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雪に埋もれた足跡

作者: しろき
掲載日:2026/03/03

思い出


梅雨が無い土地。

東京の頃は彼からそう聞いた。

奇妙な巡り合わせでこの地にお店を持って10年、梅雨と言い表せる季節や東京や故郷の鹿児島より気温の高い季節を体感する。

温暖化と誰しもがこの言葉を口にする。

この言葉は耳に残るが目の前に日常にすぐに埋もれ、その余韻が何の気なしに記憶され、季節の循環の中でまた何の気なしに思い出される。


ドアに付けて鈴が鳴り、制服の上に雨合羽を着た恵が入るなり

「合羽は何処に置いたら良いいの。」と棘のある口調で美波に訊ねる。


機嫌が悪い。

雨の中、雨合羽を羽織って自転車で来たからだろう。

美波は恵が美波に見せるこの甘えが可愛らしく心配でもある。


美波は口元をほころばせながらクリーニング店からもらったハンガーを恵に渡たす。

恵は礼を言い、雨合羽をハンガーにかけ、それを待っている美波に渡す。


「こら、自分でしなさい。」

幸子の甲高い声が響く。

「チーフ済みません。」

恵は肩をすくめ、舌を出す。

美波は終始無言で レジ後ろのカーテンレールに恵の雨合羽をかける。


「髭のCD聴いていい?」

「恵、聴かせてくださいでしょ、あんたはまったく言葉を。」

幸子の言葉を遮り、美波は3枚CDを恵に差し出す。

「これ。」恵はフォーレにピアノ五重奏のCDを取りレジの横のCD/DVDプレイヤーにセットする。

「さて、ちゃちゃと切っていただきましょうか。」恵はカット用の椅子に腰かける。

「お願いしますでしょ、あんた。本当はお金を払うのよ。」

「おかあさんには言ってない。美波ちゃんに言ってるの。」

「チーフでしょ、チーフ済みません。」

「いいのよ、美波ちゃんで。」

幸子の娘の恵は3歳のころから 美波のテストモデルを無償でしている。

それは今も続いており、バーターで恵は好きな時に美波のアシスタントの幸子ではなく美波に無償で髪を切ってもらっている。

恵はしばしば髪をきる。

イライラした時や気分を変えたい時に。

恵は髪は短い方が性に合っている。

学校の部活の吹奏楽がフルートを担当している恵は髪が長いとフルートの邪魔になりイライラする。

フォーレのピアノ五重奏曲第一番が店に漂う。

「あーあ、やっぱりピアノかバイオリンがよかったなー。」

美波が濡らした髪を切ってもらいながら恵は諦めを含みながら気持ちを声に出し、瞬時にしまったと言う目を鏡越しに美波に送る。

「フルートに飽きたのならやめなさい。」

二呼吸ほどしてタオルを畳みながら幸子がため息交じりに声をかける。


恵は父親を知らない。写真以外では。

恵の父親は婚姻届けを出す前に、恵が生まれる前に交通事故で。

幸子は恵と店の隣りのアパート住まい。

ピアノは物理的に置けない、バイオリンは経済的に手がでない。


そもそも恵は何故音楽、それもフルートを始めたのかと幸子は考える。

幸子は恵は運動部の方が向いていると確信している。

美波は3枚のCDがそのきっかけだと確信している。

髭のCD

店を持ちことを彼に伝えた時、今治のタオルセットとともに3枚のCDを彼がくれた。

フォーレのピアノ五重奏曲。

ドビュッシーの前奏曲第1巻。

ラヴェルとドビュッシーの室内楽集。

タオルセットは東京から送られてきたが CDは彼が出張の際に狸小路近くのCD店で買い店まで持ってきた。

その際、恵は彼に会っている。

背の高い髭を生やした彼に。

高い背を小さく屈め彼は恵が興味を抱いたその髭とCDに付いて恵に説明した。

恵は彼に父親のイメージを抱く。

ラヴェルとドビュッシーの室内楽集のCDにはフルートが目立つ演奏が含まれている。


「北響のクリスマスコンサート、白河与志さんが出るんだって。」

白河、その名前に美波は手を一瞬手を止める、がすぐにまた手を動かし髪を切る。

恵に弾む声に幸子が反応する。

「誰れ、それ。」

「おかあさん、前にも言ったでしょ。ドイツのオーケストラで東洋人女性で初めてコンサートマスターになった人。

今はもうコンサートミストレルとは言わないんだって。」

「へぇー、なんでそんなこと知ってるの、あんた。」

「丸先生が言った。丸先生、北響の人と高校の同級生なんだって。」

「なにやるのかな、チャイコスキーかなー、シベリウスかなー、聴きに行きたいなー。」

「丸先生に相談しな、お金はアルバイトでもしてね。」

幸子は戸を閉めるように言い添える。



やはり北国の冬は早い。

鹿児島の様な夏は短く、しかも今年は秋も足早で12月初めには既に1mの雪。

今日も朝から雪。

電話が鳴る。

幸子が出て受話器を置き、美波に

「ロイヤルホテルからで、今日の16時にホテルのお客さんがカットしてほしいって言ってます。」

「うちで、、、。」

「はい、、、。予約は入ってませんが、、、。」

「そうね、、カットだけでいいのかしら、、、、。良いわ。受けて、、、そうカット以外も大丈夫って伝えてね、、、そうあと費用もね。」


15時過ぎ。

「今日はこれにしようおっと。髭の髭のCD。」

恵は脱いだコートの袖をハンガーに通し、カーテンレールにかけ終えてそう笑いながら言ってCD/DVDプレイヤーをかける。

ドビュッシーの前奏曲第1巻のCDジャケットに演奏家の写真があり、そこには綺麗なオールバックで髭を生やした男性が写っている。

いつもの様に恵がカット用の椅子に座ると 幸子が

「あんた、今日はタオルの洗濯ね。」

命令口調で。


店は幹線道路から入った四角で囲われた公園の角地にある。

タクシーが1台、店の前を通りすぎ、ユータンして店の前に止まる。

雪が強くなっている。

美波も幸子も恵も気がつかない。

黒いコートをまとった背の高い帽子を被った女性がタクシーから降り、店の軒先で雪を払う。

ドアに付けて鈴が鳴る。

美波と幸子は「いらっしゃい。」と鈴の音に反射的に声をかけるが、美波は「いらっ」で言葉に詰まる。

帽子をとり、黒いコートを脱ぎ、コーディロイのスーツに赤いシャツの肩までに伸びた髪の女性。

似ている、彼に。


「ロイヤルホテルからお願いした者です。早かったら待ちますよ。」

「いえ、大丈夫です。お待ちしておりました。お召し物をお預かりします。」聞きなれない言葉使いをする幸子に恵が二人を眺める。

服を預かった幸子がウエイティングコーナーに案内し湯気の立つ紅茶を出しながら女性の要望を聴く。

恵の髪を切っている美波の許に来た幸子がささやき声で

「耳に髪が被らない様にすれば良いそうで、カット以外のヘッドスパもうちの都合があえば是非に、ですて。上客ですよ、チーフ。」

「了解。恵ちゃんのを切ったら私がするから、ちょっと待ってもらって。」

「いいんですよ、この子のは。」

「そうはいかないわ。」美波はそう言って恵の頭の上で左手を軽くポンポンと上下させる。

恵は済まなそうに鏡越しに美波に目を向け、次に鏡越しに女性を眺める。

ドビュッシーの前奏曲CDがリピートしだす。


恵のカットが終わり、恵のカットされた髪を幸子と恵で片づける。


女性は恵が座っていた隣の椅子に案内される。

案内される際、すれ違った恵が意を決した様に振り向き

「あのー、白河与志さんですか、、、、。」

女性は一呼吸置いてから 優しく

「そうよ。」

「キャー、あの、私。コンサート行くんです。聴きに行くんです。あのサインくれますか。」

「いいわよ、どこにする。」

恵は慌てる、サインを何をもらうか。A4のレポート様をカバンから取り出すことしか思いつかない。

藤原恵さんへ 2024年12月11日 白河与志

と恵が出したA4のレポート用紙に恵が出したボールペンで書きながら

「あなた何か楽器をしてるの。」

「はい、フルートを。吹奏楽部でフルートを。」

「そう。コンサートは24日それとも25日くるの。」

「えっと、えっと、、、25日です。」

「そう、、、25日の13時にコンサート会場で練習するけど、聴きにくる。」

「えっ、、、良いんですか、行きたいです、行きたいです。あの友達さそってもいいですか。」

「いいわよ。そうね、でも10人位にしてね。事務局には話し通して置くから何にあったら私を呼んでね。

遅刻はだめよ。」

女性はやさしく笑い、サインしたレポート用紙を恵に渡し、椅子に座る。


このやりとりを呆気にとられながら見ていた幸子と美波が女性前に立ち深々と頭を下げる。

「お騒がせし、また無理をお願いし申し訳ありません。」

幸子が続ける。

「あのほんとによろしいんですか。」

「大丈夫よ。気にしなくても。さっ、お願いしますね。」

女性はジャケットを幸子に預け、椅子に座り直す。


「チーフの仲西です。よろしくお願いします。短くされたいと伺いましたがどのくらいまでに

なさいますか。」

「耳は出したいの。後はすべて任せるわ。」

「承知しました。ではお願いします。」

「雪の上の足跡ね、あなたドビュッシーお好きなの。」

「いえ、いただき物のCDなんです。あの子、先ほどの子が好きで良くかけるもので。

消しましょうか。」

「いいわ、このままで。さっお願い。」

はい、と言い美波は両手で女性の頭をなでながら包み、一瞬僅かに手が震える。

似ている、彼の頭と。

その一瞬を女性は見逃さない。

が、美波は気がつかない、女性が美波の動揺を見逃さないことを。

美波は確認を求めるため声掛け以外はせず無言で女性の髪をカットし自身の仕事を進める。

二人共に確認のための受け答え以外は無言。

女性は瞳を閉じている。

ドビュッシーの前奏曲第1巻がただ流れている。


美波のすべての仕事が終わったころにはCDは3回目のリピートを終え様としている。

支払いを済ませ、恵にやさしく声をかけ、幸子に気にするなと言い終わると女性はタクシーを幸子に頼む。

女性は恵にコンサートの演目は聴いて覚えてから来た方が良いと伝え、自分はアルバン・ベルグのバイオリン協奏曲を演奏すると伝える。

幸子はタクシー会社からは夕方で時間がかかると言われそれを伝えると

女性は地下鉄でホテルに帰ると言いい、待つように引き留める3人を振り切り、雪も止んだし歩きたいので

と、3人に礼と別れを告げ店のドアの鈴を鳴らす。

四角に仕切られた深雪の公園を幹線路道路に向け歩いて横切ろうとした女性の後ろでドアの鈴がなる。

「あの、、、、お姉さんですか、、寛さんの。」

その声を遮り、振り向かず女性はしばらく佇み

「あの子は良く来たの。」

「、、、、、、、、はい、なんどか。」

「そう、、、、。あなた明日8時、夜の8時ホテルに来てくれない。」

そう言いながら女性は振り向き美波を凝視する。

それは恵や幸子に向けたやさしさとは正反対の拒否を許さない決意のこもった声。

「はい、少し遅れるかもしれませんが伺いす。」

女性は白い息をはきながら笑みを浮かべ

「ありがとう。フロントで名前と私との約束で、と伝えてね。食事をしましょう。じゃあ明日に。

おやすみ。」

女性はそういうと振り向き返し、公園を斜めに深雪の上を歩だす。

足跡が残る。



朝、店の二階の寝室の雨戸を開けると朝日に照らされた屋根雪の反射光が美波の目を貫く。

この地の光は故郷より直線的で鋭い。

今日は11時から予約が2件、午後は3件、入っていると言った幸子の声を思い出す。

19時半には店を出よう、目玉焼きを乗せたパンとミルクを入れた紅茶を飲みながら美波は呟く。


予約客は定期的な馴染み独り身の老婦人が2人、午後は馴染みススキノの小料理屋の女将と酒屋の奥さん、そしてはじめては恵の紹介の部活の後輩。

恵は時々店の営業に協力する。

美波は学割価格と称した割引価格で恵の協力に応える。

馴染みの客との会話は賑やかで幸子の声が賑やかさを更に膨らます。

大抵は男の品定めで笑い。納得し、それぞれを冷やかす。

だが、決してそれぞれの領域は侵さない。

たまに、その領域を誰かが侵しそうになると幸子が絶妙のタイミングと言い回しでその侵略を元の領域に引き戻し、

元の屈託のない賑やかさに引き戻す。

しかも幸子は詮索をしない。

この幸子のスキルがなんどとなく、美波や店を助ける。

15時の交代休憩で先に休憩している幸子に交代を伝えに行くと「さてと、頑張りますかね。」と言いながら

「今晩お出かけでしたよね。私、やっておきますので、時間になったら遠路なく。」と言い幸子は仕事に戻る。


ロイヤルホテルには19時50分に着く。

赤いフロックコートドアマンが入口のドアを開け美波を迎い入れる。

ジャンバーを脱ぎ、少し早いと思い、しばらくフロント近くのソファに腰をおろす。

ソファの近くに大きなクリスマスツリーがある。

毎年恒例の景色、三階までの吹き抜けにあるこのツリーはその大きさから毎年「今年のロイヤルホテルのクリスマスツリー」とニュースになる。


20時5分前を過ぎたので美波はフロントに向かい要件を告げる。

フロンの女性が綺麗な日本語で「承っております。お待ちしておりました。係の者がご案内します。」

と言いポーターではなく、フロント奥からホテルのスーツを着た年配の男性を呼び出す。


「仲西様。ようこそお越しくださいました。お待ちしておりました。どうぞこちらに。」

スーツの男性に促され美波はエレベーターに乗る。

無言の二人。

5階で降りた二人は長い廊下を歩きフランスレストランに入る。

「お連れの仲西様です。」スーツの男性はソムリエのバッチを付けた男性にそう告げ、美波に「どうぞごゆっくり」とあいさつして戻っていく。

「お召し物をお預かりしましょうか。」

「いえ、あ、じゃお願いします。」

美波のジャンパーを受け取ったソムリエバッチの男性は別のソムリエバッチの女性に美波のジャンパーを預けると

「お部屋をご用意させていただいております。」と言い広間とは別方向に美波を誘う。

ドアをノックして「失礼いたします。お連れ様がお越しになりました。」そう言いドアを開ける。

メインストリートに面した大きな高い窓の前の一凛の赤いバラがさしてある花瓶と丈のない火が付いた蝋燭立が乗ったテーブルの椅子にポーチをかけて座っていた彼女が立ち上がり美波を向かい入れる。

「ジャストタイムね。」

「少し早めに着いたのですが 早すぎると思いフロントで待ちました。」

「あら、いいのに。我が家は10分前集合なの。」

そういい彼女は美波に着席を促す。

窓越しにメインストリートを見下ろしながら

「道路にヒーターが埋まっているのね。雪が無いわ。便利だけど風情がないわね。まっ、私は通りすがりだから

風情なんて言うけど。」

ソムリエバッチの男性がノックと共に来て、美波のジャンパーの預かり番号札を美波に渡す。

良くしゃべる、美波はそう思う。

「さっはじめましょう。」との彼女に

「何かお飲みのをご希望でしょうか。」とソムリエバッチの男性が訊ねる。

「あなた、運転して来てないでしょ。」

「はい、地下鉄できました。でも、私そんなに、、、、。」

「量は私だって行けないわよ。お作法よね。」

ワインリストを望む彼女にソムリエバッチの男は2種のリストを持ってくる。

一方は2つ折りの紙の印刷でもう一方は革張り手書きの6ページ。

眼鏡を取り出しゆっくりと彼女は2つのリストを眺める。

やがて、モーゼルはこの2種のみかと訊ねる。

「生憎、当店ではこの2種になります。」との回答に

「そう、じゃあ任せるわ。グラスで良いので料理ごとにお勧めのを頂戴するわ。」

良くしゃべる。

しっかりとした彼女の回答に かしこまりましたと男は満足そうに部屋を後にする。

「降ってきたわ。」

窓に目を向けた彼女の声が響き消えてゆく。

細いグラスシャンパンが運ばてくる。シャンパンの泡がグラスの下から音もなく立ち上る。

「じゃ、来てくれてありがとう。」

そういい彼女はグラスを目の前で軽く持ち上げ一気に飲み干す。

「ホテルは乾燥してるし、喉が渇くわ」そう言い添え、パンを持って来たソムリエバッチの男性にお代わりを頼む。

前菜が運ばれ、新しいワインが運ばれる。

彼女は前菜やワインについてソムリエバッチの男性と会話しゆっくりと食事をする。

微かに街の鼓動が窓の外から時々漏れてくる。

メインディッシュの料理の焼き方をソムリエバッチの男性が訊ねる。

彼女が手のひらを美波に向け先に答える様に促す。

「レアで。」

ワイングラスを口にしていた彼女はその声に一瞬間を取り、私もレアをと声にだす。

彼女はワインのお代わりと水を頼む。

ワインのお代わりが注がれる。

水を飲みワイングラスに手を取りながら

「あの子と来たことがあるのね、この店に。」

「はい、一度春ごろに。ご馳走になりました。」

「そう、あの子らしいわね。」

少し間を開けてメインディッシュが運ばれワインも代わる。

美波は前菜用のワインを残している。

彼女は部屋の温度を下げる様に言う。

2品目のメインディッシュが運ばれ、ワインも代わる。

相変わらずの会話。

デザートのアイスクリームが運ばれてコーヒーか紅茶をと訊ねられた際、先に美波はコーヒーを頼む。

彼女は ミルクを添えたコーヒーと頼み戻りかけたソムリエバッチの男性に

「それとスコッチのソーダ割を。」と加える。


アイスクリームとコーヒーが運ばれ、遅れてスコッチが運ばれる。

スプーンで一口アイスクリームを口に運び、スコッチに口を付けてから彼女は美波に向けた声を口にする。

「少し調でさせてもらぅったわ、あなたのこと。あの子はとは東京で知り合ったのね。」

「はい、お店のお客様でした。」

観念した様に応える。

「良い中、だったようね、あの子と。」

「はい、でも彼、いえ寛さんにはご家族が。」

「崩壊した家族ね、最初から。あなたも知っていたのでしょう、そのことは。そしてあなたは、、、、。」

「お子さんが小さくて、寛さんはそれが一番だって。」

「あなたの判断は正しいわ。あの子が愚かなのよ。挙句に人を助けて自分が事故死なんて。」

美波はコーヒーかカップを両手で包み見つめる。

女性はスコッチを飲みながら窓の外に目を向ける。

二人とも無言。

不意に彼女がスコッチを飲み欲し椅子に掛けたポーチから紫の風呂敷を取り出す。

美波に前で開かれた風呂敷の中には水引きが付いた祝儀袋。

見慣れた彼の字で「開店祝い」と書かれている。

「葬儀の後に甥が見つけたの。あの女は知らないわ。甥があの子の出張カバンから見つけ私だけに教えたのよ。」

美波はそれを見つめる

涙がでそうになる。

「100万あるわ、前の紙幣だけど。」

涙がでそうになる、美波も彼女も。

「受け取ってもらうわよ。」

まっすぐ美波を見つめた彼女ははっきりと噛みしめながら美波に告げる。

美波は顔を上げ彼女を見つめる。

涙が流れる。

雪が小降りになる。

蝋燭の火が揺れる。


タクシーは公園の幹線路側の角で降りる。

費用は彼女が美波が乗るタクシーの運転手に2万を渡し、おつりがでればチップだと運転手に言う。

私があなたを呼んだのだからと美波に告げる。

美波は公園を横切り店に戻る。

雪の上に美波の足跡だけが残る。

彼の足跡もあったのだ。

新しい雪が積もりその痕跡はなくなり、その雪も解け、また新しい雪が降っている。

この美波の足跡もやがて雪に埋もれる。

だが、彼の足跡はあったのだ。



予め曲を覚えたから来た方が良い、との女性の声が耳元で鳴る。

モーツァルトのフィガロの結婚序曲

ベルグのバイオリン協奏曲

シベリウスの交響曲2番

この演目と順序が決まるまでにはひと悶着あったと丸先生の声が聞こえる。

オーケストラとスポンサーはチャイコフスキーかシベリウスのバイオリン協奏曲とチャイコフスキーの交響曲5番

を予定していたが 彼女はチャイコフスキーもシベリウスも拒みアルバン・ベルグのバイオリン協奏曲を指名したと。

アルバン・ベルクのバイオリン協奏曲はなかなか生で聴く機会はないとも。

オーケストラとスポンサーはクリスマスらしくなく、お客が呼べないと抵抗したが 独奏者が彼女であることは告知済なので折れたと丸先生は言う。

ただ、このバイオリン協奏曲は時間的に短いので 賑やかな短い曲と言うことでフィガロの結婚序曲が選ばれ、メインは指揮者がマーラーの交響曲6番と言い出したが、オーケストラが大晦日に第九を演奏するこの時期にそんな重たい曲は入れられないと反対して、このオーケストラの定番曲のシベリウスの交響曲2番が選ばれたとも丸先生は言う。

恵はスマホのサブスクで演目の演奏を検索し聴く。

モーツァルトのフィガロの結婚序曲:面白い。

ベルグのバイオリン協奏曲:えっ。

シベリウスの交響曲2番:かっこいい。

夜、ベッドで横になり、スマホのイヤホンですべての演目を聴いた恵はベルクのバイオリン協奏曲に言葉に言い表せない異質感を覚える。

ただ、恵はこの異質感に抵抗を覚えない。

雪の晴れ間にススキノの大型CD店で恵はそれらの曲の入ったCDを探す、友達はサブスクで聴くと言うが。

その大型CD店でのクラシック売り場は小さく、そしてアルバン・ベルクのCDが見つからない。

恵はその大型CD店で他の2枚を買い、別の古本屋のようなただ住まいの狸小路のレコード店との古びた看板のかかった店に入りそこで英語で書かれたそのCDを見つける。

CDを手にした時、携帯の写真文字変換機能で何度もCDを撮影しているところを 店の老店主に見られる。

レジでその老店主にCDを渡した際に老店主は

「アルバン・ベルクのバイオリン協奏曲だね。クリスマスコンサートに行くのかね。」とゆっくりと訊ねる。

「・・・・・・・」恵は無言で肯く。

「この生演奏はここいらではなかなか無いね。まっあ、いい曲だけど、そうレクイエムだよね。ある天使の思い出に、だからね。」

恵の驚いた表情に老店主は軽く笑みを浮かべて続ける。

「そういう副題を付けたんだよ、ある天使の思い出にってベルクが、、、、。ちょっとまってね。」

老店主はそういうとCD棚に向かい 1枚のCDを手にして戻る。

「これもベルクのバイオリン協奏曲が入っている。カップリングはベートーヴェンのバイオリン協奏曲だね。

そちらのカップリングはベルクの管弦楽だね。今うちの在庫はこの2つだね。

どちらもいい演奏だけど、こちらの方が録音はあたらしいかな。聴き比べるのも面白いけどね。」

恵が最初に手にしたCDは男性が肘を箪笥にかけ寄りかかっている絵がジャケットに書かれている。

老店主が持ってきたCDはお河童の女の子の横顔の絵。

恵はお河童の女の子に魅かれる。

バイオリン奏者が女性であるとも老店主は加える。

恵はそのお河童の女の子のCDを買う。

老店主は微笑みながら恵からお金を受け取り大型店で買ったCDも含め紙の手提げにCDを入れ「はい、ありがとう。」と恵に渡す。

「ありがとうございます。」そういうと恵は老店主の店を出て地下鉄に向けて地下街の階段を降りる。

「レクイエム、ある天使の思い出に」が恵の耳に残る。

また、雪が降りだす。

                                完

                                 


思い出の中の天使

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