片鱗 後編
魔象が攻撃を突然止めると共に四肢に力を込めたのが、なぜだか瞬には分かった。相応の距離があるというのに、手に取るように相手の心情が透けて見える。その自らを滅殺せんとする意志の下、魔獣化によって漆黒に染まった象牙の切っ先を向けられ、背筋に冷たいものが流れる。
「ミユキ、後は言った通りに頼む」
「承知しました!」
またぞろ首を出そうとする震え虫を半ば叫ぶように言うことで押さえつける瞬。ミユキの打てば響くような返答がそれを助ける。そんな白銀の妖精に内心で感謝しながら、配置につこうとするが、事態はそれを最後まで待つほど甘くはなかった。
漆黒の牙を突き出し明確な殺意を持って、怒涛の勢いで突撃してくる魔象。そのスピードは今までの比ではない。20メートル程の距離が瞬く間に埋められる。
「チッ!」
瞬はその予想外の速度に舌打ちしながらも、大きく横に跳躍して難を逃れる。およそ10メートルを一足に駆ける異常なまでの脚力は、マナによる強化の賜物である。幸い速度が速度だけに、さしもの魔象も、止まることも進路変更も早々にできない。見事魔象の突撃をやり過ごすことに成功する。
しかし、その一方で瞬は魔象が轟音を立てながらも止まり、こちらに向き直っているのを視界の隅で認めていた。
(次撃はすぐに来る!一刻の猶予もないか)
瞬時にそう判断し、次いで勝つための手を迷いなく打つ。水田に手を突っ込み、泥を素早く掬いあげる。
「ミユキ来い!」
「はい、マスター!」
言うが早いか、ミユキは瞬の懐に潜り込む。そして、ある物をいつでも持ち出せるように掴む。
「用意はいいか?こいつは気取られたら終わりの一発勝負だ。俺の命、お前に預けたぞ!」
「お任せを!マスター、どうか御武運を!」
「応!」
瞬は力強くそれに応えると泥を球状に固めて手に持ち、再びこちらに向けて突撃を始めた魔象を見据える。
(完全に俺を殺す気だな。だが、望むところだ。むしろ、俺にとって今の状況の方が都合がいいからな。)
瞬は客観的に絶体絶命の状況に見えるが、実のところそうではない。確かに、かすっただけでも重症間違いなしの即死級攻撃である魔象の突撃は脅威である。直撃すれば、象牙に当たらなくても全身の骨を内臓ごと粉砕されるだろう。
だが、それは先程の鼻による攻撃も変わらない。直撃した時の威力は間違いなく突撃の方が上だろうが、鼻による攻撃であっても直撃すれば充分致命傷である。いや、むしろ変幻自在で避けにくいという意味では鼻による攻撃の方が瞬には厄介である。あのまま続けられていたら、間違いなく捕らわれていただろうから。
突撃もいつまでも避けられるものではないのは変わらないが、魔象自身が動いてくれるというのが助かる。瞬が今狙っていることは、そうでなければいけないのだから。賊には魔象を動かすことに専念してもらわねばならないのだから。
再び怒涛の勢いで魔象の突撃が繰り出される。行く道を塞ぐ全てのものを薙ぎ倒しながら向かう様は、嵐の中の濁流の如し。その流れに巻き込まれれば、二度と浮かぶことはかなうまい。そんな事を思いながら、なるべくギリギリに見えるように瞬は必要の無いほど大きくかわす。
恐怖からの無駄な動き――――――追い詰めていると誤解してくれるように……。
しかも、回避しているとはいえ、タイミング的にギリギリを狙って避けているせいで、完全に回避しているとは到底言い難いのが実情である。突撃こそ受けていないが、突撃に伴って吹き散らされる土砂と木片は流石に避けようが無く、全身を容赦なく叩かれるのを耐えねばならなかった。長旅にも耐えうる丈夫な生地で作られた服であったが、ところどころが破れ、露出した肉体には無数の傷がつき、全身が泥塗れなのもあって、満身創痍というに相応しい風体であった。
「マスター、目標地点まで後一足です!」
「よし、ここで奴を待ち構える!」
ミユキの言葉に瞬は覚悟を決めて足を止め、魔象と正面から向き合うのだった。
最早、用無しとなった新人傭兵を一方的に甚振り、これまでの鬱憤を晴らすかのように男は存分に痛めつけていた。存外粘られたものの、標的である新人傭兵はボロボロだ。すでに状況は決したと男は判断していた。後は速やかに新人傭兵を始末し、援軍が来る前に白銀の妖精を確保して逃げてしまえばいいだけだったからだ。
つまり、ものの見事に瞬の擬態に騙されていたわけだが、それで男を責めるのは酷であろう。何も知らない第三者から見れば、
「うん?なんだ諦めたのか――――――つまらん、もっと足掻け!最期まで無様に踊っていれば良かったものを。綺麗に死にたいとでもいうのか!」
折角いい気分で嬲っていたというのに、瞬が覚悟を決めた表情で立ち塞がるように足を止めたことで、水を指された気分になったのだ。男は不機嫌も露わに吐き捨てる。貴族籍を奪われ祖国を追放された男にとって、その表情と在り様は酷く癇に障ったのだ。
片や我が身を省みずに従者である妖精を逃がそうとした黒髪の新人傭兵。片や一旦、主の意を汲んで逃げたものの、やはり主を見捨てられずに戻ってきた白銀の妖精。それは結果的には無駄な行為だったが、美しい主従関係のように見えた。誤解もいいところなのだが、男にはそう思えてしまったのが問題だった。
それは男の記憶の中のかつて故郷で自分が築いていた主従関係と重なり、それがもう二度と戻らないことに改めて気づかされてしまう。漆黒と白銀の主従の在り様は、今の己との落差をまざまざと見せつけられているように感じられたのだ。知らず知らずの内に、男は奥歯を割れんばかりに噛み締めていた。
従者である妖精を庇い、最後まで抵抗を諦めない。その在り様はまるで――――――、ではその対極である己は――――――!!
結論に至ろうとしたところで、男は強引に思考を打ち切った。そして、己に言い聞かせるにように叫ぶ。
「違う!私は正しいのだ!これは祖国の為の崇高な実験であり、私の行いを批難する者達の方こそが間違っているのだ!」
最早、その顔に先程までの余裕はどこにもない。あるのは目を血走らせながらも己は正しいと必死に己に言い聞かさせる弱弱しい言の葉だけだ。
なまじ元エリートであったことが災いした。なんのことはない。男はアインに負けず劣らずのプライドの持ち主であったのだ。男は自分こそが完成した完全なる『魔侵筒』をもって祖国に凱旋する英雄となることを夢見ていたのだ。それに必要であると思い込むことで、『祖国の為に』という大義名分の下で彼は己の非道や違法行為を誤魔化してきたのだ。
なぜなら、男は全てを奪われたとはいえ、元貴族で故郷には家族も思い入れもあったからだ。男は国も家族も捨てたくて捨てたわけではない。強引に奪われ捨てざるをえなくなったのだ。故にそれを取り返したいと願うのは当然の帰結であった。
ただ、その方法はどうしようもなく間違っていたというだけで……。
だが、そんな欺瞞を男の中に僅かながら残っていた正気が暴いていしまった。己は英雄などではない。違法行為に手を染め、禁忌の研究に没頭する狂人だと。瞬とミユキの在り様に触発されて蘇った記憶によって一時的に戻った正気は、そんな風に男自身を客観視させてしまったのだ。己が紛う事なき悪である自覚してしまったのだ。
故に、男は精神の安定を保てずに狂うしかなかった。男が自身を正当化できたのは、欺瞞であれ大義名分があってこそのものだったからだ。それが崩されては、最早妄想もいいところの狂気の夢に浸る以外選択肢は無かった。
「妖精、そうだあの白銀の妖精だ!あれさえ手に入れれば……そうだ、お前が、お前がいるからー!お前ははもういらないんだよ!」
男は必死に狂気の夢をつなぎ合わせ、自身の精神を崩す原因となった瞬に全ての責任を押し付ける。
「そうだ、お前が悪いんだ!殺してやる!死ね!」
最早、白銀の妖精のことなど頭から消えている。瞬への殺意に全てを塗りつぶされた男は、魔象との同調を極限まで高め、その狂気のままに瞬を殺さんとして、出鼻を挫かれた。
「なっ!?」
突如、男の視界が暗闇に包まれたのである。いや、正確に言えば、男が同期している魔象の視界が闇に包まれたのであった。
懲りもせずにどす黒い殺意と共に突撃してくる魔象だったが、無様な回避を続ける間に観察は終了している。瞬からすれば、突撃状態にある魔象は最早丸裸にも等しい。速度も想定内、コースは微妙にずれているので、こちらでうまく誘導する。幸い、余程頭に血が上っているのか、それとも擬態にまんまと騙されているのか定かではないが、こちらの不自然な動きに気づいた様子は無い。
そうして、俎板の上の鯉となっていることも知らずに突っ込んでくる魔象に対し、瞬は両手に持った泥玉を魔象へと投げつける。何の脅威にもならぬはずの泥玉であったが、どちらも寸分違わず魔象の眼へ命中する。
突如視界を奪われた魔象は完全に瞬を見失い、その様を不敵に笑う瞬の横にそれてしまう。
種は簡単である。本来、眼には角膜にものが触れると閉じる角膜反射がそなわっているのだが、視界同期の術により眼球の制御を任せていた魔象には反射を起こすことができなかったのである。その為、泥玉をまともに喰らってしまったというわけである。
とはいえ、これは賊と瞬が象の生態を良く知らぬが故に起きた事故でもある。象はあまり首を回すことが無く視界が狭い。その上、色が見えず、焦点を合わす事も苦手であり、彼らに見えているのはシルエットとかすんだ青緑色のみなのだ。その代わりに脳の60%の機能は臭覚が占めているのだ。つまり、元より象は視覚に依存していない生物なのだ。それにもかかわらず、自身の延長で魔獣化してかなりましになったとはいえ、視力に乏しいことには変わりは無い象の眼を頼ってしまったことが賊の最大の失敗であった。野生動物は飼育法や狩猟法を除けば、調査研究の対象に為り難い。野生動物の生態系を専門にしているでもない限り、象の生態など知る由も無いというエティア特有のあり方が裏目に出ていた。
賊が操っていたときよりも、魔象自身が動いていたときの方が正確で鋭敏だったのも、前者が視覚だけしか使っていないのに対し、後者は嗅覚をはじめとしたそれ以外の感覚も使っていたのだから、当然の話であった。
ただ、賊と瞬との明暗を分けたものがあるとするならば、それはやはり情報の差である。勿論、運が良かったのも否定はしないが、それ以上に彼は現代日本における現代教育と情報化社会の恩恵を受けていたが故だ。角膜反射をはじめとしたちょっとした知識や、象の生態などの雑学を容易に手に入れることができた。瞬も象が視力に乏しいなど知らなかったが、象の鼻が重要な器官であることは知っていた。
故に視界を奪っただけでは油断しなかった。
瞬の横を通り過ぎて、それなりの距離をいたところで魔象は止まり、鼻で器用目に付いた泥を剥ぎ取っていく。内心でうまいもんだと感心して見ていたが、魔象が再びこちらに向き直る。怒り心頭といった様子である。どうやら今回は操っている側ではなく、魔象自身の怒りのようで、獅子すらも近づけないという内に秘められた凶暴性を全開にしているようであった。
瞬はすかさず駆け出すが、猛追してくる魔象。その勢いは先の突撃をも凌ぐ勢いであった。こっちを完全に標的にしているあたり、どうやら操られていても誰にやられたかは理解しているらしい。象が頭がよくやられた相手を憶えているというのは嘘でもなんでもないらしい。
「よし、狙い通り!」
全力で逃げをうちながらそんな風に言ってみるが、額に滲む生暖かい汗がそれが強がりでしかないことを雄弁に語っていた。
「マスター、後ろです!」
ミユキの警告に振り返ることなく、瞬は横に跳ねる。次の瞬間、槍の如く突き出された魔象の鼻が先程までいた空間を貫いていた。もし、あのまま走り続けていたら直撃していたであろうそれが戻っていくのを横目で観察しながら、思わずあげそうになった悲鳴を呑み込む。恐ろしいことに操られている時とは異なり、今の魔象は突撃している間も鼻を使えるらしい。
(普通、操られている時の方が強いのがお約束だろ!?素の方が圧倒的とか、どういうことだよ!)
頭のいい野生動物だというのは瞬も知っていたが、まさかこんな形で実感することになろうとは夢にも思うまい。
だが、そのおかげで瞬は確信できた。今現在、明らかに魔象は賊のコントロール化にないと。でなければ、ここまで明確な差異は出まい。元より賊側に手加減する理由などないし、実力を出し渋る時間的余裕も無いのだから。
「やるなら今しかない。ミユキ、頼む!」
「分かりました。くれぐれもお気をつけ下さい!」
瞬の懐からミユキは許可証を抜き取り、そのまま上空へと退避する。
次の瞬間、瞬の姿は結界内から消え去った。魔象はかわらず、まるでそこにまだ瞬が存在しているかのように走ることをやめない。それは当然の話であった。
なぜなら、瞬は本当に消えたわけではないからだ。その証拠に妖精であるミユキの眼には、魔象に追われる瞬の姿がはっきりと見えている。結界による認識阻害と排除の結果、常人にはそう見えるに過ぎない。
ミユキは万が一の場合を考えて、結界内に残るように厳命されている。後は主次第である。最早、ミユキにでることは何も無い。
「マスター、どうかご無事で」
それでも白銀の妖精は祈る。ただ、一心に主の無事を……。
「くそっ、してやられた!」
男は歯噛みしていた。視界を潰された影響で動揺して、魔象との視覚同期が断たれてしまったのだ。最早、男に結界内部の様子を見ることはできない。後はできる事と言えば、魔象を操ることだけなのだが、それも現状ではうまくいかない。魔象は明らかに激昂しており、それ故か肉体の主導権を奪うことができないのだ。幸い、その対象は新人傭兵であるので、奴を害する目的で単純な命令であるならば、ある程度聞いてくれるのが救いだった。
「奴をこの手で殺すどころか、死に様すら見れんとは!」
白銀の妖精を回収するにしても、新人傭兵が死んでからでなければ結界外に出て来る事は無いだろう。大体、今の魔象は一応の繋がりこそ保たれているものの男の制御下にはないのだ。あの目障りな小僧が死ぬの見たさに狂乱状態にある魔象の近くによって、うっかり己まで巻き込まれたらたまらない。
加えて、ここを動けない特殊な事情もある。男の四方を覆うこの隠形結界は自身の気配を消すだけでなく、虫除けや消音機能もついた優れものである。しかし、一度出れば効果はなくなる上に、男がこれを使用するには高価な魔導媒体を用いなければならない。結界は自身の関与を知られない為にも絶対に必要なものだし、最悪銀ランク傭兵が目的を果たすよりも早く来た場合にやり過ごす為の生命線であるのだから。
エリート志向でプライドの塊のような男であったが、流石に前衛なしで銀ランク傭兵相手に勝てると思うほど、自惚れてはいなかった。
己の欲求やかかるコストやリスクを勘案した結果、男は結界内に留まることを選択した。狂っているようで、リスクやかかるコストなどを考慮した上で冷静に判断を下せるのが、この男の厄介なところであった。
しかし、今回に限りその判断は裏目に出た。男はこの時点で、瞬の本当の狙いを理解していなかったのだ。それが故の過ちであった。
もっとも、男がそれに気づける日は二度と来ない。
なぜなら、男は穴熊を決め込んだすぐ後、魔象の突撃に巻き込まれて結界ごと吹き飛ばされた挙句、踏み潰されてあっさり死んでしまったからだ。
「終わってみればあっけないものだな……」
魔象に踏み潰されて、原型を留めない惨たらしい躯を見下ろして、瞬はどこか他人事のように呟いた。直接的に手を下したのは魔象とはいえ、その結果になるように誘導したのは間違いなく瞬自身である。間接的であれ、紛れも無く彼が殺したと言える相手だった。
だというのに、瞬は何も感じない。
スプラッタな光景に多少の嫌悪感や忌避感は感じるものの、それは表面的なものであり、瞬は自分でも驚くほど平静であった。目の前にあるのは、常人ならば十人に十人が気分を害し、吐いてもおかしくない血塗れの惨状であるというのにだ。
正直な話、もっと色々感じるものだと思っていた。
しかし、実際には何の感慨も湧かない。それどころか、瞬は納得すらしていた。死とはこういうものだと。
誰よりも努力家で人格者であった兄が、その成果を結実させる前に死んでしまったように。
兄弟でもっとも才に溢れた弟が、それを発揮する舞台を与えられないまま死んでしまったように。
何の非も無い両親が、不慮の事故に巻き込まれて死んでしまったように。
死とは生きとし生ける者全てに訪れる理不尽な終わりだ。
生者が善人であろうが悪人であろうが関係ない。神仏に祈ろうと、無神論者であろうと、現実はそんなことを斟酌してくれはしない。誰にも死を避けることはできず、それは突然に理不尽に訪れるものなのだ。
故に、目の前の賊の死もまたそういった理不尽な死の一つに過ぎない。いや、それどころか、この男のやったことを考えれば因果応報と言えよう。
瞬にとって、死とは身近でそれいて理不尽に訪れる恐怖の隣人なのだ。それがたまたま自分より早くこの男に訪れたに過ぎない。一歩間違えれば、屍を晒していたの間違いなく瞬の方であったのだから。
「思った以上にうまくいった」
血塗れの惨状を尻目に瞬は安堵の息を漏らす。
瞬のやったことはそう難しいことではない。単純に自滅を誘っただけである。
まず、ミユキに魔象を操る術者の居場所を探らせ、特定する。魔象の操作に注力していた賊は、視界を同期していたことも相まって、すぐ傍まで接近したミユキにまるで気づけなかったのだ。勿論、ミユキが姿を消していたということも大きいが、一番の難関だと思っていたことが、思いのほかあっさりできてしまい、瞬は拍子抜けした。
次に、術者の居場所近くに魔象を誘導する。これは相手側もそれを企図していたただけに、すんなりうまく行った。実際、瞬が特に誘導する必要も無かったくらいであった。
そして、魔象の視界を一時的に奪い、魔象の現在位置を術者に把握できないようにした。泥玉自体は一時的に視界を奪うことが目的だが、瞬の真の狙いはそこにはない。同期している視界を奪うことで術者を混乱させ、魔象の正確な位置把握をできなくするのが本当の目的であったのだ。これも想像以上にうまくいった。狙い通りなどと強がってはいたが、実際にはうまく行き過ぎて、魔象と術者の視界同期が断たれるだけでなく、魔象を術者の制御から解き放つといういらない余禄をもたらしていたりする。おかげでその全性能を十全に発揮できるようになった魔象の相手は、真剣に命の危機であった。何事も過ぎたるは及ばざるが如しということなのだろう。
最後は、止めようとしても止められない距離で自分に向かって突撃を誘うだけだ。その前段階として、瞬は結界からの脱出を賊が想定した正規手段ではない方法を用いることで、結界外への脱出の発覚を遅らせる。許可証をミユキに託し、自分から距離を置かせることで、結界の機能である許可証をもたない者の排除機能を作動させたのだ。これは見事に嵌り、正規の手段での脱出を想定していた術者の裏をかくことになった。術者は先の視界の混乱から立ち直ることはできたものの、現状復帰を優先した結果、最後まで瞬が結界外に脱出していたことに気づけなかった。そうして術者の間近(気づいて命令したとしても止まりようの無い距離)まで接近したところで、魔象を挑発し突撃を誘発させたのだ。
結果は見ての通りである。最高速で駆け抜ける瞬の後を追う魔象は、自身を操っていた術者をなんら慮ることなく突撃し見事に術者を巻き込んだ。元より隠蔽と居住性に特化した結界である。魔獣化した巨象の突撃を防げる強度など望むべくも無い。魔象はあっさりと結界を突き破り術者を吹き飛ばした。ここで、停止命令を出せていれば、まだ生きる目は合ったかもしれない。
しかし、現実は優しくない。まさかすでに瞬が結界外へ出ているとは夢にも思っていなかった術者にとって、魔象の突撃に巻き込まれるなど想定外の不意討ちもいいところであった。術者にとっての不幸は、魔象との繋がりが『魔侵筒』を通してのものだったということである。仮に直接魔獣を操ることができていれば、その位置を見失うなどという醜態をさらすことはなかったであろうから。
現状を正しく理解することもできず、突然の痛みと想定外の出来事で混乱の極致に陥った術者に停止命令を出す余裕などありはしなかった。そうして運悪く魔象の進路上に弾き飛ばされた術者は、なんの抵抗もできずに魔象に踏み潰されて、その生涯に幕を閉じることになったのだった。
「あの魔獣がそのままどこへ行ってしまったのは予想外だったが……」
そう、魔象は自身を操っていた術者を殺した後、それまで凶暴性を全開にして執拗に瞬を狙っていたのが嘘のように、こちらに見向きもしないで何処かへと去ってしまった。
まあ、そうでなければ、こうしてのんびり現場を見分などしていられないし、考え事もできないのであるから、勿論、瞬としてはありがたかったが、再び追跡劇を覚悟して身構えていただけにどこか釈然としないものを感じていた。
「これと言った手がかりはなし。魔具らしきものもこれと言って見当たらないか。
まあ、あったとしてもこの惨状じゃ、諸共にぶっ壊れていてもおかしくないからな」
魔具、それはこのエティアにおいて人々の生活を支えるものである。現世の根幹を支えるのが科学技術であり、その結晶ともいうべき機械であるように。同様にエティアの根幹を支えるのは魔法技術であり、その結晶である魔具である。
魔具の機能は明確であり、魔法あるいは魔術の再現、若しくはそれらの行使につき補助・強化することである。ポピュラーなのは『身体強化』であり、大抵の傭兵はこれを所持している。他にも都市の水道整備に使われる『水流操作』や水を飲めるようにする『浄化』などがあると、瞬は説明を受けている。
しかし、魔獣を操る魔具など聞いたことが無い。そもエティアにおいて禁忌の存在である魔獣を操るなど正気の沙汰ではない。そのような魔具が存在すること自体、危険極まりない。故に見つけられたなら、回収して然るべき場所に持っていこうと考えたのだが、それらしきものは影も形も無かった。
あるのは無数に散らばる何かの破片だ。賊の血肉や骨も混じっており、最早それが何であったかなど想像することも困難であった。
「まさか、こいつじゃなかったのか?いや、魔獣に繋がったマナのラインを辿ったと言っていたからな。間違いなくこいつが魔獣を操っていたのは間違いない。それはこいつを殺した後の魔獣の変調からも明らかだ」
万一の可能性を疑うが、あの白銀の妖精が見誤るとは思えない。状況証拠もこの場で死んだ者が黒だと言っている。
「あー、くそっ!こんなことなら魔具関係をもっと詳しく勉強しとくんだった……」
そうは言っても、後の祭りである。後悔したところで、瞬には判別するのに必要な知識が無いのだから。
「マスター!」
ズーンと精神が落ち込みそうになるのを救ったのは、またしても白銀の妖精だった。いつも冷静沈着な顔には隠し切れない歓喜が現れており、その透き通るような声も心なしか上ずっているようだった。
「ミユキ、こっちだ!」
満面の笑みでこちらだと手を振って、それに返した。そうだ、自分では分からなくても、この頼れる相棒ならばと瞬は思い直す。
ただ、あまりの惨状にミユキが眉を顰め、判別が難航したのは言うまでも無い。
改めて、その反応に自身の異常さを目の当たりにして、瞬が地味にダメージを受けていたりするが、余談である。
「うーん、60点かな?正直役者不足だったね。この『魔侵筒』は大したものだけど、やっぱり研究者の域を出ない男だったか。もっと後戻りできない形で理解してくれるとよかったのに、どうにも自分なりに消化して受け止めたみたいだ。
それなりに期待したんだけど、唯一の収穫はこいつだけか。あーあ、つまらないな」
陽気でありながら、どこか不吉さを漂わせるその男は水鏡を見下ろしながら、不満げに呟く。その手には瞬が捜していた『魔侵筒』が握られている。実は賊が魔象に吹き飛ばされた際、掠め取っていたのだ。捜そうとしても、物自体が存在しないのだから、見つからないのは当然であった。そんなわけで、瞬とミユキの割いた労力は徒労もいいところなのだが、そんなことはエティアの創造神の一柱にして、ソロモン72柱の悪魔に名を連ねるグラーシャ・ラボラスの知ったことではなかった。
「それにしても、やっぱり人間はいいなー。禁忌とされるものに平気で手を出すんだから。それもご立派な自己正当化までして。エティアにおいては科学技術の発展は阻害されているけど、この分ならいずれ彼らも自らを滅ぼす終末の焔を創造するに至るかもしれないな」
それは純粋な賞賛であり、悪意に満ちた嘲弄であった。そのどちらも本心であるところに、グラーシャ・ラボラスの厄介さがある。彼は本気で人間の好奇心・探究心の強さに感心する一方で、自らも滅ぼしかねない禁忌にも手を出す愚かしさを心から嘲っているのだ。
「そこ行くと長命種の森人の発展のなさは酷いな。連中ときたら、大抵森に引きこもって自種族だけで完結してるんだからつまらない。土人共はそれなりに可能性がありそうなんだけど、職人気質というか頑固で偏屈者が多いっせいか、中々技術発展が見られないんだよねー。獣人共は自然への信仰心が強すぎて、技術そのものを好まない輩が多いし、強さこそが全てという連中だからな。お前らはいつまで原始人やっているつもりなのやら。まあ、僕の管轄じゃないからどうでもいいけどね。
さて、これは順当に行くなら、長老に渡すべきなんだろうけど……性能を確かめることぐらいは許されるよね?正直、不完全燃焼だったし、彼にはもっと頑張ってもらわないといけないからね」
そう言って、水鏡に映る漆黒と白銀の主従を見つめながら、不吉な笑みを浮かべたのだった。