モブ侍女ですが、元闇落ち令嬢を見守りたい
本作は、前作『モブ侍女ですが、闇落ち令嬢の未来を変えたい』の読切コミカライズを記念して執筆した、エリーザとエルナのその後を描く後日譚です。
前作を未読の方にもお読みいただける内容ですが、前作をご覧いただいてからの方が、より楽しんでいただけるかと思います。
前作短編:
『モブ侍女ですが、闇落ち令嬢の未来を変えたい』
https://ncode.syosetu.com/n9792lo/
かつてエリーザ・ミストラル侯爵令嬢には、孤独の果てに闇へ落ちる未来があった。
けれど、侍女エルナがそばに立ち続けたことで、その未来は少しずつ書き換えられた。
父とのすれ違い。
癇癪の奥にあった寂しさ。
自分の気持ちをどう伝えればいいのかも分からなかった、幼い心。
そうしたものを一つずつほどきながら、エリーザは今日よりも少し良い明日へと歩き始めている。
そんなエリーザが王立アカデミーの幼年部へ通い始めて、半年が過ぎた。
はじめの頃は、毎朝の馬車に乗るだけでも小さく緊張していたけれど、今では少しずつアカデミーでの時間に慣れ始めている。
その成長を見守るように、父ミストラル侯爵は週に何度か、エリーザが侯爵家のタウンハウスからアカデミーに通うことを許した。
領邸とは違う場所で朝を迎え、顔をよく知る使用人たちとは違う人々と関わり、自分の足で少しずつ外の世界を歩いていくために。
その日、アカデミーから戻ったエリーザは、いつもより少しだけ落ち着きがなかった。
手袋を外す指先が、いつもより遅い。
椅子に腰かけてからも、膝の上で両手を重ねたり、離したりしている。
エルナはそれに気づいていたが、急かしはしなかった。
お嬢様が、自分の中にある言葉を探している。
こういうときは、こちらから不用意に手を伸ばさない方がいい。
「あのね」
真っすぐにエルナを見て、口をきゅっと結ぶ。
「はい、お嬢様」
穏やかに返事をすると、エリーザは小さく息を吸った。
「……お友だちが、できたの」
エルナは、一瞬だけ手を止めた。
――お友だち。
その言葉は、あまりにもやわらかくて、あまりにも眩しかった。
かつてのエリーザには、遠かったものだ。
欲しいと願う前に、どう望めばいいかもわからなかったもの。
けれど今、エリーザはその言葉を口にした。
少し戸惑いながら。
けれど、確かに嬉しそうに。
「まあ」
エルナは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じながら、いつも通り微笑んだ。
「それは、とても素敵なことですね」
「うん」
エリーザはこくりと頷いた。
けれど、すぐに眉尻を下げる。
「でも……」
「でも?」
「お友だちって、何をするものなの?」
その問いがあまりにも真剣だったので、エルナは少しだけ目を細めた。
笑ってはいけない。
これはエリーザにとって、とても大切な問いなのだ。
「そうですね」
エルナは少し考えてから、エリーザの正面に膝を折った。
「お友だちに、直接聞いてみてもよろしいのですよ」
「直接?」
「はい」
「聞いて、いいの?」
「もちろんです。お友だちとは、そういうことを少しずつ確かめていく相手でもありますから」
「少しずつ……」
「はい。何をしたら楽しいのか。何を話したら嬉しいのか。何をされたら困るのか。そういうことを、お互いに少しずつ知っていくのだと思います」
エリーザは膝の上の手を見下ろした。
「でも、何を聞いたらいいのか……」
「それでしたら」
エルナは、少しだけ声を明るくした。
「もし、お友だちがよろしければ、一度こちらへ遊びに来ていただくのはいかがでしょう」
ぱっと、エリーザが顔を上げた。
「ここに?」
「はい。お茶をしたり、お菓子を作ったり、庭を歩いたり。アカデミーとは違う場所でお話しすると、また違った楽しさがあるかもしれません」
「来てもらっても、いいの?」
「もちろんです。お嬢様のお友だちですもの」
その言葉を聞いた途端、エリーザの表情がほころんだ。
春の日差しを受けた蕾が、ふっとほどけるような笑みだった。
「私、誘ってみる!」
「はい。きっと、喜んでくださいますよ」
どうか、その子がエリーザにとって、温かな存在でありますように。
エルナは胸の内で、そっとそう祈った。
***
翌日のアカデミーで、エリーザは何度もアリアベルに声をかけようとしていた。
朝の教室では周囲にほかの生徒がいた。
廊下では教師が通りかかった。
中庭では、アリアベルが別の女生徒に話しかけられていた。
言わなければ、と思う。
けれど、いざ声をかけようとすると、胸の奥がきゅっと縮こまる。
もし、断られたらどうしよう。
昼下がりの移動教室の後、ようやく廊下の端でアリアベルが一人になった。
栗色の髪を揺らしながら、アリアベルは教本を胸に抱えて歩いていた。
彼女はエリーザに気づくと、ぱっと明るく笑う。
「エリーザさん」
「あ、アリアベルさん」
「次の授業、同じ教室よね。行きましょう」
「うん」
隣に並んで、二人は歩き出す。
数歩。
それから、さらに数歩。
エリーザは口を開きかけて、閉じた。
「どうしたの?」
「……あのね」
「うん」
エリーザは胸の前で教本を抱き直した。
エルナが言っていた。
お友だちとは、少しずつ確かめていく相手なのだと。
「もしよかったら、今度の休日、私のタウンハウスに来ない?」
言ってしまってから、エリーザは息を止めた。
アリアベルは目を丸くする。
「えっ」
エリーザの心臓が跳ねる。じわりと瞳が潤む。
「む、無理なら、いいの。急に、あの、ごめんね……」
「違うの」
アリアベルは慌てたように首を振った。
「そうじゃなくて。私が行ってもいいの?」
「うん」
「エリーザさんのお家に?」
「うん。エルナも、ぜひって」
「エルナさん?」
「私付きの侍女なの。とても優しいの」
そう言うと、アリアベルの表情がふわりと和らいだ。
「そうなんだ」
「来てくれたら……うれしい」
エリーザは、最後の言葉だけ少し小さな声で言った。
けれど、アリアベルにはちゃんと届いたらしい。
「行きたい。ぜひ行かせて」
「本当?」
「うん。本当」
その返事を聞いた途端、エリーザの胸の奥にあった棘が、すっと溶けた。
「よかった」
思わずこぼれた声に、アリアベルが楽しそうに笑う。
「私も楽しみ。何をして遊ぶ?」
「何を……」
エリーザは考え込んだ。
お友だちと、一緒に何をしよう。
それを聞くつもりだったのに、もう次の問いが生まれてしまった。
「エルナがね、お菓子作りはどうかって」
「お菓子作り?」
「うん」
「楽しそう!」
アリアベルの声が弾んだ。
ちょうどそのとき、廊下の窓の向こうに、いくつかの人影が見えた。
王子と、その傍らに立つ二人の少年。
騎士団長の長子と、宰相閣下のご子息。
この場所には、すでに物語の欠片のような少年たちが揃いつつある。
その光景は、誰かにとっては物語の始まりに見えたかもしれない。
けれど、エリーザはそこに長く目を留めなかった。
今、彼女の隣にいるのはアリアベルで。
今、彼女が考えているのは、休日に一緒に作るお菓子のことだった。
***
「お友だち、来てくれるって」
帰宅したエリーザは、部屋に入るなりそう言った。
外套を脱ぐ前だった。
手袋もまだ片方しか外していない。
「まあ。来てくださるのですね」
エルナは微笑みながらエリーザの外套の留め具を外した。
「お迎えの準備をいたしましょう。お嬢様のお友だちですから、きちんとお迎えしませんと」
「うん」
「ちなみに、どちらのお嬢様でいらっしゃるのですか?」
「アリアベルさん!」
エルナの指先が、ほんのわずかに止まった。
「……アリアベル、様?」
「そう。ローズウェル男爵家のご令嬢なの」
――アリアベル・ローズウェル。
その名前を、エルナは知っていた。
乙女ゲームのヒロイン。
数年後、五人の攻略対象と関わり、あの世界の中心に立つはずの少女。
――本来、登場は高等部からではなかったか。
エルナの胸の奥で、古い記憶が小さく音を立てる。
「エルナ?」
エリーザが不安そうにこちらを見上げている。
その目を見た瞬間、エルナは自分の中に浮かびかけた警戒を、静かに脇へ置いた。
「いいえ」
エルナは柔らかく笑った。
「少し驚いただけです。ローズウェル男爵令嬢をお迎えするのですね」
「うん」
「では、なおさら楽しみですね」
「とっても楽しみ」
エリーザは素直に頷いた。
その顔には、恐れも嫉妬もない。
ただ、休日を待ち遠しく思う少女の表情があるだけだった。
エリーザはもう、あの暗い未来へ向かって歩いてはいない。
エルナはそう思いながら、胸の内でそっと息をついた。
***
休日の朝、タウンハウスの空気はいつもより少し華やいでいた。
玄関ホールには新しい花が飾られ、客間には明るい色のクロスがかけられている。
厨房では、焼き菓子用の材料が整えられ、甘い香りのする茶葉も用意されていた。
エリーザは朝から何度もエルナに尋ねた。
「変じゃないかな?」
「大丈夫です」
「このリボン、大きすぎないかな?」
「よくお似合いです」
「アリアベルさん、退屈しないかな?」
「お嬢様が楽しみにしていらっしゃるだけで、きっと喜んでくださいます」
そう答えるたびに、エリーザは少し安心した顔をする。
けれどしばらくすると、またそわそわと窓の外を見てしまう。
やがて、玄関の方で来客を告げる音がした。
エリーザの肩が小さく跳ねる。
「来た?」
「はい。お迎えいたしましょう」
エルナがそう言うと、エリーザは一度だけ深呼吸をした。
扉の向こうに立っていたのは、淡い色の外出着をまとったアリアベルだった。
普段のアカデミーで見る姿よりも、少し緊張している。
けれど、エリーザを見つけると、ぱっと表情を明るくした。
「エリーザさん」
「アリアベルさん。来てくれて、ありがとう」
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
アリアベルはそう言って、丁寧に礼をした。
その言葉はきちんとしていたが、声の端には少しだけ硬さがある。
アリアベルは男爵令嬢だ。
侯爵令嬢であるエリーザのタウンハウスに招かれれば、緊張するのは当然だった。
エリーザも、それに気づいたのかもしれない。
少し迷ったあと、小さな声で言った。
「今日は、あまり堅くなくていいの」
「え?」
「私も、どうしたらいいか分からないから」
アリアベルが瞬きをする。
「だから、一緒に、分からないのを楽しんでくれたら……嬉しい」
アリアベルは、一瞬ぽかんとした。
それから、ふふっと笑った。
「うん。そう言ってもらえると安心する」
「安心?」
「だって、私もすごく緊張していたの。失礼なことをしたらどうしようって」
「アリアベルさんも?」
「うん」
二人は顔を見合わせた。
そして、どちらからともなく小さく笑った。
その笑い声を聞きながら、エルナはそっと一歩下がる。
この二人はきっと、自分たちの速さで近づいていける。
***
「本日は、お二人で簡単なお菓子を作ってみるのはいかがでしょう」
客間で一息ついたあと、エルナがそう提案すると、アリアベルの目が輝いた。
「お菓子作りですね!」
「はい。焼き上がったものを、そのままお茶の時間に召し上がっていただけます」
「楽しそう」
アリアベルが弾んだ声で言う。
エリーザは少し不安そうにエルナを見た。
「私にもできるかな?」
「もちろんです。難しいところはお手伝いいたします」
「形が変になっても?」
「それも手作りの楽しさでございます」
エルナがそう答えると、アリアベルが大きく頷いた。
「そうです。きっと、その方が楽しいです」
「そうなの?」
「うん。全部同じ形だったら、お店のお菓子みたいでしょう? 自分で作ったなら、自分で作った形の方が楽しいと思う」
厨房の一角には、すでに生地が用意されていた。
今日作るのは、薄く伸ばした生地を好きな形に整えて焼くクッキーだ。
エリーザは最初、きっちりと丸い形を作ろうとした。
両手の指先でそっと生地を撫で、少しでも歪むと眉を寄せる。
隣でアリアベルは、星の型を手にしていた。
ひとつ抜いて、少し考え、端を指でつまんで形を変える。
「それは?」
エリーザが尋ねると、アリアベルは照れたように笑った。
「流れ星にしたかったの」
「流れ星?」
「うん。でも、少し太った流れ星になっちゃった」
そう言って見せられた生地は、確かに星というより、ふっくらした小さな花にも見えた。
「かわいい」
「本当?」
「うん」
アリアベルは嬉しそうに笑った。
エリーザは自分の丸い生地を見下ろした。
それから、そっと別の生地を取る。
「私も、何か作ってみたい」
「何にする?」
「……花」
「いいね」
エリーザは花の型を手に取った。
けれど、押す力が少し足りなかったらしく、型から外した花は端が崩れていた。
「あ……変な形になっちゃった」
アリアベルが覗き込む。
「そう?」
「だって、ここの花びらが欠けている」
「でも、こっちに少し寄っているところが、風で揺れているみたい」
「風で?」
「うん。花って、いつもまっすぐ咲いているわけじゃないでしょう?」
エリーザは欠けた花のクッキー生地を見つめた。
形は、確かに整ってはいない。
けれど、アリアベルが言うように、少し傾いた花にも見える。
「……これでも、いいの?」
「私は好き」
アリアベルは当たり前のように言った。
エリーザはその言葉を、ゆっくりと受け取った。
これでもいい。
整っていなくても。
少し歪んでいても。
それを好きだと言ってくれる人がいる。
「じゃあ、これも焼いてみる」
「うん」
アリアベルが笑う。
エリーザも、少し遅れて笑った。
エルナは二人の少し後ろで、次に使う道具を整えていた。
口を挟みすぎないように。
けれど、困ったときにはすぐに手を貸せるように。
かつてのエリーザなら、歪んだものを人に見せるのを怖がったかもしれない。
欠けた花を失敗だと思い、そっと脇へよけてしまったかもしれない。
けれど今、エリーザはそれを天板の上に置いた。
自分で作った、少し歪んだ花を。
***
焼き上がったクッキーは、少しずつ違う形をしていた。
丸いもの。
小鳥のようなもの。
流れ星のようなもの。
そして、風に揺れる花のようなもの。
アリアベルはそれを見て、嬉しそうに手を合わせた。
「かわいい」
「本当に?」
「うん。こっちはエリーザさんの花でしょう?」
「どうして分かるの?」
「丁寧だから」
エリーザは瞬きをした。
「歪んでいるのに?」
「歪んでいても、丁寧なのは分かるよ」
アリアベルはそう言って、ひとつ手に取った。
「いただいてもいい?」
「うん」
アリアベルがクッキーを口に運ぶ。
少しだけさくりと音がした。
「おいしい」
その一言に、エリーザの表情がふわりとほどけた。
「よかった」
二人は焼きたてのクッキーと紅茶を前に、少しずつ話を始めた。
最初は授業のこと。
次は先生のこと。
それから、アカデミーの中庭に咲いている花のこと。
会話は時々途切れた。
けれど、その沈黙は気まずいものではなかった。
ただ一緒にいるだけの時間も、お友だちとの時間なのだと、エリーザは少しずつ覚えているようだった。
「ねえ、エリーザさん」
紅茶のおかわりを注いでもらったあと、アリアベルが少し声をひそめた。
「なあに、アリアベルさん」
「エリーザさんは、あの方たちの中なら、どなたが素敵だと思う?」
「あの方たち?」
エリーザが首を傾げる。
アリアベルは少し楽しそうに身を乗り出した。
「エリオット王子でしょう。ディオンさま、フランツさま、レオンさま。それから……クロードさま」
最後の名前だけ、少し悪戯っぽく響いた。
「皆さま、すごい方だとは思うの」
「うんうん」
「エリオット王子は、何でもお上手だし」
「文武両道って感じよね。まさに王子さま」
「ディオンさまは、明るいし剣術がとてもすごいの」
「そうなの。修練場にいると、すぐ分かるでしょう?」
「フランツさまは、難しい問題もすぐ答えられるわ」
「お勉強ができる方って、すごいよね」
「レオンさまは……いつも、本を読んでいる」
アリアベルはくすりと笑った。
「やっぱり、魔塔の後継者というぐらいだから、不思議な方なのかもね」
ゲームの中の彼らは、それぞれに特別な役割を与えられていた。
王子。騎士団長の長子。宰相閣下のご子息。魔塔の後継者。そして、辺境伯のご令息。
けれど今、少女たちの話題に上る彼らは、ただ、少し目立つ同級生たちだった。
それでいいのだと、エルナは思う。
「それで、エリーザさんは?」
アリアベルが楽しそうに尋ねる。
「どなたが素敵だと思う?」
「うー……」
エリーザはクッキーを両手で持ったまま、本気で悩んでいた。
「みんな、それぞれすごい方だと思うけれど」
「けれど?」
「誰がいいとか、あまり考えたことがないかも」
「そうなの?」
「うん。エリオット王子は王子さまだし、ディオンさまは強そうだし、フランツさまは頭が良いし、レオンさまは、不思議なの。でも、それが、その……誰がいい、になるのかは分からない」
アリアベルは少しだけ目を丸くして、それから微笑んだ。
「まあ、エリーザさんにはクロードさまがいますものね」
「クロード?」
「婚約者でしょう?」
「うん」
エリーザは少しだけ視線を落とした。
困ったような、けれど嫌ではなさそうな顔だった。
「クロードは、クロードだから」
「クロードは、クロード?」
「うん」
「それは、特別ってこと?」
「特別……なのかな」
エリーザはさらに考え込んだ。
「昔からの仲だけど、交流が増えたのは最近だし。だから、ときどき何を考えているか分からないときもあるの」
「うんうん」
「あと、すぐ大丈夫って言うんだけど、大丈夫じゃないときもあるのになって思うときもあるの」
「ふふ」
「でも、クロードはクロードなの」
アリアベルはその言い方が気に入ったらしく、にこにこと笑った。
「そっか。クロードさまは、エリーザさんのクロードさまなのね」
「私の?」
エリーザの頬が、ほんのり赤くなる。
「そういう意味では……」
「ごめんなさい。少しからかいすぎたかも」
アリアベルは慌てて手を振った。
「でも、素敵だと思う。そういうふうに言える人がいるのって」
エリーザは返事に困ったように、手元のクッキーを見た。
その横顔に、嫉妬はなかった。
警戒もなかった。
アリアベルの言葉にも、棘はなかった。
クロードは、エリーザの婚約者。
アリアベルはそれを、ごく自然に受け止めている。
ヒロインがいる。
攻略対象たちの名前が並ぶ。
その中には、エリーザの婚約者の名もあった。
本来なら、そこから何かが始まるはずだったのかもしれない。
けれど、今ここで起きているのは、ただの少女たちの恋とも言えない、かわいい会話だった。
甘いクッキーと紅茶の香りの中で、少し照れたり、少し笑ったりするだけの、穏やかな時間。
誰も傷つかない。
誰も奪わない。
誰も泣かない。
そのことが、エルナには、奇跡のように思えた。
***
楽しい時間は、思ったよりも早く過ぎた。
帰りの馬車が来る少し前、エリーザとアリアベルは玄関ホールへ向かっていた。
焼いたクッキーの一部は、小さな箱に詰められている。
アリアベルへの土産として、エルナがリボンをかけたものだ。
「今日はありがとう、エリーザさん」
アリアベルが箱を大事そうに抱える。
「とても楽しかった」
「私も」
エリーザは少しだけ俯いた。
その指先が、ドレスの布を小さくつまむ。
エルナは少し離れた場所で、二人を見守っていた。
エリーザが何かを言おうとしている。
その気配がした。
「アリアベルさん」
「なあに、エリーザさん」
「あのね」
エリーザは顔を上げた。
瞳が少し揺れている。
けれど、逃げなかった。
「私のこと、リーザって呼んでほしいなって」
アリアベルは驚いたように瞬きをした。
「リーザ?」
「うん」
「呼んでも、いいの?」
エリーザは小さく頷いた。
「アリアベルさんは、お友だちだから」
その瞬間、アリアベルの表情がぱっと明るくなった。
「じゃあ……リーザちゃん」
エリーザの肩が、ほんの少し震えた。
「うん」
「リーザちゃん」
「……うん」
もう一度呼ばれて、エリーザは頬を赤くしながらも、嬉しそうに頷いた。
その姿を見たアリアベルが、今度は少し照れたように笑う。
「それなら、私のこともアリアって呼んでほしい」
「アリア?」
「うん。家ではそう呼ばれているの」
「アリア……ちゃん?」
「うん!」
アリアベル、いや、アリアは嬉しそうに頷いた。
「そう呼んでくれたら、私もすごくうれしい」
エリーザはその名前を、確かめるようにもう一度口にした。
「アリアちゃん」
「なあに、リーザちゃん」
呼び合っただけで、二人は笑った。
たったそれだけのことだった。
けれど、エルナにはそれが、何より大きな出来事に思えた。
『エリーザさん』と『アリアベルさん』。
少し距離のある、礼儀正しい呼び方。
それが今、リーザちゃんとアリアちゃんになった。
世界が音を立てて大きく変わったわけではない。
ただ、二人の少女が愛称を呼び合った。
それだけで、未来は確かに変わっていくのだ。
***
アリアを見送ったあと、エリーザはしばらく玄関ホールに立っていた。
扉はもう閉まっている。
馬車の音も、遠ざかって聞こえなくなった。
それでもエリーザは、どこか夢を見ているような顔をしていた。
「リーザお嬢様」
エルナがそっと声をかける。
エリーザは振り返った。
「エルナ」
「はい」
「お友だちって、楽しいのね」
ぽつりと落とされた言葉に、エルナは胸の奥が温かくなるのを感じた。
「はい。とても」
「でも、少し緊張したの」
「それも、きっと自然なことです」
「そう?」
「はい。大切にしたい相手だから、緊張するのだと思います」
エリーザは少し考えて、それから小さく頷いた。
「そうかもしれない」
部屋へ戻ると、エリーザは机の上に置いていた日記帳を開いた。
まだ新しい日記帳だ。
白い頁が多く残っている。
エルナが以前、エリーザに贈ったものだった。
毎日書かなくてもいい。
特別なことだけでなくてもいい。
覚えておきたいと思ったことを、好きなときに書けばいい。
そう言って渡した日記帳。
エリーザはペンを手に取り、少し考えてから、ゆっくりと文字を書き始めた。
エルナは、その手元を覗き込みすぎないようにしながら、そっと控えていた。
けれど、最初の一行だけは見えた。
今日は、アリアちゃんが来てくれました。
その文字は、少しだけ慎重で、少しだけ嬉しそうだった。
エリーザは続けて何かを書いている。
きっと、今日の大切な出来事を書いているのだろう。
クッキーを作ったこと。
花の形が少し崩れたこと。
それをアリアがかわいいと言ってくれたこと。
そして、愛称を呼び合ったことも……。
この世界には、たしかにヒロインがいる。
アリアベル・ローズウェル。
まだ始まっていない物語の中心に立つはずだった少女。
攻略対象と呼ばれる少年たちもいる。
そして、エリーザの婚約者であるクロード。
名前は揃っている。
舞台も揃っている。
それでも。
もう、どこにも闇に落ちる令嬢はいなかった。
ここにいるのは、お友だちを家に招いて、一緒に菓子を焼き、少し歪んだ花をかわいいと言われて頬を染めた、ひとりの少女だけだ。
エリーザはもう、誰かの物語に押し流されるだけの少女ではない。
自分で誘った。
自分で笑った。
自分で、呼んでほしい愛称を伝えた。
そして今、自分の手で今日の出来事を書いている。
「エルナ」
「はい」
「今度は、アリアちゃんと何をしたらいいかな」
エリーザが日記帳から顔を上げる。
その表情には、もう先ほどのような不安だけではなかった。
「そうですね」
エルナは微笑んだ。
「それも、アリアベル様と一緒に考えてみてはいかがでしょう」
「一緒に?」
「はい。お友だちですから」
エリーザは少し考え、それから嬉しそうに頷いた。
「うん。そうする」
再びペン先が白い頁に落ちる。
未来は白紙だ。
けれどそれは、何もないという意味ではない。
誰かに決められていないということ。
暗い結末を書き込まれていないということ。
間違えても、迷っても、それでも自分の手で一行ずつ書き足していけるということ。
エリーザはペンを動かしている。
ゆっくりと。
丁寧に。
自分の言葉で。
その姿を見守りながら、エルナは静かに微笑んだ。
闇に落ち、すべてを失うはずだった少女は、もういない。
白い頁の上で、その未来は静かに始まっていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
エリーザとエルナのその後を、少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。
評価や感想をいただけると、とても励みになります。




