エス・オー・エス
乱暴にドアを開け放つ音が響いた。
キーボードをたたいていた指が止まる。ノートパソコンに向かっていた女性、トビナガはメガネの奥の目を瞬かせた。画面右下、時計表示へ視線を落としてため息をつく。体を反るようにして腕を上へ伸ばし、ぐーっと伸びをした。
トビナガがそうしている間にも頭上ではとたとたと足音が駆け回っている。
先程、ドアが開いたのはこの部屋ではない。上の階、トビナガの部屋がアパートの304号室だから、おそらく404号室での出来事だ。
彼女がここに住んで3年ほど経つが、ここ1年くらいは夕方になると毎日この調子だ。
大家に苦情を入れようかと思ったこともあるが、自身の幼い頃を思い出してやめた。自分も兄も大人しい質ではなく、リビングから寝室まで追いかけっこしたりソファの上で飛び跳ねたりしては、親にしょっちゅう怒られるような子どもだった。今思い返しても上下の階の人には申し訳ないことをしたと思う。
この部屋だって、小中学校とほど近いファミリー向けのアパートだと知っていて選んだのは自分だ。甘んじて耐えようと決めた。
幸いなことに、音もそんなに大きくないし、騒がしくなるのは夕食前後くらいの時間なので、そこまで実害があるわけではない。
今では、もうこんな時間かぁ、などと時報代わりになるような有様だ。つくつぐ、人は慣れる生き物だと思う。
マウスのホイールを回して、画面に広がるアルファベットと数字の並びに目を通す。先ほど書き直していた部分に解説文を足して、パソコンを閉じた。
机の上のマグを手に取り、仕事部屋を出てそっとドアを閉じる。ダイニングに入ると流しにマグを置いてから冷蔵庫を開けた。昼の残りがあるので、それを温めることにする。
* * *
梅雨が明ける前に夏が本格化してきた。
熱い空気が服の中にもこもって、じっとりとまとわりついてくるのが不快だ。せっかくの晴れ間でもじめじめとしている。
スーパーから帰って来て、トビナガはアパートの玄関ホールに立ち尽くしていた。ある選択を迫られているのである。
階段で行くか、エレベーターで行くか。
筋力の衰えについて相談した際に、友人達に階段を使うように勧められた。在宅ワークも手伝って引きこもりがちなのだから、日常的に体を動かすことを意識した方がいい、と。
が、しかし暑い。じわじわ暑い。そんでもって汗が全然蒸発しない。
スーパーへ行って帰って来ただけでべしょべしょである。もうがんばれない。
昨夜の天気予報でも、無理な運動は避けるようにと言っていた。よっしゃがんばらない。
自己弁護を終えてエレベーターへ向かう。すぐついた箱に乗り込み、入り口脇の操作盤に向き直った時、よたよたと近づいてくる人に気がついた。
頭のてっぺんがトビナガの肩まであるかないかの小柄な女性が、トートバッグを両肩にかけていた。オーバーサイズのカーディガンにより余計に小さく見える上、膨らんだバッグはどちらもずっしりと重そうで、子どもが無理に大人の手伝いをしているような印象を受けた。
しかし、顔立ちや気疲れがにじんでいる表情から相手が成人した女性だと分かる。
乗り込んできたその人に声をかける。
「何階ですか?」
女性はびくりと体を跳ね上げたが、遅れてかすかに笑みを浮かべた。
「え、えっと、4、階です」
ボタンを押すと、小さくお礼の言葉が返ってきた。
3階でトビナガが降りる時も、小さな頭がぺこりと下げられた。
* * *
ある日の夜、夕食の片付けをしていると玄関チャイムが鳴った。
はて、と首をかしげながら手を拭いている間にも、ピンポーン、ピンポーンとくり返し鳴らされる。廊下へ出ると、どんどんどんっとドアが強くたたかれた。続いて、「おーい。ぅおーい」と間延びした男性の声が呼びかけてくる。
トビナガは足を止めた。
こんな時間にぶしつけに訪ねてくる知人などいないし、配達員がこのような乱暴を働くはずがない。
どきどきする胸を押さえながら、そぉっとドアに近づき、のぞき穴を確認した。
声の通り男性だ。白いワイシャツの男性がドアをたたいている。至近距離ゆえに見づらいが、見覚えのある相手だった。
同じ階、奥の306号室のオオノだ。彼が真っ赤に染まった顔をぐらぐら揺らしながら、どんどんとドアをたたいている。つまり、
「りつぅー? みはるぅー? もうねちゃったのかぁー? パパがぁ、かぁえってきたぞぉー?」
酔っぱらいである。
部屋を間違えてますよ、と教えてあげたいが、開けると酔っぱらいにドアがぶち当たる。
どうしよう。
ひっそり悩んでいると、外廊下の奥でドアが開く音がした。
「お父さん!? 何やってんの!?」
「あれぇ? りつぅ?」
「もー! ほら! こっち来て!」
ぱたぱたと少女が駆け寄ってきて、酔っぱらいの腕を抱えるようにしてドアから引きはがした。
ようやく開けられるようになったので、隙間から声をかける。
「リツちゃん? 大丈夫?」
「ぎゃ!? トビナガさん!?」
オオノの娘、リツは目を丸くして跳び上がった。
「ごめんなさい! お父さんかなり酔っぱらってるみたいで! ほんとごめんなさい!」
「大丈夫だよ。びっくりしたけど」
「ごめんなさいぃぃぃ」
かなり怖かったけれど、すでに涙目になっている非のない少女をとがめる気は毛頭ない。
ごめんなさい、とくり返しながらリツは父親を引きずっていった。対するオオノはへらへらと上機嫌だ。久しぶりに娘と手がつなげてうれしいのかもしれない。妻子からのお説教が待っているだろうから、束の間の幸せである。
ご機嫌な酔っぱらいが奥の部屋に押し込まれるのを見届けて、トビナガも自身の部屋に引っ込む。丁度、給湯機のチャイムが鳴ったので、お風呂に入ることにした。
洗い物の途中だったことは忘れていた。
* * *
次の日の夕方、そろそろ仕事を終えようかと確認作業をしていると、ピンポーンとチャイムが鳴った。どきり、とするがそれ以上くり返されずドアもたたかれない。
穴をのぞくと女性が一人立っていた。ドアから数歩離れて、提げている紙袋の中を確認している。見知った顔にほっと息をついた。オオノの妻、ミハルだ。娘のリツは彼女によく似ている。
ドアを開けて出迎えた。
「オオノさん、どうしました?」
「トビナガさん! 昨日はごめんなさい。怖かったでしょう?」
「まぁ、びっくりはしました」
「酔っぱらいが女の子の部屋に押し入ろうとするなんて、もう事件よ事件」
「女の子って歳でもないですよ」
「そんなことないでしょ。どれだけ怖かったか。ほんと信じられない!」
トビナガは苦笑した。ミハルは夫への怒りが治まらないらしい、ぷりぷりと怒っている様も親子でそっくりだ。
「それでね、リツに聞いたんだけど、トビナガさんプリンが好きなのよね?」
「ええ、まあ」
いつだったか、道路を挟んで向かいにあるコンビニでリツに会った時にそんな話になった。
うなずくと、ミハルはぱっと顔を輝かせた。白い紙袋をこちらへ差し出す。
「じゃあ、ぜひこれをもらってちょうだい」
視線を落とす。花冠のイラストがかわいいロゴに気がつく。以前もらい物で食べたことはあるものの、自分ではなかなか買いに行けない洋菓子店のものだ。
「え!? いいんですか!?」
「もちろん。普段からリツもお世話になってるし、そのお礼も兼ねて。……それに、」
ニコニコしていたミハルの顔がどんよりと曇る。
「あの人のことだから、多分またやらかすと思うのよね……」
「前にもあったんですか?」
「大学生の頃にねぇ、よくお隣さんのドアノブをガチャガチャしてたって言ってたわ」
「わぁ、夜中にやられたら泣けますね」
怖くて眠れなくなる。
などと話していると、トビナガの後方、部屋の奥でどんっと何か落ちたような音がした。ミハルが目を瞬かせる。
「あら? 何か崩れちゃったのかしら」
「ああ、いえ、うちじゃないと思います」
「うん?」
「上の部屋が、その、よく音がするんで」
「大丈夫なの?」
「四六時中というわけじゃないですし、人が暮らしている以上、多少は仕方ないですから」
「そうよねぇ」
ミハルがうんうんとうなずく。
「私もね、この前ね、重ねてたボウル落っことしちゃって、ガシャシャシャーンってすごい音だったわ。下の人はさぞびっくりしたことでしょうね。申し訳なかったけど、でも、ねぇ、いちいち謝りに行くのも迷惑な感じするでしょう?」
「こればっかりはお互い様ですからね。プリン、ありがとうございました」
「いいえ。こっちこそごめんなさいね。それじゃあ、また」
ニコニコと手を振って去って行く。
トビナガは中に戻ると、ダイニングテーブルに紙袋を置いた。ケーキ専用と言っても差し支えなさそうな白い箱を取り出して、いそいそと開ける。
「ふ、2つも入ってる……!」
1つはプリンアラモードのように生クリームと果物で飾り立てられたもの。もう1つは瓶に入ったとろりとやわらかいものだ。
アラモードは今日の夕食のデザートにして、瓶の方は明日のおやつにしよう。
宝石を見るような目でうっとりと眺めていると、ガタンっと頭上でものが倒れるような音がした。はっと我に返り、箱を閉めてチルド室にしまう。
夕食は軽いものにしよう。
* * *
数日後のある夜。
トビナガはベッドに腰かけて、うとうとと船をこぎながらスマホの画面をにらんでいた。
今日はついつい、いつもより長く仕事をしてしまい、夕食も遅くなった。明日は久々の遠出だというのに、そういう日に限ってやらかしてしまう。
電車の時間をよくよく確認して、アラームをセットする。
さぁ、そろそろ寝なくては。
スマホをベッド横のサイドテーブルに置く。
と、
とたとたと部屋に駆け込んでくる音が響いて、バンっと勢いよくドアが閉まった。
もちろんトビナガの寝室での出来事ではない。上の階、404号室だ。今日は珍しく静かだと思っていたのに。
足音はベランダに続く窓の方へ向かった。飛び跳ねているのか、とんとんと連続して衝撃音がする。大きい音、というわけではないが、部屋の空気を揺らすような不快感がある。
やがて跳ねる音が止む代わりに足音が部屋を横切って、ガタガタと固いものを引きずる音がした。これもトビナガには耳障りに感じられた。
言い訳をさせてもらえるのなら、トビナガは眠かった。眠気がピークだった。普段ならもう眠っている時間だったのだ。
彼女はにらむような目で辺りを見回しながら立ち上がった。タンスの横にウェットシート式のモップが立てかけてあった。それをむんずとつかみ、平たい方を下に向けたまま、柄の先端を天井へ突き出した。
どんどん!
ノック音が響き、応えるように静寂が訪れる。静かになった、とトビナガは満足し、
ドン! ドンドンドン! ドンドン!
返ってきた音に身をすくめた。眠気が吹っ飛ぶ。自分の行いを思い返して青ざめる間も音は続いていた。
ドン! ドンドン! ドンドンドンドン――
不規則に、力強く音は続く。
音楽でも、言葉でもなく、ただこの音よ届けと力いっぱい、たたかれている。
トビナガは怖くなった。相手を怒らせてしまったのだと。必死さすら感じるがむしゃらな音が恐ろしい。
ドンドン!
この部屋にはいられない。
モップを放り出し、かき集めるような動作でタオルケットと枕を抱えて寝室を出た。ダイニングに飛び込むと、とにかく寝室から遠ざかるように部屋の角に身を寄せた。
タオルケットを頭から被り、暗い中で小さく小さくなった。枕をぎゅうぎゅう抱きしめて目をつむる。
まだ、あの音が聞こえてくるような気がした。
――ピンポーン……ピンポーン……。
意識がゆらりと浮く。視界は真っ暗だ。もそもそとタオルケットから顔を出す。テーブルの脚が見える。
ぼんやりした頭のまま身を起こして時計を探す。サイドボードの上にある。午前2時。
ピンポーン……。
ここでようやくチャイムが意識に入ってきた。
誰だ。こんな時間に訪ねてくる知人などいないし、配達員のはずもない。
そこまで考えて、一人心当たりを見つける。同じ階のオオノだ。また酔っぱらっているのだろう。
ふぃーと息と共に力を抜く。床に転がっている枕にうつぶせになって目を閉じる。
ピンポーン……。
オオノには悪いが、とにかく眠い。じきにリツかミハルが迎えに来るだろう。
ピンポーン……――
はっと目が覚める。
がばりと身を起こすとタオルケットが吹っ飛んだ。トビナガはダイニングテーブルと壁の間に座り込んでいた。
え? どうしてダイニングで寝ているんだ……?
と疑問符が浮かぶが、すぐに昨日の恐ろしさがよぎって撃ち落とした。
切り替えるためにバチリと自身の両ほほを打つ。立ち上がると、床の硬さのせいで体の節々がギシギシ痛んだ。サイドボードの上の時計を見る。
もう出るはずの時間だった。
「何でアラーム……あれ!? スマホは!?」
床に落ちたタオルケットと枕をそのままに寝室に駆け込む。スマホはベッド横のサイドテーブル、の下に落ちていた。アラームの振動のせいだ。
あわてて拾い上げて出かける準備を始めた。
* * *
用事が無事に済んで家に帰る。
日が高いのでもう5時というよりまだ5時という気分だ。いつものスーパーで夕食のついでにプリンも購入する。
とにかく疲れた。ぷるぷるとしたやさしい甘さに癒やされたい。
アパートに近づくにつれて違和感に気がつく。妙に人が多い。ざわざわとみんな落ち着きがない。
疑問と警戒に体を固くしながら玄関ホールに向かうと、お巡りさんが立っていた。実際の役職などトビナガには分からないが、お巡りさんという言葉で想像される青い制服警官が門番のように立っていた。
戸惑うトビナガに声をかけてくる。
「住人の方ですか?」
「は、い……」
だいぶ挙動不審だった自信があるが、止められることなく入れてもらえ、普通に3階まで上がれた。
何? 何だ?
不安を抱きながら、よたよたと自分の部屋の前にたどり着く。
外廊下の奥にスーツの男性が二人立っていた。オオノの部屋のドアが開いていて、青ざめたミハルが何やら話している。ちらり、と三人の目がこちらに向いた気がした。
ざわめきを飲み込むように胸を押さえてドアを開ける。ダイニングで買ったものをしまっていると、チャイムが鳴った。
来た。
どきどきしながら玄関に出る。先ほどのスーツの男性、それぞれ20代と40代くらいの二人組が並んでいた。
「304号室のトビナガさんですね。少々お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「はい」
手帳を見せられる。やはり刑事だった。胸がうるさい。自分が悪いことをしたわけでもないのに。
「いつもこの時間にご帰宅ですか?」
「いえ……在宅で仕事をしているので、普段は家にいることが多いです」
「では、昨日もずっとご在宅でしたか?」
「はい……。あ、いや、昼過ぎに一度そこのコンビニに行ってます」
ささいな矛盾ですらとがめられるのではとひどく緊張する。
刑事達はふむふむとうなずいた。
「では、昨日、何か気がついたことはありませんでしたか?」
「気がついたこと?」
「不審人物を見たとか、争うような声を聞いたとか」
「声、ですか?」
声は、聞いていないけれど。
「あ、の、」
「はい」
「昨日の、夜に、上の部屋が騒がしかったと、思います。走るような音がしてました」
彼らが探っているのはこのことではないと、そう思いたかったのに、二人は身を乗り出してきた。
「昨日の何時頃でしたか?」
「12時? いや、1時だった、かも?」
「午前0時から1時までですね。いつまで音がしてましたか?」
「分からないです……」
「だいたいでいいですよ」
「寝てしまったので、分からないんです」
若い刑事が目を見張った。
「え? 気にならなかったんですか?」
「いや、」
気になったけれど。怖かったけれど。
「いつものことだったんで」
「いつも夜中に音がしていたんですか?」
「いえ、いつもは夕方頃でした」
「どんな音でしたか?」
「……走ったり、跳ねたり、物を落としたり? そんな感じ、でした。……あ、ドアを閉める音が、時々大きかったです」
年輩の刑事が眉根を寄せ、それを見て若い方もぐっと唇を引き結んだ。
トビナガのこめかみを嫌な汗が伝う。
重要なことを知っていたのに、それを見落としたことを責められているような、そんな心地がした。
凍る舌をしったして口を開く。
「あの、何があったんですか? 何を調べているんですか?」
若い刑事がちらっと年輩の方を見る。相方にうなずきを返されて、口を開いた。
「404号室の方と面識はありますか?」
「……いえ」
ずっと心臓が嫌な音をたてている。その音が、大きくなった気がした。
「404号室のオトナシ セイコさんが、今朝、遺体で発見されました」
胸がぎゅうっと絞られる。息が苦しい。
「……上で、ですか?」
若い刑事が戸惑いを浮かべて傍らを見る。トビナガは問いを重ねた。
「奥の部屋、ですか? ベランダに面した、こっち側の部屋?」
右手をあげて指し示す。刑事達から見たら向かって左の部屋だ。
「そこで音を聞いたんですね?」
年輩の刑事が問いを返した。それは肯定であると、トビナガは思った。
息が苦しい。
奥の部屋、今右手が示すその部屋で、人が死んだ。
トビナガが普段寝ている部屋の、その上で!!
どくどくと自身の血潮の音がうるさくて、他の音が聞こえなくなる。目の前に立つ刑事達が血相を変えて何やら呼びかけてくるが、全て遮られてしまう。
あの時、天井と床とで隔たれたあの上で、床をたたいていたのは誰だったのか。
必死に床をたたいていたのは、音楽でも言葉でもなく、ただ己の存在を伝えるために床をたたいていたのは誰だったのか。
ぐらぐら視界が揺れる。
全てが白く明滅して、トビナガの意識ごとぶつりと切れた。
あの音に込められていた"声"が、ようやくトビナガに届いた。
END




