「こんにちは、貴女と婚約破棄した男の妹です。代わりと言ってはなんですが、私と結婚しませんか?」
(……はぁ)
クローディア公爵家の庭で開かれたお茶会の場。
その一角で、マナは今日何度目かという溜息を吐き出した。
肩口で切りそろえられた細く艶やかな闇色の髪。凛々しく整った顔立ち。肌は雪のようにきめ細かく、同年代の女性と比べるとすらりと背が高い。その身には父親に用意された白と青のドレスを纏っており、様になっている。
伯爵家令嬢として申し分のないはずの彼女だが、表情には憂鬱の色が滲んでいた。
遠巻きに自分を見つめる令嬢たちのひそひそとした声が耳に届く。
「見て、あそこにいらっしゃるの姫騎士様よ」
「ま、ほんと。姫騎士様」
「姫騎士様がお茶会に参加なさっているなんて珍しいわね」
「でも姫騎士様の着飾られたお姿も本当に素敵だわ」
噂好きの令嬢たちに、マナが視線を向ける。
目があった途端、彼女らは頬を赤らめて顔を逸らし、そそくさと逃げるようにどこかへ行ってしまった。
(この光景を見るのも何度目だろうか……)
マナは再び溜息を吐いた。
ノーラン伯爵家の令嬢であるマナが令嬢たちから「姫騎士」と呼ばれている理由。
それはマナが王国騎士団に所属する王国騎士だから。
ノーラン伯爵家は古くから王国騎士として王国に尽くしており、騎士団のまとめ役を務めている。その家に生まれたマナは、幼い頃から当然のように剣術を習い、何の疑問を抱くこともなく、兄たちと同じように王国騎士団に入団した。
マナの実力は、次期副団長候補と言われている長兄に負けず劣らずと言われている。
今では第二王女の警護を任されるほどだ。
伯爵家の令嬢でありながら、第二王女の警護をするほどの王国騎士。
だから「姫騎士」。
誰が言い出したかは不明だが、いつしかマナはそう呼ばれるようになっていたのだった。
令嬢たちから向けられる熱っぽい視線や噂話から逃れるため、マナは会場の端っこに移動した。
植えてある樹木の幹に背を預け、空を見上げる。
マナの心中とは裏腹に、澄んだ青空が広がっていた。
本来ならば、この時間は騎士団の駐屯地で剣の稽古をしているはずだった。
だというのに、慣れぬドレスに身を包み、剣ではなくグラスを手にしている。
(……やはり、来なければ良かった)
幼いころから兄たちと一緒に騎士として育ったマナには、お茶会や社交界といった場は何度経験しても居心地が悪い。特に令嬢たちが繰り広げる「誰と誰が好き同士」だとか「誰と誰が婚約した」といった甘い恋愛話やゴシップめいた噂話も苦手だった。
マナが後悔していると、不意に視線の先にいた人々が何かを避ける様に左右に散った。
その空いた中央を通って、柔らかな笑みを湛えた金髪の若い男性がこちらへやって来る。
「やあ、マナ」
「……エナサン様」
彼はエナサン・クローディア。
クローディア公爵家の長男にして、この茶会の主催者。
そして、マナの婚約者でもあった。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「お礼なんて必要ないよ。君は僕の婚約者なんだからさ」
柔和な笑みを向けられる。
「今日は騎士団の仕事は大丈夫だったの?」
「はい。元々お休みをいただいていた日でしたので」
「そっか、だったら良かったよ」
嘘である。
今日は元々お休みをもらっていた日ではなく、お茶会に出席するために無理を言って休暇をもらったのだった。
エナサンの父親であるクローディア公爵には婚約の際に「騎士団の仕事を優先してくれて構わない」と言ってもらっている。しかし、マナの父親であるノーラン伯爵が許してくれるはずもなく、マナはエナサンからお茶会に誘われるたびに騎士団の仕事や鍛錬を休んで出席をしているのだった。
流石に第二王女の公務と重なれば、騎士団の仕事を優先できるのだが、残念ながら今のところは一度も日程が被ったことはなかった。
「マナ。楽しんでいるところ悪いんだけど、二人で少し話がしたいんだ。いいかな?」
「構いませんが」
周りにいる令嬢たちに断りを入れて、エナサンが「行こうか」と歩き出す。
エナサンに案内されたのはお茶会の会場から少し離れた場所にあるローズガーデン。
その中に建つ、白色を基調とした東屋だった。
「それで……お話というのは」
「僕たちの将来のことをちゃんと話したくて」
「将来ですか」
「マナは、やっぱり騎士を辞めるつもりはないのかい?」
そのことか、とマナは心の中で今日一番の溜息を吐いた。
婚約後、そして結婚後もマナが王国騎士でいることについては、婚約の際に決着がついている。続けたいというマナの意見をクローディア公爵が認める形となり、それならばとノーラン伯爵家も賛同したのだった。
だというのに。
この男、エナサンだけは一貫して反対の姿勢を崩さないのだった。
自分の妻が騎士を続けることは絶対に認められないらしい。
マナには自分の屋敷に居て、自分のことを支えてほしいのだそうだ。
「……その件は婚約の際にお伝えをして決まったはずです」
「それは僕も分かってるよ」
だけどね、とエナサンが否定するように言葉を続ける。
「僕もね、別に君を縛りたいわけじゃあないんだ。でも、騎士の仕事というのは大変だろう? 僕は君のためを思って言っているんだ」
「…………」
「ずっと騎士をしてきたから急に辞めるのは不安かもしれない。でも安心してほしい。君のことは僕がきっと守る。だから」
「……エナサン様が色々と考えてくださっていることはよく分かります」
とは言いつつも、内心ではよく分かっていない。
どうしてエナサンはマナが騎士を辞めることにこだわるのだろうか。
クローディア公爵もノーラン伯爵も認めたことを一人で反対するほどのことなのだろうか。
兎も角として。
マナの気持ちは生まれてから一度も変わらない。
「ですが、私自身と騎士であることは同義です。騎士でない私は私ではありません」
「……そうか。どうしても騎士を辞めるつもりはないんだね」
「はい」
「分かった。そこまで言うのなら、僕も諦めるよ」
ふぅ、とエナサンが溜息を吐き出す。
それはマナの意志を尊重してくれる、ということだろうか。
だが、あれだけマナが騎士を辞めることに固執していたエナサンが簡単に認めてくれるとも思えなかった。
エナサンはおもむろに立ち上がると、マナを見下ろして言った。
「――では、この婚約はなかったことにさせてもらう」
「……え?」
一瞬、マナはエナサンが何を言ったのか理解ができなかった。
耳には届いたのだが、その意味を脳が理解するまでに数秒の時間を要した。
(なかったことにする? 婚約を……?)
それはつまり、マナとエナサンの婚約を解消するということ。
エナサンが破棄するということだった。
思いもしない言葉にマナは目を大きく開く。
「何故ですか!?」
「何故と言われても、君が騎士を辞めないのなら僕は君と結婚をする気はない。それだけだよ」
「し、しかし。それはエナサン様のお父様、クローディア公爵様が良いと仰ったことです。婚約の場で取り決めたことで――」
「――僕は僕の話をしているんだッ!」
マナの言葉を遮るようにエナサンが糾弾するように言った。
これまで聞いたことのない声、そして態度にマナは面食らってしまう。
「これまで父上のためにも我慢をしてきたがもう限界だ。ここまで強情な女だとは思わなかった!」
「エナサン様? 何を仰って……」
「黙れ! 父上も父上だ。どうして女のお前に結婚後も騎士を続けて良いなんて約束してしまったんだ。僕の立場がないじゃないか。自分の妻が騎士をしているなんて、僕が周りから何を言われるかっ」
まるで悲劇のヒロインを演じているかのように、大立ち回りを繰り広げるエナサンをマナは黙って見ていることしかできなかった。
「女のくせに結婚しても騎士を続けたい? ふざけるなよ。僕が周りからどう思われるかも理解できないなんて恥ずかしい。マナ。お前のような可愛げのない女となんて結婚できるはずがない! こんな婚約、破棄だ破棄!」
早口でまくし立てたエナサンは、息が上がって肩で息をしていた。
怒りのせいか歯を食いしばっており、歯茎までむき出しになっている。
その顔でマナを睨みつけていた。
これまで見てきた好青年の印象は欠片ほどもない。
豹変とも言えるエナサンの言動にマナは絶句していた。
やがて息が整って落ち着いたエナサンが東屋の横へ視線を向ける。
「――ウェンディ、おいで」
エナサンが口にしたのは、マナが知らない女の名だった。
一瞬の間があって、どこかで待機していたのか一人の少女が姿を見せる。
「はいっ、エナサン様」
現れたのは、色素の薄い水色の長い髪をした小柄な少女だった。
大きな瞳のあどけなさが残る愛らしい顔に笑顔を湛えて、エナサンの元へ駆け寄っていく。鮮やかな青色のドレス姿はまさに可憐なお姫様といった風で、何もかもがマナとは正反対の少女だった。
エナサンがまるでマナから守るみたいにウェンディの肩を抱いて、自分の傍に寄せる。
傍から見ればマナとエナサンが対立しているように見える構図だった。
「ウェンディ、聞いていただろう? 僕はこの女と婚約を破棄する。だから君と結婚をするよ」
「本当!? 嬉しい!」
表情をぱあっと明るくさせたウェンディがエナサンの首元にぎゅっとハグをする。
この場にマナもいるというのに全く意に介していない振る舞いに、マナは眩暈がするようだった。
いや、当てつけのように見せつけているのかもしれない。
(………)
今にして思えば、マナはエナサンに対して愛情表現と呼ばれるような言動を一切したことがなかった。キスやハグどころか、手を触れたこともない。お茶会に出席しても、騎士団の仕事を理由にすぐ帰っていたので当然かもしれないが。
二人きりで会ったことも数えるほどしかなく、式典や会食などで両家の家族を交えて会うくらいのものだった。
――可愛げのない女
エナサンの言葉が伽藍洞のような胸に虚しく響く。
ウェンディのような少女を可愛げがあるというのならば、たしかにマナは可愛げのない女だっただろう。
まるで小さな子供のようにはしゃいでいるウェンディの頭を撫でて、エナサンが改めてマナへ顔を向けた。
その表情は、つい先ほどまで婚約者だった人間に送るものとは思えない厳しいものだ。
「マナ。数日のうちに婚約破棄の正式な手続きを行う。そちらにも通知されるだろう」
「……はい」
「悪いが今日はもう帰ってくれ」
マナはもう声を出す気力さえ湧かず、小さく頷くのが精一杯だった。
ウェンディの肩を抱いてエナサンが東屋から立ち去ると、辺りには静寂が下りる。
のどかな昼下がりはまさにお茶会日和で、爽やかな風が優しく頬を撫でた。遠くからは鳥のさえずりや会場にいる令嬢たちの明るい笑い声が聞こえてくる。
だというのに、マナは冷たい空気に押し潰されそうだった。
世界にたった独りだけ取り残されたようだった。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
これから、どうなってしまうのだろう。
マナは東屋にあるテーブルと椅子から動けなかった。
帰ってくれと言われたが、すぐには動けそうになかった。
顔を俯けたまま、真っ白なテーブルをただ見つめる。頭の中はぐるぐると思案が巡っていた。
そもそも、こんな一方的な婚約破棄が認められるのだろうか?
きっと認められるのだろう。
彼は公爵家の長男だから。
いくら互いの家同士が決めた婚約で、互いの父親同士が乗り気だったとしても、本人が嫌だと言えば考え直さねばなるまい。公爵家の長男が言っているのだからクローディア公爵も無下にはできまい。
婚約を破棄されて、この先どうなってしまうのだろう。
ノーラン伯爵家は? 父上は、兄上は、王国騎士団は?
マナの頭の中は様々なことや駆け巡って、いっぱいいっぱいになっていた。
だが、何を考えたところで無意味だった。
どこまで行ってもマナが婚約を破棄されたという事実のみがあるだけだった。
泣いて縋れば良かったのだろうか?
いや、とマナは自嘲する。
それができる人間だったなら、そもそもマナは「可愛げがない」などと言われて愛想を尽かされていなかっただろう。
(…………)
父親にも、母親にも、兄にも、ノーラン伯爵家に関係する全ての人に合わせる顔がない。
しかし、いつまでもクローディア公爵家の庭にいるわけにもいかない。
マナはもう、婚約を破棄されてしまったのだから。
帰ろう、と顔を上げたときだった。
「――どうかされたんですか?」
どこからか声を掛けられて、顔を向ける。
エナサンとのやり取りも聞かれたのだろうか、と冷や汗が滲む。
だが、そこにいたのは。
「レジーナ様」
レジーナ・クローディア。
クローディア公爵家の令嬢でエナサンの妹。
美しく長い金髪、プラチナブロンドをした小柄で華奢な、マナの義理の妹になるはずだった少女が心配そうにマナを見つめていた。
「マナさん、お顔色が悪いようですけれど……」
「あ、いえ……これは……」
「お一人ですか? お茶会は」
「それ、は……」
マナは言葉に詰まってしまった。
いくらエナサンの妹とはいえ、婚約破棄の件を話してしまっても良いのだろうか。
レジーナはどういうわけかマナに懐いてくれていた。エナサン以上に歓迎してくれていた。
(……もしかしたら)
レジーナがエナサンとの間を取り持ってくれるかもしれない。
この場において、レジーナはマナが唯一頼るのことのできる相手だった。
利用するみたいで気は進まないが、迷っている余裕は今のマナには皆無だった。
一縷の望みにかけて、マナは先ほどのエナサンとの出来事を話し始める。
「実は――」
エナサンに告げられた婚約破棄について。
マナが一部始終を話し終えると、レジーナはまるで自分のことのように悲痛な表情を浮かべた。
「――そのようなことが……。お兄様が大変申し訳ございません」
レジーナに頭を下げられて、マナは慌てて胸の前で手を振った。
「謝らないでください。悪いのは私ですから」
「いいえ、マナさんは決して悪くないわ。だってマナさんの騎士のお勤めについては婚約の時に話し合われたはずでしょう? 悪いのはお兄様です」
テーブルの上に乗せている両手の小さな拳をレジーナがぎゅっと握りしめる。
「自分のことばかり考えて、両家の約束を一人で反対して……。それで自分は他の女性に現を抜かしていたなんて……。なんて馬鹿な人なんでしょう」
自分の兄よりもマナの肩を持ってくれて、怒りを抱いてくれているレジーナの姿にマナは少しだけ救われる気持ちだった。
レジーナならば、やはり力を貸してくれるかもしれない。
「レジーナ様。エナサン様との間を取り持ってはくださいませんか? このままでは、私はノーラン家に顔向けができません……」
「もちろん。私にできることでしたら、何でもお力添え致します」
快く承諾してもらって、マナはほっと安堵した。
だが、すぐにレジーナは「ですが」と顔を曇らせた。
「あのお兄様のことですから、変わらないと思います」
「それは……」
レジーナの言う通りだった。
仮に間を取り持ってもらい、よしんば話し合いができたとしても。
それでエナサンの考えまでも変わるわけではない。妹であるレジーナに何を言われたところで、マナが王国騎士を辞めない限りは婚約破棄を撤回することはないだろう。
それでは意味がなかった。
やはり、マナが王国騎士を辞める他には方法はないのだろうか?
それでも間に合わないかもしれないが、ノーラン家を守るにはそれしかないのかもしれない。
「あの、マナさん」
「はい」
「お兄様の代わりと言ってはなんですが……私と結婚しませんか?」
「…………え?」
あまりにも突飛な言葉が聞こえて、マナは自分の耳を疑った。
反射的にレジーナの顔を見ると、真っすぐに視線が重なる。
「あ、あの、レジーナ様。今、なんと?」
「私と結婚をしませんか、と」
「私が、ですか?」
「はい。私と貴女が」
かすかに頬を朱に染めながら、レジーナがにこりと笑みを向けてくる。
マナは困惑していた。
エナサンとのことを相談していたはずが、何故かレジーナに求婚されているのだ。当然だった。
「あの、冗談では」
「こんなこと、冗談で言うと思いますか?」
「それは……」
思わなかった。
マナを元気づけるためだとしても、他の言葉を選ぶだろう。それに何よりもマナを見つめるレジーナの真剣な瞳やほんのりと赤く染まった頬が否定していた。
だが、それでは本当に、真剣に求婚されたことになる。
やはり冗談だったと言われた方が現実味があるのだった。
「マナさんは家同士のことを案じられているのですよね?」
「はい」
エナサンとマナの婚約、そして結婚は、クローディア公爵家とノーラン伯爵家の政略結婚的な意味合いが強い。
クローディア公爵家は王国騎士団内で強い力を持っているノーラン伯爵家との繋がりを、ノーラン伯爵家は単純に公爵家との繋がりを、お互いに築こうというものだ。
マナの父親であるノーラン伯爵は、公爵家との厚い繋がりが生まれることをとても喜んでいた。だが当然、マナが婚約破棄をされては全ては水の泡となる。
それだけでない。
噂好きな社交界で、どのような噂を立てられるか分かったものではない。
王国騎士団で重役を務める父親や兄たち、そしてノーラン伯爵家に決して少なくない迷惑を掛けることになるだろう。
自分が婚約を破棄されたことで、ノーラン伯爵家に泥を塗ってしまう。
これまで積み上げてきた信用や信頼を瓦解させてしまうかもしれない。
それがマナが案じている大部分を占めていた。
「これ、私と結婚しても同じことだと思いませんか?」
「え」
「長男であるお兄様ほどではないにしろ、私もクローディア公爵家の人間ですから」
「それは、そうかもしれませんが……」
たしかに、マナの結婚相手がエナサンからレジーナに変わったとしても。
クローディア公爵家とノーラン伯爵家の結婚出ることに変わりはない。
そういう意味では、当初の目的である「両家の繋がり」は思惑通り築くことができるのかもしれない。
「マナさんは王国騎士を続けたいのですよね?」
「はい」
「私は認めるわ。いえ、認めるも何も、それが取り決めですもの」
「本当、ですか?」
「ええ。実を言うと、マナさんが騎士のお仕事をしているお姿を何度か拝見したことがあるんです」
ぽっ、とレジーナはほっぺたを赤らめると、それを隠すように手を当てた。
瞳を閉じて、うっとりとした表情を浮かべる。
その姿は恋する乙女のように見えた。
「すごく、格好良くて……素敵でした。私としては、是非続けていただきたいくらいです」
「レジーナ様……」
「あ、申し訳ございません。私ったら、はしたない……」
頬の熱を冷ますようにレジーナは手のひらをパタパタとさせて顔に風を送る。
マナの中で、何かがカチリと動き出したような音がした。
鬱屈とした気分や不安に感じていたことを吹き飛ばす申し出と、レジーナの可愛らしい仕草も相まって、それは加速していく。
何よりも、騎士であることを認めてくれたこと。そして、騎士であるマナを「格好いい」と言ってくれたこと。それらはマナの意志を動かすには十分すぎるものだった。
だが、マナの理性が訴えかけてくる。
どうしてレジーナはそんな提案をしてくれるのか、と。
冷静に考えれば、レジーナはマナの失敗の尻拭いをしてくれているのだ。
いくらマナに懐いてくれているからとはいえ、自分の兄が強引に婚約を破棄したとはいえ。自分の人生を賭けるような提案をするだろうか。
「すごく、ありがたい申し出だと思います。ですが、レジーナ様はそれでよいのですか?」
「もちろんです」
マナの不安を吹き飛ばすみたいに、レジーナが大きく頷く。
「マナさんにとって良いことばかり申しましたけど、ちゃんと私にとっても良いことがあるから申しているのです。私、少しズルい子なので」
くすり、と悪戯っぽく笑ってレジーナは説明してくれた。
「私、もうすぐ15歳になるんです。公爵家の令嬢という立場を考えたら、いつどこに嫁に出されてもおかしくないと思っています」
「それは、そうですね」
「でも、知らない人、知らない国は怖くて。だからマナさんと結婚出来たら嬉しいんです」
どこかへ嫁に出される前に、誰かと結婚してしまえ……という魂胆らしい。
その相手が懐いているマナであれば安心もできる、と。
「どうでしょうか。お互いにとっても、両家にとっても素晴らしい結婚になると思いませんか?」
にこやかにレジーナが問いかけてくる。
もし、レジーナとの結婚が叶うのならば。
クローディア公爵家とノーラン伯爵家の繋がりを築くことができる。
マナは王国騎士を続けることができる。
レジーナは知らない国の知らない相手と結婚をしなくていい。
奇跡的にエナサンが婚約破棄を撤回してくれて、結婚したとしても。
きっと王国騎士を辞める様に毎日言ってくるだろう。
クローディア公爵やレジーナが宥めてくれたとしても。
きっと大声でまくし立てて、マナを責めるのだろう。
想像するだけでも気が滅入る。
もし、レジーナとの結婚が叶うのならば。
それは幸せなのかもしれない。
「……分かりました」
「本当?」
「はい」
首肯して、マナは真っすぐにレジーナを見据えた。
愛らしい顔の大きな瞳をじっと見つめる。
「結婚しましょう」
「ええ、喜んで!」
☆
(――やった。やったやったやったわ!)
クローディア公爵家の大きな大屋敷にあるレジーナの部屋。
これまた大きくてふかふかなベッドの上で、レジーナは悶える様に転がっていた。自分の身体を抱くようにして、右へ左へコロコロと転がるように移動する。
かと思えば、枕に顔を埋めて足をバタバタと上下させた。
息継ぎをするみたいに顔を上げる。
酸素が足りなくなったからか、それとも興奮が冷めやらないからか。
レジーナの幸せそうな顔は耳まで朱に染まっていた。
(結婚。私がマナさんと!)
レジーナは信じられない気持ちでいっぱいだった。
これまで丹念に準備をしてきて、自分で持ちかけた話だというのに夢のようだった。夢ならば冷めないでほしいと心の底から思った。
レジーナがマナを初めて見たのは、レジーナの年齢がまだ1桁だったとき。
勉強のためと数年前に王国騎士団の駐屯地を視察したときのことだ。
全くと言っていいほど興味のなかったレジーナは父親に連れられて嫌々訪れたのだったが、そこでマナを見つけた。
一目惚れだった。
肩口で切りそろえられた闇色の黒髪。凛々しい目元の整った顔立ち。一般的な女性たちよりも頭一つ高い、すらりとした身長。今までレジーナが見たどの女性よりも美しいのに、剣や鎧が似合ったその姿は神話の中の人物のようだった。
誰よりも美しく、誰よりも凛々しく、誰よりも気高い。
レジーナはマナから目が離せなかった。
そんなレジーナの熱っぽい視線を感じたのか、マナがこちらを振り向いて、にこりと微笑んでくれたことをレジーナは今でも忘れられない。
それからレジーナは勉学に励み、礼儀作法を必死に身に着け、積極的に社交界に顔を出した。もちろん、マナに会うためだ。
マナはお茶会にはほとんど参加していなかったが、年中行事や王室の公務には必ずと言っていいほど参加していた。だが、それでよかった。公務の際、マナは王国騎士として参加していた。その姿を見るのがレジーナは好きだったのだ。
そして、こうも思っていた。
王国騎士であるマナは、公爵家令嬢である自分も警護対象で守ってくれるはず。
もし、レジーナの専属の騎士になってくれたら……。
それは一生一緒にいられるということではないか、と。
しかし数年後。
兄であるエナサンと婚約すると聞いたとき、レジーナの心の中に湧き上がった感情は祝福や喜びではなかった。そんなものは一切なかった。ただただ兄に嫉妬して、羨ましく、恨めしかった。
マナとエナサンの結婚が、クローディア公爵家とノーラン伯爵家による政略結婚であることは理解していた。だからこそ、レジーナの嫉妬の炎は燃え上がった。
――だったら、私でもいいのに。
両家の関係を築くためならば、兄ではなくて自分が結婚しても同じことではないか。
そりゃあ、レジーナは長男でないし、そもそも女性なので多少の問題はあるかもしれない。けれど、レジーナはずっと昔からマナのことが好きだったのだ。
第一、兄はマナにはふさわしくない。
マナにふさわしいのは自分だ。
マナは私の姫騎士なのだ。
それなのに。
どうして兄なのか。
どうして自分ではないのか。
自問自答を繰り返すうちに、レジーナは閃いた。
そうだ、私でもいいのだ。
兄である必要はない。私が結婚をしても同じことなら、私がマナと結婚をするべきなのだ、と。
不意に部屋のドアがノックされた。
時刻は夕暮れの前だ。少し早いが夕食の時間だろうか、と首をかしげながら扉を開ける。そこにいたのはエナサンだった。
「お兄様?」
まさか気づかれたのだろうか? と思ったが、そんなはずはない。
レジーナはこてり、とわざとらしく首をかしげた。
「どうかしましたか?」
「ウェンディを見なかったか?」
「ウェンディさん……?」
「あぁ、ちょうどお前くらいの背丈の子なんだが」
「いえ、存じ上げませんが……」
「そうか。いや、知らないならいいんだ。邪魔をした」
バツが悪そうに言って、エナサンは廊下を去っていった。
エナサンのなかでは、レジーナはまだ婚約破棄を知らないことになっている。だから、新たな婚約相手であるウェンディについて詳しいことは隠したのだろう。
だが、隠したとしても意味はない。
そもそも隠しようがないのだ。
何故ならば、ウェンディという令嬢は存在しないのだから。
ウェンディの正体は他でもないレジーナだ。
レジーナがマナと結婚するために作りだしたのがウェンディという令嬢だった。
レジーナにとっては、表情や口調を変えること、普段は選ばないドレスを選ぶこと、特殊な薬品で髪色を変えることなどは実に簡単だった。最も簡単だったのは、兄を手のひらの上で転がすことだったが。
遠ざかっていくエナサンの背中に、レジーナは薄っすらと微笑みを浮かべた。
「――本当に馬鹿な人」
たくさんの作品の中から、この作品を読んでいただいてありがとうございました。
ブックマークや評価、感想などもいただけると励みになります!




