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モブ侍女ですが、闇落ち令嬢の未来を変えたい

モブ侍女ですが、元闇落ち令嬢を見守りたい

作者: 錆猫てん
掲載日:2026/05/11

本作は、前作『モブ侍女ですが、闇落ち令嬢の未来を変えたい』の読切コミカライズを記念して執筆した、エリーザとエルナのその後を描く後日譚です。


前作を未読の方にもお読みいただける内容ですが、前作をご覧いただいてからの方が、より楽しんでいただけるかと思います。


前作短編:

『モブ侍女ですが、闇落ち令嬢の未来を変えたい』

https://ncode.syosetu.com/n9792lo/

 かつてエリーザ・ミストラル侯爵令嬢には、孤独の果てに闇へ落ちる未来があった。


 けれど、侍女エルナがそばに立ち続けたことで、その未来は少しずつ書き換えられた。


 父とのすれ違い。

 癇癪の奥にあった寂しさ。

 自分の気持ちをどう伝えればいいのかも分からなかった、幼い心。


 そうしたものを一つずつほどきながら、エリーザは今日よりも少し良い明日へと歩き始めている。


 そんなエリーザが王立アカデミーの幼年部へ通い始めて、半年が過ぎた。


 はじめの頃は、毎朝の馬車に乗るだけでも小さく緊張していたけれど、今では少しずつアカデミーでの時間に慣れ始めている。


 その成長を見守るように、父ミストラル侯爵は週に何度か、エリーザが侯爵家のタウンハウスからアカデミーに通うことを許した。


 領邸とは違う場所で朝を迎え、顔をよく知る使用人たちとは違う人々と関わり、自分の足で少しずつ外の世界を歩いていくために。


 その日、アカデミーから戻ったエリーザは、いつもより少しだけ落ち着きがなかった。


 手袋を外す指先が、いつもより遅い。

 椅子に腰かけてからも、膝の上で両手を重ねたり、離したりしている。


 エルナはそれに気づいていたが、急かしはしなかった。


 お嬢様が、自分の中にある言葉を探している。

 こういうときは、こちらから不用意に手を伸ばさない方がいい。


「あのね」


 真っすぐにエルナを見て、口をきゅっと結ぶ。


「はい、お嬢様」


 穏やかに返事をすると、エリーザは小さく息を吸った。


「……お友だちが、できたの」


 エルナは、一瞬だけ手を止めた。


 ――お友だち。


 その言葉は、あまりにもやわらかくて、あまりにも眩しかった。


 かつてのエリーザには、遠かったものだ。

 欲しいと願う前に、どう望めばいいかもわからなかったもの。


 けれど今、エリーザはその言葉を口にした。


 少し戸惑いながら。

 けれど、確かに嬉しそうに。


「まあ」


 エルナは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じながら、いつも通り微笑んだ。


「それは、とても素敵なことですね」


「うん」


 エリーザはこくりと頷いた。

 けれど、すぐに眉尻を下げる。


「でも……」


「でも?」


「お友だちって、何をするものなの?」


 その問いがあまりにも真剣だったので、エルナは少しだけ目を細めた。


 笑ってはいけない。

 これはエリーザにとって、とても大切な問いなのだ。


「そうですね」


 エルナは少し考えてから、エリーザの正面に膝を折った。


「お友だちに、直接聞いてみてもよろしいのですよ」


「直接?」


「はい」


「聞いて、いいの?」


「もちろんです。お友だちとは、そういうことを少しずつ確かめていく相手でもありますから」


「少しずつ……」


「はい。何をしたら楽しいのか。何を話したら嬉しいのか。何をされたら困るのか。そういうことを、お互いに少しずつ知っていくのだと思います」


 エリーザは膝の上の手を見下ろした。


「でも、何を聞いたらいいのか……」


「それでしたら」


 エルナは、少しだけ声を明るくした。


「もし、お友だちがよろしければ、一度こちらへ遊びに来ていただくのはいかがでしょう」


 ぱっと、エリーザが顔を上げた。


「ここに?」


「はい。お茶をしたり、お菓子を作ったり、庭を歩いたり。アカデミーとは違う場所でお話しすると、また違った楽しさがあるかもしれません」


「来てもらっても、いいの?」


「もちろんです。お嬢様のお友だちですもの」


 その言葉を聞いた途端、エリーザの表情がほころんだ。

 春の日差しを受けた蕾が、ふっとほどけるような笑みだった。


「私、誘ってみる!」


「はい。きっと、喜んでくださいますよ」


 どうか、その子がエリーザにとって、温かな存在でありますように。

 エルナは胸の内で、そっとそう祈った。


***


 翌日のアカデミーで、エリーザは何度もアリアベルに声をかけようとしていた。


 朝の教室では周囲にほかの生徒がいた。

 廊下では教師が通りかかった。

 中庭では、アリアベルが別の女生徒に話しかけられていた。


 言わなければ、と思う。

 けれど、いざ声をかけようとすると、胸の奥がきゅっと縮こまる。


 もし、断られたらどうしよう。


 昼下がりの移動教室の後、ようやく廊下の端でアリアベルが一人になった。


 栗色の髪を揺らしながら、アリアベルは教本を胸に抱えて歩いていた。

 彼女はエリーザに気づくと、ぱっと明るく笑う。


「エリーザさん」


「あ、アリアベルさん」


「次の授業、同じ教室よね。行きましょう」


「うん」


 隣に並んで、二人は歩き出す。


 数歩。

 それから、さらに数歩。


 エリーザは口を開きかけて、閉じた。


「どうしたの?」


「……あのね」


「うん」


 エリーザは胸の前で教本を抱き直した。


 エルナが言っていた。

 お友だちとは、少しずつ確かめていく相手なのだと。


「もしよかったら、今度の休日、私のタウンハウスに来ない?」


 言ってしまってから、エリーザは息を止めた。


 アリアベルは目を丸くする。


「えっ」


 エリーザの心臓が跳ねる。じわりと瞳が潤む。


「む、無理なら、いいの。急に、あの、ごめんね……」


「違うの」


 アリアベルは慌てたように首を振った。


「そうじゃなくて。私が行ってもいいの?」


「うん」


「エリーザさんのお家に?」


「うん。エルナも、ぜひって」


「エルナさん?」


「私付きの侍女なの。とても優しいの」


 そう言うと、アリアベルの表情がふわりと和らいだ。


「そうなんだ」


「来てくれたら……うれしい」


 エリーザは、最後の言葉だけ少し小さな声で言った。


 けれど、アリアベルにはちゃんと届いたらしい。


「行きたい。ぜひ行かせて」


「本当?」


「うん。本当」


 その返事を聞いた途端、エリーザの胸の奥にあった棘が、すっと溶けた。


「よかった」


 思わずこぼれた声に、アリアベルが楽しそうに笑う。


「私も楽しみ。何をして遊ぶ?」


「何を……」


 エリーザは考え込んだ。


 お友だちと、一緒に何をしよう。

 それを聞くつもりだったのに、もう次の問いが生まれてしまった。


「エルナがね、お菓子作りはどうかって」


「お菓子作り?」


「うん」


「楽しそう!」


 アリアベルの声が弾んだ。


 ちょうどそのとき、廊下の窓の向こうに、いくつかの人影が見えた。


 王子と、その傍らに立つ二人の少年。

 騎士団長の長子と、宰相閣下のご子息。

 この場所には、すでに物語の欠片のような少年たちが揃いつつある。


 その光景は、誰かにとっては物語の始まりに見えたかもしれない。

 けれど、エリーザはそこに長く目を留めなかった。


 今、彼女の隣にいるのはアリアベルで。

 今、彼女が考えているのは、休日に一緒に作るお菓子のことだった。


***


「お友だち、来てくれるって」


 帰宅したエリーザは、部屋に入るなりそう言った。


 外套を脱ぐ前だった。

 手袋もまだ片方しか外していない。


「まあ。来てくださるのですね」


 エルナは微笑みながらエリーザの外套の留め具を外した。


「お迎えの準備をいたしましょう。お嬢様のお友だちですから、きちんとお迎えしませんと」


「うん」


「ちなみに、どちらのお嬢様でいらっしゃるのですか?」


「アリアベルさん!」


 エルナの指先が、ほんのわずかに止まった。


「……アリアベル、様?」


「そう。ローズウェル男爵家のご令嬢なの」


 ――アリアベル・ローズウェル。


 その名前を、エルナは知っていた。


 乙女ゲームのヒロイン。

 数年後、五人の攻略対象と関わり、あの世界の中心に立つはずの少女。


 ――本来、登場は高等部からではなかったか。


 エルナの胸の奥で、古い記憶が小さく音を立てる。


「エルナ?」


 エリーザが不安そうにこちらを見上げている。


 その目を見た瞬間、エルナは自分の中に浮かびかけた警戒を、静かに脇へ置いた。


「いいえ」


 エルナは柔らかく笑った。


「少し驚いただけです。ローズウェル男爵令嬢をお迎えするのですね」


「うん」


「では、なおさら楽しみですね」


「とっても楽しみ」


 エリーザは素直に頷いた。


 その顔には、恐れも嫉妬もない。

 ただ、休日を待ち遠しく思う少女の表情があるだけだった。


 エリーザはもう、あの暗い未来へ向かって歩いてはいない。

 エルナはそう思いながら、胸の内でそっと息をついた。


***


 休日の朝、タウンハウスの空気はいつもより少し華やいでいた。


 玄関ホールには新しい花が飾られ、客間には明るい色のクロスがかけられている。

 厨房では、焼き菓子用の材料が整えられ、甘い香りのする茶葉も用意されていた。


 エリーザは朝から何度もエルナに尋ねた。


「変じゃないかな?」


「大丈夫です」


「このリボン、大きすぎないかな?」


「よくお似合いです」


「アリアベルさん、退屈しないかな?」


「お嬢様が楽しみにしていらっしゃるだけで、きっと喜んでくださいます」


 そう答えるたびに、エリーザは少し安心した顔をする。

 けれどしばらくすると、またそわそわと窓の外を見てしまう。


 やがて、玄関の方で来客を告げる音がした。


 エリーザの肩が小さく跳ねる。


「来た?」


「はい。お迎えいたしましょう」


 エルナがそう言うと、エリーザは一度だけ深呼吸をした。


 扉の向こうに立っていたのは、淡い色の外出着をまとったアリアベルだった。


 普段のアカデミーで見る姿よりも、少し緊張している。

 けれど、エリーザを見つけると、ぱっと表情を明るくした。


「エリーザさん」


「アリアベルさん。来てくれて、ありがとう」


「本日はお招きいただき、ありがとうございます」


 アリアベルはそう言って、丁寧に礼をした。

 その言葉はきちんとしていたが、声の端には少しだけ硬さがある。


 アリアベルは男爵令嬢だ。

 侯爵令嬢であるエリーザのタウンハウスに招かれれば、緊張するのは当然だった。


 エリーザも、それに気づいたのかもしれない。

 少し迷ったあと、小さな声で言った。


「今日は、あまり堅くなくていいの」


「え?」


「私も、どうしたらいいか分からないから」


 アリアベルが瞬きをする。


「だから、一緒に、分からないのを楽しんでくれたら……嬉しい」


 アリアベルは、一瞬ぽかんとした。

 それから、ふふっと笑った。


「うん。そう言ってもらえると安心する」


「安心?」


「だって、私もすごく緊張していたの。失礼なことをしたらどうしようって」


「アリアベルさんも?」


「うん」


 二人は顔を見合わせた。

 そして、どちらからともなく小さく笑った。


 その笑い声を聞きながら、エルナはそっと一歩下がる。


 この二人はきっと、自分たちの速さで近づいていける。


***


「本日は、お二人で簡単なお菓子を作ってみるのはいかがでしょう」


 客間で一息ついたあと、エルナがそう提案すると、アリアベルの目が輝いた。


「お菓子作りですね!」


「はい。焼き上がったものを、そのままお茶の時間に召し上がっていただけます」


「楽しそう」


 アリアベルが弾んだ声で言う。


 エリーザは少し不安そうにエルナを見た。


「私にもできるかな?」


「もちろんです。難しいところはお手伝いいたします」


「形が変になっても?」


「それも手作りの楽しさでございます」


 エルナがそう答えると、アリアベルが大きく頷いた。


「そうです。きっと、その方が楽しいです」


「そうなの?」


「うん。全部同じ形だったら、お店のお菓子みたいでしょう? 自分で作ったなら、自分で作った形の方が楽しいと思う」


 厨房の一角には、すでに生地が用意されていた。


 今日作るのは、薄く伸ばした生地を好きな形に整えて焼くクッキーだ。


 エリーザは最初、きっちりと丸い形を作ろうとした。

 両手の指先でそっと生地を撫で、少しでも歪むと眉を寄せる。


 隣でアリアベルは、星の型を手にしていた。

 ひとつ抜いて、少し考え、端を指でつまんで形を変える。


「それは?」


 エリーザが尋ねると、アリアベルは照れたように笑った。


「流れ星にしたかったの」


「流れ星?」


「うん。でも、少し太った流れ星になっちゃった」


 そう言って見せられた生地は、確かに星というより、ふっくらした小さな花にも見えた。


「かわいい」


「本当?」


「うん」


 アリアベルは嬉しそうに笑った。


 エリーザは自分の丸い生地を見下ろした。

 それから、そっと別の生地を取る。


「私も、何か作ってみたい」


「何にする?」


「……花」


「いいね」


 エリーザは花の型を手に取った。

 けれど、押す力が少し足りなかったらしく、型から外した花は端が崩れていた。


「あ……変な形になっちゃった」


 アリアベルが覗き込む。


「そう?」


「だって、ここの花びらが欠けている」


「でも、こっちに少し寄っているところが、風で揺れているみたい」


「風で?」


「うん。花って、いつもまっすぐ咲いているわけじゃないでしょう?」


 エリーザは欠けた花のクッキー生地を見つめた。


 形は、確かに整ってはいない。

 けれど、アリアベルが言うように、少し傾いた花にも見える。


「……これでも、いいの?」


「私は好き」


 アリアベルは当たり前のように言った。


 エリーザはその言葉を、ゆっくりと受け取った。


 これでもいい。

 整っていなくても。

 少し歪んでいても。


 それを好きだと言ってくれる人がいる。


「じゃあ、これも焼いてみる」


「うん」


 アリアベルが笑う。

 エリーザも、少し遅れて笑った。


 エルナは二人の少し後ろで、次に使う道具を整えていた。


 口を挟みすぎないように。

 けれど、困ったときにはすぐに手を貸せるように。


 かつてのエリーザなら、歪んだものを人に見せるのを怖がったかもしれない。

 欠けた花を失敗だと思い、そっと脇へよけてしまったかもしれない。


 けれど今、エリーザはそれを天板の上に置いた。


 自分で作った、少し歪んだ花を。


***


 焼き上がったクッキーは、少しずつ違う形をしていた。


 丸いもの。

 小鳥のようなもの。

 流れ星のようなもの。

 そして、風に揺れる花のようなもの。


 アリアベルはそれを見て、嬉しそうに手を合わせた。


「かわいい」


「本当に?」


「うん。こっちはエリーザさんの花でしょう?」


「どうして分かるの?」


「丁寧だから」


 エリーザは瞬きをした。


「歪んでいるのに?」


「歪んでいても、丁寧なのは分かるよ」


 アリアベルはそう言って、ひとつ手に取った。


「いただいてもいい?」


「うん」


 アリアベルがクッキーを口に運ぶ。

 少しだけさくりと音がした。


「おいしい」


 その一言に、エリーザの表情がふわりとほどけた。


「よかった」


 二人は焼きたてのクッキーと紅茶を前に、少しずつ話を始めた。


 最初は授業のこと。

 次は先生のこと。

 それから、アカデミーの中庭に咲いている花のこと。


 会話は時々途切れた。

 けれど、その沈黙は気まずいものではなかった。


 ただ一緒にいるだけの時間も、お友だちとの時間なのだと、エリーザは少しずつ覚えているようだった。


「ねえ、エリーザさん」


 紅茶のおかわりを注いでもらったあと、アリアベルが少し声をひそめた。


「なあに、アリアベルさん」


「エリーザさんは、あの方たちの中なら、どなたが素敵だと思う?」


「あの方たち?」


 エリーザが首を傾げる。


 アリアベルは少し楽しそうに身を乗り出した。


「エリオット王子でしょう。ディオンさま、フランツさま、レオンさま。それから……クロードさま」


 最後の名前だけ、少し悪戯っぽく響いた。


「皆さま、すごい方だとは思うの」


「うんうん」


「エリオット王子は、何でもお上手だし」


「文武両道って感じよね。まさに王子さま」


「ディオンさまは、明るいし剣術がとてもすごいの」


「そうなの。修練場にいると、すぐ分かるでしょう?」


「フランツさまは、難しい問題もすぐ答えられるわ」


「お勉強ができる方って、すごいよね」


「レオンさまは……いつも、本を読んでいる」


 アリアベルはくすりと笑った。


「やっぱり、魔塔の後継者というぐらいだから、不思議な方なのかもね」


 ゲームの中の彼らは、それぞれに特別な役割を与えられていた。

 王子。騎士団長の長子。宰相閣下のご子息。魔塔の後継者。そして、辺境伯のご令息。


 けれど今、少女たちの話題に上る彼らは、ただ、少し目立つ同級生たちだった。


 それでいいのだと、エルナは思う。


「それで、エリーザさんは?」


 アリアベルが楽しそうに尋ねる。


「どなたが素敵だと思う?」


「うー……」


 エリーザはクッキーを両手で持ったまま、本気で悩んでいた。


「みんな、それぞれすごい方だと思うけれど」


「けれど?」


「誰がいいとか、あまり考えたことがないかも」


「そうなの?」


「うん。エリオット王子は王子さまだし、ディオンさまは強そうだし、フランツさまは頭が良いし、レオンさまは、不思議なの。でも、それが、その……誰がいい、になるのかは分からない」


 アリアベルは少しだけ目を丸くして、それから微笑んだ。


「まあ、エリーザさんにはクロードさまがいますものね」


「クロード?」


「婚約者でしょう?」


「うん」


 エリーザは少しだけ視線を落とした。

 困ったような、けれど嫌ではなさそうな顔だった。


「クロードは、クロードだから」


「クロードは、クロード?」


「うん」


「それは、特別ってこと?」


「特別……なのかな」


 エリーザはさらに考え込んだ。


「昔からの仲だけど、交流が増えたのは最近だし。だから、ときどき何を考えているか分からないときもあるの」


「うんうん」


「あと、すぐ大丈夫って言うんだけど、大丈夫じゃないときもあるのになって思うときもあるの」


「ふふ」


「でも、クロードはクロードなの」


 アリアベルはその言い方が気に入ったらしく、にこにこと笑った。


「そっか。クロードさまは、エリーザさんのクロードさまなのね」


「私の?」


 エリーザの頬が、ほんのり赤くなる。


「そういう意味では……」


「ごめんなさい。少しからかいすぎたかも」


 アリアベルは慌てて手を振った。


「でも、素敵だと思う。そういうふうに言える人がいるのって」


 エリーザは返事に困ったように、手元のクッキーを見た。


 その横顔に、嫉妬はなかった。

 警戒もなかった。

 アリアベルの言葉にも、棘はなかった。


 クロードは、エリーザの婚約者。

 アリアベルはそれを、ごく自然に受け止めている。


 ヒロインがいる。

 攻略対象たちの名前が並ぶ。

 その中には、エリーザの婚約者の名もあった。


 本来なら、そこから何かが始まるはずだったのかもしれない。


 けれど、今ここで起きているのは、ただの少女たちの恋とも言えない、かわいい会話だった。


 甘いクッキーと紅茶の香りの中で、少し照れたり、少し笑ったりするだけの、穏やかな時間。


 誰も傷つかない。

 誰も奪わない。

 誰も泣かない。


 そのことが、エルナには、奇跡のように思えた。


***


 楽しい時間は、思ったよりも早く過ぎた。


 帰りの馬車が来る少し前、エリーザとアリアベルは玄関ホールへ向かっていた。


 焼いたクッキーの一部は、小さな箱に詰められている。

 アリアベルへの土産として、エルナがリボンをかけたものだ。


「今日はありがとう、エリーザさん」


 アリアベルが箱を大事そうに抱える。


「とても楽しかった」


「私も」


 エリーザは少しだけ俯いた。

 その指先が、ドレスの布を小さくつまむ。


 エルナは少し離れた場所で、二人を見守っていた。


 エリーザが何かを言おうとしている。

 その気配がした。


「アリアベルさん」


「なあに、エリーザさん」


「あのね」


 エリーザは顔を上げた。


 瞳が少し揺れている。

 けれど、逃げなかった。


「私のこと、リーザって呼んでほしいなって」


 アリアベルは驚いたように瞬きをした。


「リーザ?」


「うん」


「呼んでも、いいの?」


 エリーザは小さく頷いた。


「アリアベルさんは、お友だちだから」


 その瞬間、アリアベルの表情がぱっと明るくなった。


「じゃあ……リーザちゃん」


 エリーザの肩が、ほんの少し震えた。


「うん」


「リーザちゃん」


「……うん」


 もう一度呼ばれて、エリーザは頬を赤くしながらも、嬉しそうに頷いた。


 その姿を見たアリアベルが、今度は少し照れたように笑う。


「それなら、私のこともアリアって呼んでほしい」


「アリア?」


「うん。家ではそう呼ばれているの」


「アリア……ちゃん?」


「うん!」


 アリアベル、いや、アリアは嬉しそうに頷いた。


「そう呼んでくれたら、私もすごくうれしい」


 エリーザはその名前を、確かめるようにもう一度口にした。


「アリアちゃん」


「なあに、リーザちゃん」


 呼び合っただけで、二人は笑った。


 たったそれだけのことだった。


 けれど、エルナにはそれが、何より大きな出来事に思えた。


『エリーザさん』と『アリアベルさん』。


 少し距離のある、礼儀正しい呼び方。


 それが今、リーザちゃんとアリアちゃんになった。


 世界が音を立てて大きく変わったわけではない。

 ただ、二人の少女が愛称を呼び合った。


 それだけで、未来は確かに変わっていくのだ。


***


 アリアを見送ったあと、エリーザはしばらく玄関ホールに立っていた。


 扉はもう閉まっている。

 馬車の音も、遠ざかって聞こえなくなった。


 それでもエリーザは、どこか夢を見ているような顔をしていた。


「リーザお嬢様」


 エルナがそっと声をかける。


 エリーザは振り返った。


「エルナ」


「はい」


「お友だちって、楽しいのね」


 ぽつりと落とされた言葉に、エルナは胸の奥が温かくなるのを感じた。


「はい。とても」


「でも、少し緊張したの」


「それも、きっと自然なことです」


「そう?」


「はい。大切にしたい相手だから、緊張するのだと思います」


 エリーザは少し考えて、それから小さく頷いた。


「そうかもしれない」


 部屋へ戻ると、エリーザは机の上に置いていた日記帳を開いた。


 まだ新しい日記帳だ。

 白い頁が多く残っている。


 エルナが以前、エリーザに贈ったものだった。


 毎日書かなくてもいい。

 特別なことだけでなくてもいい。

 覚えておきたいと思ったことを、好きなときに書けばいい。


 そう言って渡した日記帳。


 エリーザはペンを手に取り、少し考えてから、ゆっくりと文字を書き始めた。


 エルナは、その手元を覗き込みすぎないようにしながら、そっと控えていた。


 けれど、最初の一行だけは見えた。


 今日は、アリアちゃんが来てくれました。


 その文字は、少しだけ慎重で、少しだけ嬉しそうだった。


 エリーザは続けて何かを書いている。

 きっと、今日の大切な出来事を書いているのだろう。


 クッキーを作ったこと。

 花の形が少し崩れたこと。

 それをアリアがかわいいと言ってくれたこと。


 そして、愛称を呼び合ったことも……。


 この世界には、たしかにヒロインがいる。


 アリアベル・ローズウェル。

 まだ始まっていない物語の中心に立つはずだった少女。


 攻略対象と呼ばれる少年たちもいる。

 そして、エリーザの婚約者であるクロード。


 名前は揃っている。

 舞台も揃っている。


 それでも。


 もう、どこにも闇に落ちる令嬢はいなかった。


 ここにいるのは、お友だちを家に招いて、一緒に菓子を焼き、少し歪んだ花をかわいいと言われて頬を染めた、ひとりの少女だけだ。


 エリーザはもう、誰かの物語に押し流されるだけの少女ではない。


 自分で誘った。

 自分で笑った。

 自分で、呼んでほしい愛称を伝えた。


 そして今、自分の手で今日の出来事を書いている。


「エルナ」


「はい」


「今度は、アリアちゃんと何をしたらいいかな」


 エリーザが日記帳から顔を上げる。


 その表情には、もう先ほどのような不安だけではなかった。


「そうですね」


 エルナは微笑んだ。


「それも、アリアベル様と一緒に考えてみてはいかがでしょう」


「一緒に?」


「はい。お友だちですから」


 エリーザは少し考え、それから嬉しそうに頷いた。


「うん。そうする」


 再びペン先が白い頁に落ちる。


 未来は白紙だ。


 けれどそれは、何もないという意味ではない。


 誰かに決められていないということ。

 暗い結末を書き込まれていないということ。

 間違えても、迷っても、それでも自分の手で一行ずつ書き足していけるということ。


 エリーザはペンを動かしている。


 ゆっくりと。

 丁寧に。

 自分の言葉で。


 その姿を見守りながら、エルナは静かに微笑んだ。


 闇に落ち、すべてを失うはずだった少女は、もういない。


 白い頁の上で、その未来は静かに始まっていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


エリーザとエルナのその後を、少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。

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