三十秒後、また手を繋いでもいいですか?
声が聞こえた。
「違いますよ、右です。右ですよ」
ある秋の日、地図を片手に友達の家に向かっていた時だった。交差点を左に曲がろうとしたら、そう声をかけられたのだ。
澄んだ高めの声だった。きっと女性の声だろう。
俺は周りを見渡した。が、周囲には誰も、人っ子一人いなかった。
「……は?」
体の芯が冷たくなった。鳥肌が立つ。
気のせい……か? いや、でもかなりはっきりと聞こえた。
もう一度周囲を確認した。散歩らしいジジィが歩いてくるのが遠くに見えただけだった。
「……は?」
右に曲がれば、友人の家があった。迎えてくれた友人には顔が青いと心配された。それもそうだろう。
二度目は授業中のことだった。
一度目からは一週間近く経っており、不思議には思っていても、小さな物音にビビらなくなった頃。
昼休み後の五時限目で腹がふくれていた俺はうとうとと頭を揺らしていた。日本史教師の山野は眠り歌と揶揄されるほどの授業。さらに、ここ最近で一番良い青空と気温。これで眠くならない奴は不眠症か何かじゃないかという位だった。その証拠にクラスの半分以上は意識がはっきりしていなかったように思える。
「水村ぁ。この問題の答えはぁ?」
山野の間延びした声が聞こえた。俺の名前は水村吉郎なので、運悪く当たってしまったわけだ。
もちろん授業なんて聞いていなかった俺は答えられるはずがない。他の人に頼ろうにも俺の周りの人は寝ているので無理だ。
潔く、分かりません、と言おうとしたら、
「徳川家光ですよ!」
「は? 家光?」
「おぉ。正解だ。この家光はなぁ……」
授業は進んでいくが、俺はそんなものに気を配っている余裕はなかった。眠気も吹っ飛んだ。
「……は?」
誰だ?
三度目は決定的だった。
授業中の出来事の次の日のこと。家で留守番をしていた俺は物音にビクビクしながらも、休日を優雅に過ごしていた。
ゲームで遊んでいたところに母親から電話がかかってきた。なんでも洗濯機を回すのを忘れてしまったらしい。洗剤を入れてスイッチを押しといて、とのことだった。
もう少しで相手をK.Oするところだった俺はグチグチと文句を言いながら、洗濯機のある洗面所に向かう。言われた通りの量の洗剤を入れようとして、
「あれ? 足んね」
丁度終わってしまった。仕方なく新しいものを捜す。
「これか?」
何だか、それっぽいものを見つけた。それをボトルに入れ換えようと封を切
「ダメ――っ!! 混ぜるな危険! 死にたいんですかっ!」
「イヤ――――っ!!!!」
頭にキーンッと響いた大声に俺は洗剤を放り出し、自分の部屋に走り込む。
滅多に使わない鍵をかけ、ベッドに入り、布団をかぶった。
「悪霊退散、悪霊退散、悪霊退散……」
ひたすらそう呟いてビビる俺に、申し訳なさそうにその声は言う。
「あ、あの? すみません。怖がらせてしまって……。でも私一応命の恩人ですよ。そんなにビビんなくても……」
「お、おま、お前はだっ誰だ!」
「えっと……今は幽霊ですかね? 一応。ふふっ、なんか自分で幽霊って言うのも何だか変な気分ですね」
「悪霊退散、悪霊退散……!」
「ちょっ、悪霊ではないですから。だから、それ、止めてくださいよ!」
悪霊はみんなそう言うのだ。知らないけど。
「要は俺、とり憑かれてんのか……」
「そうですねー」
ただいまベットの上で正座して、幽霊と対談中。端から見たら、一人で壁に向かって話している状態なのでヤバイ人だ。
幽霊日わく、天国に向かって飛び立とうとしたところでバランスを崩し、俺に落ちてきてしまったらしい。気がつくと、一体化して出られなくなった、と。
「みんなに聞くとフワーと上に昇っていくイメージだって言われたんですけどね。空なんて飛ぶの、初めてですしね! そんなことうまくいくわけないでしょう!! 何ですかフワーって!!」
途中から逆ギレしだした。面倒くさい。
「で、自称幽霊、もしくは俺の妄想はずっと俺の中にいるのか? というか今までのトイレとか風呂とかはどうしてたのかすごく不安なんだが……」
「ちょ、私ちゃんとした幽霊ですから! 私だってあなたの入浴シーンなんて見たくありませんよ。一時的なら意識を落とせるんでそうしてます。生きている人でいう眠っている状態ですかね」
「それなら良い……くないな。眠るってことはそれまでに時間はかからないのか?」
「……」
思いついた疑問を口にすると沈黙が返ってきた。
……おい。
「大丈夫です。間に合わなかったら耳ふさいで目をつぶってうずくまってますから。大丈夫です」
「大丈夫……じゃなくないか」
「うるさいです。毎日毎日男の汚い実情を見せつけられている身にもなってみろ、ですよ! 男子って結局みんないやらしい本、持ってんだなー、とか。何なら隠し場所から取り出してリビングに置いときましょうか!!」
再び逆ギレ。
「それはマジ困るから! っていうか俺の中にいるし、幽霊なんだから物を動かすとが無理だろ!」
「……寝ている時とか意識がないときなら出来なくもないですよ」
「……マジか」
「マジですよ」
幽霊には逆らわないでおこう。自分の身のためである。
「まぁとりあえず、ここから出れるまで、よろしくお願いします。気味が悪いでしょうけど、なるべく迷惑はかけないようにしますので。しばらくしたら、自然と出ていけるはずですから」
まぁ、実際に助けてもらっているから迷惑の心配はしていない。問題は俺がこの状況を受け入れられるかどうかだが……。
「うーん。敬語キャラの幽霊か……悪くないか」
「おい」
「おい、キャラキャラ」
こうして幽霊と俺、水村吉郎の共同生活は始まった。
幽霊との生活は意外にも心地良かった。最初は赤の他人――しかも女子だ――と四十六時一緒ということで不安たっぷりだったのだが、幽霊は時たま話しかけてきて、雑談したり、助けてくれたり……。こう言っては怒られそうだが、なかなか便利な存在だった。
もちろん良いことだけじゃなく困ったこともたくさんあるのだが。
高校へと向かう通学路の途中に大きな岩がある。抱えるには大人が三人、手を伸ばす必要があるくらいのものだ。
俺はよく分からないがなんだか神聖なものらしく、白い紙がくるりと一周結ばれていて、時たま気まぐれのように水や饅頭が置いていかれるのを見かけた。
その石の頂上近くにある少しくぼんだ所。そこに爺さんが平然と腰かけていた。
「なんだあれ」
まるで公園のベンチに座っているような気軽さに俺は思わず呟いた。
高さはーメートル以上はある。落ちたら骨を折るかもしれないぞ。何やってんだ、あの爺さん。
爺さんは持っている木の杖をだらんと垂らしながら、くかー、と呑気にあくびをしている。
「……なんだあれ」
周りの人は見て見ぬふりをしているらしく、どんどん通り過ぎていく。俺も声をかけるような勇気はなく、視線をずらして横をすり抜けた。
しばらく歩いていると幽霊が言った。
「水村くん、あれ、生きてないですよ」
「はぁ!?」
思わず声が出た。
周りの人が不審そうに俺を見る。慌てて咳をしてごまかした。
「幽霊です」
『何言ってんだ! 俺、幽霊なんか見えたことねぇよ』
心の中で言い返す。なんでも意識して伝えれば、心の中でも話せるらしい。なんだかテレパシーみたいだが、この幽霊が妄想だった場合、別人格だと思って自分と自分とで語り合っているのだ。
なにその中二病。俺はとっくに高校生だぞ。
幽霊は冷静に応える。
「それは私が中にいるからですね」
『今すぐ出てけ』
「ひどっ! ひどくないですか!?」
なにがひどいのか。俺にはさっぱり分からん。
「あ、あと幽霊にも上下関係があるんです。アイツはなかなか強そうですからね。気づかれないようにしてくださいよ」
『善処します』
「ちょ、それは大抵ダメなパターンですよ!」
なんだか身体がダルい。頭がボーッとする。喉はヒリヒリして、瞼が重い。昨日の夜からずっとこの調子だった。
「風邪でも引いたか……」
鼻を啜って呟く。
しかしあと少しで期末テストだ。休んだら少しキツイ。中間が少し、いやかなりまずかったからなぁ。ここで頑張らないと進級さえ危うい……。
俺はしぶしぶ家を出た。
五限目と六限目の間の休み時間。何とか乗り切っていたが、そろそろ辛くなってきた。
「大丈夫ですか?」
『……大丈夫じゃない』
俺の体調を思ってか、小声で問いかけてきた幽霊の声に俺は応えた。
「保健室に行って来たらどうですか?」
『出席日数がヤバイ』
これからは最後の六時間目、数学Ⅰだ。今日の授業は以外すべて一時間目にあって、遅刻常習犯の俺はまずい状況にあるのである。
「……自業自得」
……返す言葉もございません。
幽霊は、はぁ……とわざとらしく溜め息をついた。それから、やれやれと首でも振っているような口調で言った。
「少し寝ててください」
『起こされんぞ』
数学教師の皆田は体勢がきちんとしてないだけでも見逃してくれることはない。
「ふふふ」
幽霊が笑いをもらした。
な、なんだ気味がわりぃ。
「どんっとお任せください!」
不安しかなかった。
その授業は教師たちの間で水村の具合が悪かった、と噂されることとなる。
きちんとノートを取り、積極的に発言を繰り返し、良い天気なのに昼寝をしていない。どうしたんだ、と教師、生徒に心配される始末。
なんだそのイメージ。俺はただちょっぴり昼寝好きなだけだぞ。
結局、俺は授業が終わると同時に、帰りのホームルームを待たず、同級生に甲斐甲斐しく自宅まで送ってもらった。
紅葉の葉が完全に落ち、冬木が目立ってきていた頃のことだった。俺は自分の部屋に持ってきたストーブの前でぬくぬくと温まっていた。
「何かしたいことねぇの?」
風邪を完全に完治し、期末試験も無事にやり終えた俺は幽霊にそう尋ねた。
「なんですか、藪から棒に」
「お礼だよ、お礼。これでも俺は礼儀正しい奴だぞ」
少し怪しまれたが、ノートはキレイすぎるくらいに書いてあったし、後に解説もしてくれた。なんと幽霊は頭が良かったのである。何とも複雑な気持ち。
定期試験も助けてほしいなぁ、と言ってみたら、頭の中で騒がれた。言ってみただけだぞ。
期末も一人でやったし……。
後は終業式だけだ。
「何かって言われてもですね……」
「あるだろ! 何か!」
うーん、と幽霊は割と本気で悩んでいたようだが、しばらくして何か思いついたようで小さく声を上げた。
「えっと……じゃあ」
「お、なんだ」
「本が読みたいです」
終業式の日。俺はホームルームが終わった後、学校の図書室を訪れていた。静寂な空気に少し緊張する。が、寝るのには悪くない雰囲気である。
図書館なんて一年生の時に見学に来た時以来だった。それ以降は全く縁のない場所だ。
『何か読みたいのがあるのか?』
本棚と本棚の間をブラブラと歩きながら、俺は公共の場なのでさすがに声は出せず、幽霊に心の中で問いかけた。眺めているだけもつまらないので、せっかくなら一緒に読もうかなー、と思っている。
「えっと……あ! あれが読みたいです。違う。その隣。そう、それです!」
俺が手に取ったのは女子が好きそうな恋愛小説だった。
――水色恋愛書~私の涙がとまるまで~③
『嫌がらせか!』
「えぇ! 何ですか!? 最近のキレやすい子どもですか!?」
なぜ俺が怒鳴ったか分からないらしく、幽霊は戸惑いの声を上げている。
『そのー、高二男子が公共の場でこんな可愛らしい本を読む気持ちを察しろ。そのニ、③ってなんだ。③って! せめて①にしろよ!』
「むー。だってもうそれは読んだんですよ」
不満そうな声が上がる。唇でも尖らせているのかもしれない。
『読んだってその……死ぬ前にか?』
「なーに言いにくそうにしてるんですか。そうですよ。だからもう一年半くらい前のことですね」
『一年半……』
生まれた子が話すようになり、立ち上がり、走り出すようになり……。
家庭科で習ったことが丁度浮かんだ。
そんなに長く……。
予想以上に長い時だった。それを誰にも見られることもなく過ごしてきたのか。
寂しかったのか。哀しかったのか。いや、以外とコイツのことだからのんびりと過ごしていたのかもしれない。
でも……。
幽霊のあっさりとした物言いに、しかし俺の心がズキリと痛んだ。これは俺の同情心? それとも幽霊の? だんだんと心まで同調し始めているのだろうか。
「勝手にしんみりしないでくださいよ。他の本を探しますから。ほら、歩く歩く」
『いや……』
俺は本を手にとった。
『これにしよう』
それは叶わない恋の物語だった。
ぼっちエストストライキとは。
一人の体の中で行われるぼっちの中のぼっち、最上級のぼっちストライキのこと。端からみていると多少不審な点はあるもののいつ始まったのか、いつ終わったのか、そもそも行われているのかも分からない。身体に一体化した幽霊が行い、身体の一部の動きを阻害する。ストライキと言って良いものかも不明。ただ一つはっきりと言えるのは酷く迷惑な行為であるということだ。
命名、俺。
ケンカした。幽霊と。
原因は憎きアイツ。
茶色い頭と白っぽい首。体中に菌を纏わせている、いや、体を菌で構成しているとは何とも気持ちが悪いだろう。
体臭がきつく、他のものにまでにも臭いをうつす。その自分勝手さに俺は強い憤りを覚える。
視界に入れるのも厭わしい。
とどのつまり、俺は言いたいことはーつ。
俺は椎茸が大嫌い、ということだ。
「もしや水村くんって椎茸のない茶碗蒸しを茶碗蒸しって言っちゃう系の人ですか?」
どんな系の人だよ。が、否定はしない。茶碗蒸しは茶碗蒸しである。
「何言っちゃってるんですか! 椎茸の入ってない茶碗蒸しはただのだし汁と卵を混ぜて蒸しただけじゃないですか!」
「それを茶碗蒸しって言うんだぞ」
「いいえ、違います!」
「お前、まさか……」
やけに力が籠もった口調に俺は嫌な予感がした。
「椎茸が……」
「だいっ好きです!!」
満面の笑みが思い浮かんだ。なん……だと。
そこからのことはハチャメチャだった。椎茸に始まり、これまた俺が嫌いなゴーヤの話に変わり、食事態度、そして授業を寝過ぎたと怒られ、お前が真面目だと言い返し、果てに幽霊は成績のことまで持ち出してきた。お前は俺の母親か!?
「もうお前、話しかけてくんなよ! てか出てけ」
「出ていけないから困ってんじゃないじゃないですか!? ええ! いいですよ。水村くんこそ勉強が分かんないからって聞いてこないで下さいよ!!」
絶交だっ! と今にもどちらかが言い出しそうな雰囲気だったが、それを言わなかったのは不離の状態だからである。
…………決してそう言いたくなかったから、というわけではない。
と、いうか何でこうなったんだっけ。椎茸のせいか。椎茸すごいな。やっぱりお前は悪い食べ物だな。
冬休みは、休みではない。補習があるのである。
幽霊と話さなくなって、二日がたった。些か、ほんの少し、寂しい気もした…………訳がないっ! 全くないぞ。ただちょっぴり退屈なだけだ。
それは幽霊も同じようで時たま、小さな溜め息がつまらなそうに頭に響く。
もう許して、というか仲直りしても良いかと思ったが、俺が話しかけてくるな、と言った手前こっちから喋りかけるのも癪で、結局むすっとしてこの二日を過ごしていた。
事件は英語の補習中に起こった。
うとうとしていた俺の手が勝手に動き出したのだ。消しゴムを突如もの凄いスピードで何も書かれていない机に擦りだした。
『ちょ……おい!』
心当たりはーつしかない。アイツだ。
声をかけても返ってこないが、どうせ、つん、と澄ましているはずだ。
消しゴムは配っていた予備校のパンフレットに入っていたものなので、安物どころか無料だが、小さくされても良い訳ではない。
しかし、止める術はない。ある程度消しかすが溜まると次は何かの形を作っていく。それは結局、補習終了まで続いた。
「みーずむら! 帰ろうぜってうわっ! なにこれスゲッ!」
完成品はこちら。
見事に咲いているバラらしきものの前で俺は、あっの野郎……っ! と呟いた。
二日目、猫。三日目、菊。四日目、ヒマワリ。
精巧に作られたそれらを前に俺はうなだれた。補習授業の半分は消しゴムを擦り、制作する時間となってしまった。
一度、補習、受けれねぇんだけど、と伝えてみたところ、一瞬手の動きが止まったが、どうせ寝るでしょう、と言いたげに右手で左手をデコピンされて終わった。確かに寝落ちしそうになっている時にこの図工は始まる。そんな時だから乗っ取られるのかもしれないが……。
これには流石に完敗である。完全なる敗北だ。最初に驚いたクラスメイトが言いふらし、手先が器用な水村くんが定着し始めているのだ。今はまだ補習授業だからいいが、冬休みが開けて、本格的に授業が始まったら、クラス中に広まるだろう。しかし、俺ははっきり言って不器用だ。家庭科の時間で期待を込められた視線を向けられても、応えることはできないのである。そんな居たたまれなさを味わいたくはない。
さて、仲直りの方法だが……。原因で解決したらどうかという結論に至った。
最近だんだんと分かってきたアイツの睡眠時間中にスーパーに行き、目的のものを買う。夜まで適当なところに隠しておいて、寝る前に机の上に置いた。要らないプリントの裏に〝食え〟とだけ書いて、それに添えた。
気付くかは不安だったが、朝には椎茸入り茶碗蒸しは綺麗に食べられていた。 プリントには〝スプーンがないです。〟が書き加えられいていたけれど仲直りは成功したみたいで、話しかけると返事が返ってくる。
俺と幽霊は今日もくだらないことを話しながら過ごしていく。椎茸は仲をとりもつこともできるまぁまぁな食べ物だと少し見直してやった。
始業式の次の日の放課後のことだった。体育館裏に呼び出しをくらった。と、言っても別に怖い先輩に呼び出されたわけではなかった。
「あの、水村くん! この手紙、貰って……くだ……さい」
差し出されたのは可愛いシールで閉じられたら封筒だ。差し出しているのはクラスでもまぁまぁ仲の良い女子だった。
と、いうかこれって……告白じゃねぇ! 俺、人生初の告白を受けてんのか! なんか怖いこと言われんのかとびくびくしてた俺がバカみてぇ!
「えっと……ありがとう?」
手紙とはまた古風な方法だ、と思いつつ、嬉しくないわけがない。俺が罰ゲームとかじゃないよな、とびくつきつつ、手紙を受け取るとそいつはふわっと微笑んで、去っていった。
シューと息が抜ける音がした。
「よっ色男水村君!」
どうやら口笛のつもりだったらしい。
「ははは、そんなことないよ」
思わず声に出てしまった。はい、俺、浮かれまくってます。
「ちなみに、今まで何回されたんですかー? 両手で数えられますかー?」
「嫌みったらしい奴だな。初だよ、初!! これが一回目!」
「零回だと数えられないですね」
幽霊の冷やかしも今日の俺は気にしない。
封筒を手の中でくるくると回す。太陽に透かしてみると、封筒の中身がぼんやりとうかんだ。表へ裏へとせわしなく封筒をひっくり返し……。
「……やっぱり私は出ていった方が良いですよね」
手が意図せずピタリと止まった。
「えへへ……。どうしたらいいんでしょうね……。水村くん、これじゃあ青春を謳歌できな」
「そんなことない!」
思わず俺はそう叫んでいた。
そんなことはない。絶対に。
心が繋がっているはずななのにうまく伝えられない。言葉どころか気持ちにも出来ないとは俺はどれだけ馬鹿なのか。
「そんなこと……ない……」
結局言えたのはそれだけ。
告白は断わった。好きな奴がいるんだと、そう言っておいた。
その日の夜。耳が痛くなりそうなほど静かさ。
アイツも寝てしまったらしく、俺の心の中も寂しく、しんっとしている。
俺は一人、布団の中で苦笑する。鼻の奥がつんとしていた。
冬の空は意外と好きだ。昼の天は高く、青く、夜は冬の大三角がキラキラ輝く。
今朝の空は雲一つない快晴で、冷えた空気が頬を刺すようだ。目が覚める。まぁ、この効力も学校に着くまでだが……。
「良い天気だなぁ」
「おう」
目を細め、声に応える。
本当に良い天気だ。窓際でたゆたっていたら、よく眠れそうだ…………うぉ?
俺、誰と話してた? アイツじゃない。そういえばやけにアイツが大人しい――。
「ほぅ。やはりお主、儂のことが見えておったか」
「イヤ――!!」
通学路で突然叫び出す制服を着た不審者の目撃情報多数。
岩の後の陰に隠れて俺は爺さんと二人で座っていた。どうせなら可愛い女の子がいい。
「お主、何かに憑かれとるな」
爺さんが言った。
「えっと、まぁ」
「ちょっと肯定しないでくださいって」
俺が頷くとすぐにアイツの声が響いた。爺さんは
フン、と鼻を鳴らす。
「隠し通せるとでも思っておるのか。格の違いを感じろ」
「分かってますよ、それくらい。これでも幽霊歴は長い方なんですから」
「まぁ、お前など、どうでもよい。儂が用があるのは……」
爺さんがこっちを見てきた。俺か……。たいしたこと出来ないですよー。
「別に無茶なことを言うわけではない。……ある人を探してほしいんじゃ」
「ある人?」
「水村君、話を聞くことないですよー!」
幽霊が頭の中で騒ぐ。騒ぐな。頭がギンギンする。
同じような存在だからか幽霊の声が聞こえるらしい爺さんが一喝した。
「うるさい小娘は黙っておれ!」
「むぐっ。む」
途端に静かになった。
「お、おい!」
俺は慌てて声をかけた。けれど、むーむー、という声が漏れてくるだけだ。
爺さんは大して気にせず、
「心配せんで良い。少し口をふさいだだけじゃ。話が進まんからな」
爺さんは一つ息をつき、背筋を伸ばした。本題にはいるようだ。
「……さて、儂はこの石に憑いておる、まぁ幽霊じゃな。死んで十年ほどになろうか……。本来ならばとっくに輪廻の導きに招かれているべきなのじゃが、この岩に座っていたら離れられなくなってな。今ではこの交通安全を願われた岩に憑く神様まがいの存在じゃ」
…………。
変換開始。
カミサマ。
かみさま。
Kamisama。
噛み様。
加味様。
……神様。
God。ワァーオゥ。イットイズアメージング。
俺は目をパチクリさせる。そんな俺を爺さんは半目で見つめた。
「お主、信じておらぬな」
「別に信じてないわけじゃない。驚いてるだけだ。で、爺さん……じゃなくて、神様? えっと……」
「好きな名で呼べば良い。生きていたころの名などもう意味はあるまい」
「えっと、じゃあ……」
背には岩。目の前には輝く頭。
ぱっと思いついた言葉を口に出す。
「禿岩」
「ぷぷっ! 最高です!」
ようやく呪縛を解いたらしい幽霊がころころと笑った。心がふっと温かくなって、俺も嬉しくなる。言うのも何だが、なかなか良いネーミングセンスじゃないだろうか。賞賛に値するってぇ!!
「いた! いたたたっ!」
「貴様! 皆、老いれば禿げるのだ。お主もさっさと邪魔な手など抜いてしまえ!」
「禿岩、俺に触れられたのかよ。いたっ! おい、俺の髪の毛から手を離せぇ!」
なんとか禿岩から逃れ、フーフー、と荒い息をもらす。人から髪の毛を取ろうとしたってそうはさせない!
同じように禿岩が息を乱しながら言った。
「ハーハァ……。くそっ。話がそれてしまったではないか」
「俺のせいじゃないぞ。というか、さっさと用件を言え。学校に遅れる」
「まぁ、これ以上時間をかけさせるのも悪いな」
そう言うと禿岩は懐を探る。しばらくして、おっあったあった、と声を上げ、俺の目の前に何かを掲げた。
「これを持ち主に返してほしい。それだけじゃ」
それは学生証だった。青い革のカバーのなかで一人の女の子がじっとこちらを見てきていた。緊張しているのか、顔はどこかぎこちない微笑みだ。印刷されている文字を見るにすぐ近くの公立中学校の生徒の持ち物らしい。
中学第三学年桧原心。
他にも住所と生年月日が書いてあり、個人情報満載だ。
「あ奴、これを落としていったのだ」
まるでよく知っているようなその口振りに俺は尋ねた。
「知り合いなのか?」
「知り合い……か」
禿岩は懐かしそうに目をきゅっと細めた。腕を組んで、遠くを見つめる。
「そうじゃな。しばらくの間、供え物を持ってきていたのだ。……そういえば話しかけられたことも一度だけあったな。応える前に去っていってしまったが。これを落としたのもその時だ。その日以来、一度も合っていない」
「なんか変なことでもしたんじゃないですか」
幽霊がそう言った。俺はてっきり禿岩が怒って言い返すと思った。けれど、禿岩は弱気な声で呟いた。
「……そうじゃろうか……」
ある一人の老人の声が響いた。
「だから、あの子は逃げたのか……?」
学生証を裏返し、元に戻しを繰り返す。しかし、何度見ても名前と、住所、生年月日……と最初に確認したこと以外、目に付くものはない。
一番、使えそうなのは住所だが……。
「いきなり会いに行ってもな……」
会ってくれるとは思えない。
「そうですよね……」
うーん、と二人で唸る。
中学校はとっくのとうに卒業しているようだし……。
「あっ! 良い方法思いつきました!」
ぽんっと手を打ったような音がした。
「生年月日から考えて、この桧原さん、去年でちょうど二十歳ですよ!」
『で?』
「もう! 今、何月だと思ってます? 一月ですよ。この時期に二十歳の人は大抵の人は地元に戻ってくるでしょう?」
一月……二十歳……。
正月帰省か? いや、二十歳関係ないし、もう終わってるしな。
後はセンターだが、それは高三。まさか二浪とかじゃないだろうし……。
……あっ。
「成人式!!」
やっと辿り着いた俺の答えに幽霊が満足そうな笑みを浮かべた気がした。
成人式が行れれている地元の公民館。その入り口でこそこそと俺は身を潜めていた。
今年の参加者は千人弱程度らしい。都会だと数万までいく所もあるそうなので、その点に関してはここが田舎町で良かった。が、それでも千人だ。この中から〝桧原さん〟を探すのかと思うと眩暈がしてきそうだ。
「水村くん。明らか不審者ですね……」
「しょうがねぇだろ」
目を右へ左へと動しつつ、小声で話す。一応写真を頼りにしているのだが、もう五年ほど前のものだし、成人式には皆、着物を着て、髪の毛を纏め、化粧をしている。知り合いに会ったって分からないかもしれない姿を知り合いでもなんでもない俺が見つけるなんてできるのか……。
って弱気になってんじゃねぇ!
俺は頭をぶんぶんと振り、
「あの……きみ?」
話しかけられた。
目の前には受付に立っていたお姉さんがいる。そして訝しげに俺を見ている。
やっばいですねー。
「不審者水村くん、職務しつもーん」
警察じゃないんだから、職務質問とは言わないだろ、と突っ込む余裕もない。
「さっきからずっとここに居るみたいだけどどうかしたのかな?」
えっと。えーと。
頭を必死に回転させる。
「あ、姉が忘れ物して、届けにききゃんですけど」
ぷぷっと頭の中で噴き出す音がした。
噛んだ。恥ずかしい。
幸いお姉さんはポーカーフェイスを保ってくれていた。辺りをキョロキョロと見渡して、お姉さんは眉をひそめると、
「でもこの人混みじゃあねぇ。見つかるかしら?」
「えぇと、えっとどうでしょう」
「そうだ! 成人式後には同窓会を各学校で行うのが毎年恒例なはず……。忘れ物に余裕があるなら、そっちの方に行ってみたらどうかしら?」
受付のお姉さんの助言により、俺は成人式が終わってしばらくした時間に桧原さんの母校に来ていた。と、言っても高校はしらないので中学校のほうだ。中学校で集まりがあるのか不安だったが幸い、ちらほらと人が集まってきている。
俺は校門の前に堂々と立ち、桧原さんを待ちかまえていた。こそこそしているから怪しまれるのだ、と学んだのである。
『お前も見つけたら教えてくれよ』
「もちろん了解ですよ」
冬の寒い中、何もせずに立っているというのはなかなか苦痛だ。手をグーパーさせながら、やってくる人の顔を追う。しかし、見つからず、もう入ったか、それとも来てないんじゃないか、とほぼ諦めていた時――。
「久しぶりだね、りなー!」
「心もおひさー! いつ振りだろ?」
〝心〟。その名前に俺は弾かれたように声の方を見た。
一人は赤い花が散りばめられた振り袖、もう一人は青と白の花のものだ。俺が見ているのは赤い花の方。
「あの人……ですかね? どことなく写真に似ているような気もします。どうしますか?」
どうするもなにも……。
「……渡すしかないだろ」
俺は小さく呟いた。突っ立っていてもしょうがない。俺はその女の人に近づいて、声をかける。
「あの! 桧原さんですか?」
少しその女性は戸惑って、俺を見つめながら、そうだけど……と首肯した。隣の友人が桧原さんを庇うように前に出る。
な、なんだかこれ簡単なようで、難しいミッションのような……。
「何? あんた?」
「えっと、あ、あの落とし物です!」
尖った声に俺は取りあえずそれだけ言って、学生証を桧原さんに押し付けた。
「では!」
と、同時に背を向けて去る。走りたいが流石にそれは怪しすぎるだろう。
「なんだか水村くん、競歩選手みたいで変ですよ」
『それくらい甘くみてくれよ。これでも緊張したんだからな』
「分かってますよ、それくらい。でも……まだ終わりじゃないみたいですよ」
『は!?』
「ついてきてます」
後ろから軽快とは言えない、今にも転んでしまいそうな足音が聞こえてきた。
「ねぇ! きみ!!」
振り返れば、桧原さんがそこにいた。胸に手を当てて、息を整えてから桧原さんは俺に尋ねてきた。
「これどこで拾ったの?」
「えっと……岩の所です。その中学校の近くに祀られている」
「これを落としたのは大分昔のことなんだけど……もしかして守り、じゃなくてお爺さんから貰ったんじゃ」
言いにくそうに桧原さんは言葉を選んでいる。
見えてるのか? 禿岩が。そういえば、禿岩も話しかけられたって言っていた。
「あの!」
言葉を詰まらせている桧原さんに意を決して、俺は声をかけた。
「見えてるんですか?」
それだけで伝わったのだろう。桧原さんは目を大きく見開いて、そして目元を和らげて何ともわからない表情で笑った。
「私ね、実をいうと子供のころお化けとか、幽霊とか……そういう類のモノが見えたのよ」
公園のベンチに座り、桧原さんはポツリポツリ、話し始めた。俺と桧原さんの手の中には自販機で買ったホットカフェオレがあった。缶コーヒーでも良かったのだが、アイツが苦手なのだ。
「中学生の時にね、通学途中に安全祈願のための大きな岩があって、そこにお爺さんが一人で腰かけてたのよ。私はすぐに分かったわ。この人はもう生きていないって。その頃は見えてしまうの嫌で嫌で堪らなくて……最初もその人のこと思えない振りをしていたの」
最初は目を背け、息を殺して、そろりそろりと。けれどそのうちにただのんびりと座って、岩に取り憑いていれだけだと分かり、気にせず通りすぎれるようになったそうだ。それでも話しかけることなどはなかったが。
「えっと、はげ……じゃなくてお爺さんからはあなたに話しかけられたってききましたけど……」
「私の友達がね、事故に遭いそうになったのよ」
ある雨の日。あの岩の前で。
バケツをひっくり返したような酷い雨だったらしい。
桧原さんのほんの二、三メートル先を歩いていた女の子がトラックに突っ込まれそうになったのだ。視界が悪くて、トラックの運転手が気づいた時にはもう遅く、実際に急ブレーキがかけられたトラックはその友人が立っていた位置を十メートル過ぎた辺りでようやく止まったらしい。
しかしそこに桧原さんの友人はいなかった。
ふわっと体が勝手に持ち上がり、風に舞う花びらのように運ばれて、気がついたら車からだいぶ離れた場所に座り込んでいた。続いて花柄の傘が服友人の隣へと丁寧に降りてきた。服はびしょびょになってしまったが、無傷。
何とも不思議な出来事である。見えない人から見ると。
桧原さんの目にはしっかり、友人を抱える禿岩、もといお爺さんの姿が写っていたそうだ。
それから、気が向いた時に友人を助けてくれた礼をこめて桧原さんは供物を置いていった。
花や饅頭、お酒。次の日に行くとなくなっていることも多々あって、なんだか嬉しかった、と桧原さんは言った。
「試しにスナック菓子を置いてみたら、三十分後にはなくなっていたから好きだったのかもしれないわね」
楽しそうにふふっと桧原さんは笑った。
しかしその生活も桧原さんが中学を卒業することで終わりを告げた。高校は県外で寮に入ることになっていた。
「声をかけてみたの、どうせ最後だと思ってたしね。ありがとうって、目を合わせて」
チョコレートを持ち、岩の前で桧原さんはそう伝えた。
「守り神様はびっくりしたらしくて、目を見開いててね……」
次の瞬間。
守り神様の体がすぅっと薄れていく。今度は桧原さんが愕然と目を見開く番だった。
「あの時かなりの間抜け顔だったと思うわよ、私」
桧原さんはぎゅっと振り袖を掴んで、言った。この時、桧原さんが感じたのは嬉しさとか、悲しさとか、そんな感情ではなく、ただただ消える姿は見たくないというものだったそうだ。
何も言わず、言えず、守り神様に背を向けて逃げるように立ち去った。いや、実際に逃げた。
「逃げ出したの」
二十歳の桧原さんはそっと目を閉じて、
「繋がってしまえば、触れてしまえば消えてしまうものだったのよ、きっと」
そう吐息とともに吐き出した。
それ以来そういったものは見ることができなくなった。
俺はその言葉に何か言い返したかった。今、俺は幽霊と一緒に暮らしているんですよ。一緒に。心繋げて。
「あの!」
けれどそれを口にすることはできず。代わりに一つだけ俺は聞いた。
「もうあそこに行くことは……」
「ないわ」
即答。
「だってもう会えないもの」
桧原さんはそう笑った。
禿岩には桧原さんが見える。桧原さんは見えない。
一方通行のそれはきっと会う、とは言えない。
見えないから、会えない。おそらく二度と。
それでも禿岩のもとを訪れてほしいと思ってしまうのは傲慢か……独りよがりの自己満足。
俺は手の中の缶を強く握りしめた。
それから、桧原さんは振り袖姿でコンビニまで走り、俺にチョコレートを差し出した。
「学生証、ありがとう。守り神様によろしくね」
手の中のカフェオレはとうに温くなっていた。
雪が降り出し始めた。大粒の雪が俺の視界を斜めに横ぎっていく。
どうりで寒いわけだ。
灰色の空を見て、俺はそう思った。
普段ならテンションが上がるのだが、今日はなんとなくそんな気に慣れなかった。
今は禿岩に報告するため、あの岩の所に向かっている。
滑りやすくなっている地面をそろりそろり、と踏みしめて、歩いていく。スニーカーの中に雪が染みてきて、気持ちが悪い。冷たくて、足の感覚がなくなってきてしまう。
雪はこの地域では珍しい、というほどではないが、一年に多くて四、五回というところである。何も今、このタイミングで降ることもないじゃないか、と悪戯な天気を少し恨んだ。
ザクザクと音を立てながら、ふと幽霊に尋ねた。
『寒くないか?』
「いえ……大丈夫です」
そこで会話が止まった。雪の日は雪が音を吸収する、というのをどっかで聞いたことがある。だから、こんなに静かなのだろうか。
「……水村くん」
『なんだよ』
「あの……大変言いにくいんですけど」
『だからなんだよ』
「私、幽霊じゃないかもしれないです」
は……?
「最初に言ったじゃないですか、天に向かってたって。実を言うと、もともと私、生き霊だったんです」
『生き霊?』
「本体が意識不明で。あの時フワーって体が浮いたので、てっきり死んだんだと思ってたんですよ」
てっきりって……おいっ! もうちょい真剣に考えろよ。
「死霊――いわゆる幽霊が人に取り憑いた場合、その人の生気を吸い取って同化していくか、それをしないで、馴染めずにそのうち追い出されるように出て行くかに別れるんです」
幽霊は淀みなく、説明していく。一年半以上の幽霊歴は伊達じゃないらしい。
『生気……って何もしてないだろうな』
「する訳ないじゃないですか、もうっ! そんなことしてたら、水村くん、今頃布団から出られないですから」
『うわっ、こわっ! それで? 役に立ちそうでそうでもなさそうな情報だが……』
幾分饒舌になった俺を気にせずに幽霊は続けた。
「私が水村くんに取り憑いてもう四ヶ月くらい経ちますよ。死霊が取り憑いたにしてはながすぎるんです。私が聞いた限りでは長くて一ヶ月半程度ですから、不自然です。それでもしかしたら、私はまだ生き霊なのかもしれない、と思ったというわけです」
生者である俺にはよく分からない話だった。が、俺が知りたいことは一つである。
『生き霊が出て行くにはどうしたらいいのか知ってるのか?』
「……いえ。分かってたら……やってますよ。何かきっかけがあるのかも……」
『ふーん、そうか』
分かってたら、やってるのか。
俺はそう興味がなさそうに返し、歩くスピードを少し上げた。
「怒ってますか?」
『別に怒ってねーよ』
「でも機嫌が悪そうな声です」
『じゃあ、機嫌がわるいんだよ。怒ってはない』
「何だか屁理屈な気がしますね。水村くんっていつも、――っ!」
青信号の横断歩道を歩いている途中だった。幽霊はひゅっと息をのんで、そして、
「横ですっ!」
キキーッとイヤな音がした。右を見ると、白い乗用車が雪に滑ったのか、赤信号にも関わらず、突っ込んできていた。
コマ送りされたように、はっきりとサイドミラーについている擦り傷も、車の中の人の引きつった顔も、助手席に置いてあるクッションの形までも見えた。
良い車だな。免許が取れるようになったら、あんなのに乗りたい。
状況に思考が追いつかなくて、暢気に俺はそんなことを思っていた。幸か不幸か周りに人はいない。いや、幽霊がいるか。俺が死んだら、出ていけるのかなぁ。
そんなことを思っていると、視界が不意に歪んだ。心からするりと大切なものが抜け出していき――。
――ふわっと体が持ち上がり、
――風に舞う花びらのように運ばれて、
――気がついたら車からだいぶ離れた場所に座り込んでいた。
まるで桧原さんの友達に起こった出来事をなぞったようだった。違ったのは雨ではなく、雪だったこと。トラックではなく普通の乗用車だったこと。
「幽霊……?」
そして、後に残ったのは安堵感でも呆然とした気持ちでもなく、ただただ喪失感だったことだ。
応える声はない。
「幽霊っ!」
静かだ。
俺はがむしゃらに手を伸ばし、何かに触れようとする。手が宙を掻き、雪を溶かし、俺は冷たさに震えた。
その手が、さらに冷たい物に触れた反射的にぎゅっとそれを掴むと握りかえされる。見えなかったが、何であるかは予想できた。
「ゆうれい……か?」
「きっかけを作れなんて言ってませんよ。まったく……心臓に悪いじゃないですか」
心の中からではなく、幽霊の声が鼓膜を震わした。
その瞬間。
――好きです。
溢れ出して伝えてしまいそうな思いが、必死に心の中に押し込んでいた思いが、抜け出したアイツの代わりに満たされていくのを感じた。
けれど、言葉にすることはできず、俺は問いかけた。
「……もしかして戻れそうなのか?」
「……はい」
「そうか、良かったな」
自分でも本心か分からない言葉が囗から出た。
もしかしたら、これって夢なのかもな……。この四ヶ月間が全部。触れてしまえば、繋がってしまえば、消えてしまう……。
桧原さんの言葉の意味が今、分かった気がした。
「元気になったら……」
そんな弱気な俺の考えを遮って、幽霊は息を吸い込んで少しずつ言葉を紡いでいく。
「元気になったら、きっと水村くんに会いに来ます。そうしたら……」
緊張を含んだ様子で幽霊は言った。
「そうしたら、またお話してくれますか?」
「――っ! 当たり前だろっ!」
コイツは馬鹿だ。なんでそんなことを聞くのか。
「話だけじゃない。一緒にご飯食べたり、遊びにいったり、他にもっ! いろいろ……」
ふふっと柔らかい笑い声。
「ありがとう」
そう言って、アイツは花が咲くように笑った。俺の人生の中で一番の笑みだ。
見えなかったのに、そうはっきりと分かった。
やがて一度強く握り合い、俺とアイツの手が離れ――。
後には何も残らなかった。
だって俺にはただ雪が降ってるようにしか見えなかったのだから。
高校ー年生。
俺は名前も顔も知らない相手に恋をした。淡く、弱く、初なものだったけれど、確かにあれは恋だったのである。
きっと実らないだろうと分かっていた。
それでも。……それでも。
後日、禿岩の所に行って見たが、何も見えなかった。見えないのに話しかけるのも何となく嫌で桧原さんとのことはできるだけ詳しく紙に書いて岩の前に置いた。もちろんチョコレートも。
次の日にはもうその紙もチョコもなくなっていた。その帰り際、そっと岩に触れてみた。何も感じられない。虚しくなって手を離そうとした時、頭を撫でるように風が吹いた。なんでか分からないけれど、その時幽霊と別れてから初めて泣きそうになった。
◇◇◇
アイツと出会った季節がまた巡ってきた。
俺は色付いた木の葉をぼんやりと見つめていた。少し肌寒くなってきた俺は枕代わりにしていたブレザーを渋々身に着け、大人しく朝のホームルームを待つ。静かな心の中では何か呟いても返ってこない。つまらなかった。
そうやって物思いにふけっている俺に去年も同じクラスだったソイツが話しかけてきた。
「なぁなぁ。水村! 今日、ウチのクラスに転入生がくるんだってよ」
「へぇ、そーなんだー」
俺の薄い反応を大して気にせず、ソイツはペチャクチャと説明する。
「その人かなり頭が良いらしいぜ。模試で県上位者なんだって。」
「へぇ……。てかお前よくそんなこと知ってるな」
「さっき職員室に行ったら担任が話しててさ。盗み聞きした。なんでも二年近く意識不明だったらしくてさ、本来なら一つ上の先輩なんだけど、俺達の学年に入るんらしいぜ」
二年近く意識不明……?
ちりっと頭の中を何か掠めた。空っぽの心がドクドクうるさい。
まさか。まさか……っ!
――会いに来ます。
時計の秒針が一秒、また一秒と正確に時を刻む。朝のホームルームまで、あと三十秒。
お読み頂きありがとうございました。
椎茸よ、見た目はともかく味普通に好きだぞ