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空白の春

作者: 霜月希侑
掲載日:2026/06/03

春の風は、思っていたより冷たかった。


駅前を歩くスーツ姿の人たちは皆、どこかへ向かっている。改札を抜ける人、スマホを見ながら足早に歩く人、会社のロゴが入った社員証を首から下げている人。


私はその流れの外側に立っていた。


二十四歳。


もうすぐ二十五歳になる。


一年前、私はうつ病と診断された。


当時のことを思い出そうとしても、うまく思い出せない。毎日が灰色で、朝起きるだけで精一杯だった。何度も転職を繰り返し、そのたびに「今度こそ」と思った。


けれど続かなかった。


そして、二ヶ月間の入院。


病棟の白い天井。

消灯後の静かな廊下。

眠れない夜。

泣き声。

看護師さんの優しい声。


あの頃に比べれば、今の私はずっと元気だ。

ご飯も食べられる。

眠ることもできる。

笑うことだってある。


だからみんな言う。

「良くなったね」

「元気そうだね」

その言葉は間違っていない。


でも、なぜだろう。

良くなったはずなのに、心の中にはぽっかり穴が開いていた。


私は看護師だった。

誰かを支えるこの仕事が大好きだった。

患者さんと話す時間が大好きだった。

患者さんの回復を見届けるのが大好きだった。


だけど今は、復帰できる未来が想像できない。

病棟の忙しさを思い出すだけで胸が苦しくなる。

また働けなかったらどうしよう。

また迷惑をかけたらどうしよう。

また壊れてしまったらどうしよう。

そんな考えばかり浮かぶ。


無職になって三ヶ月。

カレンダーだけが進んでいく。


でも、同期たちは違う。

SNSを開けば、夜勤明けの写真や指導者として奮闘する日々の報告が流れてくる。

後輩はもう私より仕事ができるようになっている。


みんな前に進んでいる。

私だけが止まっている。

私だけが取り残されている。

そんな気がしてしまう。


駅前のベンチに腰を下ろし、私は空を見上げた。

雲ひとつない青空だった。

「私は、この先どうなるんだろう」

誰に聞くでもなく呟く。

返事はない。

当然だ。

未来なんて誰にも分からない。


その時、不意に病棟で出会った女性の言葉を思い出した。

「焦らなくていいよ」

退院の日、彼女はそう言った。

「私たち、ずっと走り続けてきたじゃん」

私は何も言えなかった。


彼女は笑って続けた。

「だから今は休憩の時間なんだよ」

その時は綺麗事だと思った。


でも今なら少しだけ分かる気がする。

私は怠けていたわけじゃない。

立ち止まりたくて立ち止まったわけでもない。

生き延びるために休んでいたのだ。


風が吹く。

桜の花びらが一枚、膝の上に落ちた。

私はそれを指先でつまむ。

未来はまだ見えない。

看護師に戻れるかも分からない。

また働けるようになるかも分からない。

不安は消えない。

怖さも残っている。


それでも。

去年の私がここに座っていたら、この青空を見る余裕さえなかっただろう。

そう思うと、ほんの少しだけ胸が温かくなった。


取り残されたのではない。

私はただ、別の道の途中にいる。

その道がどこへ続いているのかはまだ分からない。

けれど、春の風の中で私は初めて思った。


急がなくてもいい。


未来の私は、まだ終わっていないのだから。

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