片鱗 前編
2014/08/30 13:30 一部加筆修正しました
「よし、いいぞ。そのまま追い立てろ」
農園のすぐそばで隠形の結界を張り、魔獣の目を通して伝わる獲物の逃げ惑う光景にその男は喜悦を露にしていた。整った容姿とは裏腹に、その笑みはどこか歪んだものを感じさせる。かつての男を知る者がいれば、同一人物とは到底思えなかっただろう。かつての男は一部偏執的な所はあったものの、こんなにも厭らしい嗜虐の笑みを浮かべる人物ではなかったのだから。
この男、元を辿ればある大国で魔道の研究者として名を連ねる高位の魔術師の一人であった。才気に富み、その将来を嘱望されていたが、それ故に道を誤ってしまった。男は魔獣についての研究を進める内に、その異常な生命力と強靭さに魅入られたのだ。
結果、男は魔獣化を防ぐ方法ではなく、魔獣化させる道具を作り出すに至った。それはエティアにおいて禁忌にならず、男はたちまち拘束された。それまでの功績と貴族の生まれであったことから、どうにか死だけは免れた。
しかし、職は勿論貴族籍どころか市民権すらも奪われ、果ては名まで剥奪されてしまう。男に与えられた罰は全てを奪われての国外追放だったのだ。その上、記憶を封じる呪印を刻まれ、最早研究の殆どを思い出すことができない。最終的に財産の殆どを没収され、故郷に戻ることもかなわない。辛うじて男に残されたのは、体に刻まれた忌まわしい呪印と、かつて高位の魔術師であったことを思い起こさせる不名誉印を刻まれた色褪せたローブだけのはずであった。
されど、全てを奪われたはずの男の手には、不可思議な筒があった。
この不可思議な筒こそ、男が作り出した唯一無二の傑作魔具『魔侵筒』である。国や神官からは、筒に封じた生物を魔獣化させるというあってはならぬ禁忌の魔具であるとされ、挙句全てを奪われ追放される羽目になったが、男は自身の作り出したそれが至高の魔具であると信じていた。
男は今現在、その自信作『魔侵筒』に大量のマナを注ぎ込んでいた。
『魔侵筒』は、大型の野生動物を容易に運搬できるように作り出された『封獣管』の構造を元に男が独自に作り出した魔具である。必要な素材もさることながら生産方法が特殊なので、到底量産はきかないが、その効果は絶大で、封じ込めた生物を魔獣化するという代物だ。しかも、後付の機能だが『魔侵筒』にマナを供給することで、ある程度魔獣となった生物を操ることができるというのだから、恐ろしいものである。
「なぜ誰も理解しない!見ろ、私の作り出した魔獣の強さを!熟練の傭兵共が手も足も出ないではないか」
象を選んだのは、野生動物の中でも知能が高く頑強なことからだったが、予想以上の強さであった。魔獣化した象は、弓矢を弾き剣も槍も通らない。その鼻の一撃は鉄鞭以上だし、その重量を生かした突撃は暴威をまざまざと見せつけていた。
「やはり、私が正しかったのだ!量産こそ難しいが、『魔侵筒』の数を揃えれば他国を蹂躙することも夢ではないというのに……!」
己は祖国の為に『魔侵筒』を作り出したというのに、『魔侵筒』の製法は闇に葬られ、呪印の影響で最早男自身にも再現することは叶わない。頭の固い神官達や己の才に嫉妬した上司のせいで、全ては水泡に帰してしまったのだ。男は歯痒くてたまらなかった。
無論、それは男の都合のいい思い込みでしかない。魔獣化を防ぐ研究をしていた部署で、魔獣化させる魔具など作ったら、咎められるのは当然である。大体、魔獣自体がエティアにおいては禁忌の存在とされるのである。それを増やすようなことをすれば、神官達が咎めるのは無理もない話であった。
「もうすぐ、もうすぐだ。あの白銀の妖精を魔獣化してやれば、国の分からず屋共も私の正しさを理解するに違いない!」
『魔侵筒』を除く全てを奪われ国外追放されたものの、どうにかグランフェリアにたどり着いた男は持ち前の才気と猫被りのうまさで、あっという間に市民権を得るに至る。男は運も良かった。その当時、グランフェリアの権力を握っていたのは欲に塗れた先代だったからだ。賄賂を積めば、ある程度の融通を利かせてくれる。ご禁制品や違法な薬物の調達など、先代は男の研究に大いに役立った。元々理論は完成していたとはいえ、魔獣化した生物を操る機能をつけられたのは、その集大成である。
呪印の効果で製法は思い出せないが、基本的な理論や仕組みは理解している。なにせ、ものがあるのだ。それを解析してやればいいだけの話だからだ。贋物を用意して目の前で破壊し、本物は体内に隠すなどという荒業をやっただけの甲斐はあったわけである。
解析が終わり、さあ再現に移ろうというところで、様々な便宜を図ってくれていた先代が死んだ。代わりについたのは二人の息子。彼らは先代とは逆に不正を許さない姿勢を鮮明にし、傭兵ギルドと都市の上層部の腐敗を協力して一掃したのだ。代替わり当初はまだ研究を続ける余裕はあったものの、半年たった今では最早その余裕はない。研究に必要なものが、一切手に入らないのだ。闇市は尽く潰され、最早御禁制品や違法な薬物が流通することはないからだ。
そんな時だった。妖精つきの旅人がいるという噂を聞いたのは。
男はこれだと思った。起死回生の逆転手段として、エティアにおいて祝福の存在とされる妖精を魔獣化させてしまえば、国も己を認めざるをえまいと考えたのだ。それは男を糾弾する最先鋒であった神官達への意趣返しを多分に含んでいたが、意識していなかった。
『魔侵筒』が禁忌とされた理由はそこにあるというのに、男は何も理解していなかった。元となった『封獣管』と異なり、『魔侵筒』は生物であれば何だろうと封じ込められる。そして、筒の中でじっくりと時間をかけられて魔獣化させられるのだ。これは人であろうと例外ではない。『魔侵筒』が製法すら闇に葬られたのは、人を魔獣化させる可能性があったからなのだ。
そんな狂った考えとは裏腹に計画は巧妙に進められた。
まず、市民とは名ばかりのチンピラ共を煽り襲わせた。これにより新人傭兵となった旅人の人となりや技量、妖精との関係などの情報を収集しようとしたのだ。しかし、これは悪手だった。クラウスという銀ランク傭兵が護衛につけられてしまったからだ。最初から都市内で襲うつもりではなかったとはいえ、これは大きな誤算であった。しかも、手に入った情報は新人傭兵についてが大半で、肝心の妖精についてはほぼ皆無であったのだから、踏んだり蹴ったりである。おかげで計画は早々に修正を加えることになった。
次に男は自分と同郷で、己より早く没落したアインという赤銅ランク傭兵を巻き込むことに決めた。同郷であり、元々顔見知りで己が追放された事情を知らないアインは利用するには持って来いの駒であった。プライドの塊のような男なので、少し持ち上げて多少の金でのってきた。どうやら、傭兵ギルドへの不満もあったようで、そこらへんも手伝ったようである。
男がアインに依頼したことは一つだけだ。受験者達を都市ではなく、農園へ誘導することだけだ。それ以上は何も依頼していないし、教えていない。まさか、農園で魔獣の襲撃を受けるとは夢にも思っていなかったに違いない。それだけではない。ちょっとした小銭稼ぎと点数稼ぎで命まで散らすことになるとは露程にも想像しなかったに違いない。
今や、アインはそのハンサムな顔を無残に砕かれ、屍を晒している。魔象の突撃で吹き飛ばされ、ダメ押しに頭を踏み潰されたのだ。勿論、男が口封じとして仕向けたことである。魔象が瞬達を初期狙わなかったのは、追い込むには標的の場所が悪かったというのあるが、それ以上にアインの口を防ぐ塞ぐ為だったのである。
これで証言をできる者で、男の関与を知る者はいない。
因みに矢を射掛けたのは、男と同様に先代の恩恵に与っていた連中であるが、男の真の狙いを知る者はいない。現体制への意趣返しをしようと小金で釣っただけだからだ。受験者に死者が出なかったのは、そこまでやれば傭兵ギルドの報復が苛烈なものになると考えたからだし。死者が出る前に撤退したのも、単なる憂さ晴らしで命までかけるつもりは毛頭なかった為である。標的を襲撃しなかったのも、グランフェリアで有名なクラウスを恐れてのものだ。これが男の企図したとおり、クラウスを標的から引き離すことになるのだから、世の中分からないものである。
彼らはチンピラの域をでない小悪党でしかなく、後に事の詳細を知ったとしても、自分達の罪状が明らかになることを恐れて、男のことを証言することはない。したとしても、その信憑性は甚だ疑わしいだろう。つまり、最早男の関与が明るみに出ることはない。
後は、黒髪の新人傭兵を始末し、白銀の妖精を捕らえればいいだけである。研究畑の人間とはいえ、男は高位の魔術師でもある。少なくとも新人傭兵などに後れを取ることはない。己が殺した後で、魔象に踏み潰させれば、死因は分からなくなる。そうすれば、新人傭兵も魔象の犠牲者として名を連ねるに終わるだろう。
完璧な計画だった。少なくとも男はそう思っていた。この後、魔象の目を通して予想外の光景を見るまでは……。
魔象と瞬の追いかけっこは、未だ続いていた。魔象は木々を薙ぎ倒し、一直線に瞬を追いかけてくる。他の受験者達とはもう十二分に距離ができている。瞬は魔象との距離を一定に保ちながら、いつ結界内から離脱するか考えていた。
魔象を観察するに、何も考えずに追い掛け回しているようで、実ところ、巧妙にこちらを追い込んでいる。恐らく、あの魔象はもっとスピードを出せるのだ。そうでなければ、間近まで接近されたことや初期よりスピードを上げたにも関わらず元の距離に戻っているのを説明できないからだ。
やはり、魔象が瞬を追い立てるように動いているのは間違いない。やろうと思えば、瞬く間に距離を詰められるのにそれをしないのは、こちらが結果外へ出ることを待っているからだ。その証拠に一定の範囲から瞬を逃がそうとしない。賊はここで瞬を殺したとしても、結界内へ侵入できなければ、ミユキを捕まえることはできないと考えているのだろう。
恐らく賊の狙いは、瞬が魔象の圧力に耐えかねて結界外へ脱出する瞬間だろう。この一定の範囲ならばどこから脱出しようと、賊の近く範囲なのだろう。脱出した瞬間に、致命的な攻撃が叩き込まれるに違いない。そこまで考えて、瞬は死ぬかもしれないという恐怖が蘇る。
先程までは、考えに没頭することで、現実逃避すると共に恐怖を忘れていられたのだが、実際死ぬ可能性があることに考えが至った時、どうしても襲い来る死の恐怖を直視せざるをえなかったのだ。
「……ッ!」
奥歯を噛み締め、震えだしそうな体を制御する。相棒であり、忠実な従者である白銀の妖精の前で無様な姿を晒すわけにはいかない。ぶっちゃけ、やせ我慢と男としての見栄である。
(情けない!斬れると大口叩いてこれか……。我ながら呆れるわ)
恐怖に塗りつぶされそうな心を必死で叱咤し、ギリギリのところで喚き散らしたい己を抑える。
「マスター、いかが致しますか?いかなマスターといえど、流石にその鉄剣であの魔獣を斬るのは、難しいかと思いますが」
平時と変わらぬ涼やかな澄んだミユキの声が、瞬を落ち着かせる。ミユキの存在が孤独感を打ち消し、彼女を護らなければとなけなしの勇気が湧いてくる。
「眼球を狙う。正面からならば貫けるはずだ」
瞬の乱れに乱れた内心とは関係なく、頭は殺せる手段を即座に弾き出す。
確かに白銀の妖精の指摘どおり、今手元にある鉄剣では魔獣を切り裂くことはかなわない。所詮、レンタル品。鉄製といっても、名剣というわけではい。手入れはされているものの量産品の域を出ないのだから当然だ。
だが、それならそれでやりようはあるのだ。いかに数打ちの鉄剣とはいえ、眼球ならば十分に貫ける。象という性質上、分厚い皮膚が問題だが、目は鍛えようがなく、機能上どうしても薄くならざるをえない部位である。魔獣化して強度があがっているとしても、奴自身のスピードも合わせてやれば九分九厘貫けよう。
「あの速度で走る魔獣相手にですか!?」
客観的に見て、それは無謀極まりない行為である。時速40キロ超で走る自動車の正面から特定の精密部位を狙うようなものである。仮にそれが可能であったとしても、加速した魔象は死んだとしてもすぐには止まらない。慣性によって動き続けるのだ。正面からそんなことをすれば、魔象に踏み潰されるか、吹き飛ばされるのがおちである。
「問題はない。奴はここで 殺す」
そう宣言した時、瞬の中で全ての歯車が噛み合った。体からは余計な力が抜け、精神はどこまでも平静になり、五感全てが鋭くなるのを感じた。瞬時に描き出される魔象を殺すまでの過程。この通りにやれば、殺せると確信する。
「…!……!?」
白銀の妖精が必死に何かを言っているが、深い集中状態になっている瞬には届かない。そうして、今まさに魔象を殺さんとしたところで――――――思い切り耳を引っ張られた。
「マスター!」
「いててて!ミユキ、お前こんな時に何を!?」
「よかった、正気に戻られましたか」
「何!?チッ」
完全にタイミングを外した瞬は全力で離脱を優先するほかなかった。間一髪のところで、魔象の突進を避け、再び木の上を走り回る。
「ミユキ、なぜ邪魔をした?」
「マスター、確かにあの魔獣を殺すことはできたやもしれません。いえ、マスターがあそこまで確信されていたのですから、間違いなく成し遂げられたでしょう。ですが、それはマスターの命と引き換えにです」
いつになく焦燥した声で言う白銀の従者に、漆黒の主ははっとさせられる。
(ミユキの言うとおりだ。首尾よくあいつを殺せたとしても、俺はほぼ確実に死ぬ。余程うまくやったとしても、重傷は免れないだろうな。そんな当然のことをどうして俺は忘却していた?)
死の可能性をはっきりと認識し、瞬は愕然とする。なぜ、そんな当たり前のとを忘れていたのか?先程までの自分は何かがおかしかった。殺す為の最善の行動を自然にとろうとしていた。何かがおかしいと感じた時、瞬をさらなる衝撃を受けることになった。
己が殺すという行為についてなんの忌避感も嫌悪感も抱いていないことに気づいたからだ。死への恐怖こそあるものの、魔獣といえど生物を殺すことの躊躇いは欠片もない。それは信じたくない、信じられないものだった。
「!!」
猛烈な吐き気が瞬を襲う。自身への嫌悪と自分が何か得体の知れない者へ変わってしまったような恐怖が引き起こした自己防衛反応であった。
無理もないだろう。誰だって、己が異常者などとは思いたくないものであるから。
「マスター!」
そんな瞬を救ったのは、またしても白銀の妖精であった。忠実な従者であり、頼れる助言者たる彼女は、主の精神状態が危険な状態にあることを見て取ったのだ。
「もう大丈夫だ、落ち着いた」
これ以上、情けないところ見せるのは御免だとばかりに青い顔で、やせ我慢もいいところだったが、こみ上げるものを無理やり下し応じる。
(落ち着け。どんなに否定しようが事実は変わらない。むしろ、元の世界で発覚しなくてよかったと思うべきだろう。現代日本じゃ異常者もいいところだからな)
瞬は認めた。己が生物を殺すことにかけては、尋常ではないものをもっていることを。それが己の一部であり、そういう意味で紛れもなく己は異常者であることを。
「俺はエティアに来れて幸運だった」
これが現代日本のままであったら、いつか暴発していたかもしれないのだ。そう考えれば、己は幸運であったとも言える。そう、己に言い聞かせる。
「マスター?」
ミユキの訝しげな声が聞こえるが、今は自身を納得させることが必要であった。少なくとも、殺しの才能ともいうべきこれは、今は非常に役立つ。初陣で予期せぬ事態に縮こまっている現状では、使わない手はない。
「ミユキ、俺が自分の命を省みないようなことをしようとしたら、少々強引でも構わない。止めてくれ」
ただ、気をつけねばならない。衝動のままに動くと、先程のように自分の命も顧みずに殺すことのみに注力しかねないからだ。これから長い付き合いになるであろうこれを制御しなければならない。自覚して初めてやるので、うまくいくかは微妙なところだが、幸い己には頼れる相棒がいるのだから。
瞬は躊躇いなく己の命綱をミユキに託した。
「どういうことですか?説明をお願いします」
「悪いが説明している暇はない。とにかく頼む。お前だけが頼りだ」
そうしている間も、こちらを追い込まんとする魔象をうまくかわしながら、短くそれだけを言う。ただ、その短い言の葉には、懇願するような響きがあった。
「……分かりました。お任せください」
それを酌まない白銀の妖精ではなかった。自身の疑問を棚上げし、今は主の忠実な従者として、瞬が頼む相棒として、それに応えた。
「ああ、よろしく頼む!」
そう言って、瞬は再び己の中に沈み込む。
(よく考えろ。俺が殺すべきは魔獣じゃない。それを操りミユキを狙う下種野郎だ。つまり、魔獣を殺すだけでは終わらない。むしろ、重要なのは魔獣を殺した後の方だ)
最初の襲撃から今に至るまでの流れを見る限り、賊は相当に用意周到な相手である。恐らく、結界を出るなり、己を狙い撃ち殺しうるだけの攻撃手段を確保しているに違いない。瞬はそう推測する。
(いやいや、待て待て。別に魔獣を俺が殺す必要はない。放って置いても、他の受験者達との距離も十分離したし、そう危険は大きくないはずだ。それに遠からず援軍に来るであろうクラウスさん達がどうにかしてくれるだろう。つまり、俺が殺すべきは賊の方だ。)
やはり、この衝動は危ない。殺すことが呼吸するかのように当然になっている。軽く頭を振って、考えを修正する。それでも、賊を捕らえるではなく殺す一択な辺り、まだまだ制御しているとは言い難いようだが。
(恐らく受験者か、試験官の中に協力者がいる。だが、ここまで孤立させられた俺を狙ってこないということは、全てを知らされていたというわけではないのだろう。
グランフェリアの食糧を一手に賄うこの農園で、魔獣というのはリスクが高すぎる。賊が結界外へ俺を追い立てようとしているのは、許可証を得られなかったという証左にほかならない。つまり、両者の協力の度合いは小さい。魔獣は内通者の渡された台本にはのっていないシナリオのはずだ。
故に、現状内通者が俺にちょっかいを出してくる可能性はほぼないと考えていい。)
露見すれば、傭兵資格の喪失だけで話は済まないだろう。そうでなくとも、魔獣など下手をしなくても巻き込まれて死にかねない。小金でやるにしてはあまりにリスクが大きいと瞬は考えたのだ。
(要するに、この魔獣をどうにかスルーできれば、俺は黒幕をぶっ殺すのに集中できるというわけだ……。しかし、どうやって?恐らく賊の目標地点はすぐそこだ。追い込み方が露骨になっているからな。)
最早、隠す必要もないと言わんばかりに、その意図を露にする魔象。こちらを殺すのではなく結界外へ押し出そうという意図が透けて見える。
だが一方で、瞬は妙な違和感を感じていた。なんというか、追い込み方が雑なのだ。これは先程までも薄々感じていたことだが、賊は結界内を見通せるものの、それは神の視点というわけではないようだ。いや、結界内から追い出そうとしていることを考えれば、結界を抜くことはできないと見るべきだろう。
であるならば、どうやって賊はこちらを追い立てているのか?瞬にはその方法を想像できたが、果たしてそれが現実にできることなのかで悩んでいた。
結局、考えても分からないなら、調べるしかないと開き直ることにした。
「ミユキ、すまんが頼みたいことがある」
「私にできることなら、どのようなことでもお申し付けください」
「お前に頼むのは、正直気が咎めるんだが――――――」
瞬の頼みごとにミユキは嫌な顔一つせず頷くと、それを果たすべく姿を消した。
「さあ、もう少し俺との鬼ごっこに付き合ってもらおうか!」
瞬は魔象へと向き直り、逃げるのではなく逆に走りよった。
「馬鹿な!何を考えている!?」
男は存外にしぶとく逃げる新人傭兵に感じていた苛立ちも忘れて、共有した視界に映る信じられない光景に驚愕した。驚愕のあまり、目的である白銀の妖精の姿がないことにも気づけなかったことから、その程度が伺えよう。
今まで逃げ惑うしかなかった魔象に立ち向かうその様は、やけっぱちになっての特攻にしか男には思えなかった。
「くっ、愚か者めが!」
歯痒いことだが、まだ殺すわけにはいかない。結界内で死なれたら、男には手が出せないからだ。農園に張られた結界は高度なもので、男の力量では手も足も出ない。ならば許可証をと、手に入れようとしたが、農園への誘導を引き受けたアインも許可証の融通はできないとはっきり断ってきたせいで、結界内への侵入は不可能である。男にできたのは、『魔侵筒』の魔獣化した生物を操る機能の繋がりを利用して、視界を同調することで辛うじて中の様子を見ることくらいであった。
魔象をある程度操れるものの、精密な動作など望むべくもない。下手に新人傭兵を殺させて、肝心の妖精が巻き込まれたら元も子もない。それに仮にうまくいったとしても、白銀の妖精が結界を出るまで、無事な保証はない。その希少価値を考えれば、他者に横取りされても何の不思議はないのだから。
「……!――――――!!」
男は歯噛みしながら、スピードを落とし勢いを減じるよう魔象に命じた。
魔象までの距離が後少しというころで、目に見えて魔象の速度が落ちる。瞬は表情を変えずに内心でニヤリとしつつ、挑発するように魔象の真横をすれ違うように走り抜ける。
今の挙動は貴重な情報を与えてくれた。
一つは、己に結界内で死んでもらては困るということ。これは賊が結界には手を出せないということの証左だ。
もう一つは、魔象のコントロールはけして完全ではないということだ。こちらに目に見える形でやったということは、思いのほか精密な操作はできないということだ。恐らく手加減するなどという芸当は不可能だと見ていい。
これで大体のプランはできた。後は、ミユキが戻れば、最後に必要な確認もできるはずだ。瞬は操っている者の苛立ちが見て取れるような魔象の動きを見ながら、ほくそ笑む。しかも、今回は明らかに笑っているのが理解できるように正面から対峙してだ。
それを見た魔象が完全に足を止め、長い鼻を振り上げる。どう見ても、長さ的に届かない距離であったが、瞬は危険なものを感じて咄嗟に横に転がった。それと共に間近で凄まじい轟音と粉塵が巻き起こる。
転がりながら、横目で見れば先程まで立っていた場所に鉄槌の如く振り下ろされた硬質の鼻先が、粉塵に紛れてかすかに見える。どうやら、魔象が魔獣化した際に得た能力は、皮膚の強度の強化だけではなかったらしい。伸縮自在にして硬軟を選択できる鼻も手に入れていたというわけだ。
再び振り上げられる鼻を見ながら素早く立ち上がり、横に大きく跳ぶ。少し遅れて先程転がってかわした距離あたりを狙って、鼻が振り下ろされる。どうやら、きっちり修正してきたらしい。精密な操作はできなくても、この程度なら十分可能ということなのだろう。賊の評価を上方修正しながら、短気でプライドが高いという項目を付け加える。
そして、瞬はあえて魔象との距離を詰めた。
賊は自分を殺すわけにはいかないからだ。先程の攻撃は直撃すれば即死だと思うが、賊もこちらが易々と当たるとは考えていないのだろう。かすっただけでも十分なダメージになるだろうし、足にでも当たれば、立てなくなるに違いない。そうして、強制的に動きを止めたところで、魔象に結界外に運ばせるつもりなのだろう。先程の修正を見る限り、それくらいはできるだろう。まあ、予測どおり手加減のような細かい調整はできないようだが。
距離が近くなれば当たり易くなるし、威力も増す。必然的に、賊はやり過ぎないように手控えねばならなくなると予測したからだ。
しかし、瞬の予測は外れた。瞬が接近するのを見るや否や、魔象は鼻を薙ぎ払うように横に振ったのだ。慌てて半ば転ぶように無理やり前転して避け、すぐさま立ち上がり再び距離をとる。
(危ないところだった。最初に試験官達にやっていたところを見ていなければ、くらっていたな。見通しが甘過ぎたか。まずいな、思った以上に相手の能力が高い。)
瞬はまんまと振り出しに戻されたことに臍をかむ。思わぬ攻撃に前進ではなく、後退以外の選択肢を選べなかったのだ。これは純粋な経験不足からくるものであった。どれだけ訓練・鍛錬しようと、実際に命の危険のある実戦とは明確な差がある。才はあっても、それを十全に生かせるだけの経験がないのだ。基本的に荒事とは無縁の現代日本人らしい欠点であった。
「マスター、お待たせしました!」
そんな時だ。ミユキが戻ってきたのは。
「よし、渡してくれ!」
最高のタイミングで戻ってきた白銀の妖精に、瞬は力強い笑みで応えたのだった。
男はイラついていた。目的である白銀の妖精がいつの間にか姿を消していることに、今更ながら気づいたからだ。しかも、気づいた原因が見せ付けるような新人傭兵の笑みだというのだから、イラつくのも無理はない。
「おのれ、クソガキめ!それで勝ったつもりか!?妖精を逃がした以上、貴様は用無しだ。死ね!」
魔象に新人傭兵を殺すように命令する。鼻が伸び、その先端が硬化して鉄槌の如く振り下ろされる。瞬は誤解していたが、男は妖精のいない瞬になど生かす価値を見出していなかった。むしろ、自身の思惑を潰した怨敵として滅殺せんとしていたのだ。
「ええい、ちょろちょろと勘のいい奴め!どこまでも癇に障る!」
巧みに修正された二撃目すらも避けられ、男はますます血を頭に上らせる。が、そこで、土や木片に塗れ汚れた新人傭兵の姿にあることを思いつく。
「契約をきり、逃がして勝ったつもりなのだろうが、旧主の危機を見逃せるほど貴様の妖精は薄情かな?」
男は凄惨な笑みを浮かべて、新人傭兵を嬲る方向にシフトした。逃がしたならば、誘き出せばよいと男は考えたのだ。あの主に忠実な妖精が、そう簡単に旧主であれ見捨てられるはずがないと踏んだのだ。
もっとも、契約をきり逃がしたという認識自体が誤解であったのだが、男にそれを知る術はなかった。
「さあ、無様に逃げ惑え!」
男は痛めつけろと魔象に命じる。単純な命なのが功を奏したのか、それとも魔象の意思にも合致していたのか定かではないが、それまでのぎこちなさが嘘のように、魔象は着実に黒髪の新人傭兵を追い詰める。
足を止めての鉄槌の如き硬質化した鼻の振り下ろしから始まり、近づこうとしているところを鼻で薙ぎ払うなど、己が操るよりも遥かに戦闘力が高いことを男は苦々しい思いで認めざるをえなかった。
実のところ、瞬の予想は殆ど当たっていたのだ。男は魔象をそれ程精密に操れるわけではない。ある程度、単純な命令を下し、その通りに動かすことはできても、手加減など到底できるわけがなかった。瞬を追跡する際に見せた雑さはその証左である。
そう、瞬を追い詰めたのは、男ではなく魔象自身であったのだ。
そも、転がった分の距離を修正して攻撃するなど、戦士でも何でもない研究畑の魔術師である男にできるはずがない。予想外の瞬の接近に対しても、驚愕から固まってしまった男とは対照的に、魔象は瞬時に反撃してみせた。
要するに、男が操っていた方が弱いというのが真実であった。なんとも滑稽で皮肉な話であった。
無論、男側にも言い分はある。
大体にして、他者、それも全く異なる体型をした生物を操るのは一朝一夕でできることではない。
それに加えて、魔象が意思を保っていられるのは、男が制御しているが故なのである。魔獣化した生物は、本来その意思を塗り潰され、その衝動のままに魔獣以外の生物全てを殺し喰らう。であるはずなのに、今も魔象が本能のままに瞬を殺し、捕食行為に移らないのは、男の制御あってのものなのだから。
「よし、そこだ!散々煩わせてくれたのだ。精々痛めつけてやれ!あの妖精がこの場では戻ってこないなら、殺しても構わん。その時は、奴の躯を晒し者にして誘き出してやればいいだけだからな!」
地面を転がり、どうにか回避を続ける瞬。その姿は土と木片に塗れ、どんどん汚れていく。それまで散々煩わされた鬱憤を晴らすかのように男の中に嗜虐心が沸き立つ。死者の尊厳を損なう行為を躊躇うことなく口にする。最早、当初の計画は頭に無く、完全に歯止めが効いていない。
――――――そんな時だった。再び白銀の妖精が姿を見せたのは
「馬鹿め!まんまと誘き出されたとも知らずに!もう奴に用はない!殺せー!」
男はもう当初の計画に拘る気はなくなっていた。ここで躊躇い、再び妖精を逃されてはたまらないからだ。かくなる上は、妖精の見ている前で主を惨たらしく殺し、その躯をもって結界外へ誘き出せばいいと考え直していたのだ。
魔象が男の明確な殺害の命に従い、四肢に力を込める。それは痛めつけろとの命から、その殺傷能力の高さ故に封印してきた突撃の準備であった。魔獣化によって漆黒に染まった象牙が月光に照らされ、不気味に光る。その切っ先は漆黒の新人傭兵へと向けられ、それは魔象の巨体とあいまって、まるで軍船の衝角のようであった。
「やれ!殺せ!」
そうして、男は最後の引き金をひいた。
その先に待つ己の運命をしらぬまま――――――。
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