握しようとするのが、彼の精一杯だったのだ。
「!!……!!、!?―――――《解放》」
それは瞬なりの自己防衛だったのだが、無視して一向に取り合おうとしない主に流石の忠実な妖精も焦れたのだろう。最後には、何か覚悟を決めた表情をして、力ある言葉を口にした。不思議とその言葉だけは、瞬にも認識することできた。
しかし、次の瞬間瞬はそれどころではない状態に陥った。
「なっ!?」
まるで堤防を破った洪水の如き怒涛の勢いで解放される記憶の潮流。それは絶世の美女との出会いに始まり、ミユキを与えられたこと、美女をはじめとした五人の師に教えを受けたこと。それらはゲームの中の出来事などではなく、実際にこの身で受けたことであったことなどが、欺瞞に満ちたゲームのプレイ記憶と置き換えられていく。その凄まじさに瞬は頭を抱えて呻く。
「マスター、どうかご辛抱を。全て思い出されれば、苦悩されることもなくなります」
ミユキが沈痛な表情でそんなことを言うが、当の瞬にはなんの慰めにもなりはしない。元々あった酷い酩酊感に加え、割れるような頭痛である。いくら我慢強い瞬であっても、耐えられるものではなかった。膝を折り、蹲る。男の意地で泣き喚きはしないが、のた打ち回って絶叫したいのが本音であった。
「どうして、こんな?いくらなんでもおかしすぎます!世界移転の影響だって、マスターなら殆どないはずですし。《解放》の影響もここまであるなんて!?」
予想外の事態に狼狽するミユキ。引き金を引いた彼女とて、これ程の影響があるなど予期していなかったのだから仕方がないだろう。
だが、瞬の苦しみは当然である。なぜなら、世界移転の際にグラーシャ・ラボラスが『殺戮の才能』なんて余計なものを付け加えたからだ。おかげで慣れているはずの世界移転の影響をモロに受け、後付されたもののおかげで術式がグチャグチャになった《解放》によっる激痛を味わっているというわけだ。いや、むしろ激痛で済んで良かったというべきかもしれない。下手をすれば、全記憶が吹き飛ばされて廃人になってもおかしくなかったのだから。洒落にならない痛みはあっても、術式が正常に動いているだけましと言えよう。
当然、そんなことを黒と銀の主従は知る由もない。主である瞬は激痛に苛まれ、必死にそれを耐え忍ぶほかなく、従者たるミユキは自責の念で押しつぶされそうになりながら、蒼白の表情でそれを見守るほかなかった。
結局、それは六時間余りにも及び、どうにか最後まで耐え切った瞬は、疲れ果てて意識を失うのだった。
日も暮れて夜も更け、日が昇ろうというところで、ようやく瞬は目を覚ました。
「うん?ここは……。はあ、やっぱり夢じゃないわけね」
地べたで寝ていたせいだろう。体の節々が痛むのを感じる。その痛みがこれが現実であると明確に訴えてくる。何よりも、怒涛の如き勢いで刻まれた記憶の中の知識が現状を明確に説明していた。
「ここが魔と神秘の世界エティアというわけか」
今度はその事実をすんなり受け容れることができる。元より師達はその為に瞬を鍛えていたのであるし、瞬の突飛な構想に賛同して協力してくれたのだから。
「まさか、自分自身が暗殺者になる羽目になろうとは―――――頭のどこかで現実だって認めていなかったんだろうな」
周りを見回せば、湖とそれを取り巻く深い森が目に入る。どうやら、瞬は湖畔にいるらしかった。魔物にも獣にも襲われなかったのが不思議だったが、すぐに答は出た。
「これは《守護結界》か。ミユキの仕業だな」
瞬を円形に囲む光のヴェール。意図的に見ようとしなければ、見ることも触ることもできないという妖精得意の《守護結界》である。このおかげで外敵を気にすることなく眠りこけていられたわけである。
「で、その肝心のミユキは?」
「マ、マスター!目を覚まされたのですか!?」
噂をすれば影。声に驚いて振り向けば、重そうに身の丈以上の木の実がついた枝を運ぶ白銀の妖精がそこにはいた。妖精は食事をする必要がないので、恐らく瞬の為に探してきたのだろう。
「お、おう。それよりこの結界を張ってくれのはミユキだろ?ありがと「申し訳ありません!」…なって?」
瞬の感謝の言葉を遮るようにミユキが叫ぶ。地に伏し頭をこすり付けんばかりに瞬に詫びる。
「まさか《解放》の影響があれほどとは夢にも思いませんでした。全てはこの身の不徳の致すところでございます。護るべき主を護るどころか、危険に晒すなど許されることではありません。かくなる上は!」
自害しますと言わんばかりの白銀の妖精に漆黒の青年は頭を掻いた。「うわ、面倒なことになった」というのが本音だったが、自分を思ってのことだと思うと、真面目に取り合わないのは気が引ける。それにこの生真面目な銀の従者にいい加減な対応は悪手であると、瞬は共に過ごした三年で学んでいた。
「ああ、気にするな。俺も想定外だったし、あんなことになるなんて誰にも予想できん。そもそも、俺が混乱して、お前を無視していたのが悪いし、あそこで《解放》を使うのは正しい対処だった」
「しかし!」
「しかしもかかしもない。お前に否はない。それに多分だが、これは《解放》が原因ではない」
「えっ、どういうことですか?」
「さあな、自分でも説明できないが、なぜだかそんな確信がある」
「そうですか……。まあ、天上の方々は悪戯好きの方が多いですから、どなたかが悪ふざけなされたのかもしれないですね」
「ああ、それは大いにありそうだ。なにせ、ソロモン72柱の悪「いけません、マスター!」……ああ、そうだったな。すまん、ありがとう」
「いえ、お気になさらず。マスターが居た世界ではそうだったのですから、仕方がないことです。ですが、これからはお気をつけ下さい。この世界の創造神たる方々を悪魔呼ばわりなどしたら、ただではすみませんから」
「ああ、気をつけるよ。そうだな、この世界でこれから生きていくんだものな」
この魔と神秘の世界エティアにおいて、現世でソロモン72柱として知られる悪魔は創造神として崇められている。これは嘘でもなんでもなく、エティアは72柱によって作られた世界なのである。瞬も知った当初は驚いたものだが、旧約聖書がウガリット神話の英雄神『バアル・ゼブル』を『バアル・ゼブブ』と嘲笑し、最終的に悪魔に貶めたように、時と場所が変われば神は悪魔にもなる。その逆もまた然りなのだと納得した。
「ええ、それに御身に加護を与えられたあの方も気を悪くされますよ」
「そうだな、心しておく」
そう言って、左手の手の甲を見れば、そこには不可思議な紋章が刻まれていた。あの絶世の美女の加護を示す紋章である。それはエティアにおける最高クラスの身分証明であり、同時に力持つ者の証である。この世界に招かれた『外来人』には、必ず72柱のいずれかのものが刻まれるのだ。
「えーと、師匠が餞別に渡してくれたあれがあったはず」
腰につけられた魔法のポーチを探る。RPGでよくある何でも入る容量無限の魔法の袋と同じ類のものだ。といっても、実際には無限に入るわけでもないし、それなりの制限もあるので、ゲーム程便利なものではない。その中から漆黒の手甲を取り出すと紋章を隠すように身につける。
「やはり隠されるのですか?」
「ああ、祀り上げれるのは御免だし、なるべくしがらみは少ないほうがいいからな。ミユキは不満か?」
エティアでは、創造神である72柱の紋章を与えられた者を『紋章者』と呼び、『加護持ち』の中でも特別視される存在だ。瞬の言葉は大げさでもなんでもなく、紋章を堂々と晒して歩いていたら、たちまちに神の使いとして祀り上げられてもおかしくないのだ。
「いえ、マスターがそう決められたのなら、私に否はざいません。しかし、そうしますと、金策の必要がありますね」
「世界が変わろうと必要なのは金か。世知辛いな……。
ちなみに今持っている路銀だと、どのくらいもつ?」
「そうですね、都市の通行税を支払って、普通の宿で一週間すごしたらなくなる程度の金額です」
「そうか、ならまずやるべきことは決まったな。一心不乱の金策だ!」
「紋章を隠さなければ本来必要ないのですが……。いえ、マスターの選ばれた道です。これ以上は何も言いません」
そういいながらも、白銀の妖精の顔にはありありと不満が浮かんでいた。ミユキは自身の主が必要もないのにあくせく金策に励むなど納得できなかったからだ。彼女は、主にはもっと相応しい仕事があると思っていた。
「まあ、許せよ。折角の異世界だ。自由に見て回りたいんだよ」
頭を掻いて瞬は軽く詫びる。とはいっても、前言を覆す気はさらさらない。折角の異世界である。溢れる未知を体感したいというのが、彼の偽らざる希望であったから。
「分かっています。どうせ、マスターはこうと決められたら、私の言うことなど聞いてくださらないのですから」
少し拗ねた様にそっぽを向くミユキ。その頭を労わる様に撫でて、瞬は立ち上がる。
「ここから一番近い人里は?」
「自治都市グランフェリアですね。歩いて三日といったところでしょうか」
「そうか、じゃあ気合を入れて歩くとしよう」
「はい、そうですね……あっ!」
「どうした?」
「いえ、忘れていました。これだけは必ずやれと言われていまして。私自身もやるべきだと思いましたので、少し時間を頂けますか」
「ああ、構わないが……一体何が?」
「今少しお待ちください。(そうです、これを忘れたら、何の為にここに降ろしていただいたのかわからなくなりますからね)」
そうして、しばしの時間が経ち、ちょうど日が昇ろうというところで、湖と昇る日をバックに白銀の妖精が空を舞う。それは現実には現世ではありえぬ幻想的な光景であった。そして、確固たる幻想へと瞬を誘う導き手たるミユキが満面の笑みを浮かべて、口を開いた。
「ようこそ、魔と神秘の世界エティアへ!この世界を代表して貴方様を歓迎したします!」
瞬は一瞬ポカンとした後、満面の笑みで返す。
「ああ、よろしく頼む!」
そうして、瞬は異世界の第一歩を踏み出したのだった。




