空白の春
春の風は、思っていたより冷たかった。
駅前を歩くスーツ姿の人たちは皆、どこかへ向かっている。改札を抜ける人、スマホを見ながら足早に歩く人、会社のロゴが入った社員証を首から下げている人。
私はその流れの外側に立っていた。
二十四歳。
もうすぐ二十五歳になる。
一年前、私はうつ病と診断された。
当時のことを思い出そうとしても、うまく思い出せない。毎日が灰色で、朝起きるだけで精一杯だった。何度も転職を繰り返し、そのたびに「今度こそ」と思った。
けれど続かなかった。
そして、二ヶ月間の入院。
病棟の白い天井。
消灯後の静かな廊下。
眠れない夜。
泣き声。
看護師さんの優しい声。
あの頃に比べれば、今の私はずっと元気だ。
ご飯も食べられる。
眠ることもできる。
笑うことだってある。
だからみんな言う。
「良くなったね」
「元気そうだね」
その言葉は間違っていない。
でも、なぜだろう。
良くなったはずなのに、心の中にはぽっかり穴が開いていた。
私は看護師だった。
誰かを支えるこの仕事が大好きだった。
患者さんと話す時間が大好きだった。
患者さんの回復を見届けるのが大好きだった。
だけど今は、復帰できる未来が想像できない。
病棟の忙しさを思い出すだけで胸が苦しくなる。
また働けなかったらどうしよう。
また迷惑をかけたらどうしよう。
また壊れてしまったらどうしよう。
そんな考えばかり浮かぶ。
無職になって三ヶ月。
カレンダーだけが進んでいく。
でも、同期たちは違う。
SNSを開けば、夜勤明けの写真や指導者として奮闘する日々の報告が流れてくる。
後輩はもう私より仕事ができるようになっている。
みんな前に進んでいる。
私だけが止まっている。
私だけが取り残されている。
そんな気がしてしまう。
駅前のベンチに腰を下ろし、私は空を見上げた。
雲ひとつない青空だった。
「私は、この先どうなるんだろう」
誰に聞くでもなく呟く。
返事はない。
当然だ。
未来なんて誰にも分からない。
その時、不意に病棟で出会った女性の言葉を思い出した。
「焦らなくていいよ」
退院の日、彼女はそう言った。
「私たち、ずっと走り続けてきたじゃん」
私は何も言えなかった。
彼女は笑って続けた。
「だから今は休憩の時間なんだよ」
その時は綺麗事だと思った。
でも今なら少しだけ分かる気がする。
私は怠けていたわけじゃない。
立ち止まりたくて立ち止まったわけでもない。
生き延びるために休んでいたのだ。
風が吹く。
桜の花びらが一枚、膝の上に落ちた。
私はそれを指先でつまむ。
未来はまだ見えない。
看護師に戻れるかも分からない。
また働けるようになるかも分からない。
不安は消えない。
怖さも残っている。
それでも。
去年の私がここに座っていたら、この青空を見る余裕さえなかっただろう。
そう思うと、ほんの少しだけ胸が温かくなった。
取り残されたのではない。
私はただ、別の道の途中にいる。
その道がどこへ続いているのかはまだ分からない。
けれど、春の風の中で私は初めて思った。
急がなくてもいい。
未来の私は、まだ終わっていないのだから。




